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2015年6月30日 火曜日

6月30日:悔やみきれない

6月30日(火):悔やみきれない

 昨夜は荒れた。荒れに荒れまくった。自棄酒を飲んで、とても穏やかにはいられなかった。
 今日もまだ昨日の気分を引きずっている。あまりここではクライアントのことは言わないようにしているのだけれど、今日は少し言わせてもらおう。
 その人は女性でした。一か月間が空いて、昨日、一月ぶりに来られることになっていた。彼女は職に就いて、収入を得ないとカウンセリングが続けられないと言う。それで就職して、給料が入るまで、一か月の中断が生じたのだ。僕はお金は後でもいいから、その間に一度でも来た方が良いとお伝えしたのだが、結局、お見えになられなかった。
 一月ぶりの面接に彼女は来られなかった。すると、彼女から電話がかかってきて、実は離婚するという話になっていた。僕には訳が分からなかった。一体、何がこの一か月の間に彼女に生じていたのか。もし、よろしければと、僕は午後の空き時間に来ないかと誘いかけてみました。そうして、一応、彼女の一か月ぶりの面接は実現したわけなのだけれど。
 彼女は家族に迷惑をかけたということで、自分が家を出ることに決めたそうだ。僕はその離婚は取り消せないかと尋ねたが、彼女はもう無理ですと答える。もし、取り消せるものなら何とかして取り消した方が良いと僕はしつこく言うのだけれど、彼女はもう離婚しかないと決めているようだ。彼女はバカだと僕は思った。
 この問題を彼女は、僕にではなく、姉妹や友人に持ちかけたのだ。彼らは一様に、そこまで行ったのならもう離婚するしかないと、彼女の離婚を後押ししたのだ。輪にかけた大バカ揃いである。彼らの与えた助言は、無能な援助者に典型的なものである
 彼女には離職歴がある。職場の人に迷惑をかけてしまったのだ。それはそれで仕方がないとしても、彼女は自分が辞めるしかないと思う、いつでもその選択肢しか持っていないのだ。
 今回も同じ構図なのである。迷惑をかけたので、自分がいなくなることで責任を取りますっていうような構図なのだ。そして、これは自殺者の思考なのだ。
 いつか彼女が「皆様に迷惑をおかけしました、死んでお詫びします」となったとしても不思議ではない。彼女の思考はそれに非常に近いのだ。僕は彼女に自殺傾向を見ているわけだ。だから絶対孤立させていはいけないのだ。誰も彼女のそこを見ていないようだ。彼らにすると、彼女は自殺なんて決してしないと確信しているのかもしれない。でも、僕にしてみれば、それはあまりにも楽観的すぎる。
 こうして彼女は、新しく見つけた職も辞め、家族とも別れ、カウンセリングからも去ろうとしている。もっと正面切って自殺の問題を取り上げれば良かったと、後悔している。彼女の思考が自殺者のそれに近いと言っても何にもならないだろう。それよりも彼女の生活を支持していくことの方が先だと考えていた。その生活においてつながりと支援が得られている限り、思考が自殺的であっても、自殺は生じないだろうと考えていたのだ。それが間違いだった。一番に彼女の自殺傾向を指摘して、考察の対象にするべきだった。そうすれば破滅的な方向に進むのを彼女自身が思い止まっていたかもしれない。
 悔やんでも悔やみきれない。
 こんな思いをして、なんで援助と言えるだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2015年6月26日 金曜日

