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2017年3月27日 月曜日

3月27日:内省録ー第1回:解説編

3月27日:内省録―第1回:解説編

 内省を読み直していこう。

(1)一度にたくさんのことを言おうとしている。気持ちの上で焦燥感のようなものがあった。それがこの語りにも現れている。ここでは、この内省録の目的、方法、自己の確認、カウンセラーが自分にはいないといったことが一気に語られている。余裕のなさを感じる。

(2)語ることができるものが自分である。自己を有していることの証明をしたいという気持ち。
(3)基本的に(2)と同内容だが、ここでは「生きた自己」という観念が生まれている。生の確認という意味合いが含まれ始めている。
(4)「生」の観念に導かれて「自由」という観念が生まれている。自由であるとは、自分の原因が自分にあることを受け入れることである。自己の確認から自己を引き受けることへと発展している。

(5)ここで最初の抵抗が生まれる。僕は最初からこれが上手く行くとは思わないと述べている。一方で、自分には限界があること、その限界を認めようという決意も見られる。
(6)人には限界がある。これは自然なことだ。ここから、その自然なことを受け入れないクライアントたちへと連想が広がっている。

(7)ここで僕は我に返っている。(6)をそのまま続けていけば、クライアントの話になっていただろう。そちらに入ってしまわないように自分を制御している。自分に目を戻している。今取り掛かっているこの作業に意識を向けている。具体的な経験は語られていないが、それなりに進展しているものもある。

(8)視点が定まらない感じがする。自分に言い聞かせている部分もあるし、自分から距離を置き過ぎている言い方であるという感じもする。
(9)他者の観点が入り込んでいる。僕が観念論者かどうか云々というのは、他者の観点である。同様に、自分が体験を語る方が好きなのだというのは、他者に対する弁明である。(6)でクライアントのことが意識に浮かんだことにより、他者の観点や存在が混入してしまっている。

(10)ここで僕は具体的な出来事、今日の出来事を書いている。そして、この作業は自分に要請されていることなのだと決意を表す。そうすることによって、他者を追い出そうとしているのだと思う。
(11)決意の続きである。自分に課せられているテーマであり、それに取り組むという決意をさらに表明しているわけだ。
(12)運の悪いことに、そう決意しても、目の前に騒々しい団体さんがいて、僕は彼らに目を奪われてしまっている。せっかく他者を締め出したのに、ここで否応なしに意識してしまっている。

(13)目の前の団体さんから、先週金曜日に飲み屋で出会った人たちのことが思い出されている。どちらも騒音をまき散らすだけのお喋りをしているのだ。そして、僕にも同じものがあるということをどこかで認めようとしている。
(14)先週の話からお酒の席での僕のことに話が移行している。ストレスの話になるが、本当はストレスは抱えられるのが自然であり、発散することは自然ではないということを僕は述べようとしているのだけど、それは(6)の話が再現されているのだ。闇雲にお喋りする人たちと一部のクライアントたちを僕は同一視しているのだ。

(15)ストレスの話から「欲求不満」を連想して、さらに以前の自然のことを受け入れないといった連想を引きずっているので、生理的欲求と社会的欲求という話に発展している。両者は性質が違うのが自然であるのに、多くの人にとってはそれが自然とは思えず、両者を同じようなものとして考える。

(16)社会的欲求の中でも愛情欲求、承認欲求を取り上げている。この二つが大きいからである。クライアントたちを見ていてもそれを実感する。僕は過去において両者を得た。そこをしっかり見なければならないと、半ば自分に言い聞かせる。
(17)社会的欲求はエスカレートしていくが、価値をどこに置くかで変わるという自説を展開している。自分が得た対象に価値を置くか、対象を得た自分に価値を置くかである。

(18)その個人的な一例としてクリニック時代の話が思い出されている。N先生が自分をすごく高く評価してくれたこと、期待してくれたことの思い出だ。N先生が僕を高く買ってくれたことではなく、N先生に高く買ってもらえた僕の方に価値を見出さなければならないということである。
(19)僕を高く買ってくれたN先生の方に価値を置くと、N先生と決別後、僕はN先生の代わりの人たちを求めていただろう。他の人からもそれと同じもの、いや、それ以上のものを得ようとしていただろう。それは心的には同一地点に留まり続けることを意味している。そういうことを言おうとしていたのだ。上手く言えた感じがしていない。そして、僕は僕のしたことが間違っていないということを示したいのだ。

