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2016年3月29日 火曜日

3月29日:神呪寺参り

3月29日(火):神呪寺参り

 今日は西宮の神呪寺へお参りに行く。定期的に行くのだけど、今年は初めてだ。
 融通の神様らしい。僕もあやかりに行くわけだけど、基本的に、僕だけが儲かったらいいという発想はない。一か所にお金が集まるのではなく、全体的にお金が動かないといけないものだ。経済とはそういうものだ。
 それと神呪寺というこの名前がいい。「呪」の字は、昔は「言葉」を意味していた。だから「神の言葉」という意味になる。そして、「神の言葉」とは「夢」を指して言っていた時代がある。僕たちが寝てる間に見る夢だ。夢は神からの言葉として重宝されていた時代があったということだ。

 神呪寺さんだが、僕は仁川駅から歩く。甲陽園側から行く方が近いのだけれど、敢えて仁川から行く。これは日によって変わるが、甲山登山を含める時もある。今日は少し登りたい気分なので、甲山経由で神呪寺に向かう。
 仁川駅。駅前のコンビニでタバコを吸う。ここで吸っておかないと、後で吸う場所がないからだ。若いお姉さんが火を貸してくれと来た。「いいですよ」と、できる限り爽やかな感じでライターを差し出す。火が付かない。ちょっと操作しにくいライターだ。「火、つきますか」と僕は親切に申し出る。その瞬間、ようやく火がついた。彼女は礼を言ってライターを返してくれる。「いやあ(お安い御用ですよのニュアンスで)」といって受け取る。
 うむ、我ながら完璧だ。どこからどうみても爽やかなナイスガイに見える。ズボンのチャックが全開でなければね。
 どうやら乗り換えの十三駅からあそこが全開だったようだ。乗り換えの時に、トイレに行きたくなった。でも、ちょうど電車が来るところだった。急いでトイレに入って、電車に駆け込んだのだった。その時からチャックが開きっぱなしだったようだ。
 うーむ、カッコ悪いぜ。下手にカッコつけた後だけに、カッコ悪さが倍増してしまった感じがする。

 それはともかく。仁川を上流へと、てふてふ歩いていく。調子が悪い。アキレス腱の辺りがキリキリ痛む。途中、寂れた商店で休ませてもらう。そこに親切なおばあちゃんがいてね、座っていきなさいよと椅子を出してくれた。
 少し世間話的なことをして、僕はおばあちゃんにこれからウォーキングすると話す。コースを話すと、おばあちゃんは近道を教えてくれた。「地すべり資料館」から登っていくと近いらしい。じゃあ、さっそくそのコースで行ってみるわと言って、おばあちゃんと別れる。
 なるほど、「地すべり資料館」からすぐに甲山森林公園の敷地に入るのだな。この森林公園は広い上に、縦横に遊歩道や登山道が入り乱れているので、どこをどう歩いているのかよくわからなくなる。取り敢えず、上へ上へと歩いていけばどこかに出るだろうと思い、上り詰める。
 平日なので人は少ない。それでもすれ違う人たちや家族もあった。見覚えのある道まで出ると、あとは簡単だ。森林公園を出て、甲山へ向かう。
 この甲山のコースは、最初は一部険しいところもあるけれど、道はしっかりついているので迷うことはないし、後半は階段ばかりになる。甲山頂上、台地になっている頂上で昼食だ。予定よりも早く到着した。近道のおかげだな。今度からこのルートで来よう。
 甲山から神呪寺へ降りる。登山は登りよりも下りの方が危ない。ゆっくり歩く。景色がいい。街に近い山には特有の良さもある。眼下に町が見えるのだ。ちょっとお山の大将気分が味わえる。
 神呪寺をお参りする。どうやって登って来たのだろう、車椅子の参拝者がいた。何かお手伝いできることはないかなと思ったけど、あんまり出しゃばったことはしないでおこう。仁川駅でのライターの件のように、不似合いなことをすると碌なことが起きなさそうに思った。
 神呪寺から甲陽園まで下りる。バス道を歩いて下ってもいいのだけれど、森林公園の遊歩道や登山道を使って下りる。要するに、直線的に下るのではなく、紆余曲折しながら下ったわけだ。
 甲陽園駅に着く。今日の旅もこれで終わりかと思うとなんだか物足りない気分もある。少々足りないくらいが一番いいのかもしれない。そう思い、帰宅する。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年3月27日 日曜日

