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2020年4月30日 木曜日

4月30日:コロナ・ジェノサイド(37)~数字

4月30日(木):コロナ・ジェノサイド(37)~数字

 4月も終わる。外出と営業の自粛を続けているものの、果たしてどれだけの効果が上がっているのだろうか。
 人との接触を8割減らすということを政府は目標に掲げている。接触の8割減というのは分かりにくい数字である。外出すれば人と接触する機会が増えるわけだから、接触8割減は外出8割減というように僕は換算している。
 接触は相手があってのことだから指標としては設定しにくい。つまり、自分は減らしているつもりでも、向こうから接触してくることもあるからだ。接触の機会に偶然に晒される(例えば買い物に行ったら店が混雑していたなど)こともあり、こういうのは完全に回避できない。
 外出8割減なら、これは自分の行動が指針のすべてになるわけだからやりやすい。自分の外出回数並びに外出時間を従来の8割減らせばいいということなのだから自己管理もできる。
 この「8割」という数字が実に曖昧である。当然、これは場所によって違ってくるものだと思う。大都市圏では8割削減が正しくても、地方の小都市では6割減くらいでもいいのではないかと思えてくる。まあ、大都市圏の人が地方に流れたりするので、一律8割減とする方がいいのかもしれない。いずれにしても、何をもって8割削減が実践できていると評価していいのか曖昧である。

 今日は数字に関して思うところを述べようと思う。とかく、多くの数字が出ている。僕は日本が公表している数字はすべて眉唾物であると考えている。
 感染者の死亡率は2%だと聞いたことがある。2%というと決して多くはないように見えるかもしれない。感染者の9割以上が治癒しているということになるからだ。しかし、この数字も絶対的なものではない。ウイルスが変異して毒性が強まることもあり得るし、医療崩壊が起きて本来なら助かる人が助からない状況になってしまうかもしれない。そうなるとこの数字は上昇する可能性を持っていると思う。

 感染は人との接触によるものだとされている。だから接触の機会を減らそう、「3密」を避けようという理屈は分かる。外出自粛も営業自粛も頷ける。
 しかしながら、人々の自粛の努力はどこに現れるだろう。どのように数値化されるのだろう。僕は疑問である。
 しばしば感染者数で測られることがある。しかし、これは検査率との割合で述べなければならない。例えば、一日目の感染者数は100人だった、二日目は200人、三日目は再び100人になったと、こういう数字があるとしよう。これだと二日目にグンと上がった山形の数値を示している。
 もし検査数が毎日一定ではないとすると、検査の数が多ければそれだけ感染者を発見する数も増えるだろう。だから、検査数も含めなければならない。先ほどの三日の数字に対して、検査数が一日目は1000件、二日目は2000件、三日目は500件だったとしよう。そうすると一日目と二日目はともに10%の発見率ということになり、横ばい状態だったことが分かる。三日目の100人は500件のうちの数だから20パーセントになり、三日目で感染発見者数の率が倍増していることが分かる。
 毎日検査数が一律なら、そこで検査にひっかかる人の数、つまり陽性者の数の上昇はそのまま感染者数の増加とみなして差し支えないだろう。しかし、検査数が一定でないなら、検査数における陽性者の率を計算し、その発見率の増減で考えなければならないわけだ。

 さて、僕たちは人との接触を減らし、外出を控え、仕事も自粛している、こういう努力がどの程度実っているのかをどうやって数値化すればいいだろうか。
 これはつまり、僕たちの努力の程度と感染発見率の増減との相関を計算すればいいということになる。この相関係数がr=.6(で良かったのかな)以上であれば、両者には相関関係があるということになる。そうなれば、僕たちの努力は感染拡大の抑制につながっていると評価できるのではないかと思う次第である。
 ちなみに僕は数学が大の苦手だ。学生時代から数学は赤点ギリギリのところで踏ん張ってきたような生徒だった。心理学を勉強し始めてからも数学には泣かされっぱなしだった。こんな僕の言うことだからどこまで当てになるかは不明である。どうやって計算していいかも分からない。どこをどう因子分析にかけたらいいのか、ちっとも分かっていないのである。
 しかし、一度、誰かにそういう計算をしてもらいたいものである。僕たちの努力が感染拡大抑制にどの程度の関連を持っているのか知ってみたいところである。努力と結果との相関係数を示してもらいたい。それを知れば、専門家の意見は正しかったと評価できるのだ。それを知ることができないので、専門家の意見に対して半信半疑になってしまう。

