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その他(2)

『その他(2)』―INDEX

<テーマ30> ネクタイにまつわる話
<テーマ39> 「前向き」ということ
<テーマ67> 満足すると努力しない?
<テーマ68> 「一生懸命」






<テーマ30> ネクタイにまつわる話 (約2500字)

 私の女性友達は、会うと必ず私のネクタイについて何か言うのです。「そのネクタイ似合っているね」とか「ワイシャツの柄と合わしているの?」などと言うのです。「男性のネクタイにそこまで目が届くなんて、この人はなんてよくできた女性なのだ」と私はいつも感心するのであります。しかし、それと同時に、この居心地の悪いような感じは何なのだろうと疑問に思ってもいるのです。
 彼女は、別に私のネクタイに関して悪く言ったりすることはないのです。言ってくれることのほとんどは肯定的なもので、いわば褒め言葉なのであります。前述のように、そのような言葉をかけられて私は嬉しかったり感心したりする一方で、どこか居心地の悪さを体験しているのです。
 最初はネクタイを褒められることに抵抗があるのかなくらいにしか捉えていませんでした。なにしろ安物のネクタイを締めている時もあるからで、そういう時は私はあまり注視されたくないとも思うのです。でも、考えていくと、ネクタイが安物だろうが上等だろうが、そういったこととは全く関係がないということに私は気づいたのです。安物だからあまり見ないでほしいということであれば、それなりに上等なものを締めている時は居心地の悪さを感じないはずであります。ところが値段の高低に関わらず、どのネクタイの時でも、彼女からコメントされると、私は居心地の悪さを体験しているのです。だから、この居心地の悪い感じとネクタイの値段のことは関係がないということです。

 では、何がこの居心地の悪さを生み出しているのだろうか。最終的に私が気づいたことは、それが私の男性性に関係しているからであるということでした。
 ネクタイというのは極めて男性的なアイテムではないでしょうか。私はそう思うのです。例えばスーツ姿の女性を見ても、私は違和感を覚えることはないのですが、男性が締めているようなネクタイを女性がしていれば明らかに違和感を覚えるだろうと私は思います。男性がスカートを穿かないのと同じで、女性はネクタイを締めない(もしくは男性がしているようなネクタイは身につけない)ものだと思います。もっとも、これは私の個人的な感覚でしかないので、一般化することはできないことではありますが。

 さて、初期の精神分析ではネクタイは男性性器の象徴として捉えられていました。私はあまりこの解釈は好まないのですが、頷けないことではありません。棒状のものや直線的なものはすべて男性的なのです。ちなみに、女性は穴とか空洞といったもの、丸や曲線的なものがその象徴として理解されているのであります。
 ここで一つ注意しなければいけないのは、そういう象徴的な解釈が正しいか間違っているかということは重要ではないということであります。正解というものは私には分からないのです。ここでは一つの仮説を立てようとしているわけであります。もしネクタイが男性を象徴しているという仮説に立てば、そこからどういうことが理解できるだろうかということ、そこを探求していくということが重要なのであります。

 前述のように、私はネクタイを極めて男性的な要素であると捉えています。日頃からそう感じているのであります。私は仕事から家に帰っても、寝巻きに着替えるまではずっとネクタイを締めたままで過ごします。夏場でも仕事中はネクタイを締めますし、結び目を緩めてワイシャツの第一ボタンをはずすということも私はほとんどしません。そこまでしてネクタイを付けていないといられないのです。このことは、それだけ私が男性要素を必要としているということなのかもしれません。
 彼女が私のネクタイをじっと見て何か述べる時、私が感じている居心地の悪さは、あたかも彼女から私の男性性を問われているかのように感じ取ってしまっているためだと私は気づいたのです。つまり、私が「男」としてどうかということを彼女から評価されているように体験していたのです。もちろん、彼女はそんなつもりで私のネクタイについてコメントしているわけではないのでしょうけど、私がそのような体験をしていたがために、私に居心地の悪さが生じていたようなのであります。
 ネクタイを通して私は自分の男性性を彼女から問われているように体験しているということでありますが、では、なぜそれを心地良いものとして体験せずに、居心地の悪さとして体験してしまうのだろうか、それが次に問わなければならない疑問であります。簡潔に述べれば、それは私がその評価を恐れている(正確に述べればその評価の結果を恐れている)からだということなのです。それは彼女から私が「男として失格」とみなされることを私が恐れているということを意味しているのです。私の男性性に対する自信のなさが、ネクタイのことから再び見えてきたように思いました。私は父や兄との関係でずいぶん悩んだ経験があり、その関係の中で十分に男性性を育てることができていなかったのであります。今ではそのことが苦悩をもたらすこともなくなってきていますし、ある程度は克服できたものと思っていました。思わぬ所からその問題を再意識させられたように思いました。本当に、彼女と付き合っているといろんなことに気づかされるものだと思うのであります。

