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2018年6月29日 金曜日

6月29日:執念 (#1082)

6月29日(金):執念

 朝4時頃、左足の裏から脛にかけて引きつるような痛みで目が覚める。両サイドから神経を引っ張られるようなキリキリした痛みが暫く続いた。
 そこからもう一度寝ようと思ったけど、もうダメだ。目が覚めてしまった。おかげで今日は寝不足だ。
 最近、金曜日はさほど忙しくない。そのこともあって、少々寝不足でも気にならなかった。忙しい日にこんな調子だと、寝不足であることが不安材料になって仕方がなかっただろうと思う。

 午後、NHKの人が来た。なんでウチなんかに来るのだろう。テレビの有無を確認して、テレビ設置の際は連絡するようにということだった。
 その前にNHKはウチに対してやることがあるだろう。もう十年近く前になるか、NHKの集金のオバハンがウチのところに来た。
 当時、テレビが置いてあった。しかし、このテレビはテレビ番組を見る目的ではなく、放送大学の講義やドキュメンタリー番組などの録画VTRを見るために置いていたものだ。テレビ番組を見てもいいのだけど、基本的に、日中の番組は見ない。それが習慣になっている。
 オバハンは集金に来たのだ。僕は、このテレビはビデオを見るモニターとして使用しているものだと説明する。オバハンはそれでも払うものは払えと引き下がらない。少々の口論の末、オバハンの言うところでは、テレビを一台でも部屋に置いたらNHKに料金を払う義務が生まれるということだった。ムチャクチャな理屈やな。
 僕も頭に来て、テレビを置くだけで料金がかかるんなら、もうこのテレビは撤去するわ。と断言した。オバハンも次に来た時に撤去されてなかったら料金を徴収すると捨て台詞を吐いて帰った。
 僕はテレビを撤去した。別に構わない。どうせじきにアナログ放送は終了して、このテレビでは観れなくなるのだから。
 僕は約束どおりテレビを撤去した。オバハンは確認に来ない。未だに僕はオバハンが来て、確かにテレビが撤去されているのを確認してもらうつもりでいる。
 NHKは、まず、あの時のオバハンを寄こすべきではないのか。

 こういうところでは僕は執念深いかも。
 開業した初期の頃だ。電話のことで来た業者があった。ウチに迷惑をかけたら、この窓から飛び降りますと豪語した営業マンだった。案の定、迷惑をかけてくれた。その時の営業マンのDを出せと、その会社に文句を言った。Dは降格したと彼の上司から窺ったが、そんなことは関係がないのだ。早くこの窓から飛び降りに来んかい、ということだ。
 あれから13年、未だに僕はDがこの3階の窓から飛び降りに来るのを待っている。

 どちらのケースも、僕のほうからそうして欲しいなどと頼んだわけではないのだ。向こうからこれこれのことをしますと言ってきているわけだ。後日確認に来るといったオバハンも、ここから飛び降りると言ったDも、彼らの方からそれを言い出しているわけだ。じゃあ、僕は相手がそれをするのを待ちますよということになるのだ。
 僕は近頃、自分がもう長くないという強迫観念に襲われている。あと数年の命しかないような気持ちに襲われている。(自分が)やると言ってやっていなかったことや、(相手が)やってくれると言ってやってくれなかったことなんかがあると、心残りでしょうがない。生きている間に実現させ、終わらせたいものだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2018年6月26日 火曜日

6月26日:動画撮影 (#1081)

6月26日(火):動画撮影

 いよいよ動画撮影である。
 朝は早めに来て、室内を掃除しておく。少しばかりリハーサルをやっておこうかとも思ったが、余計に緊張しそうなので中止。ぶっつけ本番でやることにした。
 どうもカメラを向けられるのが僕は苦手だ。明治の人たちは「魂を抜かれる」などと言っていたそうだけど(けっこうな「分裂病的思考」であると僕は思うのだが)、僕は頷ける。自分の分身がカメラの中で生まれるのだから、そう考えると、「魂が抜かれる」は正しい表現であるようにも思えてくる。いずれにしても、感覚的には正しいと僕は思っている。

