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2019年3月25日 月曜日

3月25日:エキテンって何?

3月25日(月):エキテンって何?~口コミ反対論

 今日は午前と夕方の予定が飛んだので時間がある。こういう時にブログを書いておこう。この2,3日は少しばかりバタバタしたこともあって、ブログも疎かになっている。その反省を兼ねて、今日は早目に書いておこう。

「エキテン」という口コミサイトを運営している所から電話があった。なぜか僕の所が登録されているらしい。一体、だれがいつの間にそういうことをしているのか不明である。
 僕は僕なりに忙しいのでそんなものに構っているヒマはないので、そんなものは放っておくのだけど、僕はそんな口コミサイトとは無関係であることをここで断言しておく。
 そもそもエキテンなんてのもさっき初めて知ったくらいである。
 とにかく、インターネットを立ち上げて、エキテンなるものを検索してみた。最初に開いたのが「無料登録」のページだった。登録は無料なのだ。しかし、見てみると、登録する際にはメールアドレスだとかなんだとかが必要であるらしいし、なんか審査のようなものもあるらしい。僕の知らんところで、どこぞの誰かが僕になりすまして、そういうことをしたのだろうか。ハッキリ言って不気味である。
 削除の依頼をしておけばよかった。一回、何が登録されているのか見てからにしようと思ったのが間違いだった。その場で、そんなもの削除してくれと、登録を取り消してくれと電話で伝えればよかった。
 この電話は確認専門で、それ以外のやりとりはすべてメールでやると来たものだ。困ったぞ、メールなんか使ったことがない。いや、使ったことはあるんだけど、詳しい人が傍にいてくれた時だけだ。独りの時には、あんなものよう使えん。
 まあ、ええわ。そんなもの放置しておく。誰が口コミなんかするだろうか。それに、一応、僕の口コミページをブックマークに登録しておいたので、時々、確認してみよう。そして、虚偽の内容があれば、あれは虚偽のものであると、このサイトで告発していこう。
 口コミっていうのは、とかく厄介な代物である。まず、口コミをする人間が本当に物事が見えている人間であるかどうかが問題である。認識の次元が高い人間かどうかが問題である。本質の部分がきちんと分かるかどうかということも問題である。ともかく、口コミっていうのは「良薬は口に苦し」が通用しない世界である。苦い薬を出されたというだけで、批判されるような場所である。僕はそう思う。僕も厳しいことを言う人間である。意味もなく厳しくしいことを言っているわけではないのだけど、口コミではそこは絶対に伝わらないと思う。いい迷惑だ。口コミサイトも、そこに勝手に登録する人間も、そこに口コミをする人間も。

 ちなみに僕は物事が見えている人間であるとは思わないし、本質の部分がきちんと分かる人間であるとは思わない。何も分からないから考えるしかないのだ。学ぶしかないのだ。だから他所を口コミできる資格は自分にはないのである。もっとも、僕はそういう口コミ的なことはしないんだけど。
 もし、僕のクライアントが僕のことを口コミしたら、いい評価であれ悪い評価であれ、僕はそれをその人の「症状」と評価する。「自我漏洩」を疑う。そして、口コミに過剰に左右される人はさらに深刻である。加えて、僕になりすまして僕のところを登録した人はさらに深刻な病理を抱えているものと僕は評価している。もっとも、その意図を知らない限り、評価はできないものではあるが。
 まあ、ええわ。これ以上記述するのも面倒に思えてきた。口コミ反対論を展開しようと思っていたけれど、どうでもよくなってきた。結論は僕にも分からない。口コミサイトで共有されるのは何らかの現実か、それとも個人の幻想か、と僕は疑問に思うのだけれど、もうそういう話をする気力もない。
 
(高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー:寺戸順司)

