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発達と「心の病」

発達と「心の病」

<テーマ5>「愛することと働くこと」(1)
(5-1)フロイトの言葉の奥深さ・(5-2)昇華という観点・(5-3)成熟した愛と労働・(5-4)「未熟」という言葉について・(5-5)愛の障害・(5-6)成熟へ方向づけられること
<テーマ6>「愛することと働くこと」(2)
(6-1)愛と労働、その両領域に適応すること・(6-2)三十代男性の事例:概観・(6-3)事例:父親との関係・(6-4)事例:二つの契機・(6-5)子供時代からの解放







<テーマ119> 「神経症」的な生き方(1)
<テーマ124> 「神経症」的な生き方(2)~完全主義




<テーマ119> 「神経症」的な生き方(1)

(119―1)「心の病」の現れ方
「心の病」とか「心の問題」とかいうことは掴みどころがないため、正しく理解することも自覚することも難しいものです。なぜなら、それは身体の病のようには表現されないからです。例えば肝臓を悪くしているとか、腎臓病を患っているとか、胃に潰瘍があるとか、腫瘍が発見されたとか、私たちが身体に関して述べるのと同じように「うつ病」を抱えているとか「不安性障害」を患っているなどと述べることができないからなのです。持病を持っているというように、「強迫性障害」を持っているなどとは言えないわけなのです。つまり、「心の病」というものは、私たちに馴染みのある表現では語りにくいものなのです。
「心の病」はすべてその人の生活スタイル上に現れてくるものです。その人の性格傾向に応じて、現象的に顕現されるものです。そこにはそうしたスタイルや傾向が形成されてきた歴史というものや、それが顕在化される状況というものも大きく関与するのです。ある人の生活パターンやある場面での行動を見て、「その人にはこれこれの病が確認できるようである」という形でしか、周囲の人には言えないのです。精神医学的な診断とは大部分がそのようなものなのです。
 人が「神経症」的になるとはどういうことでしょうか。ここでは個々の「病名」は度外視して、「神経症」的と表現します。ある人のどういう傾向を「神経症」的とみなしてよいのでしょうか。それを考えていきます。

(119―2)変化を拒む
 私の見解では、「神経症」的な人において、もっとも頻繁に見られるのは、変化を拒むということです。それは望ましい変化であっても、それを恐れ、変化に対して抵抗しようとするのです。変化を恐れるというのは、そこに当人には耐え難いと思われている不安があるためです。
 変化に抵抗するということは、言葉を換えて言えば、現状維持を目指していくということになります。中には自分を変えるために様々な試みをする人もあるのですが、その試みはむしろ現状を維持するために役立ってしまっているということも見られます。いわば、頭痛を処理するために、頭痛薬についての専門書を読み、そしてすべての頭痛薬の説明書を読み漁るようなことをするわけです。そして現実に頭痛薬を服用しないのです。「神経症」的な人はしばしばこういうことをしてしまうのです。
これは矛盾を生み出すことになります。頭痛を処理したいのであれば、頭痛薬を服用するという行動ができ、且つ、それが有効であるわけですが、それをせず、回りくどいことをして、却って頭痛の種を増やしているのです。そして、後に述べる完全主義の傾向が、その人をして、すべての頭痛薬の説明書に目を通さなくてはいられなくさせるのです。結局、頭痛はそのままであるし、疲労困憊だけして、何も得られず、何も変わらないのです。「神経症」的な生き方とはしばしばそういうものなのです。