(20)本当は自分のしてきたことは間違っていないということを主張したいはずなのに、僕はそれを回避している。それを主張する代わりに、「価値とは何か」といった観念に向かい始めている。これは僕の中で生じているある種の抵抗である。

(21)価値を定義することはできないけど、それが努力の根底にある。価値を置いているものしか努力できないし、継続できない。動機づけや意志の力といったものはそれと関係がないのだ。これもまた自然なことであるのに、自然であると受けいれないことが多い。今回の内省録は、そのことが通奏低音のように聞こえてくるようだ。僕にとって、それが自然なことだと思われているのに、他の人にとってはそうではないらしいというテーマが常に潜んでいるように思う。

(22)僕がカウンセリングを続けていられるのも、そこに価値を置いているからである。ここでカウンセリングが再び意識に入ってくる。

(23)それに続いて、カウンセリングの場面で出会う人、例えばパチンコ依存の人を取り上げている。基本的には(21)(22)と同じ主張が繰り返されているのだけど、やはり、ここで「自然なことなのに、それを認めない」という通奏低音が響いてくる。

(24)ここで価値を金銭に換算するという話が出てくる。富の話をしたこと(17)やパチンコ依存の話(23)からお金の連想が働いたかもしれない。パチンコ依存は、勝ち負けを金額で計算するし、お金の問題は彼らの主要問題の一つである。

(25)ここで散漫だった連想に一つの決着がつく。まとまりが生まれる。価値の定義の問題もここで収斂される。N先生の話からカウンセリングの話へという展開はすでに生じていたが、ここでも同じ流れになっている。価値とは交換不能性であるという定義の問題もこれで落ち着く。
(26)ここでは(19)の主張が繰り返されているのだけど、交換不能性(他でもない僕が経験したこと)の概念が加わっている。

(27)ここで承認欲求の話が復活する。それをサイトのフォロワーを例にして述べる。

(28)サイトのことが意識に上がる。カウンセラーを探している人が多いという、先日の業者の言葉を思い出し、それについて述べている。ここにもあの通奏低音が響いてくるようだ。探している人が検索するというのが自然だと、業者さんはじめ、多くの人が信じているだろうと思う。僕は、探している人は訪れる(行動に移す)のが自然だと考えているわけだ。

(29)そうして探し続ける人たちから、「治らない人」イメージが連想されている。ここでも僕はあの通奏低音を聴く思いがする。治療者が拙いから治らないとか、病気が重いから治らないとか、そんなふうに考えるのが自然だと思うだろう。僕にとって、それは自然なことではないのだ。その人が治らない人間だから治らないのだ、それが自然な考えであると僕は思うわけだ。

(30)先の(29)に関して、僕も最初はそう考えていなかったことを打ち明ける。正直にそれは認める。時間があれば、その根拠をもっと語っていたかもしれないが、時間が来て、ここで終了することとなった。ちなみに、ここに至って(4)の命題、「自分は自分の原因である」が復活することになった。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2017年3月27日 月曜日

