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2016年7月25日 月曜日

7月25日:理学療法士さん

7月25日(月):理学療法士さん

 今日は病院の日だ。
 朝一番にリハビリがあって、その後、整形の診察がある。処方箋を出されるから、薬局にも寄らないといけない。午前中はそれで潰れるだろうと覚悟しておいた。
 ところがである。整形外科に患者さんが多くて、かなり待たされた。今日はレントゲンも撮影すると言われ、そこでもまた待たされる。最後の会計でも待たされる。昼には終わるだろうと予想していたが、その予想がまったく外れ、すべて終了した時には2時近かった。
 そこから駅まで歩いて、高槻に出たけれど、その時、3時になっていた。とにかく、まずは腹ごしらえからだ。お昼を食べる間がなかった。喫茶店で軽く食べ、薬を服用し、ついでにコーヒー片手にボチボチと原稿やブログを綴る。

 理学療法士を目指したいという女性がいる。目指しているけど、彼女の中では不安があるようだ。いい仕事だと思うし、ぜひ、やるべきだと僕は彼女を後押しした。女性クライアントで、自分の進路を変更する時には、けっこうな率で看護師を目指すという例がある。これからは理学療法士なんかが増えるかもしれないな。
 それで、今日、リハビリで僕を担当してくれている理学療法士の先生に会うから、彼女のためにいろいろ話を聞いてみようかなと思った。
 ああ、でも、やめておこう。それは彼女が取り組むことだ、僕が肩代わりしてはいけない。余計なおせっかいだ。どこかで、「理学療法士の先生から話を聞いてきたよ」などと彼女に話して、そうすることで彼女の信頼を僕は得ようとしているのだ。彼女のためというよりも自分のためにそれをしているような気がしてきたのだ。
 おそらく、この先生も理学療法士になるまでにいくつもの困難を経験したと思う。でも、それはこの先生の困難であって、彼女がこれから遭遇するであろう困難とは全く異なるかもしれない。
 彼女は彼女のハードルを越えるべきで、僕が余計なお膳立てなどしない方が彼女のためだ。

 理学療法士がいい仕事だと思うのは、患者の回復と同行できるからだ。患者さんと長い付き合いをするのは理学療法士ではないだろうか、そう思う。
 看護師さんは、言ってしまえば、その場限りの付き合いなのだ。入院中は僕を担当した看護師さんたちがいた。でも、退院してしまうと、もはや接点はなくなる。その後、僕がどうなったかはあの看護師さんたちは見ることがないのだ。
 医師は患部の経過だけを見ることになる。回復していく姿を見ることはないのだ。前回よりも患部が良くなっているという、そこだけしか見ることがないのだ。
 技師関係は、もしかしたら、看護師や理学療法士よりも給料はいいかもしれない。でも、彼らこそ患者とはその場限りの接触しかしないのだ。
 レントゲン技師を例にしよう。この患者のこの部位をこの角度から撮影してほしいと医師から依頼を受けるのだ。その依頼通りのことをこなすだけなのだ。依頼される仕事を右から左へこなしていくだけという感じが僕にはするのだ。
 もちろん、技師は必要な仕事をしているのだ。ただし、患者とは一回限りの接点しかないことも多いだろう。入院した日に、僕はレントゲン撮影を受けた。エコーなんかも受けた。あの技師たちは、その後、僕がどうなったかということに関与しない。ただ、依頼された検査をこなしただけなのだ。
 上記の人たちと比べて、理学療法士さんは、患者さんの回復を目の当たりに見ることができる。前回は動かせなかった部分が、今回は動くようになったという患者さんを見るのは、本当にやりがいが持てるだろう。

 僕がカウンセリングをやっていて、醍醐味を覚えるのはそこなんだ。クライアントが良くなっていくのを見ることができ、それに同行できるという点なんだ。どこか僕の感覚が彼女にも転移したかもしれない。上に述べたようなことを、僕は彼女にも伝えてみた。彼女はすごくよくわかると納得してくれた。
 彼女にはこれからも頑張ってほしいと願う。どうも周囲の人たちは彼女が理学療法士を目指すことをあまり快く思っていないようだ。でも、彼女が自分で選んだことだから、きっと間違いはないと僕は思う。
 いつか、僕が再びドジをやって、大けがした時、彼女のリハビリを受けるようになるかもしれない。怪我は嫌だけど、そんな日が来るのもいいかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年7月24日 日曜日

