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2016年2月28日 日曜日

12年目コラム(15):動機論(2)

12年目コラム(15):動機論(2)

 カウンセリングで「洞察を得る」とか「自分に気づく」と言う場合、それはその動機に気づくという意味合いが含まれていると、僕は考えている。

 ある女性は、インテリア関係の仕事をされていたが、仕事が上手くいかないということで来談された。上手く行かない理由として、彼女は、客の注文や苦情、上司とウマが合わないということを述べた。そこで、客や上司とどのように上手くやっていくか、その方法を求めていた。
 僕は、最初はクライアントの要望に沿って話し合いを進めることにする。つまり、客や上司と上手く付き合うという路線で話し合いをする。どんなふうに人間関係を築くのか、どういう場面で困難を覚えるのか、そういったことを話し合う。
 しかし、この話し合いは結局のところ、袋小路に至る。当然である。僕にはそれが分かっていたのだが、最初から僕の路線で話し合うことはできない。クライアントの路線に沿って行かないと、信用してもらえないからである。
 袋小路にぶつかったところで、もっと別の角度からも見ていきましょうという提案ができるのだ。そこでようやくこの提案ができるのである。
 僕が、この種の問題で真っ先に尋ねたいのは、その仕事をすることになった動機である。彼女はなぜインテリア関係の仕事を選んだのだろう。彼女は「それが好きだったから」としか答えない。「どう好きだったの」とか「どういうことがあって好きになったの」ということを尋ねても、彼女は上手く答えらない。まあ、そういうものである。
 こういう時は、彼女がインテリアを目指そうと決めた頃のことやそれに興味を持ち始めた時期のことを伺うと良い。彼女がインテリアに興味を持ち始めた最初のきっかけは、彼女が小学生の頃だったと言う(すぐにこれに思い至ったわけではないことを記しておく)。その頃、家族が引っ越しをしたそうだ。引っ越しをして、新居で自分の部屋をいろいろアレンジしているうちに興味を持ったのが最初だろうということだった。
 この最初の経験には彼女が後にインテリアを目指すことになった動機がすでに潜んでいるはずである。僕はそう予測していたが、彼女はそのようには考えていなかったようだ。
 この時期の彼女の経験で、僕が興味深かったのは彼女の妹さんの存在だ。当時、彼女は妹と部屋を共有していた。彼女はいろいろ部屋の内装や配置を変えたがる。妹はそれを嫌がっていたそうだ。
 なぜ、妹さんはそれをされるのを嫌がるのだろうか。彼女の話では、妹は周りがコロコロ変わるよりも安定した状態が欲しかったのだろうと言う。妹さん本人に確認したわけではないが、きっとそうだろうと言う。本人がそう言っていなくて、彼女がきっとそうだろうと思うことには、彼女の感情がそこに含まれている(投影されている)可能性もあるので、安定した状態が欲しかったのは彼女自身であったかもしれない。
 しかし、一方で、僕はこうも尋ねてみた。妹さんがそれを嫌がったのは、コロコロ変わって安定しないだけでなく、インテリアの趣味が姉と合わないと感じていたからではないだろうかと。彼女はハッとした。
 実は、彼女が客や上司との間で問題を生じさせるのは、まさにその部分だったと彼女は気づくのだ。趣味が合わないということで、やり直しを求められるのだけれど、彼女はそれが不快であったようだ。それで、自分の好みには合わないものを作るのだが、それを受け入れる客も少なくないようだ。では、一体、彼女はどういうものを作りたい、どういうものを売りたいと願っていたのだろうか。
 彼女のインテリア趣味というのは、彼女曰く、「暖かさが感じられるもの」ということになるのだそうだ。当然、注文するお客さんの中には、「暖かさ」を求める人もあるだろうけど、もっと違ったもの、例えば、「居心地のいい感じ」とか「清涼感のある感じ」とか「風通しのいい感じ」などなど、そうした要望もあるだろう。彼女はそういう要望には答えられないということになる。それらに答えようとすれば、彼女は自分の意に反することをしなければならないと感じるようだ。
 では、なぜ彼女のインテリアは暖かいものでなければならないのだろうか。これは彼女が求めているものであるはずだ。
 彼女は子供時代を振り返って言う。父親が不安定な人で、ころころ転職していたようで、父親の就職の関係で何度も引っ越しを経験していたそうだ。そして、ようやくこれが最後の引っ越しになるだろうということになって、それから彼女は自分の部屋をいろいろ動かすようになるのだ。おそらく、ようやく自分の居場所が安定するという喜びもあっただろうと思う。そこで求められたのが「暖かさ」である。彼女はこの「暖かさ」がもたらされるだろうと期待していたのだと思う。実際、当時の父親と母親との関係は冷え切っていたそうだ。
 彼女がインテリアに興味を持った動機は、「この暖かさを自分の生活(空間)にしたい」という願望から発していると言ってもいいだろう。もし、この動機に気づくことができれば、次の段階は、自分の願望と客の願望をどう区別していくかという点であり、また、自分の願望をどこで満たしていくかという問題に取り組むことである。
 ここで興味深い話がある。彼女がインテリアの仕事を始めた初期の頃は、もっと柔軟に客のニーズに応じていたような気がすると彼女は話します。いつ頃からか、彼女は自分の要望を前面に出すようになってしまっていたのだ。
 これは何も難しいことではなかった。彼女の夫婦生活、子供との関係が上手くいかなくなった時期にそれが生じているということがすぐに明らかになった。自分の生活が「暖かさ」から遠ざかるほど、彼女はそれを求めてしまい、客にもそれを押し付けてしまうのだ。ここには自他の区別が不明確な部分があるのだが、客がそれを求めているかのように彼女は信じてしまうのだ。でも、本当にそれを望んでいるのは、客ではなく、自分自身であるということをしっかり認識していくと、こうした混同はなくなっていった。
 これ以後は、彼女の夫婦関係の問題に移行していったので、事例の記述はここまでにしておくけど、彼女は最初の動機を十分に意識化していなかった。それが現在の困難にいかに影響していたかということにも理解が行き届いていなかった。逆に言えば、最初の動機が意識化され、それが明確になればなるほど、彼女は自分の現在の状況に対して、より適切に考えることができるようになっていったのである。それをカウンセリングを通してやっていったわけである。