 数字というものは、如何様にもごまかしがきく。一般の人は数値で示されるとより信頼が増すようである。僕はそんなことはない。数字はいくらでもごまかしができるから、却って当てにならないと考えている。
 それはさておき、政府が公表している感染者数も死亡者数もどこまで現実を反映しているかは不明である。最初に実態調査がなされなかったことが混乱を招くのだ。増えたとか減ったとか言っても、基準となる数字、比較の元になる数字を持っていないのだ。せいぜい前日より増えたとか、一週間前よりも減ったとか、その程度しか言えなくなるわけだ。状況は日々異なっているのだから、その増減の数は本当に意味があるのかと訝りたくなるほどである。

 さて、コロナ問題は1月から始まった。2月は、クルーズ船のことなんかもあり、政府も対策しようとする姿勢が感じられていたように思う。3月はオリンピックのことにかまけていて、空白の一か月だった。4月は、アベノマスクだの、給付金のゴタゴタだの、緊急事態宣言の全国発令の伴う混乱など、いろいろあったわりには進展せず、とかく迷走した一か月だったように思う。
 今日で4月も終わり。5月はどんな最悪の一か月になることだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年4月29日 水曜日

4月29日:コロナ・ジェノサイド(36)~a la carte

4月29日(水):コロナ・ジェノサイド(36)~a la carte

(消えた100億)
 アベノマスクの予算は200億円だった。しかし、実際にメーカーに支払われたのは90億円ほどである。100億円ほどが消えたことになる。
 200億円というのは予算だ。200億円の予算を組んで、実際に作ったところ180億円で収まりましたというのなら分かる。差額の20億円は国庫に戻せばいいだけだし、概ね最初の予算通りになったと言える。
 90億円で収まるのなら、最初から予算を100億円で組んでおけばよかったのだ。もっとも、90億円のマスクは不評たらたらであるが、そこは別の話なので置いておこう。90億円でできるところのものを200億円の予算を組むということは、そもそもの試算がおかしいということになる。どういう計算をして200億円になったのだろう。
 当然、消えた100億円は誰かが着服しているという疑いが濃厚になる。これは今後追求されていくのかもしれないが、今はそんなことをしている場合か。

(時間的猶予はない)
 経済が危機である。6月には多くの中小企業がバタバタと倒産するのではないかと言われている。そして、現に倒産したところや廃業したところも現れている。1か月ほどしか時間がないのである。国民一人につき10万円給付も実現化していないし、企業に対する補償や助成金の話も全然追い付いていないのが現状だ。
 医療はすでに崩壊が起きている。経済もいずれは崩壊する。もはや時間的な猶予はないのだ。それなのに政府は何か目論んでいるのだ。90億円の予算を200億円と上乗せしているのは、それなりに何かの目論見があってのことだと僕は睨んでいる。
 当然、人命はこうした目論見の犠牲になる。国民はそういう企みに加担したくないのだが、有無を言わせずに加担させられてしまうのである。国民にはそういう自由は認められていないのだ。もはや国民が政治参与できない政党なのだ。

(感染拡大)
 コロナの方は相川らず感染者数が増加したというニュースを聞く。ある意味では望ましいことなのだ。感染者が増えてるということは検査がそれだけなされているということであるからだ。
 検査をすると医療崩壊が起きると専門家たちは言っていた。しかし、それは過去の情報に基づいているのだ。軽症でも入院しなければならないという法律があったためである。その法律に従えば、検査をして軽症者を発見することは病院のパンクにつながっていただろう。今は状況が違うのだ。いつまでその情報にしがみついているのだろうか。
 検査を徹底した方が医療崩壊を防げるのである。軽症者を自宅や宿泊施設で治療し、病院は重症者だけに限るのである。そして、軽症者を重症化させないということが病院を救うのである。検査を徹底して軽症者の発見に努めなければならないわけである。
 アベのやることすべてアベコベである。

(マスクがドラッグストアに売られない理由)
 ドラッグストア等では相変わらずマスクは品切れ状態である。一方で、それ以外のお店がマスクを販売するようになった。これは転売に当たらないそうである。メーカーから直接仕入れたマスクを販売しているからである。
 では、ドラッグストアでもマスクを仕入れて販売すればいいようなものだ。しかし、販売を渋る事情がある。
 マスクを製造するのに材料が高騰しているそうだ。原価が高くなり、販売するとなるとどうしても以前よりも値上がりしてしまう。
 それならそうと、原材料の高騰により、製造コストがかかるためメーカー希望販売価格がこの値段になり、それに基づいて販売していますと明記しておけばいいのだ。買う側もある程度は事情を理解してくれるだろう。
 しかしながら、ドラッグストアが恐れているのは次のような事態である。以前は一箱2000円(値段は仮である)で売ってたのに、今は5000円で販売している、ボッタクリだとか、不当な値上げだとか、営利を貪っているとか、人の弱みにつけこんだ悪徳商法だとか、そんな声が上がる事態である。要するに風評被害を恐れているわけだ。
 政治家や専門家の次にタチが悪いのがこういう連中である。軽症者の宿泊施設が増えないのもまたこういう連中を意識してのことであるそうだ。誰もが簡単にモノが言える時代だからそんなことも起きるのだが、それだけに言う前に考えるだけの知恵を僕たちは持たないといけない。

