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2017年2月28日 火曜日

2月28日:ハダカ芸はこりごり

2月28日(火):ハダカ芸はこりごり

 先週の金曜日から昨日の月曜日までは割と忙しく働いた。面接もあったし、月末ということでそれに関しての作業もこなさなければならなかった。
 今日は定休日だ。今週も水曜、木曜はそれほど忙しくないので、この3日間は書籍の原稿を書いていこうと計画している。毎日、一定時間を執筆に割こうと考えていたけど、案外、このやり方もいいなと思えるようになった。4日間、構想を練ったり、メモを取ったりして、3日でそれを文章化する。同時に先週書いた分を読み直し、校正する。

 今日は今まで書いた分を節ごとに分けた。章単位で考えるより、節単位で書いて行って、それから並べ直していく方がやりやすそうに思われたからだ。A4にして1~4枚の節が20ほどになった。それなりに書いている方だと思う。

 本を読む時間が少なかった。昨日、どういうわけかジルボーグの『医学的心理学史』を読み始める。もっと書籍に関係する本を読むべきなのだが、妙にこの本のことが意識されていたのだ。僕はそういう時は無意識に従うことにしている。
『医学的心理学史』は、一昨年だったかな、古書店で見つけて購入したものだ。買ったのはいいけど、パラパラとページを繰っただけで、そのまま書架に仕舞っておいたのだ。何しろ大著である上に、なかなかそれを読み通す時間とエネルギーが確保できそうにないと思われていた。
 どうして読みたいと思ったのか、その理由も分からぬまま、読み始める。昨日は3章まで読み終えた。
 この先、どのような叙述が現れるのかは分からないけど、ここまで読んでみて、何となくこれを読もうという理由に思い至った。この本は、臨床心理学の歴史に関する本であると同時に、過去から現代までの優れた臨床家たちの記録でもある。そういう優れた臨床家の姿に触れたいと、そんな思いがあったように思う。
 今日は4,5章を読む。

 夜、テレビでも見ようと、何気なくテレビをつける。ちょうど「R1グランプリ」なるものが始まった。ピン芸人のやつだ。見ていたけど何も面白くない。最近はこういうのが面白いっていうことになっているのか。
 僕の中では一人目のRGさんが面白かったのだけど、全然票が入らなかった。どうやら、ネタの面白いかどうかよりも、ノリとか世界観が合うか合わないかで決まるようだ。
 結局、ハダカ芸の人が優勝した。何も面白いとは思わない。それに、あのハダカ芸だけはホントに勘弁してもらいたいものだ。必ずマネる奴が出てくるのだ。小島よしおさんがブレークした時でも、居酒屋なんかで小島よしおもどきを何人も見かけたものだ。ハダカ芸人がブレークすると、そういう席で「もどき」を見ることになり、非常に不愉快になるのである。ホント、勘弁してくれ。
 僕が思うに、ハダカ芸っていうのは、「ショー」であって「芸」ではないのだ。ハダカ踊りだろうとストリップだろうと、そういうものは「ショー」であって、「見世物」であって、決して「芸」ではないのだ。その辺りの区別も曖昧になっているのかもしれないな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年2月23日 木曜日

2月23日:キレそうになる

2月23日(木):キレそうになる

 この3日間はひたすら書いた。仕事もあまり入れないようにして、本の原稿とサイト関係の原稿を書き続けてきた。
 今日はほぼ終日、時間が空けば書いて過ごした。

 電話が鳴る。取ると、某広告会社さんだ。10年近く以前に広告を出した会社だ。今頃になって何の用か。
 何てことはない、広告を新聞に出さんかという話だった。3分の1ページの枠だからかなり大きい。そのスペース、急に穴が開いたのだと言う。それだけの枠の広告を半値で出さないかという話だ。
 何が半値だ。20数万円が10数万円になるだけやないか。それもウチが出しとうて頼んでるのでもない。彼らが穴をあけてしまった穴埋めに僕をカモにしているだけじゃないか。それだけの枠を2万円にしてくれたら考えてもいいけど、それでも、この2万円は正直、捨て金にしかならん。
 しかも、その広告の掲載日が今月の28日だ。つまりここの定休日だ。なんでウチの定休日にウチの広告を出さなアカンのだ。ちゃんと調べてから電話して来いと言いたいね。
 しかも、広告を新たに作るとなれば、明日、明後日の間に広告を作らないといけないという話ではないか。10年目の広告を今さら出すなんて、ウチの方が恥ずかしいわ。

