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「うつ病について(2)

『うつ病』について(2)―INDEX

<テーマ34> 「うつ病」とアイデンティティ(1)
<テーマ35> 「うつ病」とアイデンティティ(2)
<テーマ38> 「うつ病」と休養 








<テーマ34>「うつ病」とアイデンティティ(1)

 前回までに、「うつ病」において損なわれる部分として、気分、感情、行動と述べてきました。本項ではアイデンティティという側面について述べようと思います。
 アイデンティティが損なわれてしまうという一面は、「うつ病」と「うつ状態」「うつ症状」を大きく区別するのではないかと私は思います。
 つまり、「うつ状態」と「うつ症状」においては、アイデンティティがそれほど損なわれたり失われたりしていない場合もあるのですが、「うつ病」においては、アイデンティティということがとても大きな位置を占めていると私は捉えております。

 話を進める前に、アイデンティティという概念をどのように理解するかという点を述べておかなければなりません。そこで、若干の考察をしていきます。
 アイデンティティということの最も単純な定義は「私は○○である」という文章で表されるものであります。
 この定義の「○○」に入るものはすべてその人のアイデンティティである、もしくはアイデンティティの一部を形成しているという考え方であります。
 私の場合だと、私は日本人である、男性である、カウンセラーである、次男坊であるといった事柄がすべて私のアイデンティティであるということになります。
 アイデンティティに関して、私の好きな定義はR・D・レインによるものです。レインは「アイデンティティとはその人の歴史である」と述べております。
 この二つの定義において、前者の定義はその人の役割やポジションなどと関連しており、後者は時間概念と関係していると捉えることが可能であります。
 本項では、後者の定義、その人の歴史としてのアイデンティティが失われるという点を述べようと思います。

 その人の歴史が損なわれるとは、その人の時間における生の様式が変わってきているという体験であります。
 それは過去を失うだけでなく、現在や将来をも失う体験なのです。
 その人の時間体験は、「うつ病」ではない人の時間体験とは大きく異なったものとなります。
 リルケは『マルテの手記』において、次のような一文をしたためています。
「僕の一日は変化がなく、針のない時計の文字板のようである」(『マルテの手記』 望月市恵訳 岩波文庫p66より)
 詩人だけあって、リルケの表現は素晴らしいと思うのですが、ここでは「うつ病」の人の時間体験を的確に語っているように私には感じられるのです。
 一体、「針のない時計の文字板」のような一日とは、どういう体験なのでしょうか。
 文字板があるからには、そこには時間の概念はあるのでしょう。
 でも、その時間は過ぎ去っていくものでもなく、これから来るものでもない、いわば流動することのない時間なのではないでしょうか。
 何しろ、そこには針がないということですから、1時とか2時とかいうような構造化された時間は存在しないのではないでしょうか。
 文字板だけがあるということは、そこにはただ数字だけがあるということであります。
「うつ病」と診断された人の時間体験とは、こういう感じなのではないかと私は理解しております。

 ある時、「うつ病」と診断された三十代の女性が私のカウンセリングを受けに来られました。
 私はその人のことをもっと知りたいと思いましたので、ご自身のことについてもっと話してもらうように促しました。
 すると、彼女は三十数年の人生をものの三分程度で語り尽くされたのでした。
 これは決してこの女性が過去の記憶を失っているという意味ではありません。
 実際、彼女は質問されれば答えることができるのです。「小学校の時の先生はどんな人でしたか」と尋ねると、彼女はこれこれこういう人でしたと答えることができるのです。
 問われれば、記憶を辿って答えることは可能なのです。
 ただ、個々の記憶はあるにしても、それに意味を持たせ、それぞれ聴くを流動的につなぐ時間の流れが失われているのです。
 従って、一つ一つの記憶は失われてはいないのですが、それらは断片的になっており、
相互の意味関連が失われているという感じなのです。
 繰り返しますが、決して過去が失くなっているわけではないのです。記憶として、過去のエピソードを想起することはできるのです。
 ただ、そうした記憶は、現在とは切り離されており、連続性や流動性や意味を失った形で存在しているというかになのです。
 この女性の場合、過去の出来事はもはや自分とは無関係の出来事のように体験されていたのかもしれません。

「うつ」を体験している人にとって、時間は流れていくものではなく、出来事や経験の意味を形成していかないように私には思われるのです。
 確かに客観的な時間というものは存在しています。「うつ病」であっても、例えば、今が何時であるかとか確認することもできるのです。
 その時間体験の様式が大きく損なわれているように私は考えています。