 最後に二つほど余談を。
 自分を理解するのに、特別なことをする必要はないのであります。私のネクタイのエピソードはそれを示すのにちょうどいい例となるかと思いました。日常で経験するちょっとしたことに注意を向け、考察していくといろんなものが見えてくるものであります。そのちょっとしたこととは、できれば何らかの感情体験であると尚のこと良いのであります。自分の中に生じるわずかの感情に気づいて、その感情をもたらしたものが何だったのかを問うていけばいいのです。そのためには、感情のわずかな生起でも見落とさないようにするということが大事なのであります。そこからいろんな仮説を考慮し、その各々の仮説に依って立って考えてみればいいのであります。「これだ」というものが感得できれば、それはあなたにとって一つの「真実」となるものです。客観的な正解というものはそこにはなくて、あなたに「これだ」という確かな確信が得られれば、それがあなたにとっての「真実」「正解」になるものであります。そういうものが得られたとすると、それは不明瞭で混沌としていた世界に輪郭がもたらされたような体験として、あなたも経験されるだろうと思います。
 もう一つはネクタイに関してですが、ここ数年はクールビズなどと称して、夏場はネクタイを締めないという男性をよく見かけるのであります。オフィス街を歩くと、ノーネクタイのサラリーマンとたくさん擦れ違うことでしょう。その男性たちを見て、あたかも「去勢された」男性を見る思いがするのは私だけでしょうか。

(文責:寺戸順司)





 

<テーマ39> 「前向き」ということ (約2800字)

 本項を読まれる方は、私が非常に細かいところに拘り過ぎているとお感じになられるかもしれません。「こいつはバカだな」と思われるかもしれません。そう思われるのが怖くて、私は長い間疑問に感じていたことを述べずにいました。今回、思い切って、私はそれを述べてみることにします。

 クライアントはよく「もっと前向きになりたい」とか「前向きに生きたい」などと表現されるのでありますが、私はその「前向き」ということがどういうことなのかさっぱりわからないのであります。
「前」と言っているのだから、それは方向を指しているのだろうと思います。しかし、「前」と言っても、それはどれくらい前方のことなのでしょうか。「前」とは、私の一歩先から地平線の彼方まで含んでいるはずであります。一体、どれくらいの「前」を向いていればいいのでしょうか。
 反論される方もおられるでしょう。私が「前向き」ということを物理的な空間や距離として捉えてしまっているとお考えになられるかもしれません。それはあくまでも気持ちの方向のことだとおっしゃられる方もあるかと思います。
 では、それは「気持ちが前を向いている」ということだという前提に立つとしましょう。それで私たちは何か理解を深めたでしょうか。むしろ、それがどういうことなのか一層漠然としてしまったように私には感じられるのであります。
 そこで、「気持ちが前を向いている」とは、例えば目標に向かう気持ちであったり、そのための積極性のことだというように理解してみましょう。しかし、そのような生き方をしている人がこの世に本当に存在しているのでしょうか。