(寺戸順司)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2016年2月28日 日曜日

12年目コラム(14):動機論(1)

12年目コラム(14):動機論(1)

 これまで、「人を助けたい」という項目で述べてきたものは、すべて動機に関することである。ここで動機というものの価値とか意味ということに目を向けようと思う。
 僕たちは何かをする時、必ずそれをする動機というものを持っている。その動機が意識されていることもあれば、無意識であることもある。それでも、動機づけは行動の原動力として位置付けられるものである。
 それがどんな動機であれ、この動機は後々の行為に影響していくことになる。どんなふうにそれをするか、手段とか方法とかも、この動機によって影響される。行為の結果をどんなふうに評価するかということも、この動機に影響されることになる。
 もう一つ言えば、それは始めた動機は、それをやって行く中で衝突するトラブルや困難、ジレンマやスランプとも大いに関係しているものである。
 例えば、女の子にモテたいという動機でギターを始めた青年がいるとしよう。この人が後々体験する困難は、ギターが思うように上達しないということではなくて、ギターをやっても望むようにはモテないという部分で生じるだろう。ここで彼はこの動機自体を変えていくかもしれないし、他にモテそうな領域に方向転換するかもしれない。後者の場合では、新分野でも同種の困難に遭遇するかもしれない。前者の場合では、新しい動機は古い動機に基づいたものであるかもしれないし、古い動機の延長であるかもしれない。つまり、最初の動機というのは想像以上に後々まで影響していくものである。