3月27日:内省録―第1回

3月27日(月):内省録―第1回:内省篇

 人生に行き詰ると、僕は自分自身を語り直したくなる。今までもこれをしてきたし、過去にはそれをサイトに挙げたりもした。基本的には同じことを繰り返すことになるだろう。大体1時間程度、思いつくままに綴る。内容が散漫になろうとお構いなしだ。その中で僕の心がどう動いたかを見る方が大切なのだ。それだけではない。僕の心がきちんと動くかどうかも確認したいのだ。僕は自分自身を語り直す。本当はカウンセリングを受けるのがいいのだけど、僕にはそういうカウンセラーがもういない。師匠のI先生にお願いしてもいいのだけど、時間と労力とお金の問題がある。僕は自分だけでこれをやっていかなければならない。(1)
 もし、僕が自分を語り直すことができるとすれば、僕には語られる自己があるということだ。これが重要なことだ。自己を持たない人は自分を語ることができない。と言うのは、語ることができるものが自分だからである。(2)
 もし、僕が生きた自己を有しているなら、僕は僕自身について語ることができるはずである。他の誰かではなく、僕自身のことが語られるはずである。そうして語られる僕は、そのまま僕自身である。僕はそう考える。そして、語り直せば語り直すほど、僕は自分を確かなものにしていく。(3)
 僕は自由な人間でありたい。自由でいたい。自由でいたいから、僕は自分に関するあらゆる事柄の原因が自分にあるということを認める。もし、僕がより良く生きていけないなら、その原因は僕自身にある。もし僕が病気になったり、あるいは、病気を治せなかったりしたら、その原因は僕にある。まことに、僕は僕の原因なのだ。他の誰かのせいでこうなったなんてことは言えないのだ。それは僕が自由を放棄することを意味するからだ。僕が僕自身に関する事柄の原因を他者に求める時、僕はその他者に自己を拘束させることになる。だから僕は自由を失う。(4)
 語り直すのも僕自身だ。この語り直しが上手くいくかどうか、その原因は僕自身にある。他の誰かのせいではない。もっとも、これに慣れるまでは、いくつもの不手際をしでかさないといけないだろう。最初から順調に行くとは思わない。何度も試行錯誤して、回り道して、ようやく、この作業に馴染んでいくだろう。僕は僕の限界を受け入れる。今の僕にできることの限界を受け入れる。(5)
 クライアントたちを見ていて思うのは、彼らはあまりにも当たり前のことを受け入れないということだ。人間にとってそれが自然であることなのに、彼らはそれを異常な事態だと考える。彼らはそこを間違う。そこを間違うが故に、彼らは自分の自然を受け入れられず、同じところに留まり続ける。勿体ない人生だと僕は思う。(6)
 しかし、僕はまだ何も自分自身を語り直していない。僕の中にある観念だけを綴っている。これは告白でもなんでもない。説教である。論文である。僕はまだ自分に何も触れていない。もしくは間接的にしか触れていない。(7)
 僕は生きている。僕が生きるということは、僕自身を育てていくことなのだと思う。人は自分を育てていかなくてはならないのだ。誰かが代わりにやってくれるなんてことはないのだ。他人はその手伝いができる程度だ。僕は僕自身を育てなければならない。そして、これは終わりのない作業なのだ。僕たちは決して完成されることなんてないのだ。ただ、常に上を求めるしかないのだ。(8)
 僕は悲観的すぎるだろうか、それとも観念論者であろうか。僕自身はそうは思っていないのだけど、見る人によってはそんなふうに見えるかもしれない。本当は具体的なことを好む人間だと思う。人は対象を分析することが好きな人と、自分の体験を語ることを好む人とがあると思う。どちらかというと、僕は後者なのだ。サイトを書くよりも、ブログを書く方が好きなのもそのためだ。僕は人や事物を分析することをあまり好まない。ただ、そうしなければならないからそうするだけであって、本当は自分の体験したことを語る方が好きなのだ。(9)
 今日、本当は病院に行く予定をしていた。午前中はそれで空けていたのだけど、体の具合が芳しくなく、普通に休息した。午後から職場に出て、面接と事務仕事をこなした。どうしても具合の悪さは感じられるし、その不調をどうにもできないでいた。今、これを書いていても、気分は優れないでいる。こんな状態で自分の語り直しをやっていこうというのだから、あまりいい試みではないかもしれない。でも、一方では、これをしていかないといけないという気持ちもある。僕は自分の生に行き詰っていることを感じているからであり、これは僕が取り組むことを要請されているのだ。(10)
 僕は生きなければならない。生まれてきた以上、最後まで生きなければならない。それもただ生きているだけでは意味がないのだ。しっかり生きなければならない、よりよく生きなければならない。これは僕だけでなく、すべての人に課せられているテーマだと思う。僕はそれに取り組む。(11)
 僕は今これをいつもの喫茶店で書いている。僕の前には団体さんが座っている。がやがやと騒がしい。彼らを非難するつもりはないけど、僕はそれが真実の生き方であるとは思わない。ただ歓楽があるだけというのは、幸福でもなんでもない。その場限りの何かでしかない。(12)
 先週の金曜日だった。最後の時間が空いたので、早めに職場を出て、呑みに行った。騒々しいおばさんと、やはり口数の多いおじさんがいた。彼らを見て、僕は自分がつくづくイヤになった。酒を飲んで、騒音をまき散らすだけの人間にはなりたくないけど、僕も同類なのだ。何かを語っているわけではない。ただ、言葉を発しているだけで、沈黙になることを過度に恐れ、話すことがなくなれば他人に絡んで、そうして騒音をまき散らしているだけなのだ。そう、彼らは黙っていられないのだ。疾しいものが心の中にあるためだと思う。自分をごまかして、それを見てしまわないように常に他のことに目を奪われなければならなくて、尚且つ、自分自身を語らないように喋らなければならない人たちだ。もちろん、彼らが悪いと言うつもりはない。それは彼らの生き方なのだ。僕はそこから抜け出たいと思うだけである。(13)
