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2014年10月31日 金曜日

10月31日:くされ縁

10月31日(金):くされ縁

 また一週間ほどブログを怠ってしまった。何かと忙しい。外的に多忙になることもあれば、内面的に忙しい時もある。
 この間に僕の誕生日があった。僕の中で一番祝福できない日だ。僕という厄介者がこの世に誕生した日だ。何がめでたいものか。

 一昨日、仕事を終えて外に出るとY君とばったり会った。Y君とは10年来の腐れ縁の飲み友達だ。僕はいい加減彼とは縁を切りたいと思うのだが、その辺で偶然に会う。
 そう言えば、ここしばらく彼を見かけていないなと気づく。尋ねてみるとブタ箱に入っていたらしい。最近お勤めを終えて出てきたそうだ。酔っ払ってケンカして、相手に怪我を負わせてしまったようだ。いつまでもケンカがしたいのかね。

 Y君の後で、Yさんと会う。ややこしいけどイニシャルにすると同じYになってしまうのだ。このYさんとは前もって約束していた。しかし、その日一日数人のクライアントと会って、中にはとてもしんどい感じを残していってくれる人もあり、その後でY君と会っているので、Y君と別れた後はけっこう疲れていた。
 Yさんとは1時間半程度、一緒に食事して過ごす。次はいつ会うか分からない。僕の気分が乗らないかもしれない。

 すぐ近くのミニストップの店長さんがいよいよ引退だ。この店長さんも飲み屋で顔なじみの人だ。一緒に飲んだこともある。
それよりもあそこでタバコが買えなくなる。不便だ。今日、すでにタバコの販売が終わっていた。知っている人がいなくなると、その店に行く気がしなくなる。だんだん知り合いも減っていく感じがしてなんだか寂しいような思いもある。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 いろんな人といろんな縁があるものだ。Y君とはもう会わなくなっているけど、僕の中ではくされ縁の代表格だ。彼のことでは苦労したものだ。
(平成29年2月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2014年10月23日 木曜日

10月23日:好いてくれた人

10月23日(木):好いてくれた人

 18時からのクライアントを待っているが、どうやらお見えにならないようだ。別に無断キャンセルは構わないのだけど、いい断り方をしておかないと後で自分が困るだろうに。確かに、人間関係に不得手な人だった。

 日頃から臨床家はクライアントにあまり大きな影響を与えすぎてはいけないと信じ、自分なりに自戒しているつもりだが、上手くいかないこともある。
 今日、女性クライアントから僕のことが好きだと告白された。僕は前々から彼女の様子を見ていて、そうだと思っていた。告白するのも苦しいことだっただろうし、そういう気持ちを抱きながら毎週通うというのも辛かったのではないかと思う。
僕にとってもそんな風に思われることは、本当は嬉しいことなんだけれど、こうした愛情はしばしば破壊的な結末を迎えてしまうものだ。僕はその気持ちは確かに受け取ったけど、今はこの援助関係を壊したくないと答えただけだ。彼女は不服そうだった。
 過去に4人ほど、僕は女性クライアントから告白されたことがある。僕がモテるのではない。みんな寂しい女性たちだった。その寂しさを僕で埋めようとしたかったのだと思う。状況が許すなら、お付き合いしてみたかったとも思うが、一線を越えてしまうとお互いに苦しむことになってしまう。だから僕は自戒するようにしている。でも、僕はその人たちのことは忘れないし、忘れられない。これだけは明言しておきたい。

 昔、クリニックに勤めていた頃の話だ。女性臨床家が男性クライアントから「先生と一緒に寝たい」と言われたことがあった。そのクライアントが帰られてから、女性臨床家は激しい嫌悪を示した。
 ちなみに僕はその女性臨床家が大嫌いだった。今でも嫌いだ。彼がそういう告白をしているのに、恐らく彼なりに苦しんで打ち明けたことなのに、嫌悪でもって対応しているのが許せないと思った。どうして「そこまでわたしのことを思ってくれているなんてとても嬉しいわ。でも、それはできないのよ」と言えないのだろう。
 嫌悪されるなんて、彼はとても傷ついただろうと思う。

