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2021年1月28日 木曜日

1月28日:週休3日、他、思うこと

1月28日(木):週休3日、他、思うこと

 今日は腰痛並びに足の痛みはましになっている。昨夜、なんとなく回復の前兆が見えていて、それとなく期待はしていたのだけれど、期待通りの展開になってくれたのが嬉しい。体調もそれなりに良い方だ。
 こういうコンディションのいい時に限って仕事が飛んでしまうのはなんとも皮肉なことだ。今日予定されていたクライアントは風邪をひかれたらしい。コロナ禍なので無理しないようにお願いしたいところであり、無事に回復されることを願う次第である。もっとも、その方がコロナ感染したかどうかは不明である。普通の風邪で終わってくれたらと願っている。

 このコロナ禍において、他にもっと優先度の高い議題があるだろうと僕は思うのだけれど、週休3日の議案が出ているらしい。僕は反対だ。在宅勤務にも反対だ。
 一週間に3日休んで4日働くということであるが、その4日がどのようになるかが疑問である。一日減った分、それだけ負担が多くなるのであれば問題だ。個人的には、一日8時間労働を5日やるよりも、一日6時間労働を6日やる方が精神的には好ましいと考えている。
 それはさておき、週休3日になって、給料が2割をほど減少するということらしいので、結局、労働者にとって良いのか悪いのかはっきりしなくなる。一日休みを増やしたから一日分の給料が減るというだけのことであるようだ。これはつまり企業も仕事が無いのだということを示唆しているに過ぎなくなる。

 それよりもコロナをどうにかしないといけない。ダラダラと蔓延させていると新種が次々に現れてくるので、それを防ぐためにも一度どこかでしっかり抑え込まないといけない。ロックダウンしてもいいくらいだ。
 しかし、それをしないのだ。表向きの理由としては私権の制限になるからということだ。私権の制限というなら喫煙者に対しては平気でそれをしているではないかと言いたくもなる。どうしてコロナに関してのみそういうことを言い出すのか不明である。裏の理由は補償を出したくないというのがあるのだろう。
 僕の周囲でもコロナの影響が色濃くなっている。以前よりもそれが見えるようになっている。けっこう危急を要する事態になっている部分もある。諸外国も厳しい状況があるのは認めるのだけれど、日本はけっこう最悪だと僕は思っている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2021年1月26日 火曜日

1月26日:腰痛で歩き回る

1月26日(火):腰痛で歩き回る

 昨夜からその兆しがあった。今日はきっと足が傷みだすぞと覚悟していた。しかし、傷みだしたのは、足よりも、腰だった。今朝からひどい腰痛に悩まされるようになった。家の中では杖をつくほどだ。
 特に立ち上がりが厳しい。足腰に力を入れる瞬間にズキンと痛みが走る。立ち上がってしまうと、後は腰をできるだけ動かさないようにしてなら歩行も可能だ。その代わり、非常にゆっくりとしか歩けないし、短い歩幅でチマチマとしか歩けない。階段の昇降はキツイ。特に上る時が痛い。歩けるのは平地のみだ。
 鎮痛剤を服用すると、それなりに効く。それが効用を発揮している間に鎮痛剤の補充に出かける。近所の薬局に行くまでがたいへんだ。腰を庇いながら上述のように歩く。お年寄りにも追い抜かれる始末だ。
 行程を記しておくと、まずコンビニに行って買い物。そこで喫煙。それから薬局に行って鎮痛剤を購入。それから駅の方に向かう。実はこの時点では高槻に行こうかどうしようかと迷っていた。駅に着く。駅前のタバコ屋のところに灰皿が置いてあるので、そこで一服しながら思考する。高槻に行くのはいいけれど、帰りが億劫になるだろうと思い、断念。ただ、もう一つコンビニに用事があるのを思い出し、再び歩き始める。国道の方まで出て、コンビニで支払いを済ませる。そこから国道を進む。パチンコ屋がある。そこで再度一服だ。この後、もう一件用事を済ませようかどうしようかで再び思考する。用事と言っても百均に行って消耗品の類を買っておくというものなんだけれど。このパチンコ屋は分岐点に当たる。このまま西へ進めば百均へ、ここで北に折れれば自宅へ、どちらを選ぶかでルートが変わるわけだ。結局、百均は後日に回すことにした。そのまま帰宅する。帰宅前にもう一度コンビニに寄って新聞を買う。父が読むやつだ。それで自宅へ。
 痛みがなければなんてことのないコースだ。2キロくらいの距離だろうか。それでもずいぶん歩いたような気がしているし、とにかく疲労感がハンパじゃない。帰る頃には妙にクタクタになっていた。
 体を悪くすると見えてくるものもある。普段だったら気づくこともないようなことに気づいたりもする。普段、何気なく歩いている道でも、決して平坦ではなく。けっこう起伏に富み、歩きにくかったりする。
 また、ゆっくりしか歩けないから、普段だったら気にも留めないような風景もじっくり眺める余裕が生まれる。毎日のように通り、見慣れた風景であっても、新しい発見ってあるものだと改めて思う。こんな会社があるんだとか、こんなところに事務所構えているんだとか、あるいはこの家には〇〇さんって人が住んでいて、どうも二世帯住宅のようだとか、そんなことまで見るゆとりが生まれる。
 こんな話をしていると、まるで腰痛を楽しんでいるかのように受けとられそうだ。確かに、どうせ痛みに対してはどうしようもできないんだから、こういう時に普段経験できないことを経験できたらいいだろうなとは思っている。正直に言えば、家で安静にしているのが一番正しいのだけど。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2021年1月25日 月曜日