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2019年3月20日 水曜日

3月20日:今週の始まり

3月20日(水):今週の始まり

 今日は水曜日だ。僕にとっては一週間の始まりである。火曜日を休みにしているので、水曜から月曜までが一週間という感覚がある。

 さて、週の開始である。今週はいくつかのことにケリをつけていく。
 パソコンのルーターの交換もやってしまう。これは一昨日試みたのだったが、ショップに行くとかなり待たされるとのことだったので日を改めることにしたのだ、今月中に交換しないといけないので、僕はどこかでこのために一日割くことにする。一日仕事にしてしまおうと思っている。
 動画広告を終わらせる。いつまでもこんなものを手掛けているわけにはいかない。僕はまったくこの動画ってものに期待していないのだ。でも、契約したからにはやらないわけにはいかない。ただ、そのためだけにやっている。こいつはもう終わらせる。
 この二つの件は今週でケリをつける。週に一つ何かケリをつけるくらいのペースで十分だと僕は思っている。
 その他、着手している原稿にもケリをつける。区切りのつくところまで完成させて、公開していく。ただし、これは今週中には無理であるかもしれない。
 もう一つ、提携企業向けの文書を作成する。動画広告なんかよりもこちらを優先したいところなんだけれど、しょうがない。動画の方が先だったので、先に取り組んだ方を終わらせることにする。この件は多分、来週の課題になるだろう。
 勉強はもっとしたい。本ももっと読みたい。そのための時間を十分に確保しなければならない。その他、諸々の雑用もこなさないといけない。けっこう時間に追われるようになるだろう。面接も今週はそれなりに入っている。
 趣味の領域に入るけれど、映画も観る。そう、たくさんの物語にもっと触れなくてはいけない。物語を知ることは、人生を知ることにつながるのだ。クライアントの話を聞く際にこれが大いに役立つのである。映画のストーリーを追うようにクライアントのストーリーを追っていくわけである。実際、人の話を聞くということは、象徴的にはそういう作業をしているということになるのである。僕はそう思うのだ。だから、映画であれ、文学であれ、ストーリーを読む・見る・聞くという作業は大切なのだ。
 そういうわけで、今週の目標は、一分一秒も無駄にしないということだ。今日、すでに半日が終了している。ちなみにこれは昼休みに書いている。ちょっとの時間を使ってこのブログを書こうというわけである。以後、後半日分を書くかもしれないし、今日のブログはここまでということになるかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2019年3月19日 火曜日

3月19日:イワシ5匹100円

3月19日(火):イワシ5匹100円

 今日は定休日だ。お彼岸ということもあって、午後から家族で墓参りをすることになっていた。
 午前中にいくつかの仕事をこなす。この一週間の面接の記録を書く。最近、クライアントの記録に対しての考え方がぐらついている。どこまでこういう記録を残すか、どれくらいの正確さで記すかなど、何かと悩む。
 音声データは保存する。これもいつまで保存するかという悩みがある。個人的にはせっかく出会った人たちなので、ずっと保存しておきたいという気持ちがある。いつでも聞き直せばその人と再会できるような感じがする。加えて、過去の人のことがだんだんと記憶から薄れていくことが僕には耐えられない思いがする。どうしても忘却していってしまう。いつまでも覚えているということができない。もし、記録や音声データが残っていなければ、その人のことを本当に忘れてしまうのではないかといった妙な心配がある。
 まったく個人的な理由にすぎないかもしれない。まあ、深くは考えないで、とりあえず、紙データも残しておこうと思い、この一週間分くらいの面接記録を書く。面接中に書いたメモなんかに基づき、あとは記憶をたどりながら、時にはちょっと面接の模様を聞き直しながら、記録を書き残す。
 アクシデントもあった。今日は記録を書くつもりでいたので、昨日、ある程度の記録用紙を持ち帰っておいたのだ。それがなくなりそうになったので、急遽、コピーするために近くのコンビニに走ったりもした。
 それでほぼ午前中が費やされることになった。