(119―3)逃避と先送り
 変化に対して抵抗するということは、様々な点において、逃避的にならざるを得ないということになります。不都合なことに対しては、それがどれだけ当人に必要なことであっても、直面しないようにわざわざ(無意識的に)仕向けるのです。
 例えば、短期間で職場を辞め、すぐに別の所へ再就職するということを十数回も繰り返してきたというクライアントと私はお会いしたことがあります。彼は難しい資格を取得しているので、その資格が物を言う限り、再就職先には困らないのでした。彼は転職した理由を語ります。どの理由も聞く人をして納得させるものがあります。そういう話を聴くと、彼が転職するのも仕方がないと思い込んでしまうのです。案外、周囲の人はそれで彼の「症状」を掴み損ねてきたのかもしれません。しかしながら、理由はもっともであれ、彼がどの職場においても二週間以上続いたことがないという部分に、彼はまったく触れることができないのでした。中には三日ももたなかった職場もありました。ここに触れることは、彼にはかなり不都合なことだったのだと思います。彼は、これまでの職場において、何かから逃避しなければならなかったのですが、逃避しているという現実からも逃避しているようでした。決して、その部分を見ないのです。
しばしば、この逃避的な傾向は、カウンセリングや「治療」への抵抗という形でもっともよく顕現されるものです。その際に、よく見られるのは「先送り」にするというものです。「カウンセリングは受けたいけれども、今、忙しくて無理です」というような例を私はいくつも体験しております。受けるか受けないかはその人の自由でありますが、そのようなことを表現される時、その人は自分が先送りしてしまっていることに気づいておられないのです。そして、この「先送り」がどういうことを意味するのかを考えることもないのだろうと私は思います。

(119―4)何を避けるのか
「神経症」的な人は自分が逃避しているとは信じません。むしろ、これだけ苦しんでいるのに「逃避」などと言うのかと立腹されるのです。しかし、個々のケースを見ていくと、やはりそれが逃避なのです。より大きな苦痛から逃避するために、より小さい苦痛の方を選んでしまっている例が多いのです。そして、その人が本当に苦しんでいる方の苦痛、つまり、その人が避けている方のより大きな苦痛には少しも取り組んでいないのです。避けているというのはその部分なのであります。
 より大きい方の苦痛、それはしばしばその人の問題の本質にかかわる部分でありますが、その部分は見ないのです。それを見ることは不安を喚起してしまうからです。だから見ないようにするために、意識的にしろ無意識的にしろ、「神経症」的な人は様々な手段を身に付けているものです。
 ところで、そこにあっても見えない物は存在しないに等しいという思考は子供の思考なのです。現実には、見ないようにしていても、それが消失したわけではないのです。しばしば「神経症」的な人は、自分が見ないようにしていればそれは存在しないのだと信じているように思われることがあるのです。でも、それは確かに存在しているのです。その人の中のどこかに、やはり存在しており、当人もその存在をどこかで感じているものなのです。時に、そこに目を向けようとさせる人や、それを思い出させる人に対して、彼らは怒り、攻撃さえするのですが、これは方向が違うのです。その人はそれを見る代わりに、それを見させようとする人を攻撃したくなっているのです。そして、誰かを攻撃することで、その人はそれを見ないまま(存在しないものと思い込みたい)にしておきたいのです。
 ところで、不都合なものには目をつむるというのは、一つの適応方式であります。人間、多少はそういうこともできた方が望ましいだろうとは思います。あらゆる物事を直面することは、返って生きづらさを増してしまうかもしれません。しかしながら、そのためにどういうことが犠牲にならざるを得ないかは、おそらく「神経症」的な人の場合、その部分を考えることはないでしょう。どうしても直視しなければならない事柄に関しては、しかもそれを避けることはより状況を悪くするというような場合、直視した方が望ましいと私は捉えております。この点に、「神経症」の人が問題を克服する際の困難と苦痛があるのは確かです。

(119―5)活力の喪失
 また、逃避ということに心的なエネルギーを費やしているがために、その人には現実的な適応が制限されてしまいます。活力や生命力が失せているわけです。鍋が噴きこぼれないように見張っていなくてはならない主婦は、台所から離れられないのです。ある一つの事柄に拘泥していると、視野や注意、行動の範囲が狭まり、自由がなくなり、それに拘束されてしまうものです。
 思い詰めている人は元気がないように見えるものです。私も内面のことに強く取り掛かっている時は、やはり外的には活力を失っているように見えているのだろうと自覚しております。
私の経験では、内面的に拘泥していたものが一段落していく度に、自分自身が解放され、自由が増してくるような体験をするのです。そして、現実の事柄に対して、より現実的に取り組むことができるようになるのです。「神経症」的な人であれ、そうでない人であれ、内面の事柄に取り掛かっている時は、しばしば活力が失せたような状態になるものですが、「神経症」的な人は常にこの状態に置かれているようなもので、そこからなかなか抜け出せないでいるのです。
 最終的にこれが行き着く所は「諦め」であります。その人は自分がそこから抜け出せるかもしれないとは思わないし、違った生き方が自分にあると言うことも信じられなくなり、「自分はこんなものだ」というような諦めの境地に至ることがあるのです。「問題」を抱えながら、それに取り組もうとしないという人の一部はこのような人なのではないかと私は捉えております。