 あまり時間論に立ち入らないようにしましょう。時間は哲学でもとても難しい問題なのです。
 ただ、次の点を押さえておくに留めます。
 私たちが何かを体験する場合、何かを創造したり、獲得したり、喪失したり、出会ったり別れたりなど、こうした体験はすべて時間の中で展開されていくものです。
 私たちが体験することはすべてある一点、ある瞬間において体験されるというような類のものではないのです。
 体験は時間的なプロセスの中で展開して、時間の流動において体験されていくものです。その体験の意味を知ったり、振り返ったりすることができるのも、私たちが時間性に生きているからであります。
 もし、時間に流動性が失われてしまうと、私たちは何も創造できず、失うこと獲得することもできず、出会うことも分かれることもないという存在になってしまうのではないかと私は考えます。
 従って、時間ということが、生物の生を生たらしめていると述べることもできるのではないかと思います。生命あるものはすべて流動的な時間の中においてしか存在できないのです。
 もし、流動する時間性の中に存在しないとするなら、私たちは自らを物質化しなくてはならなくなるでしょう。物も劣化したりと時間性との関わりを有してはいるのですが、その時間の意義がかなり低いと私は捉えています。
 肖像画に描かれた人物は、もはや時間の流動性からは完全に孤立した存在であります。描かれた人物は、もはや変容も成長もありませんし、獲得することも喪失することも、何一つ体験することのない存在です。
 肖像画の中の人物は、もはや流れゆく時間の中に身を置いていないのです。

 従って、時間性の中に生きなくなるということ、言い換えれば流動し生成していく時間を失うということは、精神的な死を意味しているということなのです。
 それは生を失うということを同義なのです。
「うつ病」と診断された人は、人によって程度は異なるとは言え、このような時間性において損なわれていることも多いのです。
 それは精神的な死に瀕していると表現できる体験なのではないかと、私はよくそう感じるのです。

(文責:寺戸順司)











<テーマ35>「うつ病」とアイデンティティ(2)

 アイデンティティについてのもう一つの側面である「役割アイデンティティ」について本項では述べていくことにします。
「うつ病」においては、「役割アイデンティティ」ということがとても重要な概念になるのです。
 人は生活していると、様々な場面でいくつもの役割をとることになります。
 一人の人がいくつもの役割をその場面場面に応じて担っているものです。
 例えば、ある男性は、会社では上司であり、さらに上の人にとっては後輩であります。家に帰ると夫であり、父親であります。実家においては、彼は長男であり、息子であります。町内においては副会長であり、仲間内においては彼は調停役であります。
 上に挙げたことは、その時々における彼の役割を意味しているのであります。

「うつ病」と診断された人の中には、「役割アイデンティティ」が発達している人がとても多いように思います。
「役割アイデンティティ」が発達しているとは、その役割を引き受け、速やかに自分に馴染ませるという意味であります。言い換えると、適応が良いということでもあります。
「うつ病」と診断された人たちは、「役割アイデンティティ」が発達しているだけに、職場や家庭での適応がすこぶる良好であったりします。
 彼らは職場や家庭において、まず「問題」を起こさないで生きていることが多いのです。
 そればかりか、「うつ病」の人は社会で上手く適応してきたという背景があり、義務をきちんと履行してきた人たちであることが多いのです。
 そして、しばしば社会的にそれなりに成功しているという人もよく見られることであります。
 このことは、私には「うつ病」の大きな特徴であると捉えています。「うつ状態」や「うつ症状」とは異なる部分であると考えています。

「うつ病」の人が「役割アイデンティティ」を発達させているということは、私にとってもたいへんありがたいことでもあるのです。
 彼らの「役割アイデンティティ」のおかげで、彼らは私を「カウンセラー」という役割で捉えてくれるのです。また、彼らも「クライアント」「患者」役割にスムーズに入って行かれるのです。
 そればかりでなく、「クライアント」役割を完璧にこなそうとされる方も見受けられるのです。
 いずれにしても、「うつ病」の人が「治療」を受けるとなると、速やかに治療関係
治療環境に馴染んでいかれるという印象を私は受けております。
 そのおかげで、彼らは私の個人的な事柄に関心を示すこともないし、穿鑿することもないのです。神経症的な人たちがするように、私を値踏みしたり、試したりするということもほとんどないのです。
 彼らはクライアント役割をきちんと果たそうとされるので、カウンセリングの枠組みに几帳面すぎるほど従ってくれるのです。予約した日時は驚くほどきちんと守ってくれますし、料金の支払いもきちんとされるのです。
 私が「うつ病」と診断された人たちが好きなのは、彼らが大人しいということもあるのですが、こういう几帳面さ、真面目さがあるからなのです。

