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2020年2月28日 金曜日

2月28日:コロナ・ジェノサイド(4)~オリンピックの廃止へ

2月28日(金):コロナ・ジェノサイド(4)~オリンピックの廃止へ

 日本はコロナウイルスの感染者が、数字の上では、少ないとされているが、それは検査が行き届いていないからである。検査を拡充すれば感染者の数が増えることになる。それは当然である。検査の数が増えれば、感染者の発見数が増加するからである。
 それでもいいから検査体制を拡充しなければならない。テレビの報道番組で繰り返しそのことは言われているが、僕も同感である。
 政府はなぜ検査を増やさないのか。今日、少し小耳に挟んだところでは、オリンピックも関係しているらしい。感染者を大量に出したということは国のイメージが悪くなるということであるらしい。確かなことは分からないけど、あり得ることのように僕には思われた。
 数字のまやかしは今の政府の得意分野である。細かなことには触れないけれど、経済成長であれ、経費であれ、他のどんな案件にもこの政府は数字のまやかしをやらかすのだ。
 もし、政府が全力をつくして感染の拡大防止に努めた上で感染者数が少ないというのであれば、僕はそれでいいと思う。クリーンなイメージを作ろうとした政府の面目も立つというものである。
 しかし、現状では、そのクリーンなイメージはまやかしである。国民を犠牲にしての、あるいは国民に危機を体験させての、イメージづくりなのだ。僕たちは、自分が賛成したわけでもないのに、そうしたイメージづくりのために我が身を犠牲にするのだ。
 そもそも、その日本のイメージは僕たちが希望しているものではない。政府が一方的に決めつけて、押し付けようとしているイメージなのだ。少なくとも僕個人は日本にクリーンなイメージを持ってもらう必要はないと考えている。
 それに、感染者の数がイメージにそう影響するとも思わない。むしろ、感染者の処置をきちんとすることの方がイメージは良くなるだろう。つまり、病気のない国に行くことよりも、病気になった時に処置してくれる国に行きたいと、外国の人ならそう考えるのではないだろうか。僕たちが外国に行く時も、そういう観点を持たないだろうか。
 結局、僕たちはオリンピックのために犠牲になるのだ。痛みに耐えるのは、将来の日本のためではなく、目先のオリンピックのためなのだ。コロナに感染したのではないかと不安に怯えながらも、検査も受けられず、何も明確にされないまま、ただ不安を耐えるのもイベントのためなのだと思うと、生きていることすらがバカらしく思えてくる。
 コロナウイルスは知らない間に感染するのだ。目に見えないだけに恐ろしいわけであり、不安を喚起するのだ。そして、感染しても潜伏期があり、自覚症状のないままそれを広めてしまうのだ。誰もが自覚のないまま被害者となり、同じく自覚のないまま加害者になるのだ。
 僕は喫煙者だから、さらにこの矛盾を覚えるのだけれど、喫煙者はすでに隔離されたような存在である。副流煙を吸い込まないようにと、分煙され、さらには喫煙場を撤去していっている。飲食店でも喫煙が不可になる。政府は健康増進のために喫煙を排除してきたのだ。飲食店も国からの命令でそうせざるを得なくなっているのだ。そこまでしてタバコの煙を非喫煙者が吸い込まないように配慮しているわけだ。喫煙はコロナよりも害が大きいのかねと、僕は言いたくなる。喫煙者にそれだけのことをしているのなら、コロナウイルスに対してもそれに匹敵することをやればいいのだ。

 話が散漫になっていく。思いつくまま綴っていくと、連想が広がっていく。ほどほどにしておこう。
 結局、政府の対応の背後にオリンピックがあるということらしい。確かに真偽のほどは定かではないけど、僕は十分あり得ることだと思っている。国民よりも、人命よりも、イベントが大事なのだ、いや、金が大事なのだ。すでにオリンピックで莫大な予算を使っているからだ。コロナよりも優先しなければならないのだろう。
 この国に明日はない。オリンピックこそ中止しなければならない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年2月27日 木曜日