3月27日:人さまざま

3月27日(日):人さまざま

 外に出ると、いろんな人を見かける。人間は興味深い。

 駅のホームで電車を待っていると、老夫婦が隣に立った。彼らは桜の木を見る。夫の方が先に「見てみ、新しい枝が出てきてるやろ」と妻に言う。僕もつられてチラッと見る。なるほど、古い幹から新しい枝が出ていて、いわば世代交代が進行中だ。妻は「まだ咲いてないわね」と答える。夫は「いや、あそこ、新しい枝ができてるやろ」、妻は「いつ咲くのかしらね」、夫「もういい」。
 夫婦の間でも(夫婦だからこそと言うべきか)会話が成立しないんだなあと思った。長年連れ添った夫婦ほど会話が成立しないのかもしれない。
 水曜日頃に見かけた人たちだ。

 ある飲み屋さんでのこと。いきなり男性が入ってきて「かばん、忘れてなかったか」と。鞄なら肩に掛けて店を出たとママさんが言う。この男性、どうやらあちこちハシゴして、どこかで鞄を失くしたらしく、家に帰って奥さんに散々叱られて、それで一軒一軒、今日ハシゴした店を回っている最中らしい。
「大切なものは入ってないんだけど」と彼は言うけど、嘘っぽい。それで「こんなんやったら、もう酒を止めんとアカン」と言う。
 でも、その後、別の飲み屋でしっかり彼を見かけた。昨夜のことだ。案の定、彼は酔っぱらっている。酒呑みなんてそんなものだ。
 ちなみに、彼が鞄を失くしたという日、店に若い女の子が飲みに来ていて、彼はその子にやたらと絡んでいたらしい。天罰が下ったなと、僕は思ったね。
 飲み屋でやたらと女の子に絡むもんじゃない。話しかけたり、声を掛けたりするくらいは許せても、ベタベタ触ったりとかするのはよろしくない。
 基本的に、僕はこちらからは声を掛けない。女の子の方から話しかけてくるくらいでなければいけないと僕は思っている。

 今日は今日で、自分と対話しているおばさんを見かける。壁に向かって話しているのかと思ったけど、そこがウインドウになっていて、鏡のようになっているのだ。おばさんはそこに映る自分に話しているのだ。
 そのおばさんに何があったのかは知らない。でも、それをする必要に迫られたのだろう。自分をそうして確認する必要ができたのだろう。

 某飲み屋の女性。以前勤めていたお店の客で、どうやって調べたのか、彼女がここで働いているのを知って、いちいちやって来たそうだ。来て何をしたかというと、彼は彼女をさんざんこき下ろすだけだったそうだ。彼女は聞いていて不快だったし、他のお客さんと揉めないかとハラハラしていたそうだ。そして、また今度その人が来たらどうしようと、ひどく心配していた。
 僕はすぐに分かった。僕の言葉で言うと、それは「別れの儀式」みたいなものなのだ。相手と別れる際に相手を破壊しないといられないのだ。そういうことをしてからでないと別れられないという人があるのだ。だから、きっともう来ないと思うと僕は彼女に伝えた。
 これも昨夜のことだ。

 高槻の狭いエリアのあっちゃこっちゃで飲むと、たくさんの顔見知りができる。
 一人の男性がツンケンした感じで歩いている。けっこう速足だ。その後ろを飲み屋の女性が走って追いかけている。彼女は、あまり親しいわけではないが、顔見知り程度である。僕は彼女に気付いたけど、彼女は僕に気付かなかったようだ。まあ、そのシチュエーションでは無理もないけど、ああ、彼女、客を怒らせてしまったなと思った。
 僕も前回のジャズ演奏の件のように、時にはイヤな思いをすることもある。怒りたくなる。でも、その店を選らんだのは結局は自分なのだから、誰にもこの怒りをぶつけるわけにはいかないものだ。
 これはいつだったかな、最近だ。