(119―6)自分を頼りにできない
また、「神経症」的な人は、そうでない人よりも、より他者依存的なのです。これは自分自身を頼りにするということができないためです。そのため、自分の望むことを他者に一任してやってもらおうとする姿勢になるわけです。自分が反省する代わりに、他者から叱責してもらうように動いてしまうのです。自分を罰する代わりに、他者に罰してもらうのです。自分が正しいことをしているかどうか確信を得るために、他者の賞賛を求めてしまう、そういうものに頼ってしまうのです。
 それは自分の在り方が他者に規定されてしまうということでもあります。自分がどうありたいかよりも、自分がどう見られているかがその人の価値の中心となり、人の視線に自らを委ねてしまうことになるわけです。自分が「OK」だと信じられず、「あの人がOKだと言ってくれているから、私はOKなのだ」ということになるわけです。そのためには、周囲の人が自分のことを「OK」とみなしてくれるかどうかが、最大の関心事になり、それ以外のものは価値がなくなってしまうのです。従って、相手に「OK」と言ってもらえるためにその人は自分の行動を選ぶのであり、それは自分自身を基準にすることができていないということの証なのです。
 もう少し表現を変えるなら、自分を好きになる代わりに、周囲の人から好かれることを望むということであります。自分が好かれている限りにおいて、自分には好かれる価値があるということが確認できるのであり、それが確認できる限りにおいて自分の存在価値が得られるのです。しかし、そうなると他者の好意が存在しないような所では、自分自身の存在が危ういと感じられる、価値がない自分を体験しているということになるのです。

(119―7)他者の拒絶
 一方、これと正反対の極として、すべてを自分一人でやろうとする傾向もあります。今度は他者を一切受け付けないのです。これは他者が自分を変える存在になってしまうからです。これも他者依存の一つの形であると私は捉えております。他者からの影響があまりにも強すぎて、それに依存してしまっていることの表れと考えられるのです。
 例えば、現実にこういう方とお会いしたことがあるのですが、何でも自分一人でやろうとし過ぎる人がいます。彼はいかにも自立した人のように振る舞っているのですが、その一方で、人からの影響を非常に恐れているようでもありました。もっとも顕著なのは、彼は何でも一人でこなそうとしていながら、本心では他者の助けを非常に必要としていたということでした。その部分(つまり他者を実はすごく必要としているという感情)は、彼には「禁止」されているものであったのです。
 他者は傷つける存在か裏切る存在か、とにかく信用ができないのでしょう。しかし、ただ不信に陥っているというだけならまだしも、信用したいのに信用できないということになっているから、彼にとってはとてもたいへんなことだっただろうと思います。

(119―8)一つの見方から離れられない
 そして、視野が狭く、一面的になるのです。これはなぜかと言うと、物事を限られた様式でしか見ることができないためです。また、一つの見方を、他の様々な場面で同じように用いてしまうのです。従って、その思考や行動には融通性がなく、柔軟性に欠けていくのです。
 例えば、親から嫌われていると信じている人がいるとします。本当に親が嫌っていたかどうかはここでは問いません。しかし、その人が、自分は親から嫌われていたから、先生も私を嫌っているに違いないと信じたり、友人や先輩、同僚たちに対しても、自分のことを嫌っているという証拠を見つけたりするのです。自分は親に嫌われているという見方を、先生や友人たちに対しても同じように用いていることになるのです。親と先生は別人のはずです。友人もまたその人なりの性格や人柄があるわけです。ここでは一人一人の違いは無視されているのです。一つの図式、この例では親との間で経験された図式を、すべての人に対して用いているのです。そしてその図式に従った行動をその人は繰り返すことになるのです。つまり、自分のことを嫌っていた親に対して自分が採っていた態度を、親以外の人に対しても採用してしまうということです。一部の感情転移はそういうものなのです。
 融通を失うが故に、一つの枠組みから抜け出ることができないわけです。どのような場面に対しても、特定の行動パターンで対応してしまうのです。これはその人をして不適応にしてしまうものです。
 