 午後、母が帰宅してから墓参りということになった。今日がレンタルDVDの返却日でもあったので、帰路は途中で下車することにした。
 墓参り自体はすぐに終わった。僕は珍しく父にモノ言った。父は過去においてもよくそれをしていて、その都度、僕は不快な思いをしていたんだけれど、今までは何も言わなかった。今日はそれを言ったわけだ。
 父が何をするかと言うと、例えばろうそくに火をつける時なんかに、平気でお隣さんやお向かいさんのお墓の領域に入り込むのである。僕はそういうのはバチ当たりな行為のように思えてならないのだ。自分たちのエリア内でできることなんだから、他所の領域を借用する必要はないんだけれど、まあ、父はあまりそういうことに無頓着なのかもしれない。そういう無頓着さは兄にもあるだろうし、きっと僕にもある。僕自身は気を付けているつもりだけれど、常に上手く行っているとは限らない。
 さて、墓参りを終えて、僕は途中下車する。業務スーパーが道中のあるので、そこで下ろしてほしいと僕は頼む。駐車場があるので、路肩に止めるよりもやりやすいだろうと思ったのである。
 スーパーに駐車すると、父たちも買い物をすると言いだして、一緒に買い物をすることになった。僕は明日からの昼飯を買っておこうと思っていた。即席ラーメンを一週間分くらい用意しておこうと思ったわけだ。ありがたいことに、母は僕の分まで買ってくれた。

 さて、その後は別行動だ。僕はレンタル屋に行き、DVDを返却する。また借りようかどうしようかで迷う。借りても鑑賞する時間が確保できるかどうか不明である。実は今回も5枚借りて1枚は未鑑賞のまま返却することになった。
 まあ、そうなっても構わない。1枚100円でレンタルするのだ。未鑑賞で返却しても、1枚につき100円の損失に過ぎない。痛くはない。
 と言うわけで、いつものように5枚レンタルする。2週間後にこれを返却だ。2週間中にこれをせめて2回ずつ鑑賞したい。

 歩いて帰宅。夕食。イワシのフライがおかずにある。父曰く、「5匹で100円だった、安い」とのこと。
 実は僕はそういうのに少し抵抗感がある。「イワシが5匹で100円」と言う時、努めてそれは商品の値段だと思うようにする。生命の値段ではないのだと自分に言い聞かせる。コンビニに抵抗感がないのは、すでに調理されたものしか販売していないからである。チキンが150円とか言う時、それはそのフライドチキンの商品価格であるということが分かりやすいからである。
 スーパーなんかはモノによる。肉は動物の原型をとどめていないのでまだましである。魚はものによっては生前の姿のまま陳列されていたりする。そういうのはちょっと値段をつけられると生命に値段がついているような感覚に襲われる。
 一番足を踏み入れることに抵抗があるのはペットショップである。カゴというかオリというか、その中に動物が入っておる、生きておる。その手前に値段が張られていたりするわけである。この動物の生命の値段のように僕には見えてしまうのである。その動物の生命に値段が付されているように思えてくるのである。
 まあ、あくまでも僕の個人的な感情だ。食べるためには食材を買わなければならないし、その食材に値段がつけられないといけない。5匹で100円のイワシ、一匹あたり20円のイワシのフライを僕は美味しくいただきました。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2019年3月17日 日曜日

3月17日:笑い上戸

3月17日(日):笑い上戸

 朝、ブログを書いたけど、夜も書いておこう。徹夜明けの勢いで朝は書いたのだけど、あれからたいへんであった。
 一日中眠たい。それは当然だ。昼休みに少し仮眠を取ろうと思ったけど、なんだか寒くて眠れなかった。結局、夜までそのまま起きていることになった。
 一応、わずかの予定はこなした。それ以外は勉強して、後は書いて過ごす。
 たくさんのものを作成しなければならない。気が遠くなるほどだ。

 今月、とにかく動画広告をを終わらせる。こいつがいつまでも圧し掛かってくるのに耐えられない。
 あと一本の作成が残っている。これをどうするかで考えている。僕の頭の中には3つのアイデアがある。どれか一つに絞ってから着手した方がいいのだろうけれど、今のところ、一つに絞れていない。
 従って、一旦、この3つに着手する。最終的に一つに選んでもいいし、取り組んでいる中で一つに絞られていくかもしれない。いずれにしても、一旦はすべてに手を付けてみようと思う次第だ。
 その代わり、そうなると、一つに絞る方法の三倍の作業量になってしまうのだ。もう、それも仕方ないと開き直ろうと思う。

