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<テーマ21> 「息の喪失」を読む(1) 
<テーマ22> 「息の喪失」を読む(2) 
<テーマ23> 「息の喪失」を読む(3) 
<テーマ24> 「息の喪失」を読む(4)~補足集 
<テーマ25> 「息の喪失」を読む(5)~全体を振り返って 






<テーマ21> 「息の喪失」(E・A・ポー)を読む(1) (約4300字)

 これをお読みになっているあなたは文学はお好きでしょうか。ここでは文学作品を取り上げて、その作品を通してしばらく考えていこうと思うのですが、文学がお好きでない方にとっては退屈なものになってしまうかもしれません。その点は予めおことわりしておきます。
 取り上げる作品は、エドガー・アラン・ポーの「息の喪失」(Loss of Breath)という短編小説であります。この作品は『ポー小説全集1』(創元推理文庫)に収められております。
 今回は、同作品の物語を追いながら、その主人公に起きたことを考察していくという形で進めていくつもりでおります。先に原作を読みたいという方は、ここで読むのを一時中止していただいて結構でございます。

「息の喪失」という作品は、1835年の作品で、ポーの最初の小説が1833年に発表されているので、比較的初期の作品ということになります。それでも、ポーらしさが十分に感じ取ることができる作品であります。
 物語の主人公は、訳文では「息無(いきなし)氏」という名前になっております。原文ではラコブレス(Lack of Breath)氏という名前ですが、ここではそういう名前を用いないで、単に「主人公」と表記します。
 それでは、ここから物語に入っていくことにします。


(A) 主人公が息を喪失する
 作品は前口上のような段落を一つ置いて、二段落目から物語が始まります。
 読者に最初に提示される場面は、主人公が彼の妻を激しく罵っている場面であります。二人の結婚初夜の翌朝ということが示されております。
 いきなりこの場面が提示されるのですが、読者にはどうして主人公が妻をそれほど激しく罵らなければならないのか、まったく理由が分かりません。理由はそのうち分かるだろうと思って読み進めても、その期待は満たされません。見事な始まり方だと思います。
 主人公は妻を罵り、「悪口雑言の決定版」を妻に投げかけようとしたその瞬間、主人公は息を失います。

 Lost ones breath という表現は、私も受験英語で習ったのですが、意味は「息が切れた」ということです。これは慣用表現であり、字面通りの意味ではありません。
 主人公が息を失ったと述べた時、読者は、彼が妻を激しく罵ってきたので、ここで息切れがしたのだろうという意味に捉えるのです。しかし、主人公は、息を切らしたのではなく、正真正銘、息を失った(Lost)ということを伝えています。主人公は「いまいうような恐ろしい事件が現実に実際に起ることがあるなんてことは、私もついぞ考えてみたことすらなかった」と述べています。息を喪失するという、考えてもみなかったような恐ろしい事件が彼に降りかかったのであります。

 慣用表現というのは、その字面通りの意味ではないということは先述しました。慣用表現が通用するためには、私たちがその表現の意味するところのものをお互いに理解しているということが前提であります。その理解はお互いに身についており、いわば常識的なものとみなされるものであります。
 お互いの間で意味が共有されているからこそ、慣用表現はその意味が伝わるわけであります。意味が共有されているということは、その人が(その言語を話す国の)人間社会に属しているということでもあります。
 主人公が息を失ったと語る時、彼は慣用表現ではなく、額面通りの意味の世界に生きることになったと言えます。これはどういうことなのか、端的に言えば、彼は共有される意味の世界に生きなくなったということであります。私たちとは意味が通じない世界に彼が入ってしまったということであります。それは彼が人間社会から脱落、疎外されてしまったというように解釈できるのであります。
 精神的に圧倒された人が、字面通りの世界に生きているということを示す例はいくつもあります。それは「補足」の(1)を参照していただくことにして、私たちは物語を追いましょう。


(B) 主人公は自室に下がる。
 息を失ったことに気付いた主人公は、そのことを妻に悟られないようにごまかし、自室に引き下がります。そして、自分に起きたことの意味を考えます。