7月24日:休日を過ごす

7月24日(日):休日を過ごす

 今日は休みにした。日曜日に来れるクライアントは、大抵の場合、土曜日に来ることも可能である。それで、日曜日のクライアントには、土曜日に来てもらうか、一週とばしてもらうかして、何とか一日フリーにした。
 今、月曜と水曜に病院関係の予定が入っているので、定休日の火曜日を振替で営業している。すると休みがなくなるのだ。けっこうハードである。どこかで一日休日を挟んだ方がよいと思い、今回は日曜日をフリーにした。

 今日はほぼ一日を家で過ごす。
家で寝たきりというのもまずいので、夕方、近所を散歩する。どうも足の具合が良くない。疼くのである。断続的に疼痛に襲われる。もっとも、がまんできないほどの痛みではないが、それでも気になるので、なるだけ安静にして過ごす。
 散歩は近所で済ませる。人の多いところを歩くと、「ゴー」にうつつを抜かしているゾンビさんたちと衝突しないとも限らないので、そういうところは避け、家の周辺を回る。やはり、今日は調子が悪い。
 日曜日に家にいると、普段、滅多に見ることのないテレビ番組なんかを見るが、面白いとも思わない。テレビを楽しもうという気分ではなかった。
 また、日曜日に家にいると、家族と会話する機会が多くなるというのも発見だ。珍しく、父とも会話をした。高槻の管理人さんのことをまた話していた。管理人さんが僕のことをこう言っていたっていうことを父が話す。以前にも聞いたことなんだけど、どうやら父の中では深く印象に残っているようだ。
 それに、父としては珍しく、ゆっくりやれと僕に言った。僕が焦っているように見えるのだろう。実際、焦りはある。一日も早く通常の営業に戻さないといけないって、すごく焦っている。焦っているけど、体のことはどうにもならない。体のペースに任せないといけない。わかっているのだけど、気持ちばかり焦る。

 推理小説の短編をいくつか読む。気楽に読めるものを選ぶ。
 DVDで映画も見る。古い映画だ。なぜか、妙に「駅馬車」が見たくなった。ジョン・ウエイン主演の西部劇だ。この映画、公開当時はきっと凄かっただろうと思う。今見ても、迫力がある。大平原で駅馬車がアパッチ族に襲撃されるシーンなんて、現代だったらCGとかを駆使して作るのだろうけど、本当に馬車を疾走させ、生身の人間のアクションでやっていくのだから凄い。
 それに、昔の俳優さんって、みんないい顔しているなあと思う。ハンサムとかイケメンとかいうのとは違って、なんか、いい顔なんだな。脇役や悪役もいい顔をしているなあと思う。
 いつごろだろう、映画を見て、いい顔に出会わなくなるのは。60年代や70年代の映画にはまだそれがあった。80年代の映画になると、若干、微妙だ。それ以後になればなるほど、いい顔が見られなくなるという感じがする。
 映像の技術ははるかに進んでいるけど、人間の魅力は徐々にスクリーンから消えていっているように感じる。大がかりなシーンは脳裏に刻みこまれるけど、個々の俳優さんがどんな顔をしていたかというのは、あまり残らない。
 こんなことを感じるのは、僕だけかもしれない。きっと、僕の感覚が古いせいだろう。僕は自分が時代についていけていない人間であることを感じる。はっきりそう意識することもある。時代遅れの人間だなあと、つくづくそう思うこともある。もっと時代についていかないといけないかなとも思う。

 今夜、ニュースで「ゴー」のことを見た。どこかの公園にレアなキャラが現れるということで、「ゴー」ホリックの人たちが集結したのだ。公園に集まって、みんなスマフォを凝視して、徘徊している姿は、僕には本当にゾンビに見えた。
 ああいう姿を見ると、時代遅れの人間のままでいいやと思えてくる。時代についていけないとダメだとは思うけど、その一方で、これがついていくに値する時代だろうかとも思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年7月23日 土曜日