(無知)
 手話通訳者がマスクをしていないと文句を言った人があるそうだ。これも無知だ。手話とは、もし正確に言うならば「手口話」なのである。基本的には口の動きで伝えているのである。だから、口の動きと同時に見える位置で手を動かしているわけだ。
 手話通訳者がテレビでは別枠で画面に映ることがある。手だけでやっていることなら、上半身を映さなくていいのである。手だけをアップで映せばいいのである。手と口の動きの両方で伝えるから上半身が映るのだ。
 大阪府は休業要請に応じないパチンコ店の実名公表した。大阪府知事は法律に基づいてそうしたと表明したが、処罰的な行為だと反論する人もあるようだ。
 しかし、その反論はおかしい。法律には多かれ少なかれサンクションの要素が含まれている。むしろ、それを欠く法律というのは意味がないのである。サンクションというのは、言わば「制裁」のことなんだけれど、「制裁」以上の意味合いを含むのでそのままサンクションと言うことも多い。
 いずれにしても、実名公表には処罰の要素があり、あって当然なのだ。サンクションが含まれているのが当然のことなのだ。
 ところが、そのサンクションは機能していない。通常、処罰を受けたお店は痛手を受けるのであるが、そのお店に行くととばっちりを食うかもしれないと利用客の方も控えるのである。あるいは、実名公表されてしまったから、ちょっと顔を出すのを止めておこう、店に迷惑をかけてしまうかもしれない、と店のことを配慮して客側も自制するものである。
 そうしたサンクションの機能は働かず、それどころかサンクションとしての意味がなくなっている。店名公表は店の宣伝になり、パチンコファンはまだあの店は開いていると知り、その店に殺到する。店名公表が逆効果になったわけだ。
 テレビでその模様を見た。パチンコ店に来店した群衆が僕にはゾンビに見える。人肉にゾンビが集まるように、パチンコ店に人が集まるのだ。もはや主体を喪失しているのである。主体的選択がなされていないのだ。意志機能が働いていない人たちであるように僕には見えてしまう。
 開いているから行っただけだ。彼らはこういうことを言う。店名公表された店に行って、どういうことになるか、近辺の人からどういう目で見られることになるか、そういうことを反省しないのである。パチンコ依存の人と何人かお会いしたこともあるけれど、僕の印象ではシュナイダーの「発揚情性型精神病質」に近い人が多かった気がしている。そのタイプのうちの「軽佻性の発揚情性型精神病質」的な人たちなのかなと思ってしまった。

(日本はコロナに負ける)
 政治家や専門家といった上の人たちも、国民である下々の人たちも、こんなことをやっているのだから、日本はコロナに勝てる見込みがなさそうである。もちろん、僕の個人的な見解である。
 コロナが収束しても、その後の経済不況を克服できても、やはり日本はコロナには勝てなかったのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年4月27日 月曜日

4月27日:コロナ・ジェノサイド(35)~コトバ(2)

4月27日(月):コロナ・ジェノサイド(35)~コトバ(2)

(「日本ならできる」)
 ホントに、どのお口がこんなこと言えるんでしょう。今が昭和40年代とかだったら僕もその言葉に賛同しただろう。でも、令和の今ではねえ。日本はずいぶん衰退しているのだ。
 企業とか、各種メーカーとか、大学とか、さまざまなジャンルで世界ランキングなるものがある。かつては日本が上位に入っていたけれど、今ではほとんどないというありさまだ。平成の間に日本は衰退したのだ。
 しかし、まあ、経済とかそういう話は展開しないでおこう。要は「日本なら」という言葉に含まれる「特別意識」が問題なのだ。
 自分たちは特別だという意識は自己愛に基づく。自己愛には健全なものから病的なものまであり、自己愛そのものが問題というわけではない。
 健全な自己愛は、僕の考えでは、他者を排斥しない、差別しないものである。病的な自己愛がそれをできるのである。
 例えば、自己愛型の妄想、誇大妄想なんかのことだけれど、自分はキリストだとか、ナポレオンだとか、そういうことを言うわけだ。つまり、自分は特別に素晴らしい人間だという妄想内容になるわけだ。自分の内面とか心が空虚になり、貧しくなるほど、それを補償するかのように、過大な妄想が生まれることになる。マイナスを補うために過剰にプラスを供給しなければならなくなるわけだ。そして、自分が特別であるから、他者は排斥されることになる。
 健全な自己愛ではそういうことが起きないと僕は考えている。例えば、僕はコンピューターとかインターネットのことに疎い。だから業者とか詳しい人に教えてもらう。大抵、僕より年下の若い人だ。でも、この若い人は僕よりもコンピューター歴が長いので、それに関しては僕より先輩なのだ。だから、師の言葉を仰ぐように、この人たちの説明を僕は拝聴する。それによって、僕の困難が乗り越えられ、自分に良い状態がもたらされるのだ。健全な自己愛とはそういうものだと思う。
 日本はサーズとかマーズとかいうのを経験しなかった。中国や韓国、台湾なんかはそれを経験している。それに関してはその国々は日本よりも先輩であり、先進国なのだ。だから日本はそれらの国々を見習うのが健全な自己愛だと僕は思うわけだ。
 ところが、中国や韓国、台湾でやっていることを日本はやろうとしない。それでいて日本だけは特別優れているなどという根拠希薄な信念にしがみついている。これを誇大妄想と評するのは間違っているだろうか。