 撮影自体は1時間程度で終わった。予期していたよりも緊張感がなかった。あまり緊張感が無いというのもよろしくないかもしれないが、まあ、いいや。
 この緊張感の無さというのは、結局、僕が業者に丸投げしているからだろう。こっちのやることはやって、後はすべてそちらにお任せします、という姿勢なので、緊張感に欠けるのだろう。
 まあ、もうどうだっていいや。あまり動画広告に期待はしていない。ただ、そういう広告媒体を持っているということが重要だ。一昔前ならホームページを持っているかどうかだったし、もう一つ昔ならパンフレットを持っているかどうかということが重要だったのと同じで、これからは動画広告を持っているかどうかも問われるようになるだろうと思っている。そういう時に、動画広告も持っていますと言えればいいのだ。

 さて、撮影が終了する。一気に脱力する。
 一応、月末なので、支払い関係のことをやっておいて、そこから外出する。
 梅田の方に遊びに行く。遊びといっても、僕の遊びは一般の人がイメージする遊びとはずいぶん異なる。僕の遊びとは古書店巡りをすることである。梅田の古書店から、天神橋筋の古書店へと、ひたすら歩いて「宝探し」をする。そう、古書店巡りには宝探しの感覚があるのだ。分かる人には分かってもらえるのだろうけど、分からない人からすれば本当に理解不能の感覚だと思う。
 何軒も巡って、エライこっちゃ、8冊も買ってしまった。買うのはいいけど、読む時間があるんかいな。

 夕方になる。暑かったので冷たいビールが恋しくなってくる。梅田に戻り、昔、よく行っていた串かつ屋や居酒屋を回る。懐かしい思いがした。けど、新しい店を開拓しようという気持ちにはならなかった。
 その後、高槻に戻る。これだけ早く帰ってこれるというのは、巡る古書店の数が減少したためでもある。今、思い出せるだけでも6軒は閉店した。同じように、ビールを飲むにしても、昔からある店が減っているのだ。飲み屋はたくさんあれど、通いなれた店は少なくなっている。
 以前なら一日がかりで巡った行程も、今や数時間のものになってしまった。寂しい限りである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2018年6月25日 月曜日

6月25日:ミステリバカにクスリなし(14)「博士邸の怪事件」(#1080)

6月25日(月):ミステリバカにクスリなし(14)~『博士邸の怪事件』

『鉄鎖殺人事件』に引き続いて、浜尾四郎の『博士邸の怪事件』を読む。名作『殺人鬼』と並行して書かれた作品であるが、『殺人鬼』『鉄鎖殺人事件』に比べて、分量も内容も、いささか見劣りがするように感じている。
 本作も藤枝探偵が登場するが、ワトソン役の小川は登場せず、全体が三人称で書かれている。
 物語は、歴史学の権威、簑川博士がラジオ講演の出番待ちの場面から始まる。これから公演をすることになっているのに、二度も博士夫人からラジオ局に電話が入る。百合子夫人の言うところでは、大阪の母親が亡くなったという連絡が入ったので、今から一緒に大阪に行ってくれということだった。博士は無理だと言い、家内のいつものヒステリーが始まったと思う。講演を終えて、帰宅すると、夫人が扼殺されているのを発見する。博士の連絡によって、検事たち一行と藤枝探偵が現場に到着するが、夫人の死体にはおかしな点があった。博士の話が本当であれば、夫人は19時半頃に殺されたことになるのだが、この死後硬直からすると13時頃に殺されていなければおかしいのだった。
 博士はウソをついているのか。しかし、夫人が夜まで生きていたという証人も現れる。そして、あろうことか、藤枝探偵に弟子入りしていた井上が容疑者として浮上してくる。

 この事件は、百合子夫人の殺害時間、殺されたのが昼だったのか夜だったのか、を巡って謎が構成されている。百合子の母親の死がそこに関係するところが面白い。この母親は資産家であった。母親よりも先に娘が死んでいればこの娘に遺産の相続権はない。遺産を相続するためには、娘が母親よりも後に死んだことが証明されなければならないわけだ。
 このような背景があって、殺害時間をごまかすための処置が取られていたのだけど、このトリックはフェアといっていいのかどうか疑問が残る。