 ホント、いろんな人がいるもんだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年3月25日 金曜日

3月25日:「モンスター愛人」にご注意

3月25日(金):「モンスター愛人」にご注意

 水曜から木曜にかけて徹夜作業をして、昨日の木曜日は所用で出かけていた。クタクタになって、眠たくて仕方がなかったのに、昨夜は思わずテレビを見てしまう。
 今朝は6時には起きたかった(実際に起きたけど二度寝してしまう)けど、起きたのは8時だった。午前中に雑用を済ませようと計画していたので、特に予定は入れていなかった。それが災いしたのか、結局、午前中はのんびり過ごしてしまう。

 朝、テレビを見た。観たというより、たまたま家のテレビがついていただけなのだが。
 見るともなく見る。ある男性有名人の不倫問題が取り上げられていた。どうだってええやないかと思いつつ見る。その男性の妻が謝罪文を公表した。立派な奥さんだと思い、僕はジ~ンと来たね。でも、街中の人にインタビューすると、どうしてその奥さんが謝罪するのか分からないという返答ばかりだった。僕はそっちの方が分からない。
 不倫問題というのは三者関係の問題である。三者揃わないと成立しない問題である。夫と妻と愛人の三者である。夫と愛人の関係の問題であっても、妻もやはり当事者であり、無関係ではないと僕は考える。
 この奥さんが立派だと思うのは、夫婦の連帯性の意識をしっかり持っておられるように感じられたからだ。夫の不祥事や責任は、同時に妻の責任でもあるという認識を持っておられるのではないかと憶測する。
 少なくとも、自分は被害者だなどと声高に言って自分の立場を強調したりはしていない。不倫した夫をこき下ろしたりして、夫を貶めたりはしていない。夫が社会に迷惑をかけたことを、妻は自分のことのように謝罪する。なかなかできないことだ。

 最近、この種の不倫報道がやたらと多いという気がする。この問題では、しばしば不倫した人が槍玉に上げられたりするけど、その愛人がどんな人であるかはあまり問われない。そういう印象を受ける。
 意地の悪い見方だけど、その愛人に引きずりこまれたというような例もあると思う。数は少ないが、何人かのクライアントで、このような人と愛人関係になって、嫁と家族を失ったという人がある。
 その人たちは妻子があるので一線を越えないようにしようとするのだけれど、ズルズルと相手に引き込まれていき、いつしか引き返せないところまで行ってしまい、その後は破滅に至るのだ。そういう経験をした一人のクライアントは、「蟻地獄のようなトラップに落ち込んだ感じだ」と自分の体験を表現されてたけど、よく分かる。
 それで妻子を失って、愛人はその人と一緒になるかと言うと、そうでもないのだ。その人は妻子に捨てられ、愛人にも捨てられるのだ。ひどい場合には職や信用さえも失ってしまう。交際中は、奥さんと別れて一緒になってくれなんて愛人は言うのだけれど、いざ、それが実現しそうになると、愛人はその人を捨てるのだ。
 異性とこういう付き合い方しかできないという感じの人もある。交際する人をみんな破滅に導いてしまうという人だ。DVの「被害者」側の立場の人にもこういう人がいるのだ。
 不倫問題のすべてがこういう愛人によるものではないとは思う(いや、本当はそう思っている)けど、いつか機会があればこういう人たちに関して考えていることも述べてみたいとは思う。とにかく、現在不倫中の方々やこれから不倫をしようという方々へ、くれぐれも「モンスター愛人」にはご注意を。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年3月25日 金曜日

12年目コラム(26):目的論(2)

12年目コラム(26):目的論(2)

 ここに植物の種子が一つあるとしよう。この種子の存在はさまざまに説明できる。
 この種子がここにあるのは、この種子をつけていた花が枯れたからだという説明ができる。また、この種子がここにあるということは、この種子をつけていた花が存在していたということを意味し、この種子は芽を出す準備ができていることを意味しているという説明も可能である。最後に、この種子がここに存在するのは、芽を出し、花を咲かせるためだという説明もできる。
 今のは、順番に言うと、因果論、意味論、目的論の観点から説明したことになる。この種子の存在は、因果論的にも、意味論的にも、目的論的にも説明できるわけだ。そして、そのいずれが正しいとも言えないし、どれも正しい説明を含んでいるということが分かると思う。
 因果論というのは、あくまでも一つの見方であり、思考の枠組みである。もし、この種子の存在を理解しようと思えば、意味論的にも目的論的にも見ていく方がいいわけである。一つの観点に拘泥してしまうことが望ましくないことであるし、そのどれが正しいかというように一つの観点に絞らなければならないわけでもない。