2月27日:コロナ・ジェノサイド(3)~民の切り捨て

2月27日(木):コロナ・ジェノサイド(3)~民の切り捨て

 昨日に引き続きコロナ騒動について思うところをのものを書き残しておこう。

 テレビ番組で繰り返し言われていることは検査の充実である。民間の検査機関をもっと活用しようと呼びかけているのだが、政府の言うところでは民間の検査機関はレベルが低いということらしい。
 僕にはこのレベルの高低ということが理解できない。何か審査基準みたいなのがあって、民間の検査機関はこの基準を満たしていないとか、何かそういう事情があるのだろうか。もし、あるとすればそれを提示してもらいたいものである。そして、その基準とコロナウイルス検査とに相関性があるのかどうかも示してもらいたいところである。
 テレビでは民間の方がむしろレベルが高いと言っているんだけれど、僕は首肯できる気がしている。だからと言って公的機関がレベルが低いとも言わないんだけれど。
 問題は、同じようなことをしている機関なのに、一方は良くて他方がダメであるという思想である。この思想の根底にあるものが問題であるように僕は思う。
 もし明確な基準なり資料なりが存在していないならば、こういう思想は単に差別思想なのではないだろうか。個人的にはスプリッティングしていると言いたいところなんだけれど、それは脇へ置いておこう。
 そして、差別思想が根底に横たわっているとすれば、差別されているのは民間の方である。官民のうちの民の方である。民はレベルが低いからということで切り捨てていることになっていないだろうか。
 必要性よりも優劣が先行していることになってしまうように僕は思うのだけれど、これは実は重篤な心の病である。現実自我が機能していないことになるからである。
 僕は今の日本の状況は極めて精神病的であると感じている。感染者が少ないというデータも、検査が実施されていないからそうなるのに過ぎないのだが、政府はそこを取り上げないというのではなく、政府の人たちの心の中で否認の機制が働いているのではないだろうか。
 早期に検査を実施した方が、それで早期に発見した方が、むしろ医療崩壊を防ぐと僕は思う。武漢で病院が機能しなくなりそうな場面があったが、あれは患者が一斉に詰めかけたためである。それはそれで武漢の状況があったのだから仕方がなかったところもあるだろう。徐々に検査をして、少しずつ患者が発見されていけば良かっただろうにとも思う。日本は武漢に学んだ方がいいのだ。
 やがて医療崩壊、経済崩壊が起きるだろう。多くの人命が失われることだろう。病気だけでなく、自殺も増えるかもしれないし、暴動や犯罪も生まれるかもしれない。僕の言っていることは、人によっては、妄想のように聞こえるだろうと僕は自覚しているんだけれど、僕たちが平和幻想から抜け出す必要があるということは賛同してもらえるのではないかと思っている。
 いずれにしても民間は見殺しにされる。政府はそれをしたくてするのではなく、無能だからその事態を許してしまうのである。そして、政府が無能であるということは、政府の自我(これは個人に喩えて言うのであるが)が機能していないからである。僕はそう思うので、民はいくらでも切り捨てられ、否認されることになるだろうと考えている。

 オリンピックは即刻中止しなければならない。必要な予算を確保しなければならない。国会が議論しなければならないことは、桜を見る会ではなく、日本の壊滅を防ぐということだ。このままでは日本人は生き残れない。一部の官だけが生き残る国になる。ドクター・ストレンジラブの理屈が現実になりつつあるのかもしれないのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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2020年2月27日 木曜日

2月27日:数々の誤謬

2月27日(木):数々の誤謬

 クライアントたちは自分なりの見解を有していることが多い。それはそれで構わないことであるけれど、その見解は大した検証をされていないことも案外多い。特に、その見解を有することになった元の体験を度外視していることに気づいていない場合もある。