 基本的に本格推理小説であり、手がかりはすべて読者に提示されているのだが、どうも凡庸な感じが残る。力作と力作に挟まれた凡作といった位置づけをしたくなる。
 個人的な体験では、前半は割りと面白く読めるのだけど、後半になるほどダレてくる。ワトソン役の小川が登場しないのも難点だ。それに、主人公に弟子入りしている見習い探偵に容疑がかかるなど、いささかプロットに余剰なところが感じられてしまった。弟子が容疑者になってしまうことで、藤枝探偵の動きが制限されてしまったように思われてくるのだ。百合子夫人のヒステリーも、いささか誇張的というか、物語に都合を合わせるような感じがした。
 あと、これは原文がそうなのか、編集の都合でそうなったのかは不明だけれど、会話場面にて、これはどちらの発言なのかはっきりしない箇所もあった。例えば、会話の流れからすると藤枝探偵のセリフのはずなんだけど、相手に向かって「藤枝君」と呼んでいたりするのだ。僕の読み間違いであれば、それはそれでいいのだけど、どうも気になった箇所がいくつかあった。
 悪いところばかりでもない。相続に関する問題など、法曹界で仕事をしてきた著者ならではという感じもする。著者らしさが随所に現れてくるところはファンとして嬉しいところである。
 それに、タバコの吸い口でその人物を推理できるというくだりはなかなか興味深かった。タバコの吸い方一つ取ってもその人の個性や性格が現れるものだ。

 さて、僕の唯我独断的読書評は3つ星である。浜尾四郎は好きな探偵作家の一人なんだけど、本作はちょっと平凡だ。もっとも、繰り返して言うが、その他の作品が良かったので、その分見劣りしているだけなのかもしれないのだが。

テキスト
『博士邸の怪事件』(浜尾四郎)春陽堂


(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2018年6月25日 月曜日

6月25日:活動について (#1079)

6月25日(月):活動について

 地震から一週間ということで、ニュースでもやっていたが、今も避難生活をしている被災者がたくさんおられるそうだ。一日も早い復旧を願う次第である。
 僕の方はと言うと、ごくごく普通の生活に戻っている。被害が小さかったことと、強迫的なまでに日常を戻そうとしていたのが良かったのかもしれない。僕は人生が中断してしまうことに耐えられない。

 さて、今週は何かと忙しい。月末ということもあって、いろんな業務や予定が目白押しである。一週間で、つまり今月内で、終わらせるものは終わらせるつもりだ。
 このブログを読んでくれている人の中には、僕が意外にも活動的であると思っている人もあるようだ。僕は自分ではそうは思わないのだけど、ただ、やること、やらなければならないこと、やりたいと思うこと、などが後から後から生まれてくるのだ。単にそれらに駆り立てられているだけのような感じだ。感情抜きで、ただ、それらをこなしていくことしか考えていないこともある。

 それに活動という概念はとかく誤解されがちである。例えば、引きこもりの人がいるとしよう。この人は周囲の人から見ると活動していないように見える。決してそんなことはないのだ。彼らは彼らなりの活動があるものだ。
 また、躁的な人は滅多やたらと活動をするが、それが活動的であるかどうかは不確かなことである。
 つまり、人が生きていればそれなりの活動が生まれるものである。その人が活動的であるかどうかは活動の量では測りきれないものがあると僕は思う。活動の量とは別にもう一つの次元が要されると思っている。
 それは何かというと、統一性という次元だ。それらの諸活動が統一的、統合的になされているか、それとも解体的になされているかという視点が必要なのだ。躁的な人を例にするとこのことは分かりやすいのだが、こういう人はやたらと活動するけど、その活動は中心がなく、意識を過ぎった事柄に流されていくので、統合されていないのだ。引きこもりの人の活動も、それが何かに発展することもなく、ほとんど暇つぶしのような意味しかない活動であれば、統一的な活動とは言えないわけだ。
 僕が活動する時には、できるだけ統一的なものになるように心がるつもりではいるが、自分ではなかなかそのようになっていないのを自覚する。直近の予定やなんかで流されてしまう自分も感じられている。
 また、今日のクライアントのように、僕の中で緊張が漲るというような人が来られる場合、前日辺りから物事に手がつかなくなるといった状態に陥ることもある。
 そんなことが重なると、いろんなことが後回しにされてしまい、時には慌てて取り返そうとし、時にはそのままウヤムヤになってしまう。とても統一的とは言えない。

 明日は動画広告の撮影がある。この室内を少しばかりきちんとして、見栄えを良くしておかなければならない。朝からそれに取り組んだけど、キリがないと気づき、夕方には投げ出していた。
 こういう時、いつも思うのだ。毎回、その都度、きちんとやっておけばよかった、と。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2018年6月21日 木曜日

6月21日:ミステリバカにクスリなし(13)~『鉄鎖殺人事件』(#1077)