 主人公は息を失い、息をしていない自分を自覚しています。言葉を発しようにも、息をしていないのだから、発声できないのです。だから彼は無言で妻から離れ、自室へとさがるのであります。
 彼は発声しようとしても、それができない自分を体験しているということであります。この、自分で自分がどうにもならない感じ、自分自身をコントロールできない感じというのは、多くの「心の病」において認められることなのであります。
 彼には、自分に異常なこと、あり得ないことが起きているということが分かっています。こういう時、人はもっとパニックになるのではないかとあなたは思うかもしれませんが、実際、そうではないことも多いのであります。主人公は、自分に異常なことが起きているにも関わらず、そんなことは起きていないというふうに装うのであります。これは自分に起きていることを否認しているわけなのです。そのために彼は演技をしなければならなくなるのでした。
 自室に戻って、彼は自分のこの姿について、次のように考えます。「短気を起こせばこういう悪い結果になるという、恐ろしい実例の恰好な見本には違いない」と。この考え方については、私にはそれが子供の考え方という印象を覚えました。短気を起こすことと、息を失うことには、本当は因果関係がないかもしれないのですが、主人公はそこに因果関係を見てとり、その他の可能性を考えられないようであります。因果関係がない二つの事柄に対して、大した根拠もなく因果関係を見出しているということは、彼が論理性を失ったということでもあります。だから、子供の思考様式に似ていると私は感じました。もし、彼がそういう子供の思考様式に陥っているのだとすれば、異常な体験が彼に退行(精神的に子供帰りすること)をもたらしたと考えることができそうであります。

 それに続いて、主人公は自分自身を次のように捉えております。「生きておりながら、死者の条件をそなえ―死んでおりながら、生者の特徴をもっている―この地球上に出現した変則の奇型」と。これは彼の自己像ということであります。
 このような存在の在り方、生と死のどちらでもないという在り方は、周辺人や異邦人の在り方に近いものと思われます。彼は共人間社会から外れてしまった存在に陥ってしまったと解釈することもできます。つまり、「自分は人間でありながら、あなたたちとは違った人間になってしまった」という感じなのであります。

 その部屋の中で、猫が咽喉を鳴らし、猟犬が息を吐くさまを見て、彼は憤慨する。それらは猫や犬にとっては当たり前の行為で、日常生活では当たり前に見てきた光景であるのですが、彼にはそれが自分に対する当てつけのように思われています。要するに、被害感情に襲われているのであります。
 肝心な点は、日常的に目にする当たり前の光景や、犬や猫の何でもない行為が、彼には脅威となってしまっているということであります。通常の状態であれば何も脅威をもたらすはずのない対象が、脅威をもたらす対象になってしまっているのであります。このことは、彼の体験がそれだけ彼の心を圧倒してしまっていることの証拠であるとみなすことができます。


(C) 息を探す
 妻が外出する音を聞いて、主人公は息を失った現場に戻り、息を探そうとする。

 この時、「眼に見えぬ物のみが唯一の実存である」というウィリアム・ゴドウィンの言葉や、アナクサゴラスの「雪は黒い」という主張を思い出し、主人公はそれがその通りであるということに気づいていると語ります。この二人の言葉は(それらがどういう文脈で述べられたのか、私は知らないのだけど)、矛盾であり、非現実的であります。主人公が、今ではそういう言葉の正しさが分かるということは、矛盾や非現実が、彼にとってより親和的になっているということであります。それだけ、彼の心が現実から離れていっているのではないかと捉えることができるかと思います。

 捜索を続ける彼は、さまざまのものを発見する。それは「上下一組みの入れ歯が一つ、ヒップ(装身具だろうか)が二組に目玉(義眼だろうか)が一つ、それに息倉氏から女房にあてた恋文の一束だけであった」そうである。(「補足」(2)参照)
 ここで初めて「息倉氏」なる人物のことが語られるのでありますが、この人物は後で重要になりますので、覚えておいてほしいのです。この人物と彼の妻とが恋愛関係にあったようだということがここで初めて読者に分かり、それが、彼が妻を罵ったことと関係があるのかもしれないという予感をもたらします。
 さて、ここで彼が発見したものとは何だったのでしょう。恋文を除いては、すべて身につけるものであり、しかも作られたものであります。こういうものを彼が見つけたということは、こういう物が彼の関心を引いているということであると考えることができます。彼が、身体に関して心の中に何か抱いているために、こうしたものが彼の注意を引くことになったと言えるのであります。異常な体験をしていることが、彼に身体への関心を高めたと言えるかもしれませんし、彼自身がこういう装身具を必要としていて、身を隠したいという感情を抱いているのかもしれません。
 また、それらの装身具以外に、息倉氏の恋文を発見したということも、それが彼の関心事として心の中を占めていたからであると捉えることができるのであります。実際、主人公は息倉氏と自分の体型を、その後で比較しております。息倉氏は背が高くて立派なのに対し、主人公は肥満で背が低いということを述べています。この比較は後ほど考慮したいと思います。(「補足」(3)参照)
 ここでは、とにかく、主人公が身体についての関心が非常に強かったのではないかということに注目します。どうして身体に関することが心を占めていたのだろうかということですが、人は自分自身が何かおかしいという体験している時に、自分の身体に関心が集中することがあるのです。実際には「心の状態」がおかしいのに、「身体がおかしい」というように体験される人もあるのです。この主人公にも同じようなことが体験されていたと思われます。それは、つまり、主人公は自分がおかしくなったという意識に支配されていったということを意味するのであります。