 最近はしなくなりましたが、一時期、私は山登りをよくしていました。山に登ることの目標の一つは、山頂に立つということであります。私は頂上に向かって歩いています。頂上を目指す気持ちは、きっと「前向き」なのでしょう。
 しかし、頂上に向かって歩を進めていると同時に、私は「頂上はまだか、まだか」とも思っているのであります。あたかも頂上の方からやって来てくれることを期待しているかのようにです。この気持ちはきっと「後ろ向き」なのでしょう。
 登山道には道標が立っていたりします。そこに「八合目」などと書かれていたりすると、私は「やっとここまで来たか」と思うでしょう。恐らく、これも「後ろ向き」なのだと思います。なぜなら、その時、私は残りの二合ではなく、これまでの八合の方に気持ちが向いているからであります。
 そして、残りの二合を登りきる。私は「ああ、しんど」などと呟くでしょう。この時、やはり私は「後ろ向き」なのだと思います。なぜなら、達成感よりも、朝、家を出てから山頂へ至るまでのプロセスが「ああ、しんど」の中に込められているのでありまして、いわば過去をふり返っていることになるからであります。
 何が言いたいのかと言いますと、山登りにおいて、私は山頂(目標)に向かうと同時に、山頂の方からやって来てくれるのを期待してもいるということであり、この先の道のりに目を向けていると同時に、これまでの道のりにも目を向けているということであります。目標に向かって前進すると同時に、これまでの歩みをも振り返っているのであります。厳密に言えば、それは同時に起きていることではないとは思います。前を向いている時と後ろを向く時とが交互にあるわけであります。
 私は決して「前向き」だけで生きているのではないということが分かるのであります。前を向いているだけでなく、後ろをも向いているのであり、私はそれに違和感すら覚えないのであります。むしろそうしていることが自然なことだと捉えております。
 先に「八合目」の例を挙げましたが、もし、前だけを向いていたら、「八合目」ということに何の意味も感じられないでしょう。これまでの「八合分の歩み」がふり返ることができるからこそ、このサインは私にとって意味があったわけであります。それがあったからこそ、私は残りの「二合」に耐えられるのであります。従って、もし「前」だけ向いて生きているとしたら、私たちは非常に苦しい生き方を送ることになるのではないかと私は思うのであります。「前」だけを見ようとすると、あるのは目の前の道ばかりで、これまでの道のりや現在自分が立っている位置などは、まったく意味をなさなくなってしまうからであります。

 私たちは「二元論」の考え方に馴染み過ぎているのかもしれません。ここで言う二元論とは、「前と後ろ」「心と体」「健康と病気」「プラスとマイナス」といったように、物事を正反対の二つに分けて考えてみることであります。概念としてはそれらは分割することはできるかと思います。しかし、私たちが実際に経験するのは、片一方だけということはないと思います。両方を経験しているものではないでしょうか。そして、突き詰めて考えていくと、正反対の二つが、実は非常に近いものであり、しばしば表裏一体だということに気づくのではないでしょうか。
 私は自動車を運転しませんので、実際はどうなのか分かりません。しかし、自動車を運転している人を見ると、運転手はサイドミラーなどを通して、けっこう後ろを見ているのであります。自動車は前を向いて走っているのだから、前だけ見ていればいいではないかと私は思うのでありますが、どうもそうではないようです。前に向かって走るためには、後ろもしっかり見て把握しなければならないのかもしれません。
 さらに、私はそこで不可思議な現象を体験するのであります。私が乗っている自動車を、一台の自動車が追い抜いて行ったとします。仮に北に向いて走っているとしましょう。二台とも北向きに走っているのであります。私の乗る車は、追い抜いて行った車との間に距離が生じて、北へ向いて走っていると同時に、追い抜いた車からは南の方向へ押しやられているような錯覚を私は覚えます。北へ向いて走っていると同時に、南の方向に流されているように感じるのであります。追い抜いて行った車から見れば、私の乗っている車は後方に押し流されていくように見えていることでしょう。お互い同じ方向を向いて走っているにも関わらずにであります。
 つまり、私は前に向いて走っていると同時に、後ろの方向に向かってもいるということなのであります。理論的にはこれは矛盾であり、背理であります。しかし、私の感覚においては、辻褄が合っているのであります。

 私たちは決して「前」だけを向いて生きていけるとは思えないのであります。「後ろ」も向いているのであります。「後ろ」が見れることで、私たちは前に進めるのかもしれません。もし、「前」だけしか見れないとすれば、私たちの生活は窮屈で苦痛に満ちたものになってしまうのかもしれません。

(文責:寺戸順司)






<テーマ67> 満足すると努力しない? (約3700字)

 あるクライアントとの面接で、そのクライアントは「自分に満足してしまうと、努力しなくなるのではないかと思う」と述べられて、私は「おやっ」と思いました。どういう文脈で彼がこの言葉を発したのか、彼がどういう意味で述べられたのかというようなことは、ここでは脇に置いておくことにして、この言葉の内容そのものについて考えてみたいと思います。
 彼の言っていることからすると、自分に満足するとその人は如何なる努力もしないということであります。今の自分の上に胡坐をかいて、それ以上前に進もうとしないということであります。言葉を返して言えば、自分に不満があるから人は努力できるのだということになるかと思います。それはつまり、人が努力する原動力は自分に対しての不満であるということになるのではないかと思います。果たして、それは本当でしょうか。

