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2014年5月22日 木曜日

5月22日:闘病記13

5月22日(木):闘病記―13

 今日を耐えれば断酒2週間成功となる。気を抜かないでおこう。
 朝の内はすごく具合が悪い。あんまりいい兆候ではない。
 午後からましになるが、夕方激しい空腹に襲われる。何か食べようと思う。結局、ファストフードの牛丼におさまる。なんだか久しぶりにものを食べる感じがする。
 しかし、食べた後、また体が重たいような感じがしてきた。胃も苦しい。体がびっくりしたのかもしれないな。治まるまで大人しくしていよう。
 これからクライアントが来られる。クライアントを待ちながらこれを書いている。もうそろそろお見えになられる時間だが、遅れるのかもしれない。勤務後に寄ってくれる人で、日によっては遅れることも過去にはあった。まあ、待つとしよう。

 昔、禁煙しようと思って買った電子タバコが見つかった。まだ使えるかなと、吸ってみる。ダメか。充電してみる。おっ、充電はできるようだ。これが使えたらいいな。未使用のカートリッジも15本ほどある。

 結局、電子タバコは使い物にならずということが判明した。
 今日も酒は飲んでいない。空腹感と疲労感に襲われている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 毎回、苦しい思いして断酒している印象がある。苦しかった場面をこうして書き残しておくからそう思えてしまうのかもしれない。この時、しんどかったけど、どうにかやり通せたのだ。そこをもっと見ていった方がいいかもしれない。
(平成29年1月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2014年5月21日 水曜日

5月21日:闘病記12

5月21日(水):闘病記―12

 今日で断酒13日目だ。昨日からその萌芽が感じられていたのだけれど、今朝は朝勃ちがすごかった。これは女性には理解してもらえない体験だ。
 昔、男性の酒飲み友達が「朝勃ちなんてとっくにしない」と言っていたな。僕より少し年上の男性だった。今では僕も当時の彼と同じくらいの年齢に達している。
 この男性機能に関しては、まず、身体的な事柄である。酒はもちろん、食習慣によってもこの機能は影響を受ける。年齢もそこに加わる。年齢は仕方がないとしても、断酒すると少しそれが回復する。これは断酒するといつも経験することだ。今回は少し早めにそれが来たという感じだ。
 そしてこの機能は心理的な事柄でもある。性に関する事柄というのは、僕の見解では、大部分が心理的なことであり、身体的な部分はむしろ少ない。性は、もちろん恋愛とか異性関係とも関わるが、創造性とも関わる。インポテンツは人間が非創造的になってしまうことである。あまり理解されないかもしれないけれど、これは事実だ。

 今日は本をよく読んだ。
 梶井基次郎の短編二つ、角田喜久雄の短編三つ。リチャード・マシスン『夜の訪問者』を一気読み。その他、先日来られたクライアントの理解の助けになるかと思い、フェアバーンの『人格の精神分析学』第1部などを読む。
 マシスンの同書は、昔買ったものだけれど、この間の整理で見つけたものだ。僕はてっきり処分したものと思い込んでいたので、見つけた時は大喜びだった。それで久しぶりに読もうと思って手をつけたところが、最後まで読み切ってしまった。200ページたらずの本で、2時間もあれば十分読めるものだ。でも、以前もそうして一気に読んでしまったのではなかったかな。とにかく、面白いのだ。
 今日読んだ5つの短編の中では、梶井基次郎の「Kの昇天」が一番気に入った。影と格闘するKの姿がいい。

 仕事を終える。近所のコンビニの前でタバコを吸う。かつての飲み友達とばったり出会った。普通にお喋りをして別れた。彼も今はあまり酒を飲んでいないらしい。いや、以前からそうだったかもしれないな。彼の話では、彼の行きつけの店、僕も時々訪れる飲み屋さんだったけど、その店が閉店したのだという。だからあの店の常連がみんなバラバラになったということだ。やっぱりそうなるよなと、僕は思った。
 後でその店の前を通ってみようと思った。そこから喫茶店に向かう。いつもの所でもいいのだけれど、今日は反対方向へ向かう。すると、バーのマスターとばったり会う。後で来てよと誘われるが、言葉を濁して別れる。やはりいつもの店にしておくべきだったか。
 喫茶店で、今日は勉強ではなく、サイト作業の手順を作った。細かな所を忘れてしまったり省いてしまったりするので、そうならないように作業の流れを作る。つまりマニュアルとか操作方法を作成したような感じだ。
 喫茶店を出る。うわっ、また飲み友達と出くわしてしまった。面倒なので、僕は気が付かないフリをして通り過ぎる。やはりいつもの喫茶店にしておくべきだった。
 買い物をしようと思ってJR方面まで足を延ばす。キャップ書店に寄ろうとしたけれど、今日は休館日なので、無駄足になってしまった。建物全体を休むなんて、古臭い考え方だなと思う。各テナントはそれに合わせなければならないのだから不便だろうな。