 物語はまだ続くのですが、長くなりそうなので、ここで一旦終えて、項を改めて続けていくことにします。

(文責:寺戸 順司)





 

<テーマ22> 『息の喪失』(E・A・ポー)を読む(2) (約3200字)

 前項に続いてポーの「息の喪失」を読んでいくことにします。
 さて、物語を続ける前に、どうして私がこういうことを記述していこうとしているのかという、その理由と目的を明確にしたいと思います。
 カウンセラーというのは、とにかく人を理解しようとする人であると捉えて下さい。しかし、理解の仕方というのは実は非常にさまざまなものがありまして、個々のカウンセラーによっても、その人の個人的背景が理解の質に影響するために、一人一人のカウンセラーによって理解の仕方が異なってくるのであります。そこで、私がどのような他者理解をしているのかということを示す必要があると考えているのであります。
 しかしながら、現実のクライアントを取り上げて、その理解を詳細に述べていくとすれば、そこにはプライバシーの問題などが生じてくるのであります。できれば実在の人を取り上げたいというのが私の理想なのですが、そうした問題のために、どうしても記述できることが制限されてくるのであります。
 では、それなら文学作品の中の人物ではどうかということになります。それは実在の人間ではないとしても、私たちはその人物を自由に分析できるという利点があります。従って、文学作品中の人物を理解して示すということは、他者理解の実例を示すにあたっての、一つの妥協点なのであります。
 注意してほしい点は、私が作中の人物の人格や性格を理解しようとしているのではないということであります。それよりも、その都度その都度の場面で、主人公に何が起きているのかということを理解しようとしているという点に注目していただきたいのであります。実際の面接でも、私はそういう点に焦点を当てて理解することが多いのであります。
 こうしたことは前項の最初に述べておくべきでしたが、私がうっかりして書き損ねてしまったのであります。書き始めると、読み手のことはまったくそっちのけにして書いてしまう癖が私にはありまして、そのために、どうしてカウンセラーがこういう文学作品を分析しているのかということが理解できなかった方もおられるかと思います。この場を借りて、私の自分勝手な進め方をお詫びしたく思います。
 では、物語を続けましょう。


(D)主人公はある戯曲のセリフを習得して、その後、この土地を去ることを決意します。

 この戯曲のセリフというのは、主人公によると、「私がなくしたような声の調子は全然必要なく、初めから終わりまで深い喉音一色でとおすことになっていた」ようであり、また、それが「多くの場面で活用できる」ものであるということであります。彼は、急に演劇熱にとりつかれたような印象を周囲に与えることによって、この行為を正当化しようと試みます。
 ちなみに、この戯曲は『変身』というタイトルでありまして、これはとても象徴的なタイトルであると、私には思われます。
 それまでの主人公というのは、息を探したりして、とにかく元に戻ろうとしていたのですが、ここでは、元に戻ることではなく、息を失った人間として生きることを選択しているのであります。彼はかつて、「この地球上に出現した変則の奇型」と自分自身を捉えたのでしたが、その「変則の奇型」であることを否認するのではなく、「奇型」として生きようとしているのであります。従って、彼自身の心が、以前とは「変身」してしまっているように感じられるのであります。彼の自己像が「変身」してしまったのだということもできるかもしれません。
 また、彼は演劇熱にとりつかれたように見せかけるという、演技をしなければならなくなっています。「自分がおかしい」ということを自覚してしまっているからこそ、「自分はおかしくない」という演技にしがみつかなければならなくなるわけであります。
 奇型として生きることになった彼は、この後、思いもよらない出来事を経験していくことになります。


(E)さまざまな災難に遭遇する。
  まず、土地を離れるために主人公は馬車に乗ります。主人公は、その馬車の中で、ものすごい巨漢の男性の下敷きになってしまいます。その巨漢が目覚めて、彼を見ると、彼の様子がおかしいということに気づきます。主人公はその巨漢のせいで手足の関節が外れてしまい、動けなくなっていたのでした。乗客たちは主人公を起こそうと、彼を叩いたり、耳を引っ張ったりするのですが、彼は反応のしようがありませんでした。そして、彼が息をしていないということが分かると、乗客たちは彼が死んだものとみなしたのでした。
 死人と一緒に旅を続けるのは耐えられないということで、主人公は荷物と一緒に通りに放り投げられます。彼が投棄された場所は、「鴉軒」なる居酒屋の前でした。