(「世界にない手厚い補償」)
 首相によると、国民に補償している国は無いとのこと。多くの識者はそれに反対意見を出している。しかしながら、できるだけ善意に解釈しよう。補償ということと賠償ということが首相の中で混乱しているのではないかと僕には思われる。 
 確かに、ウイルスが国内に持ち込まれたということで国民に賠償した国はないと思う。賠償の意味でならそれは正しいだろう。
 ところで、もしそうであるとしたら、どうして補償の観念に賠償の観念が混入してきたのかという疑問が生まれる。ここに踏み込むと話が明後日の方向に向かってしまうので、取り上げないことにしよう。簡潔に言えば、被害妄想に近いことが起きていると僕は思っている。
 さて、日本は手厚い補償をしていると言う。それも世界的に見て類を見ないほどの手厚さであるということらしい。僕はこれも「賠償」の意味合いを帯びていると考えているが、それは先述までの話と被さるので、賠償という観念は脇へ置いておこう。
 さて、この補償の手厚さということだけど、これも虚偽とは言えない。補償の制度が様々に整っていることは確かである。ただ現実的にそれが機能しているかである。
 相手にプレゼントを贈りたいと欲すれば、相手にプレゼントが手渡って初めてそれが成就するものである。当たり前のことである。プレゼントを手渡すシステムをいくら構築しても、相手に手渡らない限りプレゼントしたとは言えないわけだ。
 補償の制度をさまざまに設定した。しかし、補償が現実的に行き渡っていない限り、補償は成就されていないのである。あまりにも簡単な理屈である。
 企業向けの融資とか助成金とか、子供の休校による親の補償とか、そういう制度はいろいろある。そして、多数の人が一度に役所に詰めかけてきたという事情もある。何の制度だったかな、11万人くらいの応募者があって、60人ほどしか補償が決定していない
そうだ。11万人分の応募を処理するのは時間がかかるのは確かである。しかし、60人くらいしか話がまとまっていないというのは、なんともお粗末である。手続きが煩雑なのもあり、補償を求めながらも諦める人がけっこうあるらしい。
 システムだけ作って、それで良しとされているように僕は感じている。現実にそのシステムが機能しているかどうかはチェックされていないのではないかと思う。そもそも補償がなかなかまとまらず、実現しないシステムなんて、そのシステムそのものの欠陥によるものじゃないかと思うのだが、そういう反省はなされないようである。
 なんていうのか、宿題の準備をして、それで宿題が終わったように感じる子供に見られる心理である。

(コンニャク問答)
 特定の言葉ではないけれど、国会の答弁なんかを聞いていると、なんともコンニャク問答を展開しているようでとても聞いてられない。
 人を悪く言うのは止めておこう。首相のコンニャク答弁は精神的にかなり追い詰められた人の言葉に似ているように僕は感じている。自己保身に懸命になっているといった批判も耳にしたことがあるけれど、保身に懸命になるということは、それだけ自身が崩壊の危険にさらされているということではないだろうか。だから、これからも言うことは一貫しないかもしれないし、コロコロと内容が変わるということも起こり得ると僕は思っている。
 これは僕にも経験がある。このクライアントと面接していると自分が壊れそうだと感じることがある。そういうクライアントが過去に2,3名おられた。そういう時、僕は僕の中に一貫性を保つことが難しくなる。そのクライアントの反応を回避するために、その時々で言うことが変わることもある。彼らの反応に自分が耐えられないと感じてしまうためである。それで自分を守るために言葉を発することになるわけだけど、そういう言葉はその時々の状況に左右されるものである。クライアントのために何かを言っているようでいて、本心ではクライアントの望ましくない反応を引き出さないように言っているのだ。
 そういう時の言葉というのは、客観的に見ると、一貫性が無く、場当たり的に見えるものだと思う。その時々で言い逃れをしているように見えてしまうものだと思う。当たり障りのないことを言って、その場を濁しているだけのように見えてしまうと思う。
 ところが、こちらは必死なのである。自分が壊れないようにするために最大の防御をしているわけである。
 首相の答弁を聞いていると、そういう状態にある僕の言葉を思い出すわけだ。だから首相の中でも同じような危機感が体験されているのかもしれないと、そう思う次第である。だからと言って、首相の考え方には相も変わらず賛同できないのであるが。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年4月26日 日曜日