 それで、今夜、早速この3つの案に取り組んでいた。正確に言おう、チビチビやりながら取り組んでいたのだ。チューハイなんぞを傾けながら、この案にはこういうのを盛り込むとか、第2案ではこれを言おうとか、第3案で取り上げる内容のリストを揃えたりとかやっていたわけだ。
 そうするとエライことになってしもうて、笑いが止まらんようになったのだ。前々から僕は笑い上戸なところがあるんだけど、最近それがひどくなった。酔っぱらうと、何を見ても聞いても、笑ってしまう。
 徹夜したのも影響しているだろうけれど、なんしかアルコールがアッという間に回ってしもうたのだ。
 たいへんなことになると思い、僕は慌てて電車に乗った。早く帰らなきゃと思うわけだ。ところが、電車の中で一人ニヤニヤしてしまって、笑いが止まらないのだ。
 素面に戻ると、それの何が面白いのか全然分からないのだ。電車の中でやたらと「長岡天神」がウケたのだ。「天神」って、またたいそうな、とか思うと可笑しくてならんのだ。酔いが覚めるとそれの何がオモロイのか全然わかんないんだけど、その時はそれが可笑しくて可笑しくてどうしようもないのだ。
 笑い上戸なのも困ったものだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2019年3月17日 日曜日

3月17日:地元愛をけなしてはいけない

3月17日(日):地元愛をけなしてはいけない

 今日は始まったばかりだけど、これを書いて残しておこう。昨夜はほぼ徹夜で書きものをしていた。その流れで、朝の時点でこれを書いている。

 先週、兄と会ってから、どうも兄が口出ししてきているように思えてならないのだ。まあ、それはいいとしよう。僕もある程度そんなことになるんじゃないかと覚悟はしていた。
 兄は自分のお店を持っていた。フランス料理店だ。京都の北の方で店を構えていた。長くは続かなかった。僕はあそこは場所がいささか不便だと感じていて、そのために客が来にくかったのだろうと思っていた。
 今朝、父から聞いたところでは、そうではなかったらしい。ある時、大阪から兄の店に食べに来た団体客がいた。地元の主婦が団体客よりも先に食事をしていたそうだ。兄はこの団体客に「わざわざ遠くからこんな辺鄙な田舎に来ていただいてありがとうございます」といったようなことを言ったらしい。この主婦は兄のこの言葉をしっかり聞いていたのだ。後日、この主婦が兄の店を攻撃してきた。この店で食べるのは止しましょうといったビラを貼られたりしたそうだ。
 そういうことだったのか、地元を侮辱したのか。それは地元民が怒るだろうな。

 僕は高槻で開業して、高槻の悪口は言った覚えがない(と思う)。どちらかと言うとこの高槻が好きで開業したところがある。
 でも、高槻が好きで開業したと言っても、余所者には違いない。それで開業した当初は、高槻のイベントに協賛したものだ。地元民に、あいさつ回りなんかはしなかったけど、少なくとも受け入れられるようなことはしなければいけないとは思っていた。
 まあ、高槻というところはイベントごとがたくさんある。1月はハーフマラソン、2月(だったか3月だったか)には天神祭り、5月にはジャスストリート、8月には高槻祭り、10月頃には食べ歩きのイベントもある。このうち、マラソンとジャズストには協賛をした。最初の数年間だけだが、欠かさず協賛した。
 ジャズストの協賛を止めたのは、ひどい年があったからである。協賛するとパンフレットに公告が掲載されるのだけど、そのパンフレットが当日になっても完成しなかったということがあったのだ。確か、それを最後に協賛を止めたのだ。まあ、以後、ジャズストには批判的になっている。だからと言ってイベントそのものを中止すればいいとまでは言わない。何か別の形のイベントにしてもいいかもしれないとは思っている。
 いかんいかん、ジャズストの話ではない。一応、祭りもマラソンも、僕は反対はしない。そういうイベントが全くないというのも、地域活性の観点からして、よろしくないだろう。