7月23日:「ゴー」

7月23日(土):「ゴー」

 昨日からニュースでもワイドショーでも、至る所で「ポケモンゴー」のことを聞いた。いや、分かっている。「ポケモンGO」が正しい表記である。いちいちアルファベット変換するのが面倒なので、以下「ゴー」と呼ぶ。
 今夜、高槻を歩いた時、やはりそれらしいゲームをしている人が何人もいた。そのうち、二人とは衝突しそうになったし、三人くらいは立ち止まって通路を塞ぎ、道を空けようとしない人たちがいた。迷惑千万なゲームである。
 よくは知らないが、町にはモンスターがウヨウヨおって、それを捕獲するそうだ。モンスターなどどこにおるというのだろう。

 このゲームを巡ってはさまざまなことがすでに言われている。「ゴー」で町おこしとか、そういうのは高槻では止めてもらいたいね。
 そして、元首相までがコメントしていた。引きこもりの人が外に出るようになった、精神科医でもできなかったことをゲームはやった、漫画は素晴らしいと。相変わらずのアホウ氏だ。家で引きこもっていた人が、外で引きこもるようになっただけの話じゃないか。
 事実、「ゴー」をやっていて、入ってはいけないところに入り込んでしまったり、事故を起こしたりした人たちもすでに現れている。僕の場合だって、衝突していたら一つの事故だ。
 外に出てゲームをする。しかし、その人は環境世界とまったくかかわっていないのだ。むしろ、環境世界は意識から断絶されている。夢中になるということは、環境世界を切り離すこととは別だと僕は思う。
 外部の環境世界とかかわることなく、世界から切り離され、そしてただ彷徨するなんて、まるでゾンビだな。僕にはゾンビがモンスターを捕獲するというゲームにしか思えなくなってくる。

 いずれ、こんな人も出てくるだろう。「北海道に旅行に行ってきた」「へえ、何をしたの?」「ゲームしてた」なんて会話も普通に聞かれるようになるかもしれない。観光地に行っても、ゲームしかしなかったという人が現れるだろうし、そうなるとその観光旅行はその人に何一つ確かなものを残さないだろう。
 実際、ひきこもりの傾向のあるクライアントからそれに似たエピソードを聞くことが多い。家族旅行したけど、その人はゲームに夢中で、どこに行ったのか、そこで何をしたのか、まったく記憶が希薄になっているのである。彼の中に体験が残っていかないのだ。だから彼が自分が分からなくなったとしても、それは当然のことなのだ。

 しかし、まあ、なんと言いますか、「ゴー」をやって、一日でモンスターを30匹捕獲したとか、50匹捕まえたとか、そんなことを言うのだけど、それってどうなのだろう。捕獲したモンスターたちの行く末には何が待っているだろうか。
 ゲームなんて、いずれは廃れる。廃れるから次々に新しいゲームを開発していかないといけないのだ。今は「ゴー」に夢中になっているけど、そのうち、ブームは下火になったり、飽きてきたり、もっと人々を魅了するゲームが別に現れたりして、いずれは「ゴー」も捨てられる。それがゲームの宿命のようなものだと僕は思う。かつてインベーダーゲームに僕たちはこぞって夢中になったけど、今では「懐かしゲーム」で思い出される程度だ。
 ここにモンスターを一万匹捕獲したという人がいるとしよう。その人が「ゴー」に飽きたとなる。一万匹のモンスターがどうなるかって? 一気に消去されちゃうのだ。そういうものだ。ゲームの背景は現実でも、生命は現実じゃないんだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年7月20日 水曜日