 ただ、「うつ病」の人たちは度が過ぎてしまうのです。
 良心的なのは結構なのですが、良心的すぎるのです。几帳面すぎるのです。それが彼らをして生き辛くさせているように感じます。
 アブラハムは「うつ病」の「過剰善」について述べていますが、肯定的な傾向が過剰に前面に打ち出されているのです。この過剰さについてもいずれ述べていくつもりでおります。
「役割」ということに話を戻しましょう。
 構造的に見れば、私たちは根底に大きく「自分」というものがあって、その上に個々の役割を築いているのです。役割は私の一部であって、仮面や制服のようなものでしかないのです。
 ここにおいても「うつ病」は度が過ぎているのです。彼らにおいては、「役割」がその人のすべてになっているのです。これを「役割との同一化」と表現されたりしていますが、「うつ病」と診断された人とお会いしていると、程度の差はあれ、こうした役割との同一化を示しているのです。
 もし、その人の一部であるべき「役割」がその人のすべてになってしまっているとすれば、その「役割」が損なわれたりした場合、その人にどういうことが生じるでしょうか。
 それはたいへんな打撃になるということは想像に難くないでしょう。自分の根底が揺るがされるような体験となるかもしれません。
 また、その「役割」を失うということは、そのままその人自身の喪失になるということを意味するでしょう。その人には何も残らないし、その代わりになるものも有していないということになるでしょう。

「うつ病」の「発病」契機として、何らかの役割変更が体験されているということはよく観察されることであります。
 男性の場合だと、昇進したり、転職や退職などが契機となることもあります。結婚、離婚が契機となることもあります。親の死が契機になったという人もありました。
 女性の場合でも、母親になることや子供が巣立ったことなどが契機となることがあります。
 上に挙げたことは、喪失という観点から述べられることが多いのですが、同時にそれはその人がこれまで採ってきた役割に変更をきたしていると捉えることができるのです。

「役割」ないしは「役割アイデンティティ」というものは、必ずしも客観的に把握できるとは限りませんし、当人に意識されているとも限らないのです。
 このことを示す事例を挙げましょう。ただ、この事例は私自身が体験したものではなく、どこかで読んだものです。理解しやすいので掲げることにします。
 ここで「うつ病」と診断されたのは、ある旅館の従業員でした、
 この人は年に二回くらい「うつ病期」があるということでした。
 それも毎年ある時期になると「うつ病」が始まるのです。そこで、これは「季節性のうつ病」であると考えられました。
 しかし、この時期を丁寧に見ていくと、旅館の稼ぎ時が終了してから、この人の「うつ病期」が始まっていることが確認されたのでした。つまり、繁盛期が過ぎて、閑散期に差し掛かる頃に「発病」しているのでした。
 このような場合、環境の変化が大きく影響していると考えてしまう傾向があるのですが、私は環境の変化は二次的な意味合いしかないと捉えています。
 私は、この人の役割アイデンティティが繁盛期と閑散期で変わってしまうのではないかと思います。繁盛期の自分と閑散期の自分とは、異なった自分を体験しているのではないかと思うのです。
 繁盛期には、おそらく、彼の役割アイデンティティと現実とが一致しているのでしょう。この時期、彼は「うつ病」とは無縁なのです。
 閑散期になると、彼は自分の役割アイデンティティを失ってしまう、自分自身のアイデンティティを失うかのような体験をされるのではないかと思います。
 旅館の従業員という役割は、客観的には、繁盛期であれ閑散期であれ、同一なのです。でも、彼が主観的に体験している役割アイデンティティにおいて、彼は喪失を体験しているのです。そして、そのことを彼は意識できていないのでした。

