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2017年10月31日 火曜日

10月31日:歩きと映画鑑賞 (#0969)

10月31日(火):歩きと映画鑑賞

 今日は火曜日、定休日である。休んでもいい日であるが、午前中は原稿を書いたりして過ごす。午後から外出する。職場に行ってもいいが、鍵を忘れてしまったので、そのまま歩きに出る。
 そう言えば、このところ、歩く方が疎かになっている。昨年、膝を割ってから十分に歩くことができていない。今でも歩行に支障を感じる時がある。
 足が悪いから歩かないのではなく、足が悪いからこそ人一倍歩かなければならないのだと、そう考えている。とは言え、なかなか実行できていないのが実情だ。
 普通に歩くことができればそれでいい。山登りができなくても、走れなくても、今は構わないと考えている。でも、歩けなくなることだけは回避したい。僕の努力次第では普通に回避できることである。
 力が入ると膝に痛みが走る。キリキリと痛むのだ。いずれ治るかと思っていたけど、これは治らないかもしれないと最近は思うようになっている。それに、膝を曲げていくと、どうしても一か所、力の入らないポイントがある。これも、もうどうにもならないのかもしれない。
 今は高望みはしない。普通に歩ければそれでいいと思う。でも、これとて、日頃から練習しないと、いつ歩けなくなるかも分からない。

 近所を歩いて、その後、長岡天神まで足を延ばす。久しぶりに天神さんをお参りした。その後で、その周辺を散策する。
 比較的順調に歩くことができた。階段の昇降もまあまあ良くできた。手すりをあまり使わずに昇降できた。
 こういう具合に歩けると、十分回復しそうな期待が持てるのであるが。

 帰宅してからはDVDを見る。
 先日、コスミック出版から出ている「ゾンビの世界」を衝動買いした。1930年代から40年代の映画を中心にゾンビ映画が10作品収録されている。
 こういう古い映画というのは、現代の映画を見慣れている者にとっては、いかにも古めかしく、物足りないと感じられるかもしれないけど、逆に新鮮に感じるところもある。それに、この年代の映画はなかなか触れる機会がないように思う。テレビで放映されることは期待できそうもないし、レンタルにも置いてないこともあるだろう。そういう映画が安く買えるというのも、案外、いいことかもしれない。
 今日、観たのは、ジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」だ。僕は若いころにこの映画を観たことがあるけど、怖かった。確かスティーブン・キングも絶賛していたように思う。
 この年になって観ても、やはり怖いと感じる。ただし、若い頃と比べれば、見る個所とか視点が異なっているのは感じる。いつかこの映画のことを書こう。
 それで、今、少しずつゾンビ映画を見ているのであるが、まだ10作品全部見終わっていない。この選集にベラ・ルゴシ主演作が三作品収録されているのは、嬉しい限りだ。
 ベラ・ルゴシと言ってもピンとくる人は少ないかもしれない。30年代や40年代には人気のあった人だけど、50年代になると半ば忘れられた人だ。晩年は史上サイテー映画監督エド・ウッド作品に出演したという人だ。
 この人、人気があったのが理解できる。きちんと作品を見るまでは、どんな俳優さんなのか分かっていなかった。顔写真だけ見ても、何がすごいのかよく分かっていなかった。作品を見ると、この人の雰囲気がメフィストフェレスを思わせる。表情から、身のこなしから、そういう雰囲気が感じられる。何か独特なのだ。あと、変な言い方だけど、この人の顔には力がある。「顔力」と呼びたいくらいだ。でも、そうした魅力が活かせるのは、やはり40年代までかもしれない。時代が変わってしまうのだ。
 いつか、こういう映画の話もここで展開してみたいと思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年10月30日 月曜日

10月30日:LPを消去する (#0968)

10月30日(月):LPを消去する

 今日はそれほど予定が詰まっていない。それをいいことに本ばかり読んだ。長短の論文を8本ほど読む。どれも既読のものばかりなので、スラスラ読むことができた。
本当ならサイトのことなんかをやっていかないといけないのだけど、どうも今日は気が乗らない。ひたすら勉強した。初心に帰る思いだった。