12年目コラム(49):出会った人たち~できないことはさせない人たち

12年目コラム(49):出会った人たち~できないことはさせない人たち

 いつだったか、新聞の広告で、「論語」の孔子は論語に描かれているような人ではなかったという本のことを見かけた。正直、僕は驚いた。僕にとっては当たり前すぎることをわざわざ本にしているということだ。こんな内容の本が出版されて、売れるなんて、案外、世間の人は無知なんだなと思った。
 孔子がそれを実践していたかどうかは別問題なのだ。孔子の思想が素晴らしいから「論語」は残っているのである。思想の世界ではそういうことが普通にある。ニーチェのブームがあったけど、ニーチェだって、天才だとは思うけど、精神病で生活は破綻寸前という人だった。でも、その思想が素晴らしいのである。
 一般の人が間違えている点は、僕の見解では、その人の思想とその人の人格との同一視にあるのだと思う。素晴らしい思想の持ち主だから本人も素晴らしいのだという決め付けをしてしまっているのだと思う。
 イエスだって、神の信仰を唱えながらも、十字架に架けられた時、「神よ、どうしてわたしを見捨てるのですか」と嘆いた。最後の最後でイエスは信仰できなかったのである。
 臨床心理の分野でいえば、フロイトは神経症だったけど、その神経症理論は受け継がれているし、ユングは分裂病だったが、その思想は分裂病治療に大きな痕跡を残している。ライヒも後年はおかしな方向に走ったし、サリヴァンも一時期分裂病に罹患していたとも言われている。児童分析で著名なメラニー・クラインの子供は自殺しているとも聞いている。
 もし、一般の人たちの見解に従えば、自分の病気も治せないような人の理論は信用できないということになるだろう。それこそ思想と人格の同一視をしているのだ。

 ずいぶん前置きが長くなった。あるカウンセラーさんが、「私は自分にできないことはクライアントにはさせない」と話したことがある。僕は激怒して、そのカウンセラーをぶん殴ってやりたい気持ちに襲われた。あの時、僕の言いたかったことはこうだ。「あんたは自分のクライアントを自分以下に留めておくつもりか」と。
 過去の偉人たちは、自分にできないことを説いてきたのだ。自分にできないからこそ、それが目標になり、他の人々の目標にまで高められるのだ。そして、偉人たちはそれを達成できなかった。でも、その達成のために偉人たちが考えてきたことに価値があるのだ。僕にとって、これは当たり前すぎるくらい当たり前の知識だった。
 僕もクライアントに何かをやってもらうことをお願いしたり、何かを教えたりすることもある。もし、そこで「そういうあんたはそれができるのか」と問われれば、僕は正直に「僕にはできません」と答えるだろう。そして、「僕にはできないけど、あなたは僕以上の能力を持っていると僕が信じているから、そう言うのだ」と続けるだろう。
 そう、自分にできないことでも、相手はできると僕は信じているのだ。相手は僕以上に有能だと信じているのだ。だから、自分にできないことはクライアントにさせないと言う彼は、クライアントをまるで信用していないのだ。むしろ、自分よりも能力がないと信じているのではないかとさえ思われてくる。だから許せない思いがしたのだ。クライアントに対する侮辱だと、僕は、正直、そう思う。

 話は変わるけど、これをお読みのあなたは電車の吊革に初めて手が届いた時の経験を覚えているでしょうか。僕ははっきり覚えている。
 兄や兄の友達たちは、とっくに吊革に手が届いている。僕は全然届かない。僕は自分があまりにも小っちゃいと感じた。体操選手のように吊革にぶら下がって遊んでいる兄たちを見て、毎回、僕は悔しくて、自分が情けない思いに駆られたものだった。
 背伸びをして、つま先立ちをしても届かなかった吊革に、ある日、自分の手が届いた時、それこそ天にも昇るような気持だった。それはもう嬉しくて嬉しくて、僕も体操選手のように吊革にぶら下がってみたりした。母は行儀が悪いと僕を窘めるのだけど、僕にとって、それは喜びの表現だったのだ。今まで届かなかったものに手が届くようになったことの感動を表現しているものだった。
 今、僕は吊革につかまっても、そんな感動をすることはない。毎朝、電車に乗って、あれほど手の届かなかった吊革につかまる。そこには何の感情の動きもない。もはや、この吊革に手が届いたことの喜びを敢えて人に話そうとも思わなくなっている。かつては自慢だったことも、今では普通のことになってしまった。
 そういうものだと思う。人は自分が普通にできることに関しては、敢えて語ろうとしないものなのだ。過去の偉人たちも、普通にできている事柄だったら、人々に教えようとはしなかっただろうと思う。自分にできないことだから、それについて考え、繰り返し語らざるを得なかったのだと思う。
 繰り返そう。人は自分にできることは他人に教えないのだ。自分にできないことを人に教え、その思想が生き残るのだ。そして、自分にできないことを人に教えるのは、その人たちの可能性を信じているからである。つまり、自分にはできないけど、彼らにはできるという信頼があるからである。