 ところで、なんでもいいんだけれど、例えば「ひきこもり」と「ギャンブル依存」を挙げよう。「子供の引きこもりの問題で」などと親御さんたちは言うのだけれど、「ひきこもり」とは問題を示す名称であろうか。「自分はギャンブル依存なんです」と訴える人もあるが、やはりそれも問題を表わす名称であろうか。
 人によってはそうだという人もあるだろう。僕はそれは問題を表現しているのではないと考えている。つまり、「ひきこもり」と「ギャンブル依存」とは、問題による分類ではなく、現象による分類である。ひきこもりといわれる現象を示している人とギャンブル依存といわれる現象を示している人とがいるわけである。
 もし、問題による分類を試みるなら、ひきこもりを呈している人とギャンブル依存を呈している人とで同じ問題を抱えているという例もみられることだろう。つまり、その問題が、最初の人にはひきこもりという現象として、後の人にはギャンブル依存という現象として顕在化しているに過ぎないということになる。
 一般の人が自分の問題を定義づけるとき、あるいは身近な人の問題を定義づけるときでも、現象と問題を混同してしまうのである。ここで混同してしまうと、その人は問題の本質、何が本当の問題となっているのかを見誤ることになる。

 僕はこれを随所で述べるのだけれど、問題を抱えている人は自分の問題に関することをネットなんかで調べたりする。調べているうちに自分にピッタリ当てはまるような記述に遭遇するわけである。そこでその人は自分がその問題の持ち主であることを確信するのである。
 自分は発達障害ですと、ある人が言ったとしよう。なぜ、そう思うのか、発達障害に関する記述が自分にピッタリ該当するからです。では、その記述に出会う以前は自分の問題をどのようなものとして考えていたのか、分かりません。大体、こんな感じである。
 ここで一番問題になるのは、その人が発達障害であるか否かではなく、その人が自分を発達障害であると信じているという点である。この信仰の根拠は、ただ自分に該当する記述だけなのである。言い換えるなら、この記述がこの人を決定しているということになるわけだけれど、これは一体どういう事態であろうか、どういうことがこの人の中で起きているのだろうか。それこそ問われなくてはならない問題である。

 多くの人が経験したことのある場面を取り上げよう。これをお読みのあなたは心理テストをやった経験があると思う。これは正規のテストに限らず、巷に氾濫しているようなインチキ臭い心理テストも含めてである。インチキ臭いというのは、妥当性がろくすっぽ検証されておらず、質疑とテストの相関性も統計処理されておらず、ほぼ思い付きだけといったテストである。
 それはさておき、心理テストをするときにどういう経験をしているだろうか。例えば、「親しい間柄であっても、自分の言いたいことが言えない」といった質問項目があるとしよう。あなたはそれを読んで自分の経験をほじくり返すわけだ。そして、そういう場面があったなということであればイエスに、そういう場面が想起されないようであればノーに印をつけるわけだ。
 つまり、その質問はあなたを測定しているのではなく、その質問に適合する場面をあなたから引き出しているのである。従って、イエスかノーかは、そこでその場面が引き出されるか否かで変わるわけである。

 自分にピッタリ該当する記述というものがあれば、僕はそれは怪しいと信じている。その記述者がどんな専門家でもやはりそうである。特に心に関する事柄では尚更である。
 臨床像の記述なんてものは、多数の人の記述から抽象されたものである。多数の人に共通して見られるものが集められているだけなのである。従って、そういう記述は個人を表わすものではないのである。
 ある病像の記述が自分にぴったり当てはまるということは、それはその人がその病気であるということを表わしているのではなく、単に、大多数の人と同じであるということを示しているに過ぎない。
 加えて、先の心理テストの例で述べたようなことが起きる。記述を読んで、その記述が自分に該当するのではなく、その記述に該当するような経験を想起してしまっている可能性が高いのである。記述が該当しているのではなく、自らそれに該当させていくのである。
 そして、ここが最終的に問題となるのだけれど、その記述に適合する経験を想起することによって、自分がその記述通りの人間であると信じてしまうことである。その記述に自分を適合させてしまうのである。そこに記述されていることが、自分のすべてであるとでもいわんばかりに、それがその人の自己になるのである。
 さて、ここから次の問題が生まれる。では、記述と自分を同一視して、その記述に自己を適合させてしまうこと、言い換えるなら記述によって自己を限局化させることによって自分が落ち着く人はどういう種類の問題を持っているのかが問われることになる。
 病気の記述が自分に該当するからその病気であるということは本人の主観なのでここでは取り上げないのだけれど、病気の記述が自分にピッタリあてはまるという経験をしてしまうのはどういう「病気」なのか、そこは盲点になってしまうわけだ。
 こうして一部の人たちは誤謬の渦に飛び込んでいくのである。僕はそう考える。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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2020年2月26日 水曜日