 僕も最初の頃は「人を助けたい」とか「人の役に立ちたい」といった気持ちが、今よりももっとあった。しかし、こうした気持ちは、仕事をしていくうえで常に雑音となっていた。いつもこの気持ちに照らして自分を見ようとしてしまう。その上、クライアントにもこれを押し付ける。そういうこともあった。
 結局のところ、自分を振り返ってみれば、あまり「人を助けたい」とか、そういう動機でこれを始めたのではなかったということに思い至る。この仕事をしていくのだから、そういう意識を持っていないといけないと、そんなふうに考えるようになり、いつしかそれを自分の使命感とか動機にしてしまっていたように思う。
 最初にこの方面の勉強を始めたのは、すべて自分自身を知るためだった。これが根本の動機だったように思う。以来、僕は自分自身を知るために自分の仕事をするということを、かなり意識するようになったし、そのことを隠そうとしなくなった。この「自分自身を知る」ということについては、いずれ取り上げようと思う。

 ところで、僕は一方で、こんなふうにも考える。結局、ある人がどういう動機で何を始めようと構わないのだ。不純な動機で始めてもいいのである。だから、極端な話、「座って話し合いをしているだけで儲けられるから」という動機でカウンセラーになっても構わないのである。肝心な点は、動機がどんなものであれ、そこから何を目指すようになるかということの方がはるかに重要であるということだ。
 つまり、一言で言えば、動機よりも目標である。しかしながら、この目標もまた最初の動機と無関係ではないのだ。しばしば、最初の動機がそのまま目標になることだってある。「人を助けたい」という動機は、そのまま「人を助ける」という目標になる。しかし、同じくらい、最初の動機と目指す目標とが異なる場合もある。いずれにしても、動機と目標はセットである。
 従って、それを始めることになった動機というものは、意識しておくとよいという結論になる。もちろん、嘘偽りのない正直な動機ということである。

 就職試験の面接なんかでも、「どうしてこの会社を選びましたか」などと、志望動機を訊かれることがある。そんな場面でも、立派な動機を答えなくてもいいのである。正直に言えばいいと僕は考えている。当然のことながら、その言い回しには工夫がいる。あまり面接官たちへの印象を悪くしたり、不快にさせないようにという配慮も必要である。
 そして、その動機について、更に訊かれることもある。例えば「それは本心ですか」と訊かれたら、「はい、私の本心です」と答えればよい。その上で、「私のこの動機は、私が今後この会社で仕事をしていく上で経験する困難と必ず関係してくるでしょう。その時、周囲の同僚や上司に本心の動機を知っていてもらっていることで、どれほど私自身が心強く思えることだろうかと、そう思うからです」と言ってもよい。その方が、下手に取り繕って、嘘を言うよりも、よっぽど好ましいように僕には思われるのだ。

 ここまで述べたことを踏まえて、僕の持論を述べよう。
 人が何かをする時には、必ずそれをする動機がある。「何となく始めてみた」という場合でも、その「何となく」が動機であるし、それは動機が意識化されていないだけのことである。どんな行為であれ、必ずそれをすることになった動機がある。
 意識化できるためには、自分の内面や内側で生じていることに関して開かれている必要がある。そうでなければ、偽りの動機を作り出すようになり、その偽りの動機で行為するようになる。「人を殺してみたかった」は最初の動機ではないはずである。最初の動機に無自覚なので、後から生まれた動機に目を奪われてしまうのだと思う。
 最初の動機は、その後の困難や目標と関わる。困難に陥った時、外的な状況に目を向けるよりも、内的な部分、つまり最初の動機の部分に目を向ける方が有益であることも少なくない。
 これが僕の考える「動機論」の根幹となる部分である。現実には、一つの行為に二つ以上の動機が働いていることもあったり、逆に一つの動機から異なった二つの行為を行う場合もあり、複雑である。その場合でも、できるだけ最初の動機に近づくことが重要になると僕は考える。つまり、「人を助けたい」という動機は、「人を助けたい」と思うようになった根本に迫るべきなのである。

(寺戸順司)

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2016年2月28日 日曜日

12年目コラム(13):人を助けたい(4)

12年目コラム(13):人を助けたい(4)