 目的論的に考えるとは、それが「何のためにあるか」という問いを立てることである。個人の言動であれ、人間関係で生じる現象であれ、「何のためにそれが生じているか」を問うていくことである。
 ここでユングの事例を借りようと思う。僕の好きな事例の一つだ。
 ユングの勤務していた病院に年老いた婦人が入院していたのだけど、その女性がなにやら手を動かしてやっている。それは「靴を磨いている」とか「靴を直している」ように見えていたそうだ。そういうジェスチャーをしきりにしていたということだ。
 やがて、この女性は病院で息を引き取る。彼女のお葬式の時、彼女の兄にユングはいろいろ尋ねてみたところ、次のようなことが明らかになる。この女性は若い頃に大恋愛をしたのだが、それは悲しい結末に終わったそうだ。この悲恋から彼女の「精神病」が始まったそうだが、その恋人の職業が靴屋だったという。
 こういう背景を知ると、彼女が病室でしていた行為の意味がはっきりしてくる。では、この女性は病室で何のためにそういう行為をしていたと考えることができるだろうか。因果論で考えれば、彼女がそれをするのは彼女の恋人が靴屋だったからだという説明になると思う。それは正しいが、もっと他の観点から見ることができるはずである。
 この女性がそのジェスチャーをするのは、例えば、失った恋人を身近に感じるためであったかもしれないし、過去を失わないためにしていることであったかもしれない。もはやこの女性から聞くことができないので、僕たちは推測するしかないのだけれど、いろんな可能性があると思う。
 もし、彼女が恋人を身近に感じるためにその行為をしているということであれば、それは彼女がどれほど孤独であるかを意味していることになる。また、過去を失ってしまわないためにそれをしているのであれば、それは、彼女の中からいろいろな事柄が消失しつつあることを意味しているかもしれない。
 この女性は靴屋と同一視しているわけなので、この行為は「私はすべてあなた(靴屋の恋人)のものです」ということの意思表示であるのかもしれない。

 ところで、こういう話をしていると、僕はよく質問されるのだ。それもウンザリするような質問だ。「なるほど、いろんな観点や可能性が考えられるということは分かりました。それで、どれが正解ですか。何が正解ですか」という質問だ。未熟な思考の持ち主から発せられるものだ。
 正解というものが、もしあるとしても、それは用意されているようなものではなく、仮説を立て、それを検証し、少しずつ正解(あくまでもそれがあるとしての話だ)に近づくことが大切なのだ。むしろ、正解を知ることではなく、正解に至ろうとするプロセスの方に意味があるのだ。
 自分自身やある人の言動の意味や目的は何か、その正解を専門家から聞こうというだけの人は、正直に言えば、子供っぽいのだ。一緒にそれを考え、それを知っていく過程に参与できる人だけに改善の道が開かれていると、極端な物言いだけど、僕はそう信じているのだ。

(寺戸順司)

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2016年3月25日 金曜日

12年目コラム(25):目的論(1)

12年目コラム(25):目的論(1)