2月26日:コロナ・ジェノサイド(2)~ジェノサイド

2月26日(水):コロナ・ジェノサイド(2)~ジェノサイド

 これは対策ではない。これはジェノサイドだ。

 何のことか。新型コロナウイルスに関する政府の対策である。その対策は、重症化しない限り医療を受けられないという体制であり、早期発見、軽症治療の観点を初めから欠くものである。
 検査すら受けられないという状況が生まれている。検査して、病気が発見されなければ治療できないわけなので、治療の可能性は最初から断たれている。ウイルスに感染しても、僕たちは重症化するまでウイルスを体内で育てなければならないのだ。人によっては命がけの行為となる。それを政府はするようにと求めているわけだ。

 そもそも、あのクルーズ船は日本の状況の縮図であった。現在、中国で見られる光景は明日の日本の姿である。感染に対して、ひたすら隔離するしかないわけだ。
 その隔離すら不十分である。このウイルスの感染力が強いというのは、どの不十分さの理由にはならない。感染力が弱ければガードを甘くしていいというわけでもないだろうに。
 ともかく、コロナで死亡する人は増えるだろう。二次的に死亡する人もたくさん現れるだろうと僕は思っている。
 二次的というのは、例えば、今日のテレビで報道されていたけれど、コロナ破産が生まれているという。この破産による失業、さらには失業からの自殺の問題だって生まれる可能性があると僕は思う。

 政府の対策が後手に回ってしまうのは、パニックを避けるためであるとも聞いたことがある。しかし、それは本末転倒なのである。この状況が明日のパニックを生み出す温床となっているのだ。僕はそう思う。
 すでに、罹患しても助けてもらえないということが報道されているわけである。助かるためには他人を押しのけてでも医療にかからなければならなくなる。もし、具合が悪くなったら検査を受けることができ、陽性反応が出ても処置してもらえることが確定しているなら、あるいはそこに信頼がおけるなら、むしろパニックは抑制できると思う。

 少し話が飛躍するようだけれど、この対応の背後にあるのは人命蔑視の思想である。僕はそう思う。
 森友学園問題でも理事長夫妻だけが罪の判決を受けたのをいつぞや聞いたことがある。別にあの理事長夫妻を庇うつもりもないのだけれど、その問題に関係した他の人たちは不起訴であり、無罪である。確かに理不尽ではある。ここにも人命蔑視の思想に通じるものが僕には見える。
 かつて呉秀三先生(だったと思う)が、日本における精神病者の状況を見て、「この人たちがこの病気にかかったことは不幸だ。この人たちがこの国に生まれたことはもっと不幸だ」といった内容のことを言ったことがある。
 あれから100年以上を経て、日本人の状況がまったく変わっていないのを僕は感じる。精神分裂病がコロナウイルスに変わっただけで、なんら状況は変わらない。

 コロナウイルス感染も検査はできるそうなのだ。民間の検査機関をもっと利用すればいいとテレビでは言っていた。しかし、政府が許可しないのである。
 許可すればいいのである。検査機関に人が殺到するということであっても、ハイリスクの人を優先すると最初に明示しておけばいいのである。高齢者、児童、持病持ち、妊婦などを優先したからといって、その他の人も文句は言わないだろう。
 そして、仮に、一検査機関において一日1000人の検査が可能であったとしても、800人を上限にしても構わないと僕は思う。緊急の人やハイリスクの人のために多少の枠を開けておくのは妥当なことであると思う。検査機関が手一杯になるのは好ましくないとも思うわけだ。
 それでも疑いのある人や不安に思う人たちに検査をやって、早期発見に努める方がいいと僕は思う。病院が満室になってしまうということであれば、ここでも優先順位をつけても構わない。ハイリスクな人、重症の人を優先して入院させてもいいとは思う。
 軽症の人は自宅で隔離ということになるのは仕方がない。その人たちにも治療の機会は与えられなければならない。それ以上に、地域の人がその人を差別するようなことをすれば、政府はそれを取り締まればいいのである。政府の要請でその人は自宅療養することになったのだから、その人を差別し、排斥するような近隣住民に対しては、政府がそのケンカを買えばいい。文句や苦情をその人にではなく、政府に言わせるようにすればいいのである。
 こういう差別的な行為というものは、この場合、個人とウイルスとの同一視から出るものだ。差別する側の認知が歪んでいるのである。かなり妄想的である。
 お互いが回避するのはウイルスであって、お互い同士ではないはずである。