 基本的に、僕はお酒を飲むときは独りだし、無口に飲む方だ。お喋りをしないとストレスが溜まるでしょうとママさんからも言われる。おそらく一般の人はそう考えるのだろう。本当はお喋り自体はストレス解消にはならないのだ。その前に、一人の人間がストレスを発散されることほど、傍迷惑な行為はないのである。僕はそれを知っているので、少なくとも、人と一緒の時や公共の場にいる時に、僕は自分のストレスを解消しようなどとは望まない。ストレスは発散されるものではなく、解消されるべきものでもない。それは抱えられるものであり、それを抱えることのできる人間になること、それを僕は目指したいとさえ思う。(14)
 ここを間違える人も多いのだけど、生理的欲求と社会的欲求とは性質が異なるものである。多くの人がそれを同じ種類のものだと考える。生理的欲求、例えば、食欲なんかは、食事をするとそれで納まる。満たされるとその時点で終わるのだ。社会的欲求の方はそうした性質を有していないのだ。満たされるとさらに要求水準が高まるものなのだ。例えば、承認欲求というものがある。誰かに自分のことが認めてもらえる。それで満足することもあるだろうし、それによって一時的に納まることもあるだろう。しかし、そうした欲求はさらにより大きい承認欲求に発展していくものである。あることで承認してもらえたとする。やがて、そのことで承認されても、その人はもはや何の感動もないだろう。そして、それ以上の何かで承認されることを欲していることだろう。食欲の場合、空腹が満たされれば、一応、それでOKだ。より美味しいものを食べようと、貧相なものを食べようと、空腹を満たすという観点に立てばどちらでもよいことになる。それ以上に発展するということがあまりないのである。(15)
 社会的欲求には愛されたいというものもある。これもやがては普通の愛され方では満足しなくなるかもしれない。いや、実際、そういう人もある。富を得た人がさらに富を求めるように、こういう欲求はエスカレートしていくものだ。どこかで終わりを見つけなければならない領域であるかもしれない。僕は愛されたいとも認められたいとも、今ではほとんど思わなくなっている。確かに過去においてはそういう欲求を強く有していた。僕は僕なりに、これまでの人生で十分愛されたと思うし、十分に認めてもらえたとも思う。ここをしっかり見ないと、僕は今でもそれを求めて止まなかっただろうと思うし、さらに大きな愛と承認を求めるようになっていたかもしれない。(16)
 分かりやすい例で言えば、富ということで考えてみよう。富を得ると、さらに大きな富を求めたくなる。それは富に価値を置いているからなのだ。しかし、それだけの富を得た自分に価値を置くようになると、富自体はもはや魅力ではなくなる。僕が僕自身に価値を見出していけばいくほど、社会的欲求は抑えられていくだろう。そうした欲求を持つこと自体は悪いことでもなんもないのであるが、それが大きくなっていくことが問題なのである。(17)
 僕がクリニックにいた頃、僕によくしてくれたN先生がいた。そのN先生と呑みに行った時だった。N先生は店の人に僕を紹介してくれた。その時、「うちの跡継ぎにしようと思っている」と言ってくれたのを今でも覚えている。N先生がどういうつもりで言ったかは分からない。それでも、僕のことをそこまでかってくれたのは後にも先にもN先生だけだと思う。今後、そこまで僕に期待をかけてくれる人なんて現れないだろう。僕はそこで十分満足するべきなのだ。クリニックの後を継がせたいとN先生に思ってもらえる自分に、僕は自分の価値を見出さなければならないのだ。この欲求をさらに他の人でも満たそうとしてはいけないのだ。あの時の快感が忘れられないからといって、さらにこれを満たそうとしてはいけないのだ。そうすると、そこに拘泥してしまって、僕はそこから一歩も動けなくなってしまう。愛も承認も一度で十分なのだ。(18)
 N先生はそこまで僕を高く買ってくれた。結果的に、僕はそのクリニックを去ることになったし、N先生ともその後会うことはなくなった。それでも、僕の中にその経験は軌跡として残っている。今、僕がこうして開業することができているのも、この時の経験が大きいと思う。もし、僕が今でもそういう期待を求めているとすれば、N先生から他の先生へと渡り歩いていたことだろう。どの先生からも過大な期待を求めるようになっていただろうと思う。期待や承認に価値を置いてしまうと、そうなっていただろうと思う。高く買ってもらえた僕自身に僕は価値を見出さなければならないのだ。(19)
 しかし、価値というのも実に曖昧な言葉である。自分の価値と言っても、何となく僕はそういう言葉を使っていたけれど、本当はそれをどう定義していいのか分からない。我ながらいい加減なものだ。僕は価値ということをどのように定義していいか分からないし、自分にはとてもそういう定義が思いつかないとさえ考えている。(20)
 それでも僕は価値という言葉を使う。明確に定義づけできないとしても、僕は自分の価値というものに価値を置く。人は自分が価値を置いているものに努力するものである。それが好きだから続けられるのではないのだ。それが好きであるというのは付加的なものでしかない。それに価値を置いているから継続できるのだ。それをする動機というのは、最初のきっかけに過ぎない。(21)
 僕がカウンセリングを続けているのは、それが好きであるだけではない。それに価値を見出しているからなのだ。カウンセリングを始めた動機はあるとしても、動機はあくまでも最初の一歩に関係するものである。それに価値を置いているから、僕はそれを続けることができるのだ。(22)
 何事もそうである。パチンコが止められないという人がいる。僕もそういう人と何人も会ったことがある。そういう人は、なぜパチンコをするかという動機に拘る。言い換えると、なぜそれが止められないのかという部分に拘るわけである。しかし、その人がパチンコを止められないのは、その人がパチンコになんらかの価値を置いているからなのだ。どんな価値を付与してしまっているかを度外視して、最初の動機に拘るので、彼らはなかなか進展しないのだ。(23)