 このことを考えるにあたって、まず、私の結論は至って単純なものであります。それは、自分に満足しているか不満であるかということは、その人が努力するしないに関係がないということであります。
 それを明確にするためには、あることに対して努力しない人のことを考えてみればいいのであります。例えば単位を取るために勉強しなければならないとする。その単位で「優」を取ろうと考える人は頑張って勉強するでしょう。しかし、単位が取れさえすればいいとか、取れなくても構わないと考えている人は、きっと努力しないし、勉強もしないでしょう。これは要するに「諦めている」ということになるのではないでしょうか。「優」を取ることを諦め、その単位を取ること自体を諦めているということになるのではないでしょうか。「自分はこの程度だ」とか「こんなものでいいだろう」とか言う場合、その人はすでに何かを諦めており、見切りをつけているのだと思います。従って、努力するかしないかは、その人が諦めているかどうかの違いによって決まるのだろうと思います。
 このように述べると、「諦める」ことは良くないとか、「見切りをつける」ようなことはしない方が良いのだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、人間はもっと柔軟であってもよいはずであります。従って、時には「諦める」ことや「見切りをつける」ということもしなければならない場合もあるのであります。そうしなければ、次に進めないとか、新しいことに着手できないということも生じるからであります。つまり、時と場合によっては「諦め」たり「見切りをつける」ことをしないと、その人の世界が広がらないということであります。

 さて、人間というものは厳密に二分することはできないということを最初に申し上げたうえで、敢えてここでは単純化して人間を「自分に満足している人」と「自分に不満な人」というように二分して考えることにします。その方が明快だからそうするのであって、あくまでも便宜上のために分けているのであります。
 私の考えでは、「自分に満足している人」も「自分に不満な人」も同じように努力するのであります。「自分に諦めている人」が努力しないのであるということは前節で述べました。ただ、「満足している人」と「不満な人」とでは、同じ努力と言っても、努力の質が異なるだろうと私は考えております。
「自分に不満な人」の場合、それは今の現実の自分を否定することからその努力が始まっているわけであります。その努力は自分を否定するためであると言ってもいいかもしれません。自己否定のためにする努力は常に強迫的な傾向を帯びるものだと私は考えております。従って、より完全主義的に努力するのではないかと思います。
「自分に満足している人」のする努力は、自分をより伸ばすこと、自分の世界を広げるための努力であり、そういうことがその努力の動機付けになっているのだろうと、私は信じております。従って、向上すること自体が目的であり、その向上はその人にとって喜びとなるはずであります。そうなると、その人にとって、努力することは愉しみにもなってくるかと思います。従って、「自分に満足している人」の努力は、当人にとって「努力」という感覚ではなくなっているだろうと思います。少なくとも、「不満な人」の努力のような、苦行をしているようなイメージはまったくないだろうと思います。
 なぜ、そのようなことが言えるのかということですが、まず、「自分に満足している」という「満足」を、私は「自己受容している」と言う意味で捉えています。そのような人は自分の何が弱いかということを自己非難せずに見ることができるでしょう。何をどれくらい伸ばすべきなのかということも、その人はより明確に見えるでしょう。さらに、その人はより現実的に努力するでしょう。「自分に不満な人」の努力と比較しても、その人自身や周囲の人をより傷つけることなく努力するでしょう。自分自身を受容しているからこそ、その人は自分が取りくむべきところに素直に取り組めるのではないでしょうか。それは「自分はダメだ」と言って自己非難することに余計なエネルギーを費やさないからであります。
「満足している人」と「不満な人」の努力において、その大きな違いは「向上心」だと私は思います。曖昧な言い方かもしれませんが、それがその努力を動機づけているものの違いであります。それを一言で言えば、「向上心」という言葉でしか言い表せないのであります。

 そのクライアントがおっしゃったように、「自分に満足している人は努力しない」と考えるなら、それは「自分に満足している人」は「今の自分で十分事足りているからだ」という観点を有していることになるかと思います。この観点に立てば、「満足している人」はそれ以上努力して何かを獲得する必要はないのだということになります。しかし、それはその人の「向上心」がもはや凍結してしまっていることの結果なのであって、満足感がそうさせているのではないのであります。そのような人が敢えて努力するということになれば、それはその人の「向上心」がそうさせているのだと考えてよさそうに思うのであります。この「向上心」とは、言葉を換えて言えば、「自分をもっと良くしたい」ということであります。
 じゃあ、結局のところ、「向上心」というのは、「自己実現」とか「自己成長」の欲求のことじゃないかと言われれば、その通りなのであります。私は「向上心」という言葉を用いているだけでありますが、その指し示している事柄は類似しているのであります。