 電話を数件受ける。取るに足らないものばかりだ。
 先日、「ギャンブル依存が治るか保証できるか」といった問い合わせがあったけど、それについても考えていた。結局、ギャンブル者は賭けることのできない人たちなのだ。僕はそれをさらに確信した。そのセラピー、セラピストを信用するかどうかさえ、彼は賭けることができないでいるということなのだ。そう思うと、僕は自説が正しいことが証明された気がして、何となく気分が落ち着いた。
 今日の電話の中で、いい加減にしてほしいのは、「そちらは病院か」というものがあった。僕のところは「○○病院」とか「△△医院」とか、「××クリニック」などと謳っていないのだから、誰がどう見ても病院ではないということが分かりそうなものだ。
 これが初期の頃なら話は分かるのだけど、12年もやっていて、いまだにその程度の問い合わせが来る自分にたまらなく嫌気がさしている。

 どの人も、結局は、サイトをちゃんと見ていないのだ。ちゃんと見ずに行動をしているのだ。言い換えるなら、サイトを一瞥して、そこから受ける「感じ」だけで行動しているのだという気がしている。
 つまり、感じに支配されている人たちなのかもしれない。少しでも僕の書いているところのものを読めば、上記の二件の電話を僕が受けることはなかっただろうに。
 もちろん、電話をしてくるのは構わない。でも、その都度、僕は作業を中断し、その電話に対応するわけだから、質の高い問い合わせに限定したいくらいである。
 そもそも、その種の問い合わせが来ないように、問い合わせする人の手間もそれで省けるように、サイトに書いているのに、僕の労は呆気なく無に帰される。

 もっとハードルを高くしなくてはならない。本当に決断した人にだけ電話してきてほしい。
 それで、今日、LP(ランディングページ)をすべて削除した。削除しようかという計画はしていたけど、今日、それを実行に移した。業者に作らせると、とにかく、とんでもないものを作りおる。
 軽々しいページを作るのだ。彼らの提案通りのことをすれば、そうなってしまう。そうなるとあまりにも気軽に問い合わせされてしまう。大半の問い合わせは問い合わせする必要のないものであったりする。それに対応する方も無駄な労力である。
 ある相談機関のことだけど、問い合わせだけで月に何百件とあると聞いた。ということは、日々、それの対応に追われるわけだ。彼らがそれをできるだけの労力を確保しているならいいだろうけど、問い合わせする人たちにその行為を控えさせるのも「治療」である。こういう考え方は一般の人やIT業者には分からんことなんだろうとは思う。
 まあ、あまり細かい所は書かないようにしよう。いちいち説明するのが今は面倒くさいと感じているからである。それよりも、僕は僕の生を推進したいと思っているし、今日はそれに従事することにしよう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年10月30日 月曜日

10月30日:「地震の夢」(#0967)

10月30日(月):「地震の夢」

(夢)「地震の夢」
 部屋で横になっている。地震が来たことがわかった。地面が揺れていたわけではないけど、ガタガタといった音がするので地震だと思った。見ると、背の高い本棚が、まるでゴムの棒のように、右に左にと揺らめいていた。僕は最初は気づいていなかったけど、その本棚の横に一人の女性がいた。なぜか上半身裸の女性だった。彼女は僕のところに縋り付いてきたけど、僕はまず服を着てきなさいと彼女に言った。

(連想と感想)
 風の強い日だった。窓からの風で寝室のドアがガタガタ鳴っていた。それが地震を連想させたようだ。
 グラグラ揺れる本棚は、僕は実際に阪神大震災の時に見た光景だった。1995年に見た光景と同じ感じだった。繰り返しこのブログでも書いているけど、今年は初心に戻りたいと考えている。初心に戻るとは90年代の僕に戻るということでもある。震災を経験する前後の時期だ。
 感覚的に、昔を思い出すことが多い。その感覚と通じるのかもしれない。かつて見たものを夢で見る。今はそれを見た当時に近い心境なのかもしれない。
 夢の女性は95年頃の出来事から飛び出すような形で登場している。当時と関係のある女性だということになれば、僕にとってはNさんしかいない。僕の人生を変えた女性だ。僕にとっては生涯忘れられない女性なんだけど、もう一度、彼女のことを思い出した方がいいのかもしれない。彼女との間で僕が経験したことを見直してみるのもいいかもしれない。