(119―9)本項終わりに
 人が「神経症的」になるとはどういうことであるかを、その生の側面から考えてきました。分量が多くなるので、ここで一区切りつけたいと思います。その特徴的な生き方として、変化を拒むこと、逃避や回避をしてしまうこと、そのために活力が喪失すること、それによって自分を頼りにできず、さまざまな形で他者依存的になるということを述べてきました。根底にあるものは葛藤であり、その葛藤がもたらす不安感にあるのです。こうした傾向のために、その人は硬直し、融通や柔軟性を失い、一つの見方や立場から離れることができなくなるのです。このことは、その人の人生がとても窮屈なものとして体験されるということを表すのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ124> 「神経症」的な生き方(2)~完全主義

(124―1)完全主義
 前項において、人が「神経症」的になっていくほど、その人の思考や行動、感情に融通性や柔軟性が欠けていくということを述べました。
ある人に融通性や柔軟性が欠けていくということは、その人は完全主義に陥らざるを得ないということにつながるのです。融通性や柔軟性を失っていった一つの帰結が完全主義と呼ばれる現象であるということです。
そして、完全主義は「神経症」的な人においては、典型的に見られる現象なのであります。
 本項では、この完全主義ということを中心に述べることにします。
 私の個人的な見解では、完全主義の傾向というものは誰でも多かれ少なかれ有しているものです。特に日本人はその傾向が強い国民ではないかという印象を受けることが多いのです。
 あまりそれに賛成できないと思われる方もおられるでしょう。我々はそんなに完全主義的かと、反論されたくなりかもしれません。それは完全主義というものが微妙な形で現れることがあるために、しばしば完全主義と見做されることなくそれをしているといった行為があるためです。
 従って、「健常者」にも完全主義の傾向はあると私は捉えているのです。ただ、「神経症的」な人の完全主義と違う点は、不完全さに対する態度にあると私は捉えています。
 より「健常」な人は、完全主義の傾向を有していながらも、不完全さを許容できるものです。「神経症」的な人は、この不完全さを許容する度合いがかなり低いという印象を私は受けるのです。
 もう少し言い換えれば、「健常」な人は、完全主義でありながら、不完全さを許容できるという点で、完全主義ではないのです。でも、「神経症」的な人は不完全さを見てしまう時にも、完全主義的に見てしまうのです。

(124―2)完全主義は諸悪の根源
 論理療法の創始者であるアルバート・エリスは「完全主義は諸悪の根源である」と述べておりますが、本当にその通りであると私も思います。
なぜそうなのか、私なりの見解を述べます。極端な完全主義者というような人を想像してみれば、このことは容易に分かるものです。
 完全主義の人というのは、端的に言えば、何一つとして「成功」しない人のことであります。ほんの些細な行為でさえ、彼の完全主義の基準に照らせば、必ず「失敗」を含んでいるのです。従って、彼は何一つとして満足な結果を体験することができないという人なのです。常に「失敗」することが運命づけられているような人なのです。従って、完全主義の人が自分のすることに対して、満足するということはあり得ないということになり、常に自分自身に不満を残してしまうのです。
 何一つとして、彼の基準に見合った成果が得られないのでありますから、彼は常に不全感に苛まれることになります。何をしても不十分なのです。また、それは許容できる範囲がまったくないということでもありますので、恐らく、周囲の出来事やそういう自分自身に対しても我慢ができないことが多くなることでしょう。
 完全主義が諸悪の根源であるというのは、そのような傾向のためです。極端な完全主義者をここでは想定していますが、彼は何一つとして成功を体験することはなく、何一つとして満足できることがなく、自分自身や周囲の人に対しても自分の完全主義を適用してしまうので、自他ともに窮屈な世界で生きざるを得なくなるからです。