 要は兄のその言葉である。不便で辺鄙な場所でも、そこに長く住んでいると愛着も生まれてくるものである、住めば都とはよく言ったものである。なんでこんな辺鄙で不便なところに住み続けるのだろうと、外部の人間からするとそう思ってしまうことがある。テレビなんかで一軒家とか秘境で生活している人とかが放映されたりしているけど、その人たちにとってはそこに愛着が生まれているものである。
 その場所に愛着が生まれるというのは、そこが自分の居場所であると感じられるということである。交通の便がどうのこうの、生活のパイプラインがどうのこうのといった問題ではないのだ。心理的な問題であって、実用性や合理性の問題ではないのである。その地はその人の一部なのである。従って、地域の侮辱はその地域の人そのものの侮辱につながるのである。
 また話が逸れた。要は、兄があの言葉を発したのは、兄がそのこと(住民にとっての地元愛)を知らないからというのではなくて、ある種の「特権意識」なのだと僕は思う。僕から見て、あの兄のもっとも嫌味な部分である。そこがなければ兄とも付き合えそうな気もするのだけど、どうも兄からはそれを感じ取ってしまうので、ついつい敬遠したくなってしまうのだ。

 しかしながら、そういう傾向は父にもある。時々、父の発する言葉には「特権意識」のようなものが感じられてしまう。
 例えば、今、世間を賑わせているピエールの事件なんかを見ると、馬鹿なやつだとかどうしようもないなとか、あいつももう終わりだなといったニュアンスのことを父が言う時がある。
 個人の思想なので、僕はそこに口出しはしない。父には父の認識があり、思想がある。それが僕の思想と反しているからといって、そこを訂正しようとは思わない。ただ、その思想の根底にあるものに僕は嫌悪感を覚えるのだ。
 父と兄にそれが共通してあるように僕は感じているのだけれど、恐らく、僕にもそれがあるだろうと信じている。知らず知らずのうちに僕から発せられていることだろうと思う。僕が自分の中から放逐したい傾向である。
 特権意識を持ってしまうと何が起きるかということであるが、僕はそれは共感性を損ねると思っている。共感能力を妨げるものだと考えている。
 度々ピエールさんを取り上げるのは恐縮だけど、ドラッグに手を染めてどうしようもない奴だと批判するのは簡単である。でも、自分も彼のような立場になったら同じことをしないと断言できるだろうか。どうして自分だけは特別正しいなんて意識が生まれるだろうか。それよりも、彼がどこかで道を踏み誤ったとしても、それを気の毒に思わないのだろうか。
 さらに言えば、ピエールさんも人の子である。親がいるのだ。その親のことも気の毒に思うことはないのだろうか。
 特権意識に囚われてしまうと、共感的に見ることが難しくなると僕は感じている。
 本当は自分たちは特別でもなんでもなくて、たまたま道を踏みはずすような分岐点に直面することなく過ごしてきただけかもしれないのだ。あるいは、そういう時にたまたま道を示してくれる人に出会っただけであるかもしれないのだ。

 兄も、「本当に今日は遠方からわざわざ足を運んでいただいて、たいへん感謝しております」とだけ団体客に言っておけば、あの地元の主婦を敵に回すことなんてなかったかもしれない。ああ、このお店はそんな遠くからもお客さんが来るんだななどと思ってもらえたら、もしかするとこの主婦は強力な味方になってくれていたかもしれないのだ。地元が地元民にとって自分の一部であるから、その一部分にいい店があるということだけで、自慢になるのである。

 特権意識もそうだけど、何事も口が災いの元だ。僕もゴチャゴチャ言わないで、ボロが出る前にここいらで筆を置こう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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