「うつ病」と診断される人たちは「役割アイデンティティ」が発達しており、そのために社会適応がとても良かった人たちだと捉えています。実際、そういう人が多いように感じております。
 このことは「うつ状態」「うつ症状」とは異なる部分でもあります。この中には、役割を遂行する能力に欠けている人もあれば、適応が良くないという人もあります。つまり、この中には「役割アイデンティティ」の形成が不十分な人もよくおられるのです。
 強調しておかなければならないことは、人は「役割アイデンティティ」を形成しなければいけないということです。ただ、それが度を越して、役割が自分自身になるほどまで、役割と同一化してしまうことが問題なのです。
 では、なぜ「役割アイデンティティ」をそこまで発達させなければならないのでしょうか。
 私たちはその場面ごとに役割を有しています。役割から解放された時、その人に残るものは何でしょうか。おそらく、それはその人自身であります。役割から解放されて、人はその人自身に戻るわけなのです。
「うつ病」ではそこに問題を抱えているのです。自分自身がないのです。役割以外のアイデンティティの形成が不十分なのです。
 その人は自分が希薄なために、役割にしがみつかなければならないのです。役割を自分自身にしなければ、それを自分のすべてにしなければ、その人は自分が無くなってしまうのです。
 前項で、三十数年の人生をものの三分で語り尽くした女性の例を挙げました。彼女は「カウンセラー」役割の私の質問に対して、あくまでも「クライアント役割」として答えただけかもしれません。でも、その一方で、彼女には語るべき自分自身がなかったのかもしれないと、私はそう思うのです。

(文責:寺戸順司)











<テーマ38> 「うつ病」と休養 

 ある人が「うつ病」と診断されますと、その人はまず休養をとるように医師から勧告されます。それは休養をとることが何よりも大切であるということ、休養をしっかり取った方が予後がいいということが、これまでのデータからもはっきりしているからです。
 クライアントが「うつ病」と診断された場合、私もぜひその方には休養をとってほしいと願うのです。

 しかしながら、「うつ病」には休養が必要ということが知られていても、そこにはいくつかの問題が生じるのです。休養が取れないという人も案外いらっしゃるのです。
 中には休養を取ろうと思えば取れる人もあるのですが、それでも休養しない人も見られます。
 そういう人は休むということを知らないのだという考え方をされる方もおられるかもしれませんが、それは半分しか物事を見ていないことになります。
 確かに「うつ病」にかかる人の中には休むことなく仕事を続けてきたというような人もおられるからで、そのような人は休むということを知らないのだと言われれば、それも頷けるように思われます。
 しかし、「うつ病」の人が休めないというのはそれだけの理由によるものではありません。そもそも「うつ病」と診断されても、身体的には何も異常がないということがほとんどであります。体が重いとか、そのような不調を感じることはあっても、基本的には身体的に病気や器官的な障害があるわけでもありません。
 従って、身体はどうということもないのに、どうして休まなければならないのだという疑問が生じるようです。
 つまり、休養というと、私たちはどうしても身体的な休養をイメージしてしまうのかもしれません。
 例えば、私が若い頃、熱が四十度以上出て、それでもどうしても休むわけにはいかないと言って、深夜勤務をこなしたことがあります。高熱があるというだけで、身体は悪い所がないのです。気力で乗り切ろうと思ってやってみると、それができてしまったのです。
 一部の「うつ病」と診断された人においても、それと同じようなものではないかと思います。体は悪くないし、動かせるのだから、気力でなんとかやれるのではないかと思い込んでしまうのです。
 ここで、「うつ病」の人が取るように求められている休養というものが、身体的な休養ではなく、精神的な休養であるということを特に押さえておきたいと思います。
 そして、精神的な休養を取るということが、よく理解できないでいたり、困難な人もおられるのではないかと思います。

 休むことに抵抗感があるという人も見かけます。中には「治療に抵抗している」というように誤解されてしまう人もあるようです。こういうクライアントのことをもう少し考えてみることにします。
 ここで、もう一度「うつ病」とはどういう病気なのかということを振り返ってみましょう。前項で述べたように、「うつ病」とは今までできていた事柄が徐々にできなくなっていくのであります。それは当人にとってはとても怖い体験ではないかと思うのです。
「うつ病」の人が抵抗したいのは、治療そのものではなくて、できなくなっていく自分に対してのものであると私は捉えております。
 これまでできていたことができなくなっている、そしてこれ以上できなくなってしまうのを恐れて、少しでも残された活動性にしがみつきたくなるのではないでしょうか。
 その活動性へのしがみつきが、その人をして休養することに抵抗させてしまっているのかもしれません。
 余談ながら、「うつ病」の人はよくタバコを吸うという印象を私は受けるのです。
 実際、私の面接室で、面接時間の大部分を煙草を吸って過ごされる「うつ病」の人もおられます。
 見ていると、煙草を吸うということだけが、その人に残された僅かの活動性であって、この人はそれにしがみついているかのように思われるのです。
 煙草すら吸えなくなってしまうということが恐ろしかったのだと思います。そして、まだ煙草が吸えるということを確認したくなっていたのかもしれません。