 恋愛感情とは違うけれど、臨床家をあまりに崇拝したり理想化したりしてしまうのも問題である。こういう影響の受け方は男性クライアントに多いように思う。
 先日来られた男性クライアントもそういう経験の持ち主だった。若い頃に受けたカウンセラーがとても良かったそうだ。そのカウンセラーさんが亡くなられて、彼はそれに代わるカウンセラーを探し求めている。幸か不幸か、僕は彼の基準に達しないカウンセラーだった。それでいい。
 こういう場合、良くないのは、臨床家が余計な予言をしてしまうことだ。彼はカウンセラーから「あなたは何歳頃にこういう問題で苦しむかもしれない」と言われている。今、彼はその年齢に達しようとしている。ここで「予言の自己成就」という現象が生じる。彼は本当にその臨床家の予言を的中させてしまう。彼は無意識的にその臨床家を裏切ることができないでいるのだ。彼がその臨床家を崇拝し続けるなら、彼はその臨床家の予言を実現させないといけなくなる。そうでなければ理想化対象を失ってしまうからだ。

 また、こんな例もある。これは女性クライアントだったけれど、やはり若い頃にある臨床家のお世話になったのだ。その臨床家と縁が切れたのは良かったけれど、それ以来、その臨床家の霊が彼女に纏わりついているという感じを彼女は抱き始めた。彼女は私にその霊を払いのけてほしいと依頼してきたのだ。
 この女性、年配の女性だったけれど、いつも怯えていて、そして善良な婦人だった。彼女はしばらく僕のカウンセリングに通ってくれた。別に除霊をしたりはしない。霊には霊をと、僕はこういう話をした。「その臨床家の霊があなたに憑りついているとしても、その霊はあなたを苦しめない。なぜならあなたには守護霊がついているからだ。我々誰もが自分の守護霊を有していてその人を守ってくれているそうだ。臨床家の霊が纏わりついていても、あなたにそれ以上のことができないのはあなたの守護霊の方が臨床家の霊よりも強いからだ。その証拠に・・・」と続けていくと、彼女はすごく晴れ晴れとした顔つきになった。僕もまたそうして彼女に影響を与えてしまったのかもしれない。

 僕を好いてくれるクライアントには本当に感謝したい。僕も同じようにその人たちのことが好きだ。今は、僕が好きになるか、もしくは好きになれそうな人しか面接を引き受けないことにしている。だから、今日、告白してくれた彼女のことも僕は好きだ。ただ、今の所、彼女の期待にそのまま応えるわけにはいかないのだ。
 しかし、彼女は僕のカウンセラーとしての姿しか知らない。僕を知っていったら幻滅するんじゃないだろうか。タバコは飲むし、酒も飲む。平気で屁だってこくし、時々ズボンのチャックを開けたまま気づかないでいるし、しょっちゅう恥ずかしい失敗はするしで、まあ、幻滅させてしまうだろうな。
 でも、僕が本当に望むのは、彼女が僕との恋愛を実現させることではなくて、彼女自身に取り組んでほしいということだ。自分のことに取り組む代わりに、臨床家を愛してしまう、そのような状況をクライアントに与えてしまう僕はやはりダメな臨床家なのかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 臨床家からしっかり愛されたクライアントはよく育つと思う。クライアントがその愛情を体験できることも重要である。もちろん、ここで言う「愛」とは、恋愛とかセックスに関するようなものではない。クライアントが臨床家に愛情を抱くことも、悪いことばかりではない。そこには望ましい体験も含まれている。ただ、それはお互いに自分の中に蓄積していく体験の一つとしていかなければならない。実現化してしまったり、一線を越えることはお互いに苦しめあうことになるものだ。
(平成29年2月)

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2014年10月22日 水曜日

10月22日:曲を作る

10月22日(水):曲を作る

 今日はさらに動揺感が少ない。だけど集中に欠ける。

 ところで、僕は非常に音楽が好きだ。最近、曲を作りたくてしかたがなかった。音やメロディーが浮かんでくるのだ。でも、それを鍵盤で再現しようとすると、「あれっ、思っていたようなメロディーにならないぞ」ということになる。音感のなさを実感してしまう。
 クライアントと面接していながら、僕は左手でギターのコードを押さえてしまっていることに気づく。無意識的にしてしまうのだ。特にCやAマイナーを押さえているときに気づく。
 どこか、クライアントの話を聞きながら、今はC調だなとか、ここでAマイナーになったなとか、Bマイナーに転調したぞなどとやってしまっているのだ。そして、録音した面接を聞き直す時にも、あの人がAマイナーの時にどういうことを言ったのだっけなと、そんな具合で聞き直してしまう。
 それで最近、曲つくりをしたくてならなくなっている。一つの構想があって、人間の一生をテーマにした曲を作りたいなどと考えている。構想は雄大だけれど、中身はまったく伴っていなくて、実際には小さな曲を連続させるだけのものだ。組曲形式と言えば聞こえはいいけれど、そんな立派なものじゃない。芸術的感性など僕には皆無だなと思っている。
 規模の大きい曲は僕には無理だ。才能がないなとつくづく思ってしまう。そして、小さな曲ばかりできる。それらをライフサイクル順に並べるだけだ。つまり、人生のさまざまな場面の曲を連ねて、誕生から死までの一生を描きたいと思っている。
 もちろん、こんな作品集は誰も耳にすることがない。僕の、完全な、自己満足だ。