(124―3)中間を飛ばす
 人が完全主義に陥ると、しばしば物事の中間段階を飛ばしてしまうのであります。私は仕事柄、そういう人に会うことが多いのです。その人自身はそれを完全主義であるとは気づいておられないのです。だから、まずこの点を取り上げたいと思うのです。
変化変容、あるいは物事に上達するとか何か技術を習得するというようなことでも、そこには順序があり、時にはスランプもあり、時間がかかるものです。
完全主義に陥る人ほど、そういう中間にある段階を容認することが難しいようです。
だから完全主義な人は、途上の段階にいることが耐えられないのです。時には、一気にゴールに辿り着けるというように思いこんだり、また、即座にゴールに辿り着けないからダメだという評価をしてしまうのです。
また、自分や他者、世界がすぐに変わらないと言って不満を漏らすのです。彼らの不満の内容がどのようなものであれ、私はこれは完全主義であると捉えているのです。
 中間を飛ばすということは、全か無かという思考に通じるものです。素人か玄人か、初心者か熟練者かのどちらかしかないということになっているからです。その途上にある段階というものは、この思考では排斥されてしまっているのです。
 一回カウンセリングを受けて、あるいは一日治療をやってみて、それで何も変わらなかったから止めたとかいう人とお会いすることも多いのですが。そういう人たちを見ていて思うのは、やはり完全主義的な生き方をしているということです。カウンセラーや医師が何をしたかということよりも、その人の完全主義的傾向が治療の妨げになっていると私はよく実感するのです。段階を踏むということが、彼らには受け入れがたいのです。
 こんな例があります。それは不登校の子供を抱える母親でしたが、私はある提案をその人にしたのです。母親は、じゃあ、それをやってみますと言って、その日は帰られました。翌週、訪れた時、「先生、あれはやっぱりダメでした」とおっしゃるのです。私は詳しく話してくれるよう促しました。この母親の話では、前回のカウンセリングから帰宅して、私が提案したことを一回試みたのです。でも、何も変わらなかったと言って、それで止めてしまわれたのです。
 私の提案した事柄が変化をもたらすものであったかどうかはさておくとしても、この母親に完全主義の傾向を見出すことができるのです。一回試みて、それで一飛びに結果につながらなければ、もうそれには意味がないと感じられるようです。完全主義に陥ると、そのような思考法になっていくものだと思います。

(124―4)変化を受け入れられない
 完全主義者は、その完全主義のために、いかなる変化をも受け入れ難くなることがあります。私の考えでは、変化していく事柄というのは、完全主義の人にとっては最もガマンがならないことなのではないかということです。
 ある人は自分が買った物は何でも新品の状態で維持したいと考えていました。道具は使用していると必ず劣化してくるものですが、彼はそのような変化を一切認めたくないのでした。従って、彼は品物が使用していくうちに古びていくことも劣化していくことも(そういうことが生じて当然なのですが)、それが苦痛になり、耐えることができなくなるのです。
もし、彼が個人的に物を大切にしたいと考えてそうしている限りでは、まだ、その苦しみは当人の中だけで納まっていたでしょう。しかし、彼はそれを周囲の人に対しても強いるのです。例えばカーペットが痛むからカーペットの上を歩くなと、彼は家族に強要したりするのです。こうして、彼の完全主義は周囲の人を巻き込んでしまっていたのでした。
元々は彼個人の内面的な問題であったものが、私がお会いした時には、こうして家族全体の問題になってしまっていたのでした。
 この男性は完全主義に陥っていました。彼の家族が見かねて、カウンセリングを勧めたのです。家族からもその完全主義を何とかしてくれと、彼はこれまでさんざん頼まれてきたのでした。彼の完全主義には家族も手を焼いてきたようでした。
 完全主義というものは、この彼のように、不可能なことを敢えてしようとし続けることであり、不毛な努力を重ねていくことになるものです。
 例えば車を例にしましょう。彼は車を運転します。使用すればそれだけ消耗されてしまうのです。でも、彼は未使用の状態でそれを維持したいのです。未使用の状態でずっと使用し続けるということが、いかに不可能なことであるかは理解していただけるかと思います。それは両立し得ないことなのです。
 彼は魅力的な男性でしたが、ずっと独身を通していました。何度か彼に結婚を申し込んだ女性もおられたようです。当然、彼はその申し出を断り続けたのです。その女性が処女でないということが彼には耐えられないことだったのです。一人一人のその女性がどのような人であるかということは考慮されず、ただ処女であるか否かだけで、彼は女性たちを振り分けてきたのです。これもまた完全主義なのです。(注1)