 「3・4・3の法則」というのは、しごく当たり前のように聞こえるのだけれど、これがどういうことであるかを本当に理解できる人は少ない。
 あなたが「人を助けたい」という動機でカウンセラーになったとする。この法則に照合すると、あなたのその動機を満たせるのは3割だけであるということだ。グループAの3割のことだが、その人たちはあなたの援助に感謝するだろうが、それは全体の3割でしかないのだ。あとの7割においては、あなたはその動機を満たせない上に、グループCの3割の人たちからは、あなたが良かれと思って援助しても、あなたは嫌われ、恨まれるということを意味しているのだ。
 動機や願望が3割しか満たされないということになると、おそらく、長くは続けられないだろうと思う。動機の方を変えるか、方向転換するかしかなくなるだろう。従って、「人を助けたい」というそれだけの動機で始めたことは、長く継続してやっていくことができず、早々に断念することになるということだ。それが対人間の仕事であるために、わずか3割しかその動機が満たせないためである。

 さて、「人を助けたい」という動機だけで援助職に就いた人は、その動機のために長く続けることができないのであるが、さらに厄介な問題を生み出す。
 先述のように、この動機に「この人を助けるためなら、この人をどうしてもよい」などというサディスティックな自己愛が潜んでいる場合、この援助関係はどのようなものになるだろうか。
「この人をどのようにしてもよい」というのは、対人関係ではなく、対モノ関係の在り方である。例えば、時計を修理する時、それが直るためならどのようなことをしてもいいのであるが、それと同じ関係性が人間関係に持ち込まれるということである。
 そんなことはないと反論される方もおられるだろうけど、実際、このようなことが生じる。箱庭療法で子供が治ったという事例を聴いて、母親が箱庭を購入し、子供に作らせたり(河合隼雄さんが言ってた話だったと思う)、絵を描かせたり、不必要な一人暮らしを強制したり、好き勝手に振る舞わせたり、相手を助けようとしてメチャクチャなことをする人も少なくないのだ。もう一つ言えば、相手を伸ばそうとして、とにかく相手を褒めさえすればよいと信じている人もあるのだ。
 この対モノ関係というのは、「こんなふうにすれば、こうなる」という規則だけを信用しているということだ。そのため、これに基づく援助は極めて一方的でテクニカルに偏重することになる。ある意味では、あまりに技巧的なのである。援助者はテクニックだけで相手に施すことになり、受ける相手は援助者ではなくテクニックを受け取ることになる。
 当然、そんな援助を受ける側は生きた人間であるので、それに抵抗する気持ちも生じるだろうし、援助を与える側の期待に添わないこともたくさん生じるだろう。こうして、ありとあらゆる手段を尽くして援助をしても、治らないということになって、お手上げになり、どうにもならなくなってその人をカウンセラーや医師に送り込んでくる。こんな例も少なくないのだ。
つまり、「人を助けたい」という動機に基づいた関係においては、被援助者がモノ化されてしまうということである。その動機の背後にサディスティックな自己愛が潜んでいればいるほど、そういう事態が実現してしまうということである。
そして、ここで被援助者はジレンマに立たされる。援助者の援助行為を終わらせよう、止めさせようと思えば、被援助者は援助者に合わせることをするだろう。つまり、自らを積極的にモノ化していくだろう。しかし、自分がモノ化するということは、自分の感情や思考をすべて援助者のテクニカルな援助に適合させていかなければならないわけであるから、相当苦しい体験となる。この苦しい体験を回避しようとすれば、自分をモノ化するわけにはいかなくなる。こうしてこの人は引き裂かれるのである。この人がこのジレンマを克服する一つの手段が精神病である可能性だって少なくないのだ。
 援助者が「人を助けたい」という動機だけで熱心に援助を行う。これはけっこう傍迷惑な行為である。援助を受ける側は決して「救われない」。従って、この動機は達成できないということであり、それだけでなく、その動機とは正反対の結果を招くことにもなりかねないのだ。

 僕の自説の結論として、「人を助けたい」という動機でカウンセラーになると、長く続けられない上に、誰一人として助けることができないということである。そういう逆説的なことが本当に生じるものである。
 