 一時期、兄とバンドまがいのことをやっていて、自分たちのオリジナル曲を録音していた。兄は周囲に聴かせて回ったそうで、それなりに評判も良かったと言っていたな。僕はとても人には聴かせられないと思っていた。演奏者は自分の演奏のアラを聴衆以上に気づいてしまうものだ。自分ではひどい演奏だと思っていた。
 僕の自作曲を気に入ってくれたのは、以前お付き合いした女性友達だけだ。彼女は僕の自作曲を嬉しそうに聴いていたな。
 誰にも聴いてもらえなくても構わない。僕は僕の好きになれる音楽を作っていこう。そう決めている

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 作曲などと言うと大げさだけど、今でも曲を作ってみたりする。独りよがりの楽しみである。でも、曲を作りたくなる時、僕は何かを表現したくなっているのだ。
(平成29年2月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2014年10月21日 火曜日

10月21日:映画「SAW(ソウ)」

10月21日(火):映画「SAWソウ」

 午前中は家の用事ででかけていた。半日で終わる要件だった。
 昼前に帰宅して、それから昨日レンタルしたDVDを鑑賞する。

 今日観たのは「ソウ」(SAW)という映画だ。2004年公開のホラー映画で、すごくヒットして続編が6作も作られたものだ。
 ホラー好きの友達がやたらと推薦していて、僕もその場のノリで一度観てみるとつい約束してしまったのだ。その約束をいささか後悔しているけれど、でも約束は果たしておこうと思い立ち、本当はホラー系は得意じゃないけれど、今回鑑賞することにしたのだ。
 まあ、作品はすごく面白い。殺人の描写が残酷だけれど、それを除けばサイコスリラー系の物語だ。
 まず、医師のゴードンとカメラマンのアダムが古びた浴室で目を覚ますところから始まる。彼らは足を鎖でつながれており、中央には拳銃自殺した男の死体がうつ伏せに倒れている。彼らはポケットからカセットテープを発見し、死体が手にしているテープレコーダーを手繰り寄せて再生する。「ゲームをしよう」と、不気味な声が流れる。彼らは連続殺人鬼のジグソーに捕まったのだ。
 浴室内の二人、それにゴードン医師の妻子など、現在進行形の物語に、彼らの回想やジグソーを追う刑事たちの活躍が挿入され、物語が膨らんでいく。
 最後にはどんでん返しが用意されているのだけれど、「ああ、そうかっ!」と思わせられる。犯人を示唆するセリフがいくつかあったことを思い出す。例えば「犯人は最前列で見るのが好きだ」というセリフもそうだった。また、隠れ家に踏み込まれて刑事に押さえられたジグソーが「私は病気だ。内側から病に侵されている。生に感謝しない者どもに復讐するのだ」といったセリフも意味深だ(劇中、病人が一人だけ登場する)。そうした謎解きの面白さも秀逸だ。
 しかし、見終わっても釈然としない。それがなぜなのか、今日、残りの半日かけて考えていた。少し映画の内容に触れることになるけれど、僕なりに見出したことを述べようと思う。
 作中、ジグソーの過去の犯罪が挿間されている。例えば、ある放火犯は毒物を飲まされており、解毒剤が金庫の中にしまってある。壁には一面にぎっしりと数字が書かれており、その中のどれかが金庫の暗証番号だと知らされる。彼はろうそくの炎を頼りに数字を読んでいかなければならないのだけれど、全身に引火性物質が塗られている。その上、金庫と壁の間にはガラスの破片がびっしり敷き詰められている。結局、彼は助からない。
 もう一人、麻薬中毒のアマンダは、頭部に逆トラバサミ器具を装着されている。時間内に鍵を開け、器具を取り外すことができれば助かるが、間に合わなかったら頭部が破壊されてしまう。同じ室内には男の死体があり、鍵は男の胃袋の中にあると教えられる。アマンダは生き残るために男を切開し、内臓を引きずり出して鍵を発見し、器具を取り外すことに成功する。ジグソー事件唯一の生存者となる。
 さて、ゴードン医師が受けた指令は何であったか。「6時までにアダムを殺せ。そうすれば助かる」というものだった。この違いに釈然としない感じが残ったのだと僕は気づいた。
 つまり、放火犯やアマンダの場合、助かる「方法・手段」を教示されているのに、ゴードンは助かる「条件」を教えられているというこの違いだ。
 この違いはゲームの構造の違いに起因する。それまでは「1P」のゲームだったのが、ゴードンたちの場合、「多人数同時参加」型の状況なのだ。
 同一犯による連続殺人というものは手口や状況が一貫しているものだ。違いが生じるという場合、次のような可能性が考えられる。
 1・犯人が複数である
 2・犯人の人格が変わっている。(犯人が人格的に成熟している場合などを含む)
 3・その被害者だけが犯人には特別な意味合いがある。
 などである。1と2は除外してよさそうだから、3のところが劇中でもっと説明されていればよかったと僕は思う。まあ、個人的な感想だが。