 ところで、こういうところでユングの言っていることは正しいと感じるのだけど、生活や人生が一方的というか一面的になりすぎると、それを補償するような形で夢に異性が登場するということを言っている。その通りであるような気がしている。
 僕があまりに男性原理で生きるようになればなるほど、それを補う形で夢に女性が出てくるのかもしれない。そんな気もしている。
 前回の「お宝発見ツアーの夢」の女性にしろ、今回の女性にしろ、どちらも現実には未知の女性であるが、僕に対しては友好的である。でも、前回の女性は自分本位で、周囲と衝突ばかりする女性だったし、今回はいつもハダカでいるような女性だった。抽象して言えば、十分に社会化されていない女性として登場しているとも言えそうだ。
 こういう女性が補償的に登場するということは、現在の僕があまりに男性原理になり過ぎ、社会的になり過ぎようとしているのかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年10月29日 日曜日

10月29日:経験を綴ること (#0966)

10月29日(日):経験を綴ること

 現在18時。朝からバタバタして、いい加減、クタクタになっている。昼食もまだだ。
 半端じゃない疲労感に襲われている。かなりキツイと感じている。
 予定の作業はこなしたが、夕方の一件がキャンセルとなった。まあ、いい。時間が空いたとなれば、昼めしよりも、原稿書きだ。空腹も激しいが、食事なんか後回しにしても死ぬわけじゃあるまい、もうひと頑張りする方がましだ。

 予定の仕事以外としては、ランディングページ(LP)を手掛ける。
 LPに関しては、僕は考え方を一新した。業者さんの作ったページに基づいて僕は作ろうとし過ぎていた。彼らの作った枠組みに自分を無理に押し込めようとし過ぎていた。僕はそれを改める。このLPも僕が作る。彼らのこしらえたものなんか、すべて消し去ってやろうとさえ思っている。
 それでLP用の原稿を書いた。これは複数のページが同内容のものであっても構わない。キーワードによってはそうなってしまうのだ。でも、一つ作って、それをコピーしまくるようなやり方はしないつもりだ。内容が同じでも、一つ一つを書く。そして適度に表現や中身を変える。
 今日は3ページ分書いた。3ページということは、A4用紙で12枚程度だ。
 加えて、サイト用の原稿の読み直しを行い、いくつか修正なり校正なりをしていく。
 それにこのブログも書いている。
 はっきり言えば、面接以外の時間はずっとパソコンと向き合っているという感じだ。ずっと書いている、もしくは、読んでいる。
 今日はこの後もまだまだやるつもりだ。

 具合はよろしくない。最初に膝の感じでそれが分かる。今日は膝が曲げにくい。加えて、腹具合もよろしくない。それもあって昼抜きでも大丈夫なのだけど。
 どれだけ具合が悪くとも、そのためにどれだけ仕事に支障を来そうとも、止まるわけにはいかないのだ。僕の人生が始まっている以上、止まることは許されないのだ。
 僕のことを進歩主義だと感じる人もあるようだ。でも、進歩主義であろうと、終末思想の信奉者であろうと、僕たちが一か所に留まる存在ではないという点では一致しているのではないだろうか。向かう先が明るい未来かハルマゲドンかの違いでしかない。いずれであれ、僕たちは止まることができないのだ。
 毎日、とにかく何かが少しでも前進することが大切だ。そういう思いで日々を送っている。一か所に留まった時点で、その人には上昇も下降もなくなってしまう。そういう不動の在り方を目指すならそれもよろしいかとは思うのだけど、僕は御免だ。