6月26日:映画を観る~『マッドマックス2』

6月26日(金):映画を観る~『マッド・マックス2』

 先週もやったので、今週もこれをしよう。BSテレビで観た『マッド・マックス2』について思うところを綴る。

(神話)
 一応、前作の延長上の物語だが、時代はもう少し進んでいて、戦争後の荒廃した世界を舞台にしている。
 舞台は未来だが、物語は過去のこととして語られる。オープニングとラストにナレーションが入る。最初に世界がいかにしてこのようになったかが語られれ、ラストに我々を新天地に向かわせることに貢献した英雄としてマックスが語られ、マックス以後に部族がどうなったかを語って映画は終わる。
 これはつまり、マックスの活躍が、現在進行形の物語ではなく、昔話として、一族の神話として語られているという構造である。
 物語が神話の形で綴られているということは、僕には二つの理由があると思う。一つは、これをもってマックスの映画を打ち切りにしようという製作者側の意図があったのではないかということである。実在性を帯びたキャラクターから、伝説の、神話上の人物にするということで、一つの神格化をしているわけだが、それによって、このシリーズを終えようということだったのかもしれない、ということである。
 もう一つは、神話として語られることによって、リアリティを薄めるという作用があると思う。どれだけ恐ろしい物語が述べられようとも、それは昔々のことじゃったということであれば、僕たちは安心して聴くことができるわけである。
 荒廃した砂漠で、凶暴な暴走族集団が善良な部族に襲いかかる。時にむごたらしい場面も出てくる。それでも僕たちはそれを現在目の前に生じている出来事としてではなく、大昔の出来事として提示されることによって、ある程度安心感を持って物語に関わることができるのである。僕はそう感じている。
 蛇足ながら、他の神話などがそうであるように、ここでも矛盾がある。語り手は一族の三代目の長であるが、その人物の正体が最後に分かるようになっている。では、その人物とマックスが出会う以前のマックスの物語は誰によって記録されたのだろうか。マックスが敵のウェズ(モヒカン男)に狙われることになる部分、キャプテンと出会う部分などのエピソードは誰によって語られたのだろうかということである。ここはもしかするとその長の空想であるかもしれず、現実には違ったいきさつがあったかもしれない。そう思うと、もっと違った物語を各人が思い描くことも可能なようである。

(悪役とヒューマンガス様)
 物語が神話的であるのと関係するが、登場人物たちもどこか人間離れした感じを受ける。つまり、キャラクターとして造形されているということである。悪役も戦士も、コミックやゲームの世界に登場するキャラのようにデフォルメされている。
 中でも、悪役のボス、砂漠の支配者であるヒューマンガス様のファッションはナイスである。ホッケーの仮面をかぶり、レザーのパンツ一丁に、上半身はレザーのベルトだけというチンチクリンなSM野郎である。分かりやすく言えば、ヘンタイである。おまけにかなりの薄毛(つまりハゲ)であるようだ。
無機質な仮面をかぶるということは、自己を持っていないことの表れだろうし、その衣装は自分が逸脱しているということの表現なのだろう。まあ、ホッケーの仮面は『13日の金曜日』のジェーソンのパロディかもしれないけれど。
 悪役たちはこのヒューマンガスの部下であるが、ヒューマンガスその人が支配者として尊敬されているわけではない。悪役たちは、前作でもそうであったが、自分たちの行動規範を有していないのだ。自分の中の核となる部分を有していないのだ。行動の指針を形成するような自己がなく、目の前を横切るものに心のすべてを奪われるような人たちだ。彼らは自分たちに欠けているものの代用品としてヒューマンガス様のような人間を必要としているだけに過ぎす、そこには一切の関係性さえ築かれていないのだ。
 このことを示す場面がある。見事な描写だと思うのでやや細かく述べる。それはヒューマンガス様のスクリーン初登場シーンで、石油を掘る一族と交渉しにきたのである。ヒューマンガスが演説をする。そこに一族の子供が抜け穴を通って現れ、ブーメランを投げる。空中を舞うブーメラン。悪役たち(観客も一緒になって)は、そのブーメランに心を占められる。ヒューマンガス様の演説なんてどうでもよくなっている。ブーメランの二投目がなされる。ウェズの「恋人」がそれに当たって死ぬ。荒れ狂うウェズ。ヒューマンガス様、ウェズを羽交い絞めして「落とす」。第三投目がなされる。今度は俺が取ると手を伸ばすメガネ男の指を切断する。それを見て悪役一同大笑いする。もはやヒューマンガス様のことは眼中になく、ウェズやその「恋人」のことも頭からきれいになくなっていて、集団の統率はなくなり、混沌状況が呆気ないくらい簡単に生まれる。ヒューマンガス様など、リーダーとして尊敬されていないのだ。

(新天地へ)
 この映画のもう一つのテーマは、部族が苦しい現状を切り抜けて新天地に赴くという部分である。モーセの物語にあるように、こうしたテーマは神話ではよく取り上げられるものである。
 新天地に行くこと、新しい世界に向かって出立するというのは、自我の成熟に伴うテーマでもある。部族の人たちは、砂漠を我が物顔で振る舞う野蛮人たちと違った存在になろうとしていて、その決定打として、新天地へ向かうことが示されている。彼らは一段階上の存在になろうとしているのだ。
 神話でもそうなのだが、こういう時、部族に協力し、引導する英雄が現れる。いや、こうした働きをする存在は英雄視されるのである。マックスは、部族の側からみれば、ある日いきなり現れた異端である。自分たちの仲間とも思えず、暴走族軍団の一味でもなさそうだという異質の存在である。この辺りはその他の英雄伝説と類似している。英雄は、一度、捨てられるというのが定石であるが、マックスも然りである。トレーラーを調達するために、部族を後にし、続いて自分だけ放浪しようとする。