 ああ、無意味なことを長々と綴っている。こんなことを綴っている自分にも嫌気がさしている。すでにコロナ不況もコロナ破産も始まっている。感染者の死亡も確認されている。この状況はますますひどくなるだろうし、ウイルスそのものが沈静化されても、生活や経済に及ぼした後遺症は何年も引きずることになるだろう。
 政府はこの1,2週間が正念場だという。今後どうなるかの分岐点だと言う。僕はちっとも信用していない。そんな分岐点はとっくに通過しているとさえ思っている。むしろ1,2週間前に正念場は来ていたのだ。ただ、誰もそれに気づいていないのかもしれない。もう手遅れではないのか。誰もそれを口にできない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年2月26日 水曜日

2月26日:無意味な仕事

2月26日(水):無意味な仕事

 今日、新規のクライアントと面接した。年配の婦人である。僕はその人の面接を終えてからというもの、ずっと胸がムカムカしている。あまりクライアントのことを書くわけにもいかないんだけれど、少しだけ言葉にしないとどうもムカムカが治まりそうにない。それでこれを書こうと思い立ったわけだ。

 個人に関する事柄は書かない。ここでは3つの場面だけ取り上げたいと思う。

 一つ目はこの人が予約を取る時の状況だ。
 この人は先週の火曜日に電話してきた。定休日なので僕は不在である。だから留守番電話に吹き込まれていた。それでもこの人は現地まで来て、ここの電気が消えているのを確認する。その上、建物に入って二階の人に三階のカウンセラーはどうしたのだと尋ねている。
 翌日、二階の人から昨日こういう人が来たという知らせを受ける。僕はお手数をおかけしたと謝礼する。そういうこともあったけれど、それはこれから取り上げることと直接的には関係しないので置いておこう。

 二つ目は面接時のことである。
 最初のこの人が言ったのは継続するだけのお金がないということだった。それで今日のこの一回で終わらせてほしいということであった。
 ちょっとだけヒントを出すと、これはつまり僕に考える時間とか余裕を与えないということなのである。

 三つ目の場面は、同じく面接時のことである。新規のクライアントは申込票に記入を求めるのだけど、その時のことである。
 この人は昨夜子供に手伝ってもらって話の概要を作成してきた。申込票を記入している間にこれを読んでくださいと僕に求める。

 以上の三つの場面を取り上げた。すでにお分かりいただけると思うのだけれど、この三つの場面にはある共通しているものがある。それはこの人のパーソナリティ傾向であり、おそらくこの人の問題に関係する部分である。
 僕はここではこれ以上書かないことにする。これ以上書くとなるとどうしてもこの人の個人的な内容に触れなければならなくなるからである。
 三つの場面で共通していることは何か。三つの場面と言っているけど、僕には一つのことしか見えていないのである。興味のある方はご自身でお考えになられたらよろしいかと思う。一つだけヒントを出すと、この三つの場面でもっとも排斥されているものは何かということである。僕は、これは抜け落ちているとかではなく、この人の中で積極的に排斥されてるものだと感じている。
 そして、この排斥を生み出しているものがこの人の問題であると、現時点で僕は考えている。

 当然ながら、その問題点は触れることはできなかったし、それどころか明確にもなっていない。表層的な話し合いだけして終わったのである。その人はそれなりに満足して帰ったのだけれど、僕は無意味な仕事をしたとしか感じられていない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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