1月25日:コロナ禍を生きる~無選手オリンピック

1月25日(月):コロナ禍を生きる~無選手オリンピック

 この状況でいまだにオリンピックにしがみついている政府には嫌気がさしてくる。確かに、中止や延期ということは開催国だけでは決められないそうであり、IOCと協議の上決定しなければならないことであり、それまでは開催を前提としなければならないという事情も分からないことはない。しかし、今はそれどころか。
 オリンピックに照準を合わせるのでワクチン接種の問題も起きているのではないだろうか。なんでもかんでもがオリンピックに間に合わせるようにということなるから、無理なことをしなければならなくなってしまうのではないだろうか。とても国民が一丸となってというムードでもないし、国民が一丸になっても無理なものは無理という気がしてしまうのは僕だけだろうか。
 この状況でオリンピックやるとなったらどうなるだろう。無観客は避けられないだろうな。外国の人たちが国から出たいとは思わないかもしれないし、日本の状況を見れば日本に行きたいとは思わないかもしれない。選手だって怖いだろう。いっそのこと無選手で開催するか。
 例えば、100メートル走。無人のスタート地点。スタートの号令が鳴る。カメラは無人のコースを追う。10秒くらいでゴールテープが自動で切れる。無観客、無選手で、とりあえず開催だけはしましたと形にはなる。
 その他、各種競技も無選手開催をしたらいい。無人の競技の放映権を売ればいい。誰も観たいとは思わんだろうけれど、それでも開催はしましたと歴史に残る。
 できれば、日本はオリンピックを断念してほしい。どの競技にも世界大会があるものであり、オリンピックを欠いても、アスリートの活躍の場がなくなるわけではない。
 そもそも、今回の東京オリンピックは小規模というかこじんまりしたものにしようという話だった。それで当初は7000億円ほどの予算でやろうということだった。蓋を開ければこれに3兆円も注ぎ込んでいるのだ。延期ということでさらに費用がかかっているのが現状だ。延期すればするほどその費用もかさむことになる。そこまでして開催しても、出場する選手たちにどんな批判が浴びせかけられるか分かったものじゃない。選手は悪くないとは言え、彼らのためにこれだけの費用がかかったというふうに解釈してしまう人も現れるかもしれないので、僕の個人的な考えでは、選手を誹謗中傷から守るためにもオリンピックは中止にした方がよろしいと思うわけだ。
 当然、それだけの費用はコロナ対策に回した方がいい。選手村も隔離施設としてどんどん活用すればいいのだ。ワクチンの接種会場が必要なら競技会場とかスタジアムとかを利用すればいいのだ。人員等の問題を度外視すれば、大規模な集団接種もできるだろう。
 オリンピックのための費用や施設を、オリンピックのためではなく、コロナのために活用する。オリンピックを犠牲にしてまでコロナと戦う。それこそ人類がコロナに打ち勝った証ではないだろうか。
 ともかく、コロナは災難であるけれど、オリンピックはさらに輪をかけた災難だ。この期に及んでもオリンピックをやると政府は言っているわけだけれど、それが人命軽視の思想であることを多少なりとも理解してもらえるだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2021年1月23日 土曜日

1月23日:今日を終えて

1月23日(土):今日を終えて

 今日は少しばかりバタバタしていた。予定の仕事をこなしながら、継続中の室内整頓作業も合間を縫ってこなした。前者はほどほどの出来栄えで、後者はある程度のめどがついてきたといったところ。今日の勉強と読書だけはまだ予定の半分も終えていないので、帰ったらやる予定だ。その前にブログを書いておこうと思い、こうして書いている。
 サイトの方の原稿はまったく書けていない。せめてブログだけでも書く。できれば毎日書きたいと思っている。誰が読むかなんてことは気にしていない。ただ、こうして書いているだけだ。僕の記録である。僕のこの記録は、僕が今日生きたということを証してくれる。