(キャプテンとマックス)
 さて、ここにもう一人魅力的な人物が現れる。キャプテンである。彼はマックスの「相棒」である。と言うよりも、自分から「相棒」と名乗り、それをマックスに押し付けるだけなのだが、この人物、空を飛ぶのである。要するに飛行機だ。
 部族からすると、この男は空からやってきた男ということになる。加えて、彼はヘビ使いでもある。天空からやってきた存在であり、ヘビを使い馴らす知恵者ということになる。だから、キャプテンはマックス以上に神話的性格を帯びているキャラクターなのだ。
 英雄は一人残り、その相棒が族長になる。英雄は常に隔離される。孤高の存在でなければならないのだ。その代わり、英雄の片割れが部族に与えられることになるわけだ。これもまた神話にありがちなパターンである。
 このキャプテンであるが、マックスとは対照的である。キャプテンは俗っぽさを残しているのだ。この世の快に未練があり、欲望を持っているのだ。マックスについていけばうまい汁が吸えるかもしれないという思いがあったかもしれない。部族に協力するのは、部族の娘のためだったかもしれず、打算的で、世俗的である。
 マックスはそうしたものとは無縁である。彼はただマシンを走らせるだけである。それしか彼には残されていないのである。前回登場した改造マシンを今回も走らせている。そのマシンには妻や仲間の思い出が伴っているのだろう。そして、マックスはそこから抜け出すことができていないのではないかと僕は思う。そのマシンを失った時、最後の生きがいは石油トレーラーを運転することだけだったかもしれない。彼は部族のためにそれをするのではなかった。自分の何かのためだけにそれをしたかっただけである。ラストでトレーラーが横転して、この生きがいに終止符が打たれた時、マックスにはもう何も残されていなかったのだと思う。だから、彼はキャプテンと一緒に部族に加わることをせず、砂漠に一人残ることにしたのだと思う。

(伝説を語ること)
 そして、物語は、過去に部族を助けた英雄について現在の長が語るという構成を取っている。人はどんな時に過去の英雄のことを語りたくなるだろうか。
 その英雄を乗り越えたいと思う時に、そうした語り直しがされるかもしれない。でも、今その英雄が必要だという時に、かつての英雄を人々に語り伝えたくなるかもしれない。つまり、今現在、マックスのような英雄がいてくれたらなあっていう時に、かつてマックスのような英雄がいたのだということを思い出し、語りたくなるのかもしれない。そう思うと、新天地に避難した人々も、生涯安泰に暮らしたとは言えないのかもしれない。新たな危機に見舞われているのかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2015年6月23日 火曜日

6月23日:唯我独断的読書評~『連想実験』

6月23日(火):唯我独断的読書評~『連想実験』(C・G・ユング)

 僕が最初にユングにハマった本だ。『変容と象徴』や『タイプ論』などよりも、はるかに面白いし、勉強になる。ユングは、やはり、初期に限るなとあらためて思う。
 連想実験というのは、単語連想テストのことである。江戸川乱歩の「心理試験」でも登場するテストである。このテスト自体はそれ以前からあったものだが、その着眼点や解釈はユング独自のものだ。この研究でユングは注目されることになったのだ。
 ユングのその後の研究も、この単語連想テストの研究が常にベースにあるはずなのだが、ユング派の人でもあまりこれに触れる人は多くない。夢、神話、象徴、錬金術などに関するテーマは、いくらも本が出されているのに、連想実験の本はめったに見かけないのは残念である。それはつまり、ユングを勉強しようとする人が、ユングの基礎になっている部分を学ばないままテキストを手に取ることになってしまうからである。
 そう考えると、僕が最初のユング体験をこの本でしたことは、けっこう幸運なことだったのかもしれない。あれは1993年頃だったと思う。夢中になって読んだ。当時、本友達がいたのだけれど、彼にもこの本を貸してあげたことがある。彼も面白いといって読んでいたのを思い出す。僕個人は、それから二度くらい読んでいるのだけれど、今回、少し久しぶりに読んだ。それでもやっぱり面白いと思う。