 もう一つ例を挙げよう。考えてみると、人間が二足歩行するということも凄いことなのだ。ロボット工学の世界では、ロボットを二足歩行させるのに難儀していた時代があった。今では二足歩行のロボットも珍しくなくなったけど、それが本当に難しいことだったのだ。
 二足歩行のロボットに成功したということがニュースになったくらいだ。それでも、その二足歩行はぎこちないものだった。
 僕がヨチヨチ歩きから二足で立ち上がった時には、きっと、吊革に届いた以上の感動があったのではないかと思う。ただ、覚えていないのだ。
 僕は二足歩行を、今では、普通に行う。どうして二足歩行しているかということを人に教える気にもなれない。当たり前にできているからである。また、それを人に教える術を持っていない。というのは、当たり前にできていることなので、殊更、自分がどうやって二足歩行しているかということを考えていないからである。
 おそらく、この経験は僕以外の人たちも同じだと思う。普通にできるようになった事柄に関しては、僕たちはもうそれ以上に考えることがなくなるのだ。その代り、自分にできないことをもっと考えたり、そのために努力したりするものなのだ。そういうものだと思う。
 人と話しができないという人は、人と会話できるようになるために考え、努力するだろう。その人が人と会話できるようになると、彼にとって、以前のテーマは重要でなくなるし、無意味になるだろう。そして、今度は、どうすれば上手に相手に伝わるだろうかということを考え、そのために努力をするようになる。普通に相手に伝わるようになると、今度はどうすればみんなを楽しませることができるようになるかということを考え、そのために努力するようになるかもしれない。どの人も、自分にできないことを考えるものである。
 こうして、僕たちは常に次の課題に晒されることになるものだ。常に今の自分にできないことを考え、追い求めていくものだと思う。「自分にできないことはクライアントにさせない」というカウンセラーは、クライアントの人生から各種の課題を奪っているだけなのだ、僕にはそう思えてならない。
 過去の偉人たちは自分でも実現できないことを説いてきた。自分にできないことを説いてきたのだ。そして、間違いなく、その思想が人類を向上させてきたのだ。その思想が我々を超越しているからであり、その思想が人々を牽引していったのだ。
「自分にできないことはクライアントにさせない、説かない」と言ったあのカウンセラーのクライアントたちが不幸である。彼らは自分を向上させてくれるものをカウンセラーから得ることができないからである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年7月20日 水曜日

12年目コラム(48):出会った人たち~男はナンバーワン、女はオンリーワン?

12年目コラム(48):出会った人たち~男はナンバーワン、女はオンリーワン?

 ある女性の話だ。彼女は心理学の勉強を始めたばかりで、いろいろ「心理読み物」系の本を読んでいるそうだ。それはそれで結構なことである。
 その彼女が、「男はナンバーワンを求め、女はオンリーワンを目指す」と僕に教えてくれた。もちろん、「それは間違いだ」などと本音を漏らすような野暮な真似を僕はしない。あわよくばお友達になれるかもしれないのに、そんなことは言わない。そう、「へえ、そうなんだ、知らなかった、君はよく知っているね」とおべんちゃらを述べておいた。う~む、それにしても、結局、彼女とお友達にもなれなかったのだから、あの時、本音を語っておいてもよかったかもしれない。

 そういう本が出ているというのは知っていた。でも、ナンバーワンとかオンリーワンって、どういうことなのだろう。僕には同じことのように思われるのだけど、僕の感覚がおかしいのだろうか。
 企業を例にしてみよう。ナンバーワンの企業は、同業社とは何か違うことをしているものだ。オンリーワンの企業は、同業社よりも群を抜いていたりする。ナンバーワンになるには、オンリーワンの何かをしなければならず、オンリーワンの何かをしているところはナンバーワンになっていたりするのだ。そう思うと、これは同じ事柄を言っているようにしか僕には思えないのである。
 従って、男はナンバーワンを求め、女はオンリーワンを求めるという命題は、男と女の相違を述べているのか、類似を述べているのかがはっきりしなくなる。その本の著者はどちらの見解でこれを説いているのだろうか。

 ここではその本について批評するつもりはない。それだけは明示しておく。ただ、彼女の姿勢を取り上げたいと思うのだ。彼女の姿勢は、一般の人の心理学の利用を表しているように思える。いや、ここでも誤解のないように申し上げておくが、彼女も心理学初学者であって、彼女が間違っているといった指摘をするつもりはないのである。
 しばしば、その命題が何を表しているのかが度外視されて、その命題だけが独り歩きしているような場合もある。心理学を勉強するためには、もう少し思慮深くなる必要がある。