 さらに言えば、価値を金銭で換算してしまう人も多い。年収や納税額でその人の価値が測られることもある。たくさん稼ぐ人が、必ずしも、優秀な人間とは限らないのだけど、人はしばしばその人の所有している富とその人自身とを同一視してしまう。僕はそういうことはしたくないと思う。その人の価値は金額に換算できないものである。別の言い方をすれば、ある品物の価値はその金額とは関係がないということである。高価な商品は、それに価値があるのではなく、それにかかる経費に拠るものである。価値ではないのだ。価値は金額とは別に付与されることもある。希少価値があるものは高価になるが、それでもその金額は価値そのものではないのである。もともとの価格に、人工的に付与された金額が合算されているだけのことである。(24)
 価値とは換算することも交換することもできない何かである。僕が僕の価値を見出す時、それは僕でしかない何かを見出している時である。N先生が僕を高く買ってくれた。跡継ぎにしようと考えていると言ってくれた。それは僕だけである。N先生の他のお弟子さんではない。そこに交換不可能性を見出すから、僕はその体験をした僕に価値を見出すのである。僕はカウンセリングに価値を見出している。カウンセリングをしている僕に価値を見出す。そこには交換不可能な何かがあるからだ。お金に換算できない何かがあるからなのだ。僕のカウンセリングは僕だけにしかできない。いくら僕より優れたカウンセラーさんがいようと、そこは変わらない。(25)
 僕が経験したこと、他でもないこの僕が経験したことの故に、僕の経験は僕にとって価値があるのだ。そして、その経験をした僕自身に価値を覚えるのだ。それをもたらした対象に価値を見出したら、対象に価値を置くことになり、僕はその対象を死ぬまで追いかけ続けるだろう。そうすると、それはエンドレスの追跡になるだけなのだ。(26)
 誰かに認められること、大勢の人に認められることは、僕にはもう興味がない。僕のサイトにどれだけフォロワーがいるのか知らないけど、そんなことに拘らなくなっている。一番最初のHPでは、「お気に入り登録数」っていうものをすごく意識していた。駆け出しだったから、どうしてもそうなってしまうのだけど、その登録数で一喜一憂することも度々あった。独立して、独りで社会に飛び出したので、自分がどれだけ受け入れられるかということに並々でない関心が向かったのだ。当時としては、それも仕方がなかったと思う。今や、僕のサイトがどれだけ閲覧されているかなんてことにほとんど注意しない。データを確認するのは、僕のHPが他の人のところにちゃんと届いているかどうかを見るためだけである。もし、閲覧者がゼロであれば、何かサイトに不具合が生じたということであり、それは早期に発見して、早急に対処しなければならないことである。今の所、そういうアクシデントはないが、もし、そういうことが生じた場合のために、データを確認しているだけなのだ。はっきり言って、直帰率も復帰率も、滞在時間なども含めて、大半のデータに興味がない。見る人は見るし、通り過ぎる人は通り過ぎる。僕のページが開くか開かないかだけが問題なのだ。(27)
 今、カウンセラーを探している人が多いって、先日もIT業者から伺ったけど、僕には関係がない。彼らは探している人が多いから、うまくマッチングさせましょうと提案するわけだけど、どうでもいい。カウンセラーを探している人は、探しているだけで終わる人も多いだろうと思うからだ。はっきり言えば、カウンセラーを探しているのではなくて、何か他のものを探しているのだと僕は思う。そういう人が多いということなのだと僕は思う。本当にカウンセラーを探している人は、カウンセラー探しに時間をかけないものである。僕は自分の経験からそう言える。本当に必要としている人は、適度に探す行為はあるものの、どこかで決断するものである。つまり、行動に移すものである。サイトからサイトへ、ネットサーフィンばかりして探している人に、僕は期待しない。カウンセラーと会うことではなく、その探索行為自体がその人の目的になっていると思うからだ。そうして探してばかりいる人たちに、僕は迎合するつもりなんてないのだ。彼らが捜しているから、彼らに提供しましょうなんていう気持ちがさらさらないのである。(28)
 探す人は一生探し続ければよい。僕は一つ確信していることがある。彼らは少しでもいいカウンセラーを探しているつもりでいるかもしれないけど、本当は関係ないのである。治る人と治らない人とがいるだけである。治らない人はどのカウンセラーにかかっても治らないのである。他のカウンセラーで上手く行かなかった人は、僕がやっても同じである。そうして治らない人はカウンセラーを転々としているけど、自分を治してくれるカウンセラーがいないのではなく、自分が治らない人間であることを自覚していないのである。その人たちに必要なのは、治ることではなく、治る人間になっていくことなのだ。カウンセラーの優劣なんて、そこにはほとんどなんの関係もない。(29)
 若いころ、僕もそこをかなり誤解していた。治る病気と治らない病気、あるいは克服できる問題とできない問題の区別があるのだと信じていた。経験を積むうちに、その区別そのものが間違っているということに気づいた。もし、僕が治らないのであれば、その原因は僕にあるのだ。僕がそれを克服できないとすれば、その原因もやはり僕にあるのだ。カウンセラーにあるのではない。すでに述べたように、僕は僕の原因なのだ。因果は、もしそれがあるとすれば、すべて僕の中にあるのだ。原因も結果も僕の中にあるのだ。もし、僕が僕自身の人生を良いものにしていけないとすれば、その原因も責任も僕自身にあるのだ。僕は少しでも、そういう自分を改善していきたいと思うし、改善できる人間になっていきたいと思う。(30)
(時間が来て終了)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年3月21日 火曜日