(寺戸順司)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2016年2月27日 土曜日

2月27日:音楽と本

2月27日(土):音楽と本

 昨日は用事があって、朝から出かけていた。午後から京都へ出て、買い物をする。買い物と言っても、本とかCDだ。CDは買おうと最初から決めていた。ブックオフの中古CDが安くて、丹念に探すとけっこう掘り出し物にぶつかるということを初めて知った。
 結局、7枚も買ってしまったけど、それでも3500円程度で、安い買い物だと思った。今日は朝からずっとそれらを聴いている。

 今回、購入したラインアップは以下の通り。
 キャノンボール・アダレイ『Somethin' Else』。昔持っていたけど、買い直した。ジャズの名盤とされているけど、僕にはこれの良さが分からない。もう一度、しっかり聴きこんでみようと思う。
 ウエス・モンゴメリー『Full House』。これは今でもレコードで持っている。僕の好きなアルバムの一枚だ。
 ジュニア・マンス『Harlem Lullaby & I Believe to my Soul』。これは二枚のLPを一枚のCDに納めたもので、初めて耳にするものだ。ジュニア・マンスのピアノはファンキーでソウルフルな雰囲気があって、僕はけっこうお気に入りの人だ。
 『Jazz Piano Masters』シリーズで、アルバート・アモンズとミード・ラクス・ルイスのブギウギピアノ曲集だ。ホント、ほれぼれするようなピアノ演奏だ。
 以上がジャズ系で、あとはロック系になる。
 ジェフ・ベック『Blow by Blow』。これもレコードで持っていたのだけど、CDで聞き直すことにする。ジェフ・ベックはストイックなギタリストという雰囲気があるが、僕の目当てはギターではなくキーボードだ。マックス・ミドルトンのキーボードがいいのだ。
 サヴォイ・ブラウン『Blue Matter』。これは編集もののようだ。そうか、フォガットのメンバーはここの出身か。ロンサム・デイヴやロジャー・アール、トニー・スティーブンスと、すでに顔ぶれが揃っている。ギターメインのブルースバンドといった感じだが、ピアノの感じも良い。
 ヴェルヴェット・アンダーグランド『White Light/White Heat』。今回の一番の難物。独特の音世界を持っているバンドだが、僕の中では何か取っ付きにくいものがある。ルー・リードやジョン・ケールといったメンバーも、興味はあるのだが、どうもあまり追及していこうという気持ちにならない。まあ、聴かず嫌いというのも拙いので、今回、この音楽世界に馴染んで行こうと考えている。
 来月はこの7枚を聴きこんでいこうと考えているので、もしかすると、この日記にも度々登場するかもしれない。

 先月15冊くらい本を買っていて、それもまだ読み終えていないので、今回、新たに買うのは控えようと思ってはいたのだけど、ついつい。
 本当はこれを買うと決めていた一冊の本があった。ところが古書店でその現物を見て、けっこうな大著だなあと、読み切ることができるかなあと、心配が生まれ、結局、それは買わず終いだ。その代わり、別の本を買ってしまう。
 まず、ミシュレの『愛』(上下)は見つけた瞬間、手に持ってしまった。ミシュレという人に興味がある。『魔女』を読んで、彼のファンになったのだ。19世紀の人で、歴史家なんだけれど、およそ歴史家らしからぬ本を書いている。歴史本というより、文学である。そして、それが面白いのだ。
 もう一冊はコールドウエルの『タバコ・ロード』だ。これは前々から読んでみたいと思っていた一冊で、上手い具合に発見したのだ。これも迷わず購入。
 その他、2冊、精神医学関係の本を買った。これも追々読んで行こうと思う。ミシュレの方は今日からさっそく読み始めている。

 音楽が聴けて、本も読める。幸せなことだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2016年2月24日 水曜日