(124―5)完全主義は自己分裂を引き起こす
 また、完全主義に陥るということは、その人の中で容認できる部分と容認できない部分とを分割してしまう傾向を生み出すものです。容認できない事柄はすべて切り離さなくてはならなくなります。しかし、自分の中で切り離された部分は、その人にとっては「あってはならないもの」となり、「秘密」となり、「タブー」となり、「コンプレックス」になっていくわけです。
そして、それらは他者に対して隠されているというだけではなくて、その人自身に対しても隠されていることが多いのです。
当人自身にも見えなかったりするのですが、それらが存在しているということは、別の形でその人に現れるので、私たちはそういう隠された物の存在を知ることができるのです。
それらは、その人に罪悪感や恐怖感、劣等感として体験され、そういう形でその人を責めさいなむことになるのです。
 こういう分割を私たちは多少なりともしているものです。しかし、完全主義的な人ほど、これを劇的な形で、大仰にしてしまうものなのです。
 例えば、部屋を完璧に掃除しなければいられないというような人を考えてみましょう。彼は隅々まで念入りに掃除します。一日の大半はその作業で費やされています。部屋の中はピカピカです。
しかし、彼が窓のレールに微かの埃を発見してしまったとしたらどうなるでしょう。この埃は彼の中にある種の「よくないもの」として君臨することになります。彼はこの埃を発見するべきではなかったのです。この埃のために、彼は自分自身がとても不完全に見えてしまうのです。これを発見してしまった自分を許すこともできないのです。
こうした感情は彼には強い恐怖感や不安感として襲いかかってくるのです。誰かが部屋に来て、「部屋がきれいだ」と言ってくれたとしても、彼の心は落ち着かないでしょう。そればかりか、彼は自分の不完全さを隠さなければならないと感じるでしょう。この時、窓のレールに残った埃は、彼の中で触れてはならない「タブー」のような存在になってしまい、その程度のことでさえ、彼は多大に苦しまなければならなくなるのです。
 友人が訪れて、部屋のきれいさを評価しても、彼は窓枠の埃に支配されてしまって、せっかく来てくれた友人を追い返したり、外に連れ出したりするかもしれません。彼にとって、容認できない部分は、それが些細なことのように他の人には見えることであれ、彼の全人格を占めてしまうのです。彼の完全主義傾向がそれにさらに拍車をかけているのです。
 こうして、彼は、彼を脅かす些細な事柄であっても、大きく脅えなければならない現象として体験されてしまうのです。彼が人から言われて傷つく言葉というのがありまして、それは「それってそんなに大事なことなの?」という一言でした。周囲の人には些細なことにしか見えないのですが、彼からすると、その些細なことが彼に大打撃を及ぼすのでした。だからそれを否定されるような言葉を周囲の人から聞いてしまうことに、彼は耐えられないのでした。

(124―6)失敗は許されない
 ある人が完全主義であるかどうかということは、あるいはどれくらい完全主義であるかということは、その人の使う言葉に注目すればよく分かるものです。大抵の場合、完全主義傾向が強いほど、「~しなくてはいけない」とか「~すべきだ」とかいった表現が多く見られるものです。「絶対~だ」とか「~はだめだ」とかいった表現も同様です。そういう表現は自分自身や他者に対して用いる傾向が強くなるのです。
 クライアントがよく表現されることの一つに「失敗は許されない」というものがあります。人間の活動の中には「失敗は許されない」というものがまったくないわけではありません。でも、そういうのはかなり特殊な活動ではないかと私は思います。私たちの活動の大部分は、「失敗はしない方がいい」とか「失敗しないにこしたことはない」といった程度のものではないでしょうか。
 そしてその人が何か小さな失敗をするとします。大した失敗ではないことです。せいぜい皿を割ったとか、待ち合わせに少し遅れたとかその程度のものだとします。そういう失敗をしたからといって、何もその人の命まで取ろうなんて人はいないだろうと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。
 でも、完全主義傾向が強い人にとってみれば、その程度の失敗でさえ、致命的に体験されていることも多いものです。そしてそういう失敗をしてしまった自分が許せないだけでなく、それだけで人の評価やこれまでその人が築いてきたものが一瞬にして崩壊してしまうように体験されていることもあるのです。
 ここまで述べてきたことも含めて、完全主義的な人が幸福に生きることがいかに難しいかということが見えてきたら私としても嬉しい限りです。