4月26日:コロナ・ジェノサイド(34)~コトバ(1)

4月26日(日):コロナ・ジェノサイド(34)~コトバ(1)

 コロナに関する報道とか会見を見ていると、不思議な言葉が飛び出すなあと僕は感じている。
 以前も書いたけれど、例えば、オリンピックを完全な形で実施するという表現がある。「完全な」という形容詞が不思議だった。あれは反動形成的な誇張であると僕は見做している。そして、それはオリンピックの開催不可に対する反動形成だけでなく、首相の中で何かが壊れ始めていたことのサインであったかもしれないと、今では思う。
 今の話は少し説明を要するかな。例えば、自分に何か悪いものを体験している人は自分を良くしようと欲する。これはまだいいわけだ。しかし、本当に悪くなっている人ほど、あるいは決定的に悪くなっている人ほど、完全に良くなろうと欲するのだ。何かに「完全」を求めたり目指したりするとき、他の何かが決定的に悪くなってることがあるわけだ。これ以上の悪化や崩壊を食い止めるためにも「完全」を目指さなければならなくなるわけだ。
 そうした言葉とか言い回し、表現にまつわる話をしようと思う。

(「ステイ・アット・ホーム」と言え)
 あまり個人名を出すわけにはいかないんだけれど、「ステイ・ホーム」と国民に訴える人がいる。すぐわかるかと思うけど、それは東京都知事のことだ。テレビで都知事がそれを言う場面に遭遇するたびに、「ステイ・アット・ホームと言え」と毒づいているのは僕だけだろうか。
 ステイ・ホームと言おうと、ステイ・アット・ホームと言おうと、確かにどちらも同じような意味になる。しかし、なんていうのか、「ステイ・ホーム」の方は「(家から)出るな」という禁止のニュアンスを僕は受ける。禁止で尚且つ命令形なので、語調がキツく感じられてくる。
 正直に言えば、いちいち英語で言わんでもいいのだ。「家にいてください」だけでいいのである。そこに屋上屋を重ねるように付け足すからおかしな感じを僕は受け取る。まあ、「ステイ・ホーム」(家から出るな)の方が本音かもしれない。本音をそのままでは出しづらいので英語にしたのかもしれない。しかし、こういう邪推はあまりしないでおこう。

(「私たちの警戒が何となく緩んでしまい」)
 某専門家の先生の言葉である。
 3月の連休ではこれだけの外出者が増え、その後これだけ感染者数が増えた。5月の連休でこれだけの外出者が増えると、その後でこれだけの感染者数が出るだろう。そんなふうに3月の連休の事例と5月の連休の予測とを並列させるだけならあの発表は何の問題もなかったと思う。
 しかし、3月の連休に言及する際に、「私たちの警戒がなんとなく緩んでしまい」という一文を挟んだために、まったく意味の分からない発表となった。僕はそんなふうに感じている。
 さて、この一文を考察するために、この文章を構成している要素に分けてみることにする。「私たち」、「なんとなく」、「気(警戒)が緩んだ」の三要素を取り上げる。個人的には「警戒」も、この発言の前に含まれている「残念ながら」も取り上げたいのだけれど、上述の三要素のみにする。

 さて、文中の「私たち」というのは誰のことを指しているのだろうか。「なんとなく警戒が緩んだ人たち」とは誰のことなのか。
 最初に思い浮かぶのは、連休中に外出した人たちである。それなら、「私たち」とは言わなくてもよさそうなものである。「一部のなんとなく気が緩んだ人たちが都道府県をまたいで外出した」と言えばいいのである。従って、この「私たち」は連休中に遊んだ人を明確には指してはいないのである。
 もう少し広い範囲であるかもしれない。そうすると、「私たち」とは、①国民、②議員や専門家、③両者をひっくるめた全員、といった可能性が浮かんでくる。これは発言者がどういう立場で言っているかによって「私たち」の中身が変わってくる。一国民として発言している場合と専門家の立場で発言している場合とでは、「私たち」の意味内容が異なってくる。
 僕はあれは専門家の立場で発表されたものだから、「私たち」とは「専門家たち」のことなのだと理解している。つまり、専門家が警戒心を緩めたので人の流れを制限できなかったという内容になる。もし、そういう意味であるとすれば、今後努力をするのは専門家であるという結論に至るのだけれど、この発表の結論は国民が努力することになっている。そうすると、僕の中では辻褄が合わなくなってくる。
 あの発表を聞いていると、3月に気が緩んだ主体と5月に努力する主体とは同一でなければ話がおかしくなってくると思う。専門家の気が緩んで、だから5月に専門家が努力するというのであれば、「私たち」でいいだろう。国民の気が緩んで、だから5月に国民に努力を求めるというのであれば、「あなたがた」とか「国民の方々」とか、そういう呼称をするだろうと思う。