 少しここまでのことを要約しておきましょう。
「自分に満足している人」の努力は、「向上心」に基づいた努力であり、自分自身を伸ばし、世界を広げ、向上すること自体が喜びをもたらすということであります。このような努力は苦行にはならないということであります。
「自分に不満な人」の努力は、自己否定に基づいた努力であります。自責にエネルギーを費やしているので、努力は常に不完全であり、不完全な努力しかできないが故に、完全主義的に遂行しようとしてしまうのであります。自分自身を向上させることや世界が広がることは二次的にしか意義を有していないのであります。その人にとって一次的に重要なことは、今の自分を否定することにあるからであります。当然、その努力は苦行のような様相を呈してくるのであります。
 本当に努力しない人は、「自分を諦めている人」「自分に見切りをつけている人」であります。「諦め」や「見切りをつける」ことは次の段階や新しい事柄に取り組むために必要な場合もあります。ですが、このような「自分を諦めている」タイプの人からは、もはや自分自身と接触せず、世界にも触れず、世界の中で無関心で無気力に佇んでいる人の姿を私は見る思いがします。

 余談ながら、もう一度最初に戻って、このクライアントの言葉に注目してみましょう。彼は「自分に満足してしまうと努力しない」と言いました。あたかも「だから自分は満足しないようにしているのだ」と語っているかのようであります。従って、彼が実際にはどれだけ自分に不満があるかということが分かるのであります。その不満に対して、「そうでなければ努力できない」と合理化していることが見えてくるのであります。だから、彼のこれまでの努力は何一つとして成果をもたらさなかったのであります。
 そして、彼がそのように言うのは、純粋な「向上心」に基づいて努力した経験が彼にはないからであります。私はそのように理解しております。純粋な「向上心」に基づいてなされた努力は、それ自体が悦びと満足、充実感をその人にもたらすのであり、一度でもそのような経験をされた人であれば、「自分に満足すると努力しない」という命題が極めて不当だということが理解できるのではないかと思います。つまり、「自分に満足すると努力しない」というその言葉そのものが、あるいはその考え方そのものが、とても「神経症」的な色彩に彩られているのであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ68> 「一生懸命」(約2800字)

「お前は一生懸命仕事をしているか」 上司が厳しく問いただします。
「はい、一生懸命しています」 部下はそう答えるしかありません。
「一生懸命という字を書いてみろ」 上司の命令です。部下は書きます。
「どういう意味だ」 上司が書かれた文字を見て問います。部下は答えられません。
 見かねた上司は「一生懸命とは、『一生、命を懸ける』と書くんだ」と言ったと言います。

 この部下は私のクライアントであります。クライアントに再現してもらったやりとりであります。私から見ると、この上司の言葉は、どこかのヤクザ映画からでもセリフを借りてきたのだろうと思います。あまりオリジナリティのある言葉ではないように思います。
 さて、取り上げたいのは、「一生懸命」という言葉の意味であります。この上司は、「一生、命を懸けることだ」と言います。これで納得される方もおられるかもしれませんが、私はどこか違和感を覚えるのであります。何と言いましょうか、意味が重複しているように私には思えてならないのであります。
 その前にお断りしておかなければならないのは、これは私の個人的な見解に過ぎないということであります。言語学的にどう解釈されているのか、語源的にどのようにして生まれてきた言葉なのかといったことをきちんと調べもせずに述べているのであります。その点をご了承下さい。