 こうして友達との約束も果たしたことになった。今度彼と会った時には「SAW」談義もできそうだ。続編もぜひ見るべきだと言われたら、うーん、今度は約束しないでおこう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 ホラー映画好きの人とは友達にならないでおこう。いろいろと作品を勧められて、何となく観なければならない感じになってしまうからだ。ホントはホラー系は得意じゃないのに、ホントは人一倍怖がりなのに、そういう映画を観なくてはならない羽目に陥ってしまう。
(平成29年2月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2014年10月20日 月曜日

10月20日:自分を疎かにする罪

10月20日(月):自分を疎かにする罪

 昨日書いた「おばさん」のことを意識してか、昨日も今日も気持ちの上で動揺がある。
 僕はあの時見捨てられたとずっと信じてきた。今でも信じている。一時期はそれが僕に重くのしかかっていた。自分は捨てられる人間だという意識に囚われ、不必要に苦しんできたように思う。
 今では、年を取ったせいもあるかもしれないけれど、見捨てられたのなら見捨てられた人間として堂々としていようとさえ思う。一度、あの時に見捨てられたのだ。二度見捨てられようと三度見捨てられようと、何の違いがあるというのか。百回見捨てられようと、僕には同じことだと思えるようになっている。
 しかし、まあ、不思議なことに、何度でも見捨てられて構わないと思っているけれど、意外と見捨てられることなく生きてきた。一度見捨てられた人間は、それで十分だということなのか、二度目を経験することはないのかもしれない。

さて、昨日は午後から出勤して、3人のクライアントと会った。気持ちが動揺している中での面接だった。よりによって、辛いことばかりだった。
 最初のクライアントは自責感情にひどく囚われている人だった。自分に罪があるという感情に襲われている人だ。彼の話を聞きながら、僕は思っていた。本当の罪は自分を疎かにしてしまうことにあると。自分の感情や欲求に不忠実すぎることが一番の罪だとさえ思う。
 二人目のクライアントは、これもよりによって別離を経験した直後という人だった。彼が大切に思っている人と別れたという話をしている時、僕は彼に耳を傾けながら、どこか心を閉ざしてしまっている自分に気づいていた。
 三人目は新規のクライアントで、急遽、当日の面接となった人だ。ここに至ると動揺どころか怒りさえ感じているようになった。彼は自分が変わっていくことに対してガチガチに抵抗している人だった。自分が抵抗しているということに彼は気づいていないし、どういう形でそれをしてしまっているかにも気づいていない。継続すると骨が折れそうだと僕は感じている。

 今日は比較的ヒマである。月曜日は最近はそんな感じである。クライアントのことはあまり書かないでおこう。昨日よりも気持ちとしては落ち着いているが、まだ何かの拍子に揺れ動くことがある。特に集中を欠くことが多かった。
 少し早めに仕事を終える。どうしてもしんどくなってきたからだ。明日は休日なので、ゆっくりしようなどと考えている。
 この後、久しぶりに映画を見ようと考えている。DVDをレンタルしようと思う。それから少しお酒を飲もうと思う。イライラする気持ち、居ても立ってもいられないような焦燥感に襲われていて、少しこれらを鎮めないといけないと感じている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 自分を疎かにすること、これ以上の罪はない。それは今も信じている。「おばさん」の死によって僕が動揺するのは、僕がすべてを避けていたからだと思う。それこそ自分を疎かにすることなのだ。数日前の「ホームレスを諭す夢」はこれと何か関連しているのかもしれない。
(平成29年2月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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