 僕は「私たち」というのは専門家とか政治家を指していると解釈しているが、それを裏付けると思われるのが「なんとなく」という挿入句である。「なんとなく」とは何だろう。
 要するに、警戒心が緩んだ背景とか理由が不明瞭なのだ。漠然としているか、あるいは気分的にか感覚的に「気が緩んだ」と決定されているのだと僕は思う。その理由は分からないけど、気が緩んだような気分を感じるとか、気が緩んだような感じがするとか、なんらかの「感じ」というニュアンスを帯びることになると思う。
 もう少し言えば、「なんとなく」というのは言語化できない何かを指している。では、人がなかなか言語化できないものは何かということになる。僕はクライアントたちからも「なんとなく」という言葉を聞くのである。僕の経験に照らすと、それは自分自身に関して言われることが多いのである。
 例えば、自分がなんでそれをしたのかといったことを考えると、「なんとなく」そういう気分だったとか、「なんとなく」それをするのが正しいと感じたとか、そういう表現がなされるのだ。一方、その人が誰か他者について言う場合には、あまり「なんとなく」という表現は使われない。あの人があなたに対してなんでそれをしたと思いますかといったことを尋ねると、「私のことがきらいだからだ」とか「あの人が人格障害だからだ」とか、そういった答えが返ってくる。その正否は別としても、何らかの明確な答えが返ってくるわけである。「なんとなく」という言い回しは、他者に対してよりも、自分自身に対して用いられることが多いと僕は考えている。
 従って、この発表における一文は、「私たち専門家も理由の分からない何かによって警戒心が緩んだために」という意味になってくる。

 さて、最後に「気が緩んだ」を取り上げよう。
 これがもし、「私たちの気が緩んだのでしょうか」とか、「国民の気が緩んだのか」とか、この発表者の個人的な憶測として言われているのであればまだ引っかかるところは少なかったと思う。この先生はそれを気の緩みと捉えているんだな、くらいで終わる話である。
 しかし、「私たちの警戒が何となく緩んでしまい」と、警戒心が緩んだことはあたかも決定事項であるかのように語られているところがおかしいのだ。警戒が緩む、気が緩むとみなしている確かな根拠を提出してもらわないと、どうしてそのように決定されたのかが不明である。これこれこういう理由で警戒心が緩んだということを述べなければならないわけである。
 3月の連休における人々の外出はすべて警戒の緩みのためであると決定されており、あるいは警戒の緩みということで片付けられているのだ。その時の外出の増加が警戒の緩みによるものであることを示す何らかのデータでもあるのだろうか。いずれにしても、警戒の緩みと結論付けられている以上、そこからさらなる追求は望めそうにない。
 さて、「警戒が緩んでしまい」と、あたかも確定した事実のように断定されているわけであるが、この断定が問題であるわけだ。もし、根拠なり証拠なりがあるのなら、この断定は許容できる。しかし、既に述べたように、根拠や証拠は「なんとなく」だけであり、「なんとなく」という理由だけでは「警戒が緩んだ」という結論は下せないわけである。
 では、根拠や証拠が乏しく、「なんとなく」という「感じ」だけで断定するとはどういうことであるだろうか。僕の結論を言うと、この断定は心的投影なのである。
 例えば、僕はCさんと知り合いになりたいと思う。それでCさんがどんな人なのか知りたいと思う。そこで、Cさんと既知の間柄であるAさんとBさんに「Cさんってどんな人?」と尋ねたとしよう。
 Aさんは「Cさんはなんか大人しい感じの人」と答え、Bさんは「Cさんは陰険な人」と答えたとしよう。両者の返答の内容ではなく、ニュアンスとか構図の違いが見えるだろうか。Aさんは、AさんがCさんから受けている感じを答えている。BさんはCさんを断定している。Aさんは、現実のCさんとCさんから受け取っている自分の印象とを区別しているわけである。Bさんは現実のCさんと自分の印象とを一緒くたにしているわけだ。そして、Bさんに属している観念がCさんに属しているものとして語られているわけである。Bさんが、仮に、「Cさんって、なんか陰険な感じの人」というようにそれを自分の「感じ」として言えば問題はないし、「Cさんは陰でこういうことをやっていることが分かっている(そういう証拠がある)から陰険な人だ」と、根拠を提示すればまだ理解しやすくなるだろう。それでも、それはCさんのことを断定できるわけではなく、Bさんの持っているCさんの像を述べているに過ぎないのであるが。
 では、BさんはどうしてCさんのことを「陰険」と断定できるのか。それはBさん自身の中にそれがあるからである。そういう場合が多いと僕は感じている。Bさん自身が「陰険」なのだ。それを外在化し、Cさんに投影しているのだ。それはCさんに属しているようにBさんには見えているのだけれど、本当はそれはBさんに属しているものなのだ。Bさんはそれが自分に属しており、尚且つ自分ではそこに目を向けることができないので、それはCさんに属しているものであり、Cさんに属していなければならないもの(要するに断定する)なのだ。
 さて、話を戻そう。警戒が緩んだ主体は専門家である。それが国民の警戒が緩んだかのように聞こえてしまうのである。意味が曖昧になってしまうのは、発話者である先生の中で混乱が起きたためなのだと思う。自分(たち)と他の人(たち)との区別が曖昧になってしまったのではないかと思う。そうして自分たちに属している事柄が相手に属しているかのような言い回しになってしまったのだと思う。主客の混同が起きているということであり、こういう混同が起きるとすれば自我の統制力が弱まっているように僕は感じるのである。従って、専門家の先生も精神的な危機感に圧倒されているのではないかという気がしている。