 もはや主人公は生きた存在としてみられなくなっており、ここで最初の迫害を経験しています。
 この「鴉軒」という、彼が捨てられた場所にあった居酒屋の名前には、意味深なものがあります。鴉という鳥はどこか「死」とか「不吉なもの」をイメージします。実際、ポーの有名な詩『大鴉』においても、鴉が死の象徴のようにして現れてきます。先ほどの劇は『変身』でしたが、ここでは「鴉」という死を思わせるような象徴が用いられています。このことは、どこか主人公に不吉な死の影が濃くなってきているかのような印象を伝えるように思われるのです。
 実際、彼は死人として、物体のように投棄されているのであります。

 物語を続けます。
「鴉軒」のおやじは、主人公が死んでいるのを見て、ある外科医に死体を売りつけます。外科医のもとに運ばれた主人公は、外科医から手術を施されます。その時、彼に生体反応があることを認め、外科医は知り合いの薬剤師を呼び、この死体がまだ生きていると思うかと、薬剤師に意見を窺います。薬剤師の方は死んでいると主張します。この一部始終を主人公は聞いているのですが、彼には自分が生きているということを示すいかなる手段もありませんでした。結局、彼が生きているのか死んでいるのかということの結論が出ないので、外科医と薬剤師は、一旦、彼を屋根裏部屋に保管することにしました。

 ここで、息を失った主人公、奇型であることを受け入れた主人公が体験していることが、どういうものであるかを考察してみることにします。
 簡潔に言えば、彼はもはや生きた人間とはみなされなくなってしまい、「物」でしかなくなっているということであります。「物」の次元にまで落ち込み、また、「物」としてしか扱われなくなっているのであります。
 彼は自分が生きているということを証明することもできません。言葉で伝えることができない彼は、人間社会から脱落し、孤立した世界に生きることになってしまいました。彼が生きている、この孤立した世界において、彼を最も苦しめているのは「生」そのものであります。
 通常、生を享受している人間にとって、最も恐れられているものは「死」であります。例えば、「不安障害」で苦しむ人の不安内容を突き詰めていくと、そこには自分自身の死に対する不安があるということがはっきりします。私たちが恐れるのは自分自身の「死」であります。
 ところが、この主人公にとって、死はもはや不安を喚起する対象ではなく、恐怖でもなくなっているようです。それよりも、彼にとっては、生きる事の方がはるかに苦悩と恐怖に満ち溢れてしまっているようであります。
 このことからも、彼が私たちとはまったく異なった世界に生きているということが分かるのであります。実際、迫害されている人や「心の病」で苦しんでいる人には、このような世界に生きている人も多いのであります。


 さて、物語はまだ続き、主人公が体験する災難もまだまだ続くのですが、とても長文になりそうなので、項を改めて続きを追っていくことにします。

(文責:寺戸 順司)





 

<テーマ23> 『息の喪失』(E・A・ポー)を読む(3) (約3000字)

 テキストにしているのは文学作品でありますので、現実の人間の事例ではないということは前回お断りしておきました。本作、「息の喪失」は、文学作品の鑑賞という観点から見るならば、搾取する側と搾取された側の対決であるとか、もっと社会批判や風刺であるという読み方も可能であります。また、作品の構成や文体、言葉使いなどから研究することも可能ではあります。ですが、私がここで試みているのは文学作品の鑑賞や分析ではありません。そういうことを目的として書いているのではありません。あくまでもフィクションではあるけれども、一応現実の人間の体験として捉え、主人公が現実に私の目の前でこういう一連の体験を語っているものと想定して考察しているのであり、その上で、私だったらどのように彼の語りを理解するだろうかということを論じているのであります。
 では、物語を続けましょう。


(F)さらに災難は続く
 外科医の手術のおかげで体が動かせるようになった主人公は、屋根裏部屋から脱走します。しかし、主人公が降り立った所に、ちょうど刑場に連行されている死刑囚がいました。なぜかこの死刑囚は主人公と瓜二つだったので、死刑囚は彼を身代わりにして逃走してしまいます。そして、死刑囚の代わりに、彼が絞首台へと連行されてしまいます。
 絞首台にかけられた彼は、集まった人々の曝しものとなります。死刑は実行されましたが、もともと生きているのでも死んでいるのでもないという存在の主人公は、ここでも死んでしまうということはありませんでした。
 死刑が実行された直後に逃走した死刑囚、つまり絞首台にかけられるべき本来の人物が捕まります。群衆は無関係の人間を絞首台にかけてしまったということを知り、主人公に同情を示します。彼の死体(本当は生きている)の引き取り手がないために、彼は共同墓地に収められることになります。