(124―7)根底にある不安
 人が完全主義に陥るのは、その人の抱えている不安によるものです。大部分の完全主義は自分の不安に対処するために発展させてきた傾向であると言えるのです。
 本項の初めに完全主義は融通性や柔軟性の喪失の一つの帰結であると述べました。その根底にはやはり不安があるのです。
 融通性や柔軟性が欠ける人にとって、もっとも困難な場面は自由にしていいという場面ではないかと思います。自由度が高いほど、その人の抱える不安が高まるのです。それに対して、その人は一つの決まりきったやり方で対処しなければいられなくなるのです。
 何事も決まりきった一つの枠に収めることは、それが変容したりすることに対する恐怖感を鎮めてくれるものです。「あれもあり、これもあり、そういうのもあり」では不安で、受け入れられないとすれば、「こうでなければならない」という枠に従わせる方が安全だと感じられるのです。
 完全主義は不安に対処する一つの方法だと言うことができるのですが、それによってその人はほんのわずかの満足さえ得られないのです。極端な完全主義においては、満足することさえないかもしれません。そういうやり方で不安に対処できていたとしても、その為に犠牲になる事柄も多大なものなのです。
 自分の完全主義傾向に気づいて、この完全主義を止めようと思われる人もあるのですが、皮肉なことに、それをまた完全主義的にやられるのです。完全主義的に完全主義から抜け出ようとされるのです。
 従って、完全主義から解放されたいと願うのであれば、完全主義を止めることではなく、その完全主義を生み出している不安に対処しなければならないということが言えるのです。
しかし、完全主義の人は、この不安に対しても完全主義的に覆いをかけているものなのです。こうして、しばしば、その人は自分の完全主義的傾向に手を付けずに生きているのです。

(124―8)完全主義の悲劇
 物事も他人も、また自分自身でさえ、人は完全にコントロールすることはできないものです。いかなるものも完全には動かせないし、思い通りにいかないものです。完全ではない対象に対し、完全主義的な人は完全を求め、それを達成しようとします。もともと不完全にしかできない事柄を完全にしようとするということは、必ず失敗するということが決定づけられているということです。
 完全主義的な人は、完全でない自分を発見した時には、自分を完全主義的に攻撃し、自罰したりします。それは自分が許せないという感情であります。
 その人にとっては許せない事柄で人生が満ち溢れていることでしょう。当然、自他に対して非常に厳しい考え方を発展させることでしょう。完全主義的に物事を追及していって、やがてはその人は疲弊し尽してしまうでしょう。
 極端な完全主義の人は、こうして自ら破綻していくのです。自分の一生は挫折と失敗の連続だったと、彼はこれまでの人生を振り返って述べることになるでしょう。これは悲劇以外の何物でもないと、私には思われるのですが、これをお読みのあなたはどのようにお考えになられるでしょうか。

(注1)
 何でも新品の状態で使用したいというこの男性の例ですが、私はここでは単純に完全主義の傾向として述べました。実際には、この問題は同一性と同一性が成立する基盤に関する問題を孕んでいるものであり、もっと複雑な内容を持っているということをお断りしておきます。
 例えば、私が今日買った車があるとします。毎日これに乗るとします。一年後にはかなり傷んでいる部分も生じているでしょう。しかし、私はこれが一年前に買った車と「同じ」車であるということが分かっており、私の中で一年前の新車と今の使い古した車とが同一であるという関係が成立しているのが分かります。これには、この関係が成立しているということと、この関係が成立している場があるという二つが前提条件として考えられるのです。私の受けた印象では、この男性はこの二つの条件を生み出す部分に困難があるようでした。

(文責:寺戸順司)






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