 新聞なんて、今はもう売れないのだ。そんなものに広告出したところで、何になる。観る人がいないものに広告を出すのだ。しかも高いお金を払って。それでいて、その広告は紙面上のものだけだ。その新聞のネット版にその広告が掲載されるわけでもない。そんなの無意味だ。

 アカン、キレそうになる。まともな広告の営業じゃないのだ。穴が開いて、困って、それで10年近く付き合いのない僕の所にまで電話してきおったのだ。ホント、カモにされているとしか思えない。
 穴が開いてしまった時なんかに頼れるような企業を日頃から大切にしていないからそうなるのだ。僕はそう思うね。

 まあ、人のことはどうだっていいや。明日からはまた忙しくなりそうだ。それに備えて、今日は早めに休んでおこう。一昨日の徹夜がけっこう堪えている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年2月21日 火曜日

2月21日:潰れる休日

2月21日(火):潰れる休日

 この一週間もそれなりに忙しかった。明日からの一週間は少しましになるが、その翌週はまた忙しくなりそうだ。

 今日は寒かった。朝から足が痛む。この膝の痛みで今日の気候が分かる。痛みが激しい時は相当寒い一日になるだろう。
 今日は一応定休日なので、朝早くに家を出る必要もない。家のパソコンを使って、朝から原稿を書く。書籍用の原稿だ。いつものサイトの要領で書いてみる。A4用紙での計算だけど、この3日間で50枚は書こうと決めている。今日、約20枚書いた。もちろん、下書きの下書きといった段階のものだ。これを、構成を練り直し、文章表現を修正していく。多少とも読むに耐えるものにしていかなければ。
 それ以外にもサイト用の原稿をいくつか書いた。こちらも完成と言うには程遠い。もっと手直しをしてからの公開になるだろう。

 午後から高槻に出て、職場にこもる。ここでも原稿を書いたり、論文を読んだりして過ごす。
 時間が来て、職場を後にする。それでも書き足りないから喫茶店に入って、その続きを書く。
 帰宅して食事を済ませると、再び書く。ともかく書けそうな所から書いていく。形にしたものがなければ、具体的なものが見えない。頭の中で構成することもできるけど、現実に形にしてみないと分からない。
 書く上で引っかかっていたのが分量だった。原稿用紙で何枚というように量が決まっていて、それを妙に意識し過ぎていた。実際、書いてみないと、どれくらいで原稿用紙何枚分になるのかなんて分からない。気にしないで書いていく。
 一応、原稿用紙にして300枚程度ということなのだけど、この数字には拘らない。1.5倍を目指す。つまり450枚書くつもりでやる。超過する分には構わない。後で削ればいいだけのことだ。

 これが僕の休日だ。理想は、6日間しっかり仕事をして、1日十分に羽を伸ばすという生活だ。一日かけてどこかに行ってもいいな。そういう優雅さが生活の中に欲しい。しかし、蓋を開けてみると、休みは潰れる一方で、確か、もう4連続で休みが潰れたんじゃないだろうか。全然いい暮らしなんてできていないな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年2月20日 月曜日

2月20日:煮え切らない

2月20日(月):煮え切らない

 今日はしんどい一日だった。それでも仕事の方はそれなりに上手く行った。その他の作業に関しては、予定通りには運ばなかった。
 昨日の酒が祟って、今日は体調がよくない。