 主人公はもはや自分が何者であるかを証明することもできず、そのような機会も与えられず、誰も彼を弁護する人がいないといった状況に追いやられているように感じられます。弁解も弁護もできず、彼は死刑囚とみなされて、死刑されてしまっています。彼の言い分に耳を傾けようとする人は誰もおらず、彼は孤立していて、一人の味方も理解者も得られないでいます。疎外された人が経験することは、まさにこのようなものであろうと私は思います。
 主人公と死刑囚が瓜二つであったということに関しては疑問もあります。しかし、「誰でもない」主人公は、もはや個性も人格も持たず、どのような人間にもみなされてしまう存在へと陥っているのだと考えることができます。「誰でもない」ということは、彼には個別性がなく、誰にでもなり得る(みなされ得る)存在となってしまっていたのかもしれません。
 人々は、自分たちが罪のない人間を死刑にしてしまったのではないかと、一時的にですが、彼に同情を示します。ところが、彼を引き取ろうとする人はありませんでした。そして、共同墓地へと納められてしまうのですが、ここでの人々の態度は「彼に同情はするけれど、関わりは持ちたくない」と述べているように、私には感じられたのでした。この態度は、精神病や障害者に対する人々の態度にも通じるものがあると思うのであります。


(G)共同墓地内での邂逅
 共同墓地に納められた主人公は、棺桶の中から抜け出し、戯れにそこに収められている死体を見て回っては(補足4)、揶揄します。そこに見覚えのある顔を発見した主人公は、その死体に向かって罵ります。すると、死んでいると思われていたその死体が「あんまりだ」と言って、主人公に向かってきます。その人物こそ、主人公の妻と関係があった「息倉氏」本人だったのです。「息倉氏」と対決することによって、主人公は息を取り戻したのでした。

 揶揄するという言葉で私が表現した部分ですが、墓地なのでたくさんの棺桶が納められているのであります。それを開けて中に納められている死体を見ては、主人公が「この顔の男だったら、生前は悪さばっかりして、ろくな死に方をしなかっただろう」などと辛辣に評価しているのであります。
 読者はここで「おや」と思うのであります。確か主人公は息を失って、声が出なくて、話すことができなかったはずなのに、ここではとても饒舌に言葉を発しているではないかと、矛盾があるじゃないかと気づくのであります。これがどういうことなのかと言うと、私の見解では、主人公は「生者」の世界にいる時には「死者」とみなされ、「死者」の世界においては「生者」のように振る舞うことができているということであります。そのように逆転しているわけであります。このことは、つまり、彼が「生者」の世界にも「死者」の世界にも居場所がないということを表わしているように受け取りました。もともと生きているのでも死んでいるのでもない主人公にとっては、「生者」の世界に属することも、「死者」の世界に属することもできないのであります。そして、その両方の世界から彼が疎外されているのだということが、こうした逆転から汲み取れるように思うのであります。
 主人公は妻に決定的な罵りの言葉を浴びせようとする矢先に息を喪失したのでしたが、「息倉氏」の方は、「息をのんで」しまって、いきなり息が倍になったと言います。「息倉氏」がどのような経過を経てこの共同墓地にいれられることになったのかは明らかではありませんが、息を喪失した者も過剰になった者も、等しく人間社会から脱落して、「死者」として生きたまま墓地に納められてしまったことが窺えるのであります。
 主人公は、ここで仇敵「息倉氏」と対決することで息を取り戻し、「息倉氏」の方も倍になった息を返すことで、二人とも生者として墓地を出ることができたのでした。直面すべき対象と直面できたということが、両者の問題を解放したのであります。

 これで物語は終了であります。前に述べたように、物語を通して主人公を理解する試みでありました。ここで言う理解とは、主人公がどのような体験をし、その体験は彼にとってどのような意味があるだろうかを考え、その体験が彼にどのような変化をもたらしているかということを見ていくことでありました。
 その流れを最後に振り返っておきます。
 彼は、最初に異常で「あり得ない」出来事が自分に降りかかったことを体験しました。彼は元に戻ろうとしましたが、その目的は達成されませんでした。彼は自分の状態を受け入れていきます。それは、異常で「あり得ない」ことが自分に起きているという段階から、異常で「あり得ない」人間になってしまったということを意味しました。異常な状態に同一視した彼が体験したことは、疎外以外の何物でもありませんでした。孤立し、生者として扱われず、さまざまな災難に見舞われるようになってしまいました。彼は死んだ者として葬られ、そこで宿敵と再会し、対決することで、彼は元の自分を取り戻していったのであります。