 先述した「意味が重複している」ということですが、これは例えば「頭痛が痛い」というような表現のことであります。「頭痛」という言葉の中に「痛い」が含まれているので、「痛い」の部分が重複していることになります。「罪悪感を感じる」とか「悲しいと感じた」といった表現にも意味が重複しています。「罪悪感」や「悲しい」という言葉の中に「感じ」が含まれているわけであります。「感じ」の部分を二度繰り返して述べているようなものであります。一つの文章の中に、同じ意味を表す言葉が二つ含まれているのであります。
「一生命を懸ける」と言った場合、「一生」と「命」とが意味的に重複しているように私には感じられるのであります。「一生を懸ける」の中に「命を懸ける」が含まれており、「命を懸ける」の中に「一生を懸ける」がやはり同じように含まれているように私には聞こえるのであります。
 なぜ、このような重複が生じてしまうのかと言いますと、「一生懸命」の「命」の部分を「生命」の意味として解釈しているからではないかと思います。この「生命」という言葉は「一生」という言葉と非常に類似した関係の言葉であります。そのために意味が重複しているように響いてしまうのでしょう。あくまでも私の個人的な理解であります。

 もう一度、「一生懸命」という言葉に注目してみます。「一生、命を懸ける」という上司の解釈では、「一生」はあくまでも期間を示すだけの言葉になってしまいます。しかし、「一生」は「懸」にかかっているのではないでしょうか。「命」が「懸」にかかっているのではないように私は思います。つまり「一生」という部分を単独で、それだけ独立した部分と見做すのは正しくないのではないではないかと私は思うのであります。従って、「一生を懸ける」という意味合いになるかと私は思います。
「一生懸命」の最初の三文字を「一生を懸ける」という意味に捉えるならば、「命」はむしろそれの目的語のような意味合いになるかと思います。つまり「命」に対して「一生を懸ける」というような構造になるのではないかと思うのであります。「一生を懸ける」対象が「命」になるはずで、これが「一生」と同義であっては都合が悪いのであります。
 私はこう考えています。「一生懸命」の「命」は、「生命」のことではなく、「使命」のことであると。自分の使命としているところのものに一生を懸けるということではないかと私は捉えております。従って、「一生懸命」という言葉は、特定の行為や姿勢に見られるのではなく、もっとその人のアイデンティティに関わりのある言葉ではないかと思います。

 もう一度、冒頭のやり取りを振り返ってみましょう。上司がまず、「お前は一生懸命仕事しているか」と問うわけであります。部下であるクライアントは「はい、一生懸命しています」と答えます。もし、彼が自分の使命を果たそうとしている限り、彼の言葉に嘘はないでしょう。そして、上司の問いかけに素直に答えている限りにおいて、彼は部下としての使命を果たしていると見ることができるのではないかと思います。
 しかし、上司は「(それなら)一生懸命という字を書いてみろ」と彼に迫ります。これは彼の言葉に対して、上司が純粋に信用していないということを意味します。つまり、部下の「はい、一生懸命働いています」という言葉を覆そうとしているわけであります。上司は次に「字を書いてみろ」と文脈を変えることで、部下の言葉に対する返答を回避しています。そこで、次のような疑問を私は提示したいのです。部下の言葉を信用し、部下の言葉に真摯に向き合うというのは、上司の使命ではないだろうかということであります。従って、この場合、「一生懸命」でないのは、むしろ上司の方であると、私は考えるのですが、いかがなものでしょうか。
 さらに「一生懸命」という字を部下に書かせた上司は、それが「どういう意味だ」と言って、迫ります。部下は答えられません。上司は自分の定義を部下に伝えています。部下が答えられずにいるということに関して、上司は無視しているのであります。この時の部下の沈黙は、上司に対して計り知れないほどのメッセージを送っていたのですが、上司はそれを掴み損ねています。恐らく、掴み取ろうともしていなかったのでしょう。なぜなら、上司は自分の定義を伝えることだけを目的としていたでしょうから、その目的から外れた事柄に関しては、まったく注意が行き届いていなかっただろうと推測できるのであります。
 この上司は、部下とコミュニケーションを取ろうとしていないということが明白であります。部下は一方的に「一生懸命に働かない人間」であるとみなされ、部下の言葉に耳を傾けるよりも、「一生懸命」の定義(それもその上司が考えている定義)を部下に押し付けることしかしていないようであります。私は彼に「上司は何が言いたかったんでしょうね」と尋ねると、「さあ、分かりません」という答えが返ってきました。正直な答えだと思います。上司は彼を回避し続けていたのでありますから、彼が上司の言葉を理解できないのは当然だと思います。

 ここに書いていることは、あくまで私の個人的な見解でありますので、その点は繰り返し強調しておきます。私の見解はともかくとしても、この上司と部下と、どちらがより「一生懸命」なのかをあなたなりに考えてみられてもよろしいかと思います。

(文責:寺戸順司)






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