3月21日:こういう日もあり

3月21日(火):こういう日もあり

 朝の4時まで書きものをしていて、それから寝たのだけど、案の定、寝坊してしまった。定休日なので、朝寝しようと構わないのだが、なんとなくもったいない気がする。
 昼ごろ起きて、そこから散髪に行く。そろそろ髪の毛がうっとうしく思われていた。ロン毛に憧れはあるが、そこまで伸ばす前にうっとうしく感じられてしまう。一度も伸ばしたことがない。
 散髪の後は、先週同様、ウォーキングだ。雨の中、長々と歩く。雨の日は、寒いよりかはましかもしれない。今日は、痛みはない。その代わり、ひどく曲げにくい。階段の昇降以外、杖はほとんど使うことはない。それでも、今日は杖を持っていてよかったと思う場面があった。雨で路面が濡れていて、足を滑らしてしまいそうになった。あの時は杖があってよかった。下手すると、こけていたかもしれない。
 とにかく、体が資本だ。転ばぬ先の杖くらいの気持ちでいよう。自分の体力を過信して無謀なことなんかはしないようにしよう。それに、足の怪我がなかったとしても、無謀なことができる年でもないんだから。
 先週から体力をつけるようにしている。と言っても、特別なトレーニングとかをしているわけではないが、できるだけ体を動かすようにしている。そのおかげもあるのか、今日は先週よりも、歩いていて、疲労感が少ない。
 夕方から高槻に出て、職場にこもる。本を読んで過ごす。
 その後、真っ直ぐに帰宅。
 帰宅してからは、昨日に続いて、今日もマカロニウエスタンを観る。今日、チョイスしたのは「皆殺しのガンファイター」だ。アンソニー・ステファン主演、エドゥアルド・ファヤルドが悪役だ。床屋の父娘が印象に残る。すごい日本語タイトルが表しているように、ガンファイトシーンがふんだんにあり、セリフに比して銃声の音がやたらとでかいのが特徴的だ。
 その後、今日はもう寝てもいいかと思ったが、寝ようとすると、なんか時間がもったいなく感じられてしまう。それで、家のパソコンでこのブログを書いている。
 今日は酒も飲まず、知った人間とも会わずの一日だった。そういう生活もありだな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年3月20日 月曜日