 ユングが注目するのは、単語連想テストにおける、反応の乱れである。それらは誤反応として処理されてきたのだけれど、そこに被験者のコンプレクスが現れると気づき、実例を通して証明していく。フロイトに対しても好意的だった時期の論文であり、嬉しくなってくる。
 ヒステリー患者、癲癇患者の施行例を挙げて、どういうところで、どういう形でコンプレクスが現れるかを説くあたり、推理小説を読むような楽しさがある。このテストを用いて、盗難事件の犯人を特定したという事例も面白い。また、決してコンプレクスを見せないとして、どの単語を言われても一つの単語でしか答えないと頑なに決めた男性の例でも、その一つの単語がすでにコンプレクスの表れであり、実際のテストでもきれいにコンプレクスを現しているところは、読んでいて爽快ですらある。
 あと、近縁関係にある者同士の反応は類似するかといったテーマや、家族布置のテーマも興味深い。
 最後の二章は、単語連想テストよりも、コンプレクスについてのものであるが、コンプレクスの概念も布置という概念も、初期の頃の見解は理解しやすい。
 学術論文でもあるので、細かなデータが提示されているけれど、難しければそこは読み飛ばしても大丈夫である。それでも内容は理解できる。

 あと、これは訳語の問題であるが、「繰り返し」「反復」「再生」といった言葉をきちんと使い分けてほしいと思った。使い分けができている箇所もあるけれど、「反復」と「再生」が区別されていない箇所もあり、ちょっと混乱したところがあった。
 確率平均ということも少し説明がほしかったな。あとがきを読むとそれが分かるのだけれど、脚注にでも入れておいてくれたらと思う。

 さて、本書の評価であるが、これは五つ星間違いなしだ。内容もさることながら、フロイトと仲が良かった時代のユングの姿が魅力的だ。ここにはアーキタイプもヌミノースも出てこない。アニマとアニムスも、影も大母も出てこない。神秘的なことは何一つ登場しない。一途なほど実際的で、臨床的なユングの姿がある。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2015年6月23日 火曜日

6月23日:くたばるには早すぎる

6月23日(火):くたばるには早すぎる

 今日は定休日だけれど、あのリストの作業を少しでもこなそうと、職場に出る。
 クライアントから支払いがあれば、僕は領収書を発行する。それは無地の領収書にウチのハンコが押してあるものだが、実はこれ手作業なのである。一枚一枚捺印していくのである。これが実に面倒な作業である。
 でも、今日は8冊ほど捺印した。実に400枚だ。これだけ用意しておけば、当分もつだろう。面倒だったけれど、やってみると、一冊につき10分くらいのものだ。思っていたよりも短い作業なんだと気づく。その代わり、8冊も捺印すると腕が痛くなるが。
 それから記録用紙を追加しておいた。これはコピーするだけなのだが、300枚ほどコピーしておいた。
 予約表も今年の下半期分を作成しておいた。
帳簿も年内分は準備した。あとはその都度、数字を書き込むだけでいい。
 夏に向けて、エアコンのフィルターを洗浄する。
 ヤカン、湯呑みをハイタ―に浸して、きれいにした。お茶のストックも用意した。その他、消耗品の類をストックしておいた。
 当分、それらのことで気がかりになることはなさそうだ。

 あと、室内をいつもよりも丹念に掃除機をかけ、ハタキがけをする。机の上と引出の中の物を整頓する。
 不要なメモとか覚書、チラシ、資料など、シュレッダーにかける。要らなくなったものは処分する。昨日と今日でごみ袋が二つ満杯になった。
テープのIC化も6時間分ほどこなす。これは過去の面接のテープをICレコーダーに入れ、それをパソコンに入れ、CDに落としていく作業である。

 雑用を終えたら、今度はサイト作業に集中する。原稿を書く。A4で15枚ほど書いた。公開するかどうか、どれを公開するか、まだ決まっていないけど、書いておく。
 昨日の面接の記録を一件、書く。論文を二つほど読む。また、夕べから今日にかけて、ユングの『連想実験』を通読する。
あることのために友達に連絡を入れる。今日は忘れなかった。
 昨日から、朝の体操を日課にしている。昔はしていたのだけれど、今秋から再開する。できれば朝夕の二回したいところだけど、今日の夕方は少しだけ散歩する。