2月24日:今日の学び

2月24日(水):今日の学び

 仕事をする。クライアントのことや他の人のことは書けないので、ここは割愛する。
 音読。今日は予定の関係で2回に分けて実施。声は出しにくく、滑舌もままならない。昨日よりも後退している感じがする。
 キーボード。時間がある時は曲も練習するけど、時間のない時は練習曲だけにする。指は相変わらず動かないが、少しずつ動きが滑らかになっている部分もあれば、やはり後退している部分もある。
 どんなことでも、全体が前進するのではなく、ある部分が先に前に進んで、その他が後からついてくるという形になると思う。遅れている部分が追い付くころには、先に進んでいた部分の停滞が見られるはずである。これが要するにスランプとか壁とかいうものだと僕は思う。
 文学。長編を読み切る余裕がなさそうなので、ここしばらくは短編を時間の空いた時に読む。ガルシン「信号」「夢語り」、ゴーティエ「二人一役」。「夢語り」が良かった。
 勉強。ジェイコブソン『うつ病の精神分析』に着手する。部分的に読んだ本。今回は最初から通読していこうと思う。この本は、「うつ病」を扱っているけれど、むしろ「人格障害」レベルの「うつ」を取り上げている。超自我、否認と抑圧、精神病性同一視などがキーワードになるようだ。おそらく、本文がそうなのだろうけれど、訳文が読みにくい。難解な文章にもぶつかる。丹念に読まないと、混乱する。今日は第1章を丁寧に読んで行った。何回かに分けで読んだが、トータルで2時間くらいかかった。
 その後、帰宅。途中、車が無灯火で突っ込んできた。びっくりした。あんなんで轢き殺されたら人生無念だ。ほんと、超自我の未形成な奴ほど恐ろしい存在はない。
 夕食。思わず食べ過ぎる。お昼がカップラーメン一個だったのですごく空腹だった。昼休みも惜しんで勉強していたせいだ。
 クタクタになって、部屋で横になる。見るともなしにテレビをつけてみる。「水曜日のダウンタウン」がやっていた。SNSで芸能人に会えるかというのをやっていた。
 SNSとか、そういう類のものを僕はいっさいしないのでよく分からなかったが、あれは本当に怖いと思った。自分がいつどこにいたか、何を食べていたかといった情報が筒抜けになるのだから。それを本人が公表しているわけだ。そこから行動パターンや行動圏がすべて知られてしまうわけだ。情報保護や情報管理ということがやかましく言われている時代で、自ら情報漏えいしているようなものだと思う。
 僕のこのブログでも、今日は何をしたとか、そういうことは書くけど、具体的なお店の名前とか地名、個人名は絶対に書かないようにしている。そういう情報を漏らさないためだ。
 僕がそういうことをすると、僕の信用問題にかかわる。僕の仕事は人の秘密に関するものだ。だから、安易に情報を漏らす人間だと思われたら、それこそ一貫のお終いなのだ。
 ウトウトしながらテレビを観ていた。所々で眠ってしまう。
 何とか起きて、パソコンを開く。帰宅したらパソコン作業をするという日課だった。少しでもやっておこうと、取り敢えず、このブログを書いている。今日あったこと、やったことを振り返っておく。

 そうそう、ダウンタウンの番組で「有名人、十親等離れると他人」ということを検証していた。あの親等の数え方がよく分からなくて、僕は混乱するのだ。もっと、きちんと見ておいたら良かった。
 自分から見て、親は一親等だ。親の他の子、つまり自分の兄弟姉妹は二親等離れることになる。
 親が一親等離れていて、その親、つまり自分から見て祖父母は二親等離れることになる。ここまでは難しくない。
 祖父母の他の子、つまり自分から見て叔父叔母たちは三親等離れていることになる。
 叔父叔母の子は四親等、さらにその子(叔父叔母の孫)は自分から五親等離れることになる。
 その叔父叔母の孫の結婚相手の親は六親等離れることになり、叔父叔母の孫の結婚相手の兄弟姉妹は自分から七親等離れることになる。ここまで行くと、有名人の親戚という意識がなくなるという話だったと思う。

 こういう、何かの偶然で学ぶこともけっこうあるものだ。それに対してもっと心を開いていないといけないし、油断していたら学び損ねてしまうと、日頃から注意しているつもりだけど、なかなか理想通りにはいかないものだな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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