 最後に、私がこの作品を選んだのは、もちろんこの作品が好きだからでありますが、それに加えて、この物語が「心を病む」人の体験をよく描いているように思うからであります。

(文責:寺戸 順司)





 

<テーマ24> 『息の喪失』を読む(4)~補足集 (約3400字)

(補足1)
 精神的に圧倒されて、人間社会から疎外されてしまうと、言葉の共有されている意味が失われて、意味よりも字面が前面に出てしまうということですが、このことはとても奇異なことのように思われるかもしれません。しかしながら、臨床の現場ではこういうことを頻繁に目の当たりにするのであります。
 どの本で読んだのかすっかり忘れてしまいましたが、ある精神科医が次のような体験をしたと言います。その精神科医が、彼のオフィスで仕事をしていると、ドアにノックがありました。誰か来たのかと思ってドアを開けますと、そこには誰もいませんでした。翌日にも同じことが起こりました。そして、そのようなことが数日間続いたそうであります。
 実は、そのドアには「ノックしてください」と書かれた札が掛けられていたのでした。そこで、ある患者さんが、そのドアの前を通るたびにノックしていたのだということが分かったそうであります。
 通常、私たちが「ノックしてください」と書かれているのを見れば、それは「中へ入る用のある人は、ドアを開ける前にまずノックをしてください」という意味であることを了解しています。そして、こういう意味が共有されているからこそ、「ノックしてください」と書くだけで間に合うわけであります。
 この患者さんにとっては、「ノックしてください」と書いてあるから、ノックしただけだということに、もしくはそう書いてあるからノックしなければならないと考えたのであります。このことは、この患者さんが共有されている意味の世界に生きておらず、字面の世界に生きているということを意味するものと思われます。従って、私たちが共有している意味をこの患者さんは既に失っていたということがわかるのであります。
 私自身の例を挙げますと、あるクライアントに、例えば「10時に来てください」と約束します。当日、私が室内で待っていますと、10時前に表に人影が見えました。予約していたその人が来たのだと思いましたが、その人はなかなか中へ入ってこようとはしませんでした。しばらくして、ノックがあり、私はその人を室内へ招き入れました。そして、「早くから来て、表で待ってらしたのではありませんか」と尋ねると、その人は「10時からということだったので、10時ちょうどになるまで待っていたのです」と説明しました。しかも、10時ちょうどに入るために、彼は自分の時計をわざわざ時報で正確に合わせてきたのだと語りました。
 このクライアントにとって、「10時に来い」と言われたからには10時ちょうどでなければならず、9時59分でも10時1分でもダメだったのであります。言われた通りのこと、字面通りのことに従って行動してしまうということは、融通性がなくなり、強迫的で完全主義の傾向が強まっていくことであり、それはその人の心から自由が失われているということでもあります。


(補足2)
 主人公が失った息を探す時に見つけたいくつかの小道具なのですが、それらは主人公の内面の何かを表しているのではないかと私は読んでいきました。
 文学が好きだという知人やクライアントと文学の話をすると、ポーという作家は非常に好き嫌いが明確に別れる作家であるという印象を覚えます。ポーが苦手だという人たちは、たいていポーは分かりにくいというようなことを述べます。確かにそういう面もあるかと思います。
 ポーの作品を理解するためには、ここに挙げた小道具などの他に、情景描写や、作中人物によって詠まれる詩や、引用される詩句、さらには固有名詞などに注目するとよいでしょう。これはポーを読む時のポイントであると、私は捉えております。
 例えば、情景描写の最も優れた一例として「アッシャー家の崩壊」の冒頭部分を挙げることができるでしょう。この作品は、まずアッシャー家の外観の描写から始まるのですが、それによって読者の感情を掻き立て、物語世界に引き込み、作品の雰囲気を強烈に印象付けるのであります。そして、主人公がこれから入って行く世界にみなぎっている感情を如実に伝えてきているのであります。つまり、情景描写は、単なる場面の描写以上に、優れた感情表現であり、物語世界の雰囲気を読み手に伝えるのであります。
 こうした情景描写は、私の知っている範囲では、エミール・ゾラのそれとは極めて対照的であります。ゾラによる情景描写は非常に詳細であり、あたかもその現場に居合わせているかのように記述してくれています。同じく文学好きの人が「ゾラはわかりやすい」と評していましたが、私はそれは頷けるように思いました。
 詩や詩句に注目することも同じようにポイントであります。作中人物は、「私はもうダメだ」と嘆く代わりに、非常に絶望的な詩を詠み上げます。救いようのない世界を描いた詩を詠んだりします。読者は、こうした詩から、作中人物の心情を読みとり、彼が生きている世界がどのようなものであるかを感じ取る必要があります。ポーの作品においては、詩もまた感情表現なのであり、作中人物の内面を表現しているのであります。
 もし、ポーの作品をこれから読んでみようと思われる方がおられましたら、作中の情景描写、小道具、固有名詞、引用される詩などを、読みとばしてしまわないようにすることをお勧めします。もっとも、そのような読み方をしなくても、ポーの物語はそれ自体面白いものなのですが。