 休養に話を戻します。つまり、今ここで休んでしまうと、今後永久に活動ができなくなってしまうのではないかという、そういう恐れを抱えているかのようです。
 もちろん、この恐れは非現実的なものです。実際には、決してこのようなことは起こらないのです。
「うつ病」と診断された人で、永続的に、完全に活動性を失ったという人のことを私は聞いたことがありません。
 でも、「うつ病」の人は、活動性が完全に喪失してしまうことを真剣に恐れておられるのであり、それが現実味を帯びてその人には迫ってきているように感じているのです。この恐れが緩和されない限りその人は休養できないのかもしれません。

 また、「うつ病」の人に休養が必要だということは理解できており、周囲の人もそれに協力してくれる場合も多いのですが、それが却ってクライアントを苦しめてきたというような例も私は経験しております。
 その人は主婦でしたが、「うつ病」と診断され、やはり、徐々に何もできなくなっていきました。夫や子供たちは彼女に協力的で、医者から休養を取るようにと忠告されると、彼女が落ち着いて、安心して休めるように手配したのでした。
 家族は、まず家事を分担しました。彼女は夫や子供たちが家事をしているのを布団の中から眺めています。最初は申し訳ない気持ちで眺めていたようであります。
 しかし、「うつ病」の「治療」が長引いて、夫や子供たちが家事に慣れてくると、彼女はただならぬ気持ちに襲われてきたのでした。
 この気持ちは、「もはや私がいなくても家族はやっていける」というものでした。かつて自分がしていた仕事を、夫と子供たちがしているのです。そして、自分抜きで彼らがそれを平気でこなすようになっているのであります。
 彼女はもう自分が必要ではなくなったのだと感じていたのです。自分が家族にとって不必要な存在であると信じてしまっていたのです。
 こうなると彼女はとても休んではいられませんでした。自分の価値を取り戻すべく、少しでも家事をしようと起き上がるのですが、家族は「休め、休め」と言って、彼女を布団に押し戻します。
「休め」と言われれば言われるほど、彼女はますます自分が不要なのだという感情に襲われるのでした。布団に戻っても、彼女はもはや精神的休養どころではなくなっていたのです。心の中では不安と焦燥感に苛まれ、穏やかではありませんでした。
 彼女の「うつ病」が長引いていたのは、一つには彼女のこの環境があったわけなのです。
 もちろん、彼女の家族たちは、決して悪意があったわけではありません。彼らは医者の「とにかく休養させるように」という忠告を、ただ忠実に守っていただけなのです。結果的に、家族の親切と協力が裏目に出てしまったのです。

 この事例の女性のような事態を避けるために、周囲の人はどのようなことを心がけなければならないのでしょうか。
 彼女の場合、家庭での彼女の役割、ポジションがあったわけですが、家族がそれを奪ってしまった(ように彼女には感じられている)のです。戻ることができる以前のポジションを彼女に提示できていれば良かったかもしれません。
 また、とにかく休養を取るようにという医者の忠告を素直に実践していたのでしたが、一体何のために休養が必要かということが、家族にも彼女自身にも明確にされていなかったのだと思います。
「うつ病」の人は、今は活動ができないのでありますが、休養すればいずれ活動性が回復するものであります。つまり、近い将来、その人が動けるようになるために、今、休んでおこうという観点が重要なのであります。そのような将来の視点を持っておくことも必要だったかと思います。

 さて、「うつ病」と休養ということに関して、休養にまつわる問題をいくつか述べてきましたが、休養ということがいかに大切であり、同時にいかに難しいかということを認識しておく必要があると、私は個人的に考えております。
 休養を取ることが有効であると同時に、その人が復帰する場所を用意しておくことも必要であります。
 そして、将来の復帰のために、今は休んでおくという視点を当事者も周囲の人も持っておくことが大切であると考えております。

(文責:寺戸順司)










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