 その他、細かい作業をだいぶんこなした。前に進んだ感じがする。それがまた心地いい。
 今、夜の9時。職場を出るが、まだまだエネルギーが有り余っている。パソコンを持って帰り、もう一仕事しようと思う。これは喫茶店で書いている。

 いやあ、それにしても、思っていたよりも捗った方だ。一人で仕事をしている上に、できるだけ経費をかけず、その分、面接料を他よりも下げようという方針で始めた仕事だ。いろんなことを自分一人でしていかないといけない。ちょっとした雑用でさえ、僕の代わりにしてくれる人はいないのだ。業者に任せればラクなものでも、できるだけ自分でする。だから細かな作業が増えてしまうのだけれど、一日、休日を返上してやるだけでけっこうできるのだから、自分は間違っていないという気になっている。
 昨夜はあまり眠れなかったのに、今日はやたらと元気だ。くたばるのはまだまだ早すぎるな、そんな感じがしている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2015年6月21日 日曜日

6月21日:浮いたり沈んだり

6月21日(日):浮いたり沈んだり

 昨日は何かと忙しかったが、今日は比較的穏やかな日だ。

 昨晩は久しぶりにサイゼリアに行った。店長さんが代わってから行く気がしなくなっていたけれど、どうなっているか見に行ってやろうという気持ちになったのだ。
 前の店長さんは良かった。僕のことを見知っていてくれて、何度かミニストップさんでお会いしたことがある。タバコを買いに彼はわざわざそこまで行くのである。ローソンの方が近いんじゃないかと思うのだが。
 その店長さん、僕は名刺までいただいたのだけど、今は天王寺の方のサイゼリアで店長をしているそうだ。あの店長さんなら、どこに行ってもお客がついてくるだろうなと思う。
 昨晩、行ってみて、やっぱり行くんじゃなかったという気持ちになる。あれほど注文を繰り返したのに、注文を間違えるのだからびっくりする。
 また、僕は喫煙席に座るのだけれど、どうしてそこに高校生がいっぱいおるのだ。高校生たちは別に喫煙するわけじゃないのだけれど、これじゃあ、なんのための分煙か分からないじゃないか。
 僕の隣では高校生の一団がはしゃいでいる。遊園地か、ここは、と思いつつ、わざと彼らの方にタバコの煙を吹き出す。ささやかな嫌がらせだ。
 仕切りを隔てた後ろの席にも高校生たちがいて、ガチャガチャはしゃいでいる。僕の背中にガンガンと何かが当たるのが響いてくる。インターハイがどうこうとか言っていたからやっぱり高校生だろう。
 僕の向かいには三人の女子高生たちがいて、僕の方を見ている。明らかに見ている。ジーッと見ている。決して僕の注察妄想ではない。そこは請け合ってもいい。そして何か言い合っている。「あのオッサン、ウザイ」とか「キショい」とか言っているのだろう。勝手にしやがれだ。
 こんなところに居てられるかと、結局、食事の途中で僕は席を立った。
 その後、飲みに行った。むしゃくしゃしていたので、ヤケ酒になってしまったよ。

 今日、一ついいこともあった。去年来られていたクライアントから電話があったのだ。偶然にも、最近、僕も彼のことを考えていたのだ。また、来てくれそうな感じである。いいことだ。
 まだ、僕を必要とする人がいてくれる限り、僕もしっかり生きないといけないなと思う。児童期をそのまま持ち越したような高校生軍団に気持ちを掻き立てられるようじゃあ、僕もまだまだだなと、自分でもそう思う。

 もう一人、明日の予約の人からキャンセルの電話があった。僕はしまったと思った。僕が迂闊だったのだ。その人にそういうことが起こりそうなのはうすうす感じられていたのだけれど、気持ちが焦っていたのもあって、油断していたのだ。悔しいし、僕は自分の軽率さに腹が立つ。

 その後、夜のことだけれど、先週の水曜日に作成したリストを取り出す。見ただけで気持ちが重たくなるあのリストだ。あれから逃げ回っていたけれど、やっぱり逃げてはいけないと思い立つ。いくつか、今日の内にできることはしておいた。どれだけ膨大な作業リストであれ、こなしていけば終わるのだから、回避しないようにしよう。そして、明日はこのリストに則って一日を構成しようと決心している。

 ふぅ~、穏やかな一日のはずが、けっこう浮いたり沈んだりの一日になったな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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