(補足3)
 マリー・ボナパルトという精神分析家がポーの作品を分析しているのですが、ボナパルトもまたこの「息の喪失」を取り上げています。私の勉強不足できちんと読んだことはないのですが、ボナパルトは作中で用いられる‘ejaculate’という単語に注目しているそうであります。この単語は「発声する」という意味の他に「射精する」という意味もあります。従って、主人公が突然ejaculateできなくなったということは、彼が射精できなくなったということ、つまり、主人公が性的不能に陥ったのだと解釈しているようであります。とても精神分析家らしい理解の仕方であると、私は思います。
 そのように捉えると、主人公が恋敵と容姿の比較をしている箇所も、なんだか男性器を比較しているように読めて面白く感じます。
 ただし、私はこの作品をそれほど性的な要素が強い作品であると受け止めることができませんでした。ポーの後の作品である「名士の群れ」などの方がはるかに性的な内容を含んでいるように思います。従って、ボナパルトの解釈は一応は理解できるとしても、同作全体の流れから見ると、若干無理があるように私には思われます。


(補足4)
 ここで共同墓地の描写が出てくるのはいかにもポーらしいと思います。ポーはとにかく「死」を描くことに執着しているところがありまして、エーリック・フロムの言う「死のオリエンテーション」を抱えている作家であることがわかります。
「オリエンテーション」とは、その人の行動や関心の方向づけといった意味で、しばしば「構え」と訳されています。「生」の方向とは反対の「死」の方向に強く惹かれるということであります。この「死」の中には、死体であるとか、破壊や暴力なども含まれ、廃墟とか老廃物や排泄物などに惹かれてしまうことも含んでおり、そうしたものに強く惹かれてしまう人を「死のオリエンテーション」を抱えている人としてフロムは括っています。
 死を描写することに関しては、ポーの「モルグ街の殺人事件」はその代表ではないかと思います。世界で最初の推理小説といわれる同作は、まず、パリのアパートの一室で二人の女性が惨殺されるという事件が発生します。その時に、ポーは、この新聞ではこのように報じているとか、目撃者はこのように証言しているといった形で、繰り返し、それも執拗なほど、この惨殺事件の現場を描写しています。私はいつもこの個所に差し掛かると、読むのを止めたくなる気持ちに襲われるのであります。そんなに繰り返し描写する必要はないように思うのです。しかし、ポーは死体を描くことに並々ならぬ執着を持っているかのようであり、繰り返し読者の前にそれを提示していくのであります。まるでそれを書かざるを得ないかのようにであります。
 
(文責:寺戸 順司)





 

<テーマ25>『息の喪失』(E・A・ポー)を読む~全体を振り返って (約2700字)