 昨夜、一日の仕事を終え、本のことで考えを練ろうとして、某お店に入る。まあ、隠す必要はないのだけど、要はサイゼリアさんだ。高槻のサイゼリアで、ワインを飲みながら考え事をするお店だ。以前、いい店長さんがいて、仲が良かった。あの人が店長だった頃はお客さんも多かった。それが今はひどいものだ。
 ああいうフランチャイズのお店はそういうところがはっきりと出る。店長が変わったりすると、すぐにその影響が顕著に現れる。
 昨夜、日曜の晩だと言うのに、客もまばらで寂しい感じだった。僕はいつもの白ワインを注文する。するとまさかの品切れだ。信じられない。自分のところのブランドのワインなのに品切れしているなんて。仕方なく、僕は赤ワインを飲む。赤はあまり得意じゃないのだけど、どうしようもない。
 その後、僕の後から入ったお客さんが白ワインを飲んでいる。グラスワインで注文すると白があるようだ。それならそれで、「デキャンタでは提供できませんが、グラスでなら対応できます」と言ってくれたらよさそうなものなのに。
 何となく煮え切らない思いはあったけど、僕は僕の予定のことをする。本のことを考え、メモを作っていく。すると、今度は隣席が騒々しいのだ。バンドをやってる連中だ。独りがリーダーで、他の二人がベースと何かであるようだ。とにかく、このリーダーがやかましい。
 あんなのがバンドリーダーだったら、バンドも育たないだろう。ものすごく一生懸命議論しているのだけど、傍から聞いていたら、何てことはない、「それはアレンジをしっかりしておけばいいだけのことですよ」と忠言したくなったほどだ。事前にアレンジをしっかり考えておかないから、決めておかないから、そんな問題が起きているだけなのだ。もう少し言えば、リーダーがしっかりしていないだけのことなのだ。
 あのベースの奴の方がよほどしっかりしている。彼らはコピーしようという曲を聴き合っている。僕のところにもその曲が聞こえてくる。曲の出だしの部分で彼らが議論する。リーダーが歌う。ベーシストにはそれが間違っていることが分かり、指摘するがリーダーには理解できない。あのベーシストはよく曲を聴いていたなと感心するのだが、要は、出だしのシンコペーションが、8分休符ではなくて、16分休符なのだ。テンポの速い曲だから、その程度の遅れは本当に微妙なところである。よほど正確にリズムを取らない限り、リーダーのように8分休符を置いてしまうことになる。
 ええいっ、隣の話なんてどうでもいいんや。こっちはこっちでやらなアカンことがたくさんあるんや。そう思い、書籍のことへ頭を集中させるけど、彼らの騒音でサッパリだ。
 ワインも最後まで飲む気になれず、少し残して店を出る。
 スッキリしない気分だ。いつものバーへ足を踏み入れる。客が一人いた。ああ、イヤだ。文句の多い客だ。こいつのことを書くのもしんどい。この話はもう止めだ。

 昨日と今日は、あまり書くことはしなかった。パソコンのデータ整理をする。レコーダーで録音した面接は、一旦、パソコンに入れる。そこからディスク等に移すのであるが、この2日間で7枚ほど移した。面接にして40回分ほどだ。
一枚に5回分は入るし、最大で7回分入る場合もある。カセットテープ時代に比べると、はるかにコンパクトである。でも、最近、考えるようになった。たとえ5回分が一枚のディスクに収まるとしても、これが何十枚、何百枚となると、どうなるだろうと。すでにその予兆が現れている。保存もほどほどにした方がいいかもしれないな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2017年2月17日 金曜日

12年目コラム(72):世相編~掲示板の「賑やかし屋」

12年目コラム(72):世相編~掲示板の「賑やかし屋」

 僕のことが掲示板に書かれていると、あるクライアントが教えてくれた。当時、僕はああいうのをどうやって見たらいいのかわからなかったので、放置していた。偶然、ネットを開いて検索していた時に、その掲示板を見つけた。びっくりしたね。
 僕の悪口が書いてあるのだけど、誰が書いたのかは、調べるとすぐに分かった。これは簡単に調べがつく。日付と文面とパーソナリティそれぞれの方面からアプローチすると、誰が書き込んだのか、すぐに特定できるのである。
別に書き込まれることは構わないのだけど、僕の知らない所でゴチャゴチャ陰口叩かれるのは気持ちのいいものじゃない。それが気持ち悪いというだけのことだ。ひと言僕に連絡をくれてから書いてくれればいいのだ。それなら僕も「あの掲示板に書かれているんだな」と分かるから、チェックできるのである。

まあ、それはいいとして、ああいう掲示板の書き込みを見ていて、書き手以上に「賑やかし屋」の存在が不気味だと僕は感じた。
 「賑やかし屋」っていうのは、僕が勝手にそう命名しているだけなのだけど、要するに、書き手の書き込みに周囲から集まってくる野次馬のような連中のことである。
僕のことを書き込んだ書き手は僕と面識のある人だ。実際の僕に会って、それから僕のことをあれやこれやと書くわけだ。これはまだいい。しかし、それに便乗していろんな人間が書き込んでくるのだ。僕からすると、「お前ら、誰やねん?」ということになる。
 いろんな掲示板を見て回った。やはり、どこにも「賑やかし屋」がいるものだ。中には、いくつもの掲示板を渡り歩いて、その都度、賑やかしていくというような人もいるかもしれない。恐ろしいことだ。
 腐敗物に触れていると腐臭が染み付いていくように、ああいう掲示板に入り浸っていると精神が腐敗してしまうことだろう。まあ、それは「賑やかし屋」個人の問題だから放っておこう。