 さて、僕はACのような理論には反対である。もちろん、それ以前のアリス・ミラーであるとか母原病のような考えも同様である。親も人間である限り完璧ではないし、理想的な子育てなんてそうそうできるもんではない。親も間違えるし、理想通りにいかないことも多々あることだろう。肝心な点は、親の何が間違っていて、何が正しかったかをきちんと見極めることだ。AC者は事態を単純化しすぎるのである。善悪二元論に過度に還元しすぎるのである。
 こういうことを言う前に何か実例を挙げた方がよろしいのだろうけれど、今日はそこまで書き込む時間もないので、別の機会に譲ることにしよう。
 一人の人間が心を病む時、そこには種々様々な要因が絡んでくる。親だけで決定されるものではないのだ。僕の個人的な考えでは、現代社会は人が育つには不向きであると思っている。親がどれだけ完全に子育てをやったとしても、社会がその子を蝕むことも十分あり得ることなのだ。
 この社会という言葉は広い意味を含んでいると思っていただいて差し支えない。要するに家庭外のものはみな社会という言葉に含めているのだ。従って、インターネットやSNS
なんかもここでは社会に含まれる。心理学者は親子関係幻想から解放される方がよろしかろうと僕は思うのだ。個人のあらゆる事柄を親に帰属させるような思想は捨てた方がよかろうと思うのだ。

 さて、親子とか家族の話には踏み込まないでおこう。やがて家族という概念すらなくなるかもしれないと僕は思っている。すでにそういう兆しがあるのを僕は感じているのだけれど、そうなるともはや親子関係論なんてものは過去の遺物になっているかもしれない。いつかそういう話も展開してみたいと思う。
 僕の方はと言うと、12月以降仕事が激減している。コロナ禍でも一定の仕事は維持していたのだけれど、12月でガタンと減り、1月でさらに減った。先日のクライアントなんかは父親が急死したために面接が流れたのだ。
 そうだ、そういうこともあり得るのだ。クライアントは大丈夫でも、クライアントの親とか祖父母とかが亡くなることもあるのだ。その方の父親がコロナ感染していたかどうかは不明だ。コロナ感染の可能性もあり得るが、当然、他の病気によるものである可能性もある。詳しい話は聞いていないので不明だ。いずれにしても、コロナ感染拡大ということになれば、こういうケースも増えてくるかもしれない。そうなると面接に来れる人も来れなくなってしまう。ますます仕事が減ってしまう。

 1月に入って仕事は減ったけれど、時間が空いた分、これまで出来なかったことに着手している。身辺整理もその一つだ。
 本もある程度処分する方向で考えている。処分する前にもう一度だけ目を通しておこうと思ってやっている。一応、お金を出して買った本だ。今はそれに興味が薄れたとしても、書架を飾り、僕の人生に付き添ってくれた本だ。最後の別れくらいしてもいいだろう。そして、本当に必要な本だけを手元に残しておこう。
 だから最近は帰宅して、夕食くらいはとるけれど、その後は寝るまで本ばかり読んで過ごしている。飲食店の時短営業はある意味ではありがたいことだった。
 さて、そろそろ帰りますか。今日もあと4時間ほど本を読む時間が確保できそうだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2021年1月22日 金曜日

1月22日:コロナ禍を生きる~イベントと感染対策

1月22日(金):コロナ禍を生きる~イベントと感染対策

 先日、1月16日に行われた大学共通テストでなんとも迷惑な受験生がいたそうだ。彼は鼻を出してマスクを着用していた。それを見た監督官がマスクをちゃんと鼻までかけるようにと注意すると、男はこれが自分の正しいマスク着用だと言って指示に従わなかった。その後も再三監督官から注意を受けるものの、彼はマスクを正そうとはしなかった。6回目の注意の時、次の注意で従わなかったら不正とみなすと監督官から言われるが、7回目の注意にも彼は従わなかった。彼は失格を言い渡され、次の時間のテストはその他の受験生を全員別室に移動して実施したということらしい。その後、男はトイレに4時間近く籠城し警察沙汰となる。

 現在のコロナ禍では、入試であれ、各種のイベント、催事、その他経営に至るまで、感染対策とセットになっているものである。この時、イベントと感染対策との関係には次の二種があると思う。
 ①イベントを開催しますので、これこれの対策を守ってください、というものと、②これこれの対策を守ってくれるならイベントを開催します、というものである。
 両者は似ているけれど、①はイベント開催が前提となっており、②は感染対策が前提になっているという違いがある。従って、違反者がいた場合、①はそれでもイベント開催するだろうけれど、②はイベントの中止となる可能性が高くなる。言い換えれば、そのイベントが①か②のいずれに基づいているかで違反者に対する対応が変わってくるということだ。この点を見逃してはいけないと僕は思う。だから両者は同じように論じることができないのである。
 イベントが小規模であればあるほど①に近いだろうし、そのイベントが地方自治体や国が関与するほど②に近くなると僕は思う。また、クラスター発生の危険性の度合いによっても変わるだろうし、アラートレベルによっても変わるだろうと思う。感染の危険性が高い時期ほど②のニュアンスが濃厚になるものと僕は思っている。
 今回、飲食店の時短営業が実施されているけれど、あれも②の思考に近い。時短営業を守るならあなたたちのお店を支持しましょうというわけだから、前提が時短営業に置かれていることになると、僕は考えている。