 それでは、あの発表を辻褄の合うようにまとめてみよう。こうなると思う。
 3月の連休で、我々専門家の警戒が緩み、都道府県をまたいだ人の流れを抑えることができず、感染を拡大させてしまった。5月の連休では我々専門家が一層の努力をして人との接触8割減を達成したいので、国民の皆様に協力をお願いする。我々も警戒を緩めずに努力するので、国民の皆様も一緒に警戒を緩めずに努力してほしい。
 こういう内容ならスッと頭に入ったのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年4月24日 金曜日

4月24日:コロナ・ジェノサイド(33)~壊れる個人

4月24日(金):コロナ・ジェノサイド(33)~壊れる個人

 今日はもう一本書いて残しておこう。

 今回のコロナ騒動でよく言われているのは医療破綻並びに経済破綻である。個人的には国家破綻も含めたい。日本という国がなくなる可能性だってある。
 もう一つ、家庭破綻がある。この家庭破綻は個人の破綻に基づくものである。逆に述べれば、個人の破綻があり、家庭の破綻があり、経済の破綻があり、医療の破綻があり、国家の破綻があるということになろうか。根底にあるのは僕たち一人一人の破綻である。従って、僕たち一人一人が破綻を防がなければならないわけだ。

 家族の中で、父親はテレワークで在宅勤務している。母親もテレワークしている場合もあるが、家事に追われることが多くなったかもしれない。子供たちは休校で一日家にいる。家族が二十四時間顔を突き合わせて生活している。短期間ならそういう生活もできようが、期間が長くなるほどお互いの存在が負担になってくることもあるだろう。
 それで家庭内暴力が増えているというニュースも聞く。DV、児童虐待、性的ハラスメントなどの問題が家庭内で起きており、その数も増加しているという。
 僕は次のことを強調しておきたい。それらの問題をストレスによる一過性の問題と捉えてはいけない。外出自粛が解除されれば自然に消滅するといったような問題ではないということである。
 破綻なのである。壊れてしまったのである。家族成員がそれぞれ破壊を被ってしまったのである。
 僕の個人的な推測では、そういう家庭の1割がその後修復していけると僕は思っている。5割は仮面修復とでも言おうか、表面的には修復したようにみせかける。要するに、前者が傷を癒したのに対して、後者は傷に覆いをかけ見えなくしているだけである。
 残りの4割は壊れたきりである。もはや修復できなくなってしまうわけだ。
 1割、5割、4割という振り分けは恣意的なものであり、あくまでも僕の個人的な予測に過ぎないが、このような3つのグループは生まれると確信している。

 心の病の感染は、ある意味では、コロナ以上に恐ろしい。集団のうちの誰か一人が狂うと、それが他の人にも伝播し、影響を及ぼし、最終的に全員が狂うのである。特に、最初に狂う一人目が上の人間であればあるほど、集団の破綻は著しくなる。
 余談だけれど、今の日本の状況はそうだと僕は見做している。国のトップがまともな精神状態ではないと考えているので、それは周囲の人に広がり、ひいては国民全員に伝播していくことになる。これを食い止めるためには僕たち一人一人が正気を保たなければならないわけである。