 同じような命題で、「男は話を聞けない、女は地図が読めない」というものもある。これもそのものずばりのタイトルで本が出版されていた。
 僕は男だけど、方向音痴で、地図が読めない。一人で登山とかして、これまでよく遭難しなかったなと自分でも驚きである。そのくせ、話を聞くという仕事をしているのだから、上記の命題は僕にはしっくりこないものがある。
 要は、話を聞くということも、地図を読むということも、練習しだいで上達するものである。男は地図を読む場面に女よりも多く遭遇するだけかもしれないし、女は人の話を聞く場面に男よりも経験が多いだけなのかもしれない。つまり、本当は訓練の差でしかないかもしれないことが、男女の違いのように言われているということが問題なのである。
 もし、これらの命題を支持している人が僕を見れば、この人からは僕がナンバーワンを目指して、人の話も聞けず、でも地図は読めるのだろうなどと思われるだろう。でも、それは、僕にとっては、この人によって、僕ではないものが僕として一方的に押し付けられるという経験になってしまうのだ。こんな傍迷惑な話はない。

 90年代中ごろ、「平気でうそをつく人たち」という本がベストセラーになった。心理学関係の本がブックランキングの上位に上がることなんて、当時はあまりなかったことなので、僕はよく覚えている。僕もその本を読んだし、今でも書架に置いてある。
 確か、あの本の著者は、本書を読むことで読者一人一人の中にある邪悪に気づくことを望んでいたように記憶している。それが著者の意図だった。ところが、この本の読書評が掲載されていたのを見たことがあるが、そこでは、「あの人がああいうことをするのがよくわかった」などという感想が目立った。そういうものである。
 つまり、心理学は自分を理解するために用いられるのではなく、他人を知るために用いられるのだ。もう少し言えば、他人に当てはめるために、あるいは、何かを押し付けるために心理学理論が適用されるのだ。はっきり言って、心理学の堕落である。
 上述の彼女も同じことをしていたのだ。初学者はそういうことをしてしまうものである。恥ずかしい話だが、僕にも経験がある。心理学の理論を知って、あの人はああだとかこの人はこうだなどと人を評価していたものである。
 心理学を勉強するのであれば、その段階を抜け出なければならない。そうでなければ、その学問や知識はまったく無意味なものになってしまうからである。

 学問や理論に罪はないのである。個人の思想も同様である。最終的に重要になるのは、学習者個人である。
 愚かな学習者は、せっかく理論を学んでも、愚かな使用をするものだ。恨みを抱え、攻撃的な学習者は、理論を他者攻撃のために使用したり、復讐のために利用したりするものだ。自分勝手な人は理論を自分勝手に改ざんしてしまうだろう。そう、最後は学習者個人が問われるのである。彼がどんな人間であるかが、彼の学びを決定するのだ。
 今から振り返ると、僕は彼女に問うべきだった。「男はナンバーワン、女はオンリーワン、それで君はどうなの?」と。彼女には真に学ぶ機会となっただろう。
 心理学のいいところは自分に問うことができるという点にある。ある理論を学ぶ。僕自身ではどうだろうかと、自分の経験を内省したり、自分を被験者にして検証することが可能である。それは僕の経験や内面に秩序をもたらす。僕は一つ僕自身について学びを得たように思われる。
自分についての理解が得られる、混沌とした世界に秩序がもたらされる、こういう経験を一つするだけで、人はかなり落ち着くものである。自分に有益なことを犠牲にして、理論を他人に当てはめるだけの作業をしている人は、まったく向上がないものである。
 僕のクライアントたちの中にも、心理学を勉強した人がたくさんいる。彼らはそれを専門にやっているわけではない。ただ、自分の関心から手を染めているだけである。それはそれでいい。ただ、彼らの中に正しい学びをしている人は、僕の個人的な意見では、皆無だった。
 彼らもまた、「平気でうそをつく人たち」の読書評のように、理論を他人に当てはめるだけのことをしているのだ。僕は心理学の堕落だと言ったけど、学問全体の堕落なのかもしれない。自分を知るために学問をしたという人がどれだけいるだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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