 では、大学共通テストは①か②のどちらであるだろうか。
 まず、これは国が関与しているイベントである。従って、開催までにいくつも審議が重ねられてきたことだろうと思う。
 現役の大学生でもなかなか大学で授業を受けられない状況がある。あくまでも僕の想像だけれど、そういう状況なら受験生には一年浪人してもらって、今年は共通テストは無しにしましょうなんて案も出ていたかもしれない。
 それでも実施するとなったのは、これこれの感染対策を徹底しようという条件がついたのだと思う。そこには専門家の意見なんかも聴いただろうし、試験会場の視察なんかも行い、実地検分した上で対策方針が決まったかもしれない。
 従って、そのように考えるなら、この共通テストと感染対策の関係は②に近いものになる。そうなると違反者が現れた場合、試験そのものが無効になってしまう可能性が生まれるわけだ。
 実際、監督官のあの執拗な注意を見ると上記の可能性が高そうに思う。また、違反受験者を残して他の受験者を全員別室に移動させてテストを続行したというのも、一人の違反者のために全員のテストが無効になることを防ごうとしたように思えてくる。
 その違反者を個人攻撃しているのではなく、このテストを有効なものにしようと、成功させようという気持ちの方が主催者側においては強かったのではないかと僕は思う。他の全員を救うために一人の違反者を切り捨てざるを得なかったのではないかと思う。
 今、僕は切り捨てると言ったけれど、本当は監督官もギリギリまで彼を救おうとしたのである。一回目の注意の時点で退室してもらってもよかったのであるが、監督官たちはできるだけ彼の行動を正してもらおうと努めてきたのだ。彼がそれに従わなかったのである。監督官や主催者を批判するのは正しくないと僕は考えている。

 さて、この違反した受験者は49歳の男性だというからビックリだ。49歳といえば僕と変わらんじゃないか。本当なら子供を大学に行かせるくらいの年齢だ。この男性のことは知らないけれど、彼が人生が上手く行っていないと聞いても僕は驚かない。そりゃそうだろうと思うくらいだ。
 マスク着用に関して、彼は自己流の着用の仕方があるなどと言うのだけれど、基本的に、なんの信念も主義主張もないのだ。もし、そういうものが彼にあるなら一回目の注意の時点で自ら退室したことだろうし、その後も籠城するようなことはしないだろう。
 次に、彼はこうして一年をフイにしたわけだ。一日か二日、自分の流儀を曲げてでも試験に合格しようとは思わないわけだ。この一日か二日の苦痛なり不便なりを耐えず、一年の浪人を選んだことになるわけだ。これはどういうことであるか。
 神経症的な人の中には、大きな苦痛を回避するために小さな苦痛を甘受しようという人がいる。それとは逆に、目先の小さな苦痛を拒否して今後のより大きな苦痛を背負い込んでしまうような人たちもある。その人たちがどいう種類の人たちであるかはいちいち言うまでもないことである。この男性はそういう種類の人である可能性が高いように思う。
 最後に意味不明の籠城である。この籠城はどのように考えたらいいだろうか。僕の見解はこうである。彼は堅固な守りを必要としていたと。従って、一つ一つの忠告が彼には大きな打撃となっていただろうと思うのだ。これだけの守りを必要とする人たちとはどういう人たちであるか。
 また、注意をされたらその時だけでもマスクを上にかければいいのである。なんでそこまで意固地になるかということである。彼は何かに反抗しているのか。彼は自分と戦っているのか。僕はそうは思わない。彼は監督官の言いなりになることで自分が喪失してしまいそうな脅威を感じているのだと思う。その脅威と戦っているのだと僕は思う。違反していないと自分がなくなるということであれば、それだけ脆弱な自己を持つ人、それだけ希薄な自己を持つ人であることも考えられそうであるが、このように自己が脆弱ないしは希薄である人とはどういう種類の人間であるか。
 以上を綜合すると彼がどういう人間であるかおぼろげながら分かってきそうである。その輪郭だけでもつかめそうな気がするのであるが、まあ、この男性個人のことにはこれ以上触れないようにしよう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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