 レーヴィットは書いている。「天才は道を切り開くが、自らはその道を歩まない」と。つまり、天才は何かの領域で道を開拓するのだけど、その道を辿るのは後世の人たちであるということなのだ。うろ覚えなので文章が正しいかどうかに確信は持てないけど、そういうことを言っている。僕も納得できる。
 ただ、レーヴィットと異なり、僕はそれを「天才」に限定しない。先人たちにはすべてそういう要素があるのだ。凡人であれ、彼の生きた軌跡を後世の人たちが辿り、後世の人たちがさらに開拓を進め、さらに次の世代の人たちがその道を辿るのだ。こうして人間は進歩してきたのだと思う。
 僕は僕の書いたものにそれだけの価値があるとは思っていないのだけど、こうして書いて残しておくことが、後の世代、若い人たちの何かに役立つかもしれないという思いもある。
 後世の人たちが、僕がぶつかっているのと同じような壁にぶつかった時、僕がその経験を綴っていれば、彼らは僕よりも先に進んでいくことができるだろう。一部のクライアントはこれを読む。読んで何かの糧を得るという人もある。彼らは僕よりも前を進むようになるだろう。それでいいのだ。
 人間の経験というのは、それ自体、人類の財産なのではないかと、最近は思うようになっている。天才の経験であれ、凡人の経験であれ、狂人の経験であれ、そうなのだ。
 僕は僕の経験していることを書いて残しておく。それが誰かの役に立つかもしれない。でも、誰の役に立ったかということは、最後まで僕には分からず終いなのだ。そういうものだと思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年10月27日 金曜日

10月27日:ギャンブル者からの電話 (#0965)

10月27日(金):ギャンブル者からの電話

 今日は朝のうちに月末の外回り作業を済ませておく。銀行に行ったり、その他の支払関係も済ませる。
 午後から職場入りをする。今日は書き物に専念しようと考えていた。サイト原稿を3項分、A4用紙にして9枚ほど書く。それ以外のブログ側の原稿も3つほど書き上げる。この文章もその一つだ。
 書ける時に書いて残しておく。後から思い出して書くというのは、なかなかたいへんである。書くことが心の中にあるうちに、取りあえず文章化しておく。修正は後でいくらでもできるから、そんなのは後回しにしたらいいのだ。

 夕方、一息入れようとしたら電話が鳴る。びっくりしたね。「ギャンブル依存なんだけど」といきなり切り出された。
 僕のサイトにギャンブル依存お断りとあるのに、見てないようだ。もし受けるのであれば僕の提示した条件を飲んでくれという話がしてあるのに、まったく無視だ。そんなんだから、その人はギャンブルに負けるのだろう。
 さらにその人は「そちらで受ければギャンブル依存が治る保証があるか」と聞いてきた。呆れるわ。ギャンブルはもっと保証があらへんのとちゃうかと僕は思うのだ。勝つ保証なんてまったくないのだ。そんな無保証の行為には無暗やたらと手を出すくせに、僕に対しては保証を求めるなんて、一体、どういうこっちゃ。だから、ギャンブルやる奴は嫌いなんだ。どこか余所へ行ってくれればいいのにと思う。
 そして、その考え方がすでにギャンブル依存者のものなのだ。自分は勝つという保証を自分で勝手にでっちあげるのだ。今回、その保証を僕に作らせようとしているわけだ。人間にはなんの保証もないのである。なんの保証もない中で人は自分自身を選択し、決断しているのである。そこから逃避することなんてできないのだ。ギャンブル者はそこからいくらでも逃避しようと試みたがるのだ。
 ともかく、あんな電話は胸糞悪くなるというものだ。ああ、バカバカしい。いっそのこと「今のあなたのやっている行為から判断すると、あなたがギャンブルから抜け出せる確率はゼロです」と言ってやった方が良かったかもしれない。
 もっと志のあるクライアント、問題意識を持っているクライアントに来てほしい。

 さて、今日はもう疲れた。ここまでにして、夜は酒を飲みに行こう。ムシャクシャしてる。多分、悪い酒になるだろう。僕はいい酒の保証なんて求めない。悪い酒になっても自分の責任として引き受けるつもりだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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