 三回に渡って『息の喪失』の物語を追っていきましたが、ここでは全体を振り返って、述べ切れなかった内容を綴っていくことにします。

(A)何が主人公の息を喪失させたのか
 もう一度、主人公が息を失った場面を振り返ってみましょう。それは結婚初夜の翌朝でした。彼が妻を激しく怒り、罵っていた場面でした。何が主人公をそこまで激怒させていたのかということは、結局、最後まで明確にはされませんでしたが。そして、彼が悪口の決定打を妻に浴びせようとした瞬間に、彼は息を失ったのでした。
 なぜ、その瞬間だったのでしょうか。もっと先でも後でもよかったはずであります。ところが、あたかも決定打を放つその瞬間を狙ったかのように、彼は息を失ったのでした。一つ、確実に理解できることは、彼が息を失ったことで、悪口の決定打を妻に浴びせることができなくなったということであります。従って、この決定打は妻に対してなされてはいけないものだったのに違いないということが推測されます。
 彼が息を失って発声できなくなったために決定打を放てなくなったということは、それによって妻が救われているわけであります。妻と、ならびに妻との関係がこうして守られたのだというように理解できるのであります。それは、妻、並びに妻との関係が破滅してしまう前に、彼は自らそれに制止をかけたように思われます。自らと言っても、それは彼が無意識的にしてしまっていることであり、意図的にそうしたという意味ではありません。
 この制止は、彼に対しては懲罰的に働いているということも読みとることができます。つまり妻を破滅させてしまう前に、彼は彼自身の方を先に破壊させてしまっているのであります。彼にそのようなことをさせているのは、彼の無意識の良心であると考えることができます。自分自身を破壊することで、妻を破壊することを防いでいるのであります。従って、主人公はとても善良な人間とみなすことができるかもしれません。
 彼が息を取り戻すのは、ラストの場面で、「息倉氏」と対決したことによってであります。このことは彼が自分自身に気がついたのだというように解釈できます。初めは妻を罵っていたのですが、その感情や言葉は、本来妻に向けられるものではなかったのであります。彼は自分が何に対して怒りを爆発させていたのか、初めは理解できていなかったのではないかと思われます。自分でもよくわからないけれど、とにかく妻に対して感情を爆発させていたということであります。また、それが正しいことのように彼には思われていたかもしれませんが、彼の無意識はそれが正しくはないということを感じとっていたようであります。彼は最後に、自分の感情をぶつける本来の対象と出会っているわけであります。彼を苦しめていたのは、妻に対する感情ではなくて、「息倉氏」に対する感情だったのであります。しかるべき対象にしかるべき感情を向けて、対決することによって、彼は回復したわけであります。
 息を探すことも、異常な自分を受け入れることも、どちらも彼に真の回復をもたらさなかったのであります。それらは間違った解決の仕方であったということが理解できるのであります。
 気づきという観点から述べれば、彼は初めの自分が誰に対して、何を怒っているのか気づいていないという状態から、真の対象と出会うことによって、それらに気づいたというように考えることもできます。そして、そのことは彼が自分自身に気がついたということにつながっているように私は思うのであります。


(B)語り口について 
 こうして物語を追ってみると、とても悲惨で、苦痛に満ちた物語であるかのような印象を持たれるかもしれません。しかし、実際に読んでみると、それほど悲惨な感じを受けないのであります。物語は主人公の一人称で語られているのですが、その語り口がとても軽妙で、悲壮感を感じさせないのであります。むしろ、ユーモアや皮肉に富んでいて、どこかジョークとか小噺といった印象さえ受けるのであります。
 語り口が軽妙でユーモアに富むからと言って、彼が体験したことが笑い話で済ませることができない種類のものであることに違いはありません。つまり、彼は悲惨な体験を面白おかしく語っているということになります。これはどういうことなのでしょうか。
 カウンセリングの場面では、クライアントが自分の苦しい体験を笑いながら楽しそうに話すということも頻繁に目にします。例えば、過食症の人がいて、その人が前夜、どれだけのものを胃袋に詰め込んだかという話をします。それは物凄い分量で、それだけ一気に詰め込んだらさぞかし苦しかったことだろうなと私は思うのであります。聴いていながら、私は胃の辺りに痛みを感じたこともあるのです。しかし、その人はいとも楽しそうにその体験を話すのであります。一通り聴いた後で、私が「それだけ一度に食べたのだったら、とても苦しかったんじゃありませんか」と尋ねてみると、その人は、初めて気がついたように、「確かに食べ終わった直後は胃が苦しかった」と話されたのでした。自分が苦しい体験をしたということが、私に指摘されて、初めて自覚できたかのようでありました。
 つまり、自分が体験したことと、それを表現する仕方とがかけ離れているということなのであります。どうしてこういうことが起きるかについては、さまざまなことが考えられます。自分の体験を掴みとれないという場合もあれば、適切に感情表現することができないという場合もあります。苦しいという感情を表現することが禁止されているというような人もあるでしょう。その感情に向き合えないという場合もあれば、その感情が強烈すぎてそのままの形では表現できないというような場合もあることでしょう。
 この主人公は、実はたいへんな体験をしていながら、それを笑い話のように語って聞かせていますが、それは自分の体験した苦しみの感情を否定(感情の否認)しているように私には思われました。また、語る際に、引用を用いたりして、知的に表現しようとしている(知性化)ようにも感じました。このことは、彼が自分の体験したことに対して、真摯に向き合うことができないということを表しているように受け止めました。それは言い換えれば、正面から向き合うにはそれらがあまりにも苦しすぎる体験だったからではなかっただろうかということが推測されるのであります。

(文責:寺戸 順司)