 さて、話を戻そう。児童虐待などといった問題がある。虐待する人間の問題だと一般には考えられがちだが、そういう家族を見ると、家族全員がみなおかしくなっていることがわかったりする。誰一人としてまともな人間がいないという家族もある。もちろん、程度の差はある。比較的ましな家族成員もいるが、それでも何らかの心的障害を抱えていたりする。
 今回、コロナ騒動を機に虐待やDVが発生したという家庭では、すでに個人が破綻を来たしているのである。暴力という行為の問題ではなく、人格的な破綻の問題なのである。
 この破綻であるが、暴力を振るう側が先に破綻していることも多いだろうとは思うが、暴力を振るわれる側が先に破綻してしまっている例もあると僕は確信している。どちらが先であっても、お互いが「病的」な関係に組み込まれていくことになるので、双方が狂気に陥っていくことになる。そうして家族全員に心の破綻が広まっていくのだ。
 それで、一旦破綻したものは、修復できないのである。修復できたとしても何らかの後遺症とか負の遺産を残してしまうこともある。少なくとも、元通りにはなれないのである。元通りになれない以上、新たに作っていくことになるのだ。修復とはそういうものである。言葉を変えて言えば、それは復旧ではなくむしろ再建である。より正確に言うなら、復旧と同時の再建である。片方だけでは不足なのだ。

 さて、破綻を回避するために何ができるだろうか。いろいろ手段はあり得ると思うのだけれど、効用は人によるだろうと思う。ある人には有効だった方法も他の人では逆効果だったというようなこともある。だから一般論として言えることは何もない。
 家庭によって条件も異なるだろうし、状況もそれぞれあると思う。できる限り、一日一日変化をつける方がいいだろうと僕は思う。今日はこれをして、明日はこれをして、というように日々に変化がある方が望ましいだろう。
 そして、毎日すべての家族関係パターンを持つのがいいだろうと思う。父、母、子の三人家族があるとしよう。三者が揃う場面、父と母、母と子、父と子という二者関係の場面、それと父一人、母一人、子一人、とそれぞれが一人で過ごす場面、そのどれもが一日の中にある方がいいと思う。父が仕事中は母と子が一緒になり、母が家事をする時は父が仕事の手を休めて父と子が一緒にいる。チームワークがいいとさまざまな関係パターンを持つようになるだろうと思う。
 拘禁反応を防ぐためにお互いの健康に注意し合うのもいいだろう。自分だけでは分からないことも多いので、お互いに気を付け合うといいと思う。不調が見えた場合、外出自粛のためにできることも制限されるのだけれど、とにかく休んでもらうのがよろしいかと思う。
 もし爆発反応が起きた場合、感情が治まるまで一室に籠ってもらうしかない。気持ちが落ち着いてから話を聞いた方が良い。
 逃避反応が起きた場合、できるだけ一緒になった方がいいかもしれない。その人が普段なら一人でできることでも二人でするとか、生活を維持するためにその人の補助を担う必要が生まれると思う。ただし、全部を肩代わりしてもいけないと思う。それをすると全面的依存の段階まで心的に退行してしまいかねないので、そうなると他の家族成員の負担が増えてしまい、共倒れになりかねない。
 個人的にはストレスの解消や発散よりも休養の方がいいと思っている。憂さ晴らしだと言って活動過多になるのは好ましくないと思う。平常時なら構わないんだけれど、感染予防という観点に立てば、休養して体力を温存し、抵抗力を弱めないようにすることがいいのではないかと思っている。運動や活動は適度でいいし、疲れない程度のものでいいと思う。
 レジャーや気晴らしが必要な人は、屋内でできて、尚且つ他の家族成員のストレスにならないようなものを探すといいかと思う。もちろん、家族全員が参加できるようなものがあればそれに越したことはない。
 個人的には、レジャーとか気晴らし、息抜きも必要とは認めるが、人生や生活に必要なものをやっておく方がいいと思う。平常時の生活状況ではなかなかできなかったことに取り組むのがいいかと思う。この非常事態において、人生があなたに求めるものをやっておくのがいいかと思う。あなたがやりたいと思うことをやるのではなく、あなたの人生や生命があなたに求めるものをやるわけである。
 それと次のことも強調しておきたい。家族はそれぞれ習慣があった。父は会社に、子供は学校にといった習慣が家族成員それぞれにあり、それが家族全体の習慣となっていた。今回、自分たちの意志に関係なく、その習慣を変えなければならなくなっているわけだ。古い習慣から新しい習慣を形成する過渡期にはとかく大小さまざまな「問題」が発生するものだと思う。だから、「問題」というものは、多かれ少なかれ、生じて当然であるという心づもりをしておくことも必要だと僕は考えている。それに対する準備、心の準備をしておくことが大切であって、それは問題を噴出させないように抑え込むことよりも大切なことだと僕は考えている。

 さて、極めて大雑把な内容だけれど、とにかく、このような状況でもできることはたくさんあると思う。試行錯誤しながらでも、人生を前に進めていけたら幸いである。
 肝心なことは、自分が感染しないのと同じくらい自分が正気を失わないことである。相手に感染させないことと同じくらい、狂気を広めてはいけないということである。一人が悪くなれば、周囲も悪くなり、全員が悪くなってしまうのだ。最初の一人目になってしまわないように、一人一人が精神状態を健康に保っていなければならないのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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