さて、僕はこの「賑やかし屋」の存在に興味を覚えたのだ。どうして彼らはそういうことをするのだろうか。はっきり言って、書き手のことも僕のことも知らない連中だ。見ず知らずの人間の批評に割り込んでくるなんて、どういう心理なのだろうと僕は思った。
 一体、彼らは何をしたいのか、何を望んでいるのだろうか。僕は一つの仮説を立ててみる。彼らは誰かが、もしくは集団(企業なども含めて)が失墜するのを見たいのだ。そのように仮定してみよう。
 僕が思うに、「賑やかし屋」は人生がうまく行っていないはずである。こう思う根拠は後で述べるとしよう。彼らは自分がうまく生きていくことができないので、他の人間はみな上手く生きているように見えるだろうと思う。周囲はすべて自分よりも優位な人ばかりであるかのように見えているかもしれない。
 だから、こういうことである。自分よりも優位で優秀に見える人たち、自分よりも力や能力を有しているように見える人たち、自分よりも順調に生きているように見える人たち、そういう人たちが失墜していくさまを彼らは見たいのだ。
 この仮定は十分首肯できるものだと僕は思う。彼らは誰よりも自分が劣位にあると信じているのだと思う。優位にある者は、劣位にある者をさらに失墜させようとは思わないものである。すでに優位にあるからである。相手を失墜させたいと願うのは、常に劣位にある者である。
 この仮定に立って、さらにどういうことが考えられるだろうか。一人の「賑やかし」行為に、多くの人が同調するのである。精神分析的に考えれば、これはエディプス・コンプレクスに起源を持つものであると言えそうである。

 エディプス・コンプレクスとは、父―母―子供の三者によって構成される。子供は母を独占したいと思う。そこには父親という妨害者が存在している。この父親は自分よりも大きく、力もあり、地位もある存在である。子供は父に太刀打ちできない。そこで、子供はこう願うわけである。この父親がいなければ(失墜してくれれば)、自分の望む対象(母親)が手に入るのに、と。
 「賑やかし屋」はこのコンプレクスが刺激されているのだと僕は思う。
 先ほど、「賑やかし屋」は上手く生きていけてないだろうということを述べたが、僕がそう思う根拠がここにある。彼らが、エディプス期をうまく生きられなかった不平屋、神経症的な不平屋であると思うからである。

 父親がいなければという願望は、いわゆる「去勢恐怖」によって抑圧される。フロイトはこの抑圧が文化を生むと考えているが、それだけでなく、この抑圧が子供をして父親との同一化を促進していくのである。そして、父親との同一化は、超自我形成に寄与し、自我理想の形成をもたらすようになる。自我理想はその後、健全な自己愛へと発展していく。
 僕の中にも、やはり同じものがある。僕は掲示板の「賑やかし」行為こそしないが、それでも同じものを有している。大物とか大御所が失敗した時なんか、ちょっと嬉しい気持ちを覚えることもある。下克上と言うか、弱者が強者を打ち負かす物語などは痛快だと感じてしまう。これは、やはり、僕の中のエディプス・コンプレクスが刺激されているのだと思う。
 抑圧されていたものが、そうして、一時的に解放されるのである。でも、健康な人はそれを再び抑圧する。それを抑圧することが、自然な状態であるからだ。それがあるところの場所に戻すわけだ。おそらく、「賑やかし屋」はそれができないのだと思う。もしくは、最初の抑圧さえ経験していない人たちであるかもしれない。
 もし、「賑やかし」行為の後、後悔したり罪悪感に襲われるという人がいるとすれば、その人たちはちょっとましな例である。去勢恐怖の片鱗が窺われるからである。でも、それは抑圧を助けるほど強くはないのだ。

 以後、僕はあの手の掲示板を見ることはなくなった。また新たな書き込みがされているかもしれないし、そこには多くの「賑やかし屋」が集まっているかもしれない。勝手にすればいい。
 今の僕には書き手も「賑やかし屋」も、どちらも「かわいい」と思えてくるのだ。彼らは子供のように純真だ。自分が劣位にあること、自分の抱えている「症状」を無邪気すぎるほど無邪気に、無防備に開けっぴろげに曝け出すのだから。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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