 クライアントたちを見ていて思うのは、彼らがあまりにも因果論に囚われすぎているということだった。因果論そのものは否定しないつもりだけれど、僕が思うに、因果関係で捉えることのできない領域にそれを持ち込んでしまうので、それ以上に前に進むことができなくなっているようだ。
 そこで、この因果論をどうにか打破したいと思う。その端緒として意味論を取り上げた。ある現象は何かの結果と見るのではなく、その現象にどんな意味があるかという観点である。
 しかし、意味論だけでは片手落ちなのだ。もう一つの視点として目的論を取り上げようと思う。ある事柄の意味はそれ自体目的となっていることもあり、両者は重複する部分もある。一方で、ある現象の持つ意味と、その現象が目指す目的とが異なる場合もある。
 どれだけ問題となる行為であれ、その行為をする目的というものが必ずある。何の目的もないように見える場合、その目的が無自覚であったり無意識的であったりしているだけで、探求すると目的が見えてくることも少なくない。
 ここで一つ注意しておきたいのは、しばしば目的と理由が混同されてしまうということだ。「ある行為がなぜ生じているのか」という問いは理由を問うていることになる。目的を問う場合、これは「ある行為は何のために生じているか」という形式になる。この違いはけっこう重要である。
 もし、ある男性が妻に暴力を振るうとしよう。彼が「衝動を抑制できないからだ」と答えたなら、それはこの行為の理由を述べているに過ぎない。見てわかるように、これは因果律にかなり近いものである。
 目的論的見地に立てば、この男性が妻に暴力を振るう場合、彼なりの目的があるはずだと考えることになる。この観点に立つと、いわば、彼の暴力は彼自身の救済に役立つものとして彼には体験されていることになる。
 他にも、例えば、手洗いが止められないというような行為でも、その行為者にとっての何らかの目的がある。その行為をすることで行為者の何かが救われているなり、役に立っていることがあるはずである。何の役にも立たない行為であるならば、速やかに消失するはずなのだ。
 人によっては、こういう話はすごく不自然なように聞こえると思う。本人も厄介な行為だと体験しているのに、それに何かの目的があって、しかもその目的が本人にも分からないなんて、おかしいと思うかもしれない。確かにそう思われても当然だと思う。精神分析や無意識の心理学の知識があると、これはあまり不自然なことではないということが分かるのだけれど、そうでない人にとっては「神秘」的な話のように聞こえると思う。
 でも、僕はクライアントやこれを読んでくれている人に神秘の世界に誘おうという気持ちはまったくなく、ただ、一歩進めてほしいと思うだけである。

 子供の事で来談された夫婦があった。以前からこの子の様子がおかしく、日に日にその言動がおかしくなったと言う。親はどう接していいかわからず、オロオロするばかりだった。あまりにこの子の言動がひどくなってきたので、両親はこの子を精神科医に見せる。幸か不幸か、この子はある診断名を付されることになった。
 幸か不幸かと述べたのは、病名がついたことにより、「この子は○○病だから」と考え、親が今までのようにこの子に圧力をかけなくなった利点があったのだが、一方で、この親子の間は「○○病」という病名で断絶してしまうことになっていたのだ。
 さて、僕はこの両親に、その子のその言葉はどういう意味だと思いますかと尋ねてみる。彼らは「意味なんてあるだろうか」と疑問を抱いています。意味がないと思うのはなぜでしょうと僕。彼らは「精神病だから」と答える。そして、これ以上進まないのである。
 子供が「おかしな」ことを言っている。親はそれに対して「病気だから仕方がない」という理由づけをする。子供はそこで置いてきぼりにされてしまうし、親はそれ以上子供のことを考えなくなる。この状態が何年も続いてきたようだった。
 細部は省略するけど、子供の言動には意味や目的があるかもしれない、そこをよく見てほしいと僕は彼らにお願いする。仮に意味や目的がなくても構わないのだ。これを契機として親たちがこの子のことをよく見るようになったのだ。そして、あの時のあの子の言葉はこういうことを言いたかったんじゃないだろうかとか、いろいろ夫婦間で話し合われたりもする。カウンセリングの場では僕もそれに参加する。
 こういうことを繰り返していく中で、親はこの子に対していろんな見方ができるのだということを知っていったように思う。そして、親の視点に柔軟性が生まれれば生まれるほど、親子間の緊張が緩和されていくのだった。
それで「この子の精神病が治ったのか」とか、「治らなかったのなら意味がない」などと思わないでほしい。それは部外者、乃至、傍観者の意見である。当事者である両親は、「子供はずっと治療を続けているし、回復していないけど、家庭の雰囲気がこれだけ良いのは何年ぶりだ」ということをおっしゃられた。
 この親子の間で緊張関係が緩和していき、親がより子供の様子を気にかけるようになるほど、子供が安定していって、親子関係で良好な循環が芽生え始めたのである。この子が家庭の中で、親子関係で落ち着きを取り戻すほど、この子の「治癒」の可能性が開けていくのだ。いや、すでにこの子は「治癒」の過程に入っているのだ。
 繰り返すが、この親は子供との関係において、因果律しか持ち込んでいなかったところに、目的や意味を持ち込むことができたということであり、それらが停滞していた親子関係を前に進めることに一役買ったということである。

(寺戸順司)

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