3月20日:一日を終えるまで

3月20日(月):一日を終えるまで

 世間は三連休なんだな。今日がその最終日ということだ。僕は別に休みたいとは思わない。休みの必要な人は休んだらよろしい。今の僕は、休むのがもったいないって感じられている。

 昨日も書いたけど、今日は予約が一件キャンセルになった。その時間を利用して、溜め込んでいたブログを一部公開した。面白くもなんともないブログを10日分ほど公開した。
 サイトの方も疎かになっている。先週も2件ほど新規の人を受け入れたので、今はその人たちのために時間を割かなければならない。このサイトが一番大事なのに、一番後回しになってしまっている。
 このサイトが大事というのは、これしか僕と外界との接点がないからである。他のメディアを活用しているのでもないし、複数のサイトを手がけているわけでもないから、このサイトだけが窓口なのだ。

 そう言えば、アイタウンページのが公開されたと聞いたな。タウンページのサイト版だ。僕が開業した当初は利用していた。当時とは大分システムも変わったということなので、試しに一年だけ公開することにしたのだ。間違いなく一年だけで終わる。これは目に見えている。それ以上継続する気が僕にはまたくないからだ。
 でも、たとえ一年であっても、ウチのページがある以上、それは作っていかないといけない。まあ、ボチボチやっていくか。
 このアイタウンページであるが、先日のIT業者さんから聞いて、初めて公開されているのを知ったのだ。なんでNTTが知らせてくれないのか、訳が分からん。
 その業者というのは、50万円の商品を売りに来た連中だ。彼らは言うのだ。「カウンセラーを探している人が多い」と。だからその人たちにより検索されるようにしようとあの業界の人たちは言ってくるのだけど、余計なお世話である。

 カウンセラーを探している人なんて決して多くはない。そういう検索が多いだけなのだ。もしくは、カウンセラーをずっと探し続ける人たちだ。そういう人が大半を占めているんじゃないかと、大した根拠もないくせに、僕はそう信じこんでいる。
 カウンセリングに関する検索が多くても、その人たちがみんなカウンセラーを探しているわけではない。もっと言えば、カウンセラーなんか探していなくて、もっと他のものを探しているのだ。本当にカウンセラーを探している人だったら、いつまでも検索していないはずなのである。カウンセラーと会うことができないから、その人たちは検索をし続けなければならなくなるのである。具体的なことをここでは言わないけど、僕はそう信じている。

 さて、サイトのことも、アイタウンページのことも、それに書籍のことも手がけなければならない。新規のクライアントのことも、継続中のクライアントのことも、中断したクライアントのことも、僕は考えていかなければならない。

 おっと、今、「ねばならない」なんて言葉を使ってしまったな。悪者とみなされる表現だ。僕はそんなことは思わない。自分に基準があるから、「ねばならない」が生まれるのだ。そして、それが自分にとって大事な領域だから、そういう基準ができるのだ。従って、それほど重要でもない領域で「ねばならない」思考が稼動するのが悪いわけであって、この思考そのものが悪いわけではないのだ。「ねばならない」という思考を完全に放棄するということは、その人は自分なりの基準を何一つ持たずに生きることを意味する。僕はそう思う。

 今のは余談だった。あれこれしなければならないくせに、今日は帰宅するとマカロニウエスタンを観てしまった。
 例のマカロニウエスタンDVDコレクションだ。初期の頃は、一つの作品を二度、三度と鑑賞したものだけど、だんだん、それもなくなってきた。だから、最近のものは一回しか観ていないものも多い。
 その反省も踏まえて、今日はまだ一回しか観ていない「荒野の処刑」をチョイスする。これはなかなかいい映画である。ホラー映画で有名になったルチオ・フルチ監督らしく、なかなか残酷なシーンがあり、ウエスタンには珍しくスプラッターなところもある。最初は嫌悪感も覚えたけど、こうした残酷な描写は、中盤から後半における感動的な場面、美しい場面をいっそう引き立ててくれているのだと思った。出演者も個性的である。中でも悪役のトーマス・ミリアンがいいね。