6月21日(木):ミステリバカにクスリなし(13)~『鉄鎖殺人事件』(浜尾四郎)

 昭和初期の探偵小説がアツイ。現状の探偵小説に不満のある連中が「これこそ私の書きたい探偵小説だ」と言わんばかりに個性を発揮しまくって、探偵小説界が大きく花開いた時代だ。
 本作の著者である浜尾四郎も、その時代の作家で、僕の好きな探偵小説作家の一人だ。良家の出なので作品にドギツさがなく、法曹界で仕事をしていた人なので論理的である。要するに、安心して読める推理小説を書く人なのだ。
 ただ、残念なことに、著者は若くして亡くなっており、その執筆期間も8年程度のもので、短編10数編と4作の長編小説を残しただけとなった。それでも日本の探偵小説に残した著者の足跡は大きい。

 本作『鉄鎖殺人事件』は昭和8年、浜尾四郎の第3作目の長編小説である。アメリカで莫大な人気を誇ったヴァン・ダインの作品が日本にも輸入された時期だ。大いに刺激された著者が、自分もヴァン・ダインに匹敵するような作品を書きたいと、そうして意気込んで書き上げたのが長編1作目『殺人鬼』だった。これは当時(恐らく現在においても)探偵小説の白眉とされたものである。『殺人鬼』と並行して『博士邸の怪事件』が執筆され、それに続くのが本書である。4作目『平家殺人事件』は未完成のまま終わったので、本書が著者最後の長編小説といってもいいかもしれない。
 主人公は検事を引退して探偵事務所を開いた藤枝真太郎。頭の探偵で、へヴィー・スモーカーで、尚且つ、女嫌いときている。
 一方、ワトソン役は友人の小川。女好きで、オッチョコチョイで、早とちりをやってしまう語り手である。もっとも、読者を誤った方向に導こうとする困った道案内役でもある。

 物語は、藤枝の事務所に、小川のいとこである大木玲子が来訪するところから始まる。玲子は何か藤枝に依頼したいことがあるようなのだが、殺人事件があったようだと口を濁して、その場を去る。藤枝と小川は玲子の言う殺人現場に赴く。
 殺されたのは質屋の主人で、短刀で刺され、両手を鉄鎖で縛られていた。ろうそくの蝋で描かれた暗号、切り刻まれた西郷隆盛の肖像画、階段に残された丸い跡、若宮貞代宛に書かれた手紙など、現場に残された多くの手がかりや謎が一気に提示され、読み手は引き込まれてしまう。これらの手がかりの意味が次々に明確になるくだりは爽快である。

 一つ謎が解明されても、新たな謎が生まれる。若宮貞代を中心とした錯綜する人間関係の秘密が事件の中心であるが、その全貌はなかなか見えてこない。この辺のスッキリしない感じがもどかしい。
 そして、第2、第3の殺人事件が発生する。藤枝探偵もまた犯人の術中に陥ってしまう。小川は、嫌疑をかけられている玲子を助けたいと思いながらも、その許婚の関山への疑惑を高めていく。その一方で、万引き女の澄江に惚れてしまう。こういう浮き足立ったような小川の言動に惑わされてはいけない。この小川はピエロのように、読者の眼前で芸を披露するが、これこそ作者の思う壺である。
 もし、小川の目くらましに惑わされなければ、本作では事件解決に必要な手がかりがすべて読者に与えられているのが分かるだろう。小川のせいで見落としてしまうのだ。一部を除いて(これは貞代の養女に関する部分だが)、すべてフェアプレイ精神で書かれているのが分かる。
 さらに、プロットがよく練られている。細部に至るまで、辻褄が合うように練られている。こういうのは良質の推理小説という感じがする。
 ただし、恐らく物語を面白くするためでもあるのだろうが、主人公たちが次の殺人事件を許してしまうのだ。結局、6人の殺人(並びに未遂)事件が発生してしまうのだ。敵の術中に陥ってしまうなど、藤枝探偵にも少し生彩が欠け、幾分、物語がダレる部分もある。その辺りが少しばかりマイナス要素である。
 それでも、先述のように、よく練られたプロット、フェアプレイ精神溢れた謎解き要素、藤枝や小川の魅力なども含めて、かなり面白く読むことができた。僕の唯我独断的読書評は4つ星半である。

<テキスト>
『鉄鎖殺人事件』(浜尾四郎)春陽文庫

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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