 その後、寝ようかと思ったが、何となく、このまま寝るのはもったいない気がしてきた。どこかで今日一日を終えることに抵抗している自分がいる。それで、ずっと書きものをして過ごした。
 朝の4時。そろそろ眠たくなってきた。これは、もう一日を終えてもいいというサインだな。終えてもいいというお許しを得たのだな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年3月19日 日曜日

3月19日:残念である

3月19日(日):残念である

 今日は朝のうちにいくつかの雑用をして、午後から仕事をする。その後は勉強と書き物をして過ごそうと考えていた。

 夕方。明日のクライアントからキャンセルがあった。キャンセルではない。中断の申し出だ。もう来たくないというのなら仕方がないけど、明日を最後にしてはどうかとも勧めてみた。
 昨日、この人のことをずっと考えていた。この人に対象恒常性の概念をどうすれば伝わるだろうかと、頭をひねっていた。一応、僕なりにこう伝えてみようという案は出来上がったものの、来られないのであれば、僕の苦労も水泡に帰しただけだった。まったく、無駄骨だった。
 この人は、このブログを見ることなんてないから、少々のことは述べても差し支えないだろう。去年の12月頃から来られるようになったクライアントだ。コンスタントに来られていて、それなりにいい方向に向かいつつあった。僕の印象では、最初に来られた頃よりも安定した4か月だったのではないかと思う。
 せっかくいい調子で来ていたのに、この動きに耐えられなくなって、暴走を始める。この暴走がその人の困ったところである。暴走すると、何もかもが破壊される。お互いの感情も関係も破綻してしまう。だから、何があってもこの暴走だけは止めなければならない。力づくでも止めなければならない。でも、もう誰も止められないのかもしれない。僕でさえ、その抑止力にならなかったのだ。
 この人の過去を見てみると、共人間的に生きることのできた時代もあった(だからこの人は理解することができると僕は信じている)し、何度か改善の機会もあった。すべて破壊してきた人だ。今回、この人にとっては最後のチャンスだったかもしれない。もう後はないかもしれない。と言うのは、この人の年齢的な部分が関係しているのだけど、今後はさらに改善が難しくなっていくだろう。
 それに、以前、この人が治療を受けていた時と今とでは、この人の状況も違う。当時より、今の方が困難な状況だ。状況はどんどん困難になっていくだろう。
 そう考えていくと、今回がこの人にとって最後のチャンスだったかもしれないと思われてくるわけだ。僕との関係も断って、その他の関係も断っていって、一体、何をするつもりなんだろう。何が何でも一人で生きてみせるといった気概のある人ではないようだし、それだけ強い人ではなかった。いずれ人格が破綻していくかもしれない。今回はその瀬戸際だったかもしれないのに。
 瞬間的な感情で、この人は過去のすべてを自分から締め出してしまう。その時には、この人の中には誰も存在しないのだ。この人は決して見捨てられた人ではなかった。過去において、この人に親切にした人もいたし、仲良くした人もいた。大切にされた経験だって、この人にはあるのだ。それらすべてを心から締め出す。憎悪一色になるのだ。
 この人によくしてくれた人を、この人は恨むかもしれない。いつか僕も恨まれるだろう。もし、続けたいけれどお金がないというのであれば、僕はこの人の経済状況もなんとなく察しているので、僕も考えただろう。しかし、もう続けたくないそうだ。この人がどうなろうと、もう僕の及ばないところに行ってしまった。

 僕は確信している。以前もどこかで書いたと思うけど、「治る病気」と「治らない病気」(あるいは「克服できる問題」と「克服できない問題」)があるのではなく、「治る人」と「治らない人」(「克服できる人」と「克服できない人」)とがあるのだ。病気や問題の種類よりも、その人自身の方が要因が大きい。
 確かに「不治の病」はある。しかし、不治の病に罹患して、そこで絶望し、自分を断念してしまう人と、それに罹患しても自分の人生を諦めず、最後まで生きようとする人とでは、まったく違うのである。「病気」というところに目を奪われ過ぎてはいけないのだ。
 つまり、「病気を治す」前に、「治る人間」にならなければならないのである。まだ、その途上だったのに、残念である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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