 飲酒欲求は多少感じられている。もし、空腹が耐えがたいほどになっているのなら、食事はしてもいいと決めている。でも、酒は飲んではいけない。そういうルールだ。バーのマスターに会った時は、後で顔を出そうかなという気持ちに襲われたが、誘惑に負けないで良かった。断酒13日目を無事に終える。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 断酒している時に限って飲み友達とばったり出くわしたり、呑みに誘われたりしてしまう。普段はそういうことはないのに。こればかりは不思議だ。まるで天の神様が誘惑を差し向けて、試練を課しているかのようだ。
(平成29年1月)

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2014年5月20日 火曜日

5月20日:闘病記11

5月20日(火):闘病記―11

 今日は定休日だけれど、昼から高槻に出て、夕方は面接を一件こなす。面接後は、電話を一本かける用事を済まして、喫茶店に籠る。原稿を書いて過ごす。このブログもそこで書いている。時刻は23時を回った。
 飲酒欲求が強まっているので、こうして自分自身を隔離しているのだ。タバコの本数も今日は多い。
 食事制限をしているので、しょっちゅう腹が減る。空腹になると飲酒欲求が高まる。しかし、酒は飲めないし、間食もできないので、タバコで空腹感をごまかす。空腹で夜が眠れないという日もある。その翌日は当然眠たい。眠たいからコーヒーとタバコの量が増える。ひどい連鎖反応だ。
 一つを変えることは全体を変えることだと改めて認識する次第だ。人間の行為や習慣はそれだけで独立しているものではない。必ず他の行為や習慣と関連し合っているものだ。一つだけ良くするなんてことは僕たちにはできないことではないかと、そう痛感している。今は一つのことに取り掛かっていても、いずれ必ず全体に取り掛かることになるものだと思う。
 そのうち、タバコやコーヒーのことにも僕は取り掛かることになるだろうと思う。

 今まで、心身に悪いことをいっぱいしてきたなと反省する。どこかで自分を蔑ろにしていたのだと思う。一昔前に比べると、今はかなりましになっている。とは言え、昔の名残も多少は残っている。
 最近思うのは、自己破壊的な行為と成熟拒否は深い関係があるかもしれないなということだ。自分を毀損するようなことをして、それでいて誰かに面倒見てもらえるとか助けてもらえるということをどこかで期待しているのかもしれない。もしそうなら、その人は大人になることを拒否しているということにならないだろうか。無力な幼児のように人の助けを求めているということではないだろうか。
 僕もまた、今以上に成熟していかなければならないと感じている。成熟することを恐れず、拒否しないようにしたいし、それをしている瞬間に気づくということも大切だと思う。

 飲酒欲求もいつしか影を潜めたようだ。書いているうちに薄れていった感じだ。今日もどうにか無事に一日を終えることができそうだ。断酒も今日で12日達成か。けっこうたいへんな日もあったが、どうにかこうにか続いているのはいいことだ。

 今朝、タバコと週刊誌を買いに近所のコンビニに入った。そこは酒も売っていて、僕は思わず見てしまった。1000円も出せばウィスキーの一本も買えるのだけど、それでも高価だと感じた。飲んでなくなるだけの代物だ。それと引き換えに一時的な酩酊が得られるというだけのことだ。酩酊から覚めると、もうその酒は過去のものだ。どこにもない。虚しいものを求めていたんだなと思う。
 先週のアンドレ・ジッドの本のように、100円でいい本と巡り合えることだってあるのだから、そう考えると、たとえ1000円でもすごく高価だ。本は残るし、その本から得たものも僕の中に残る。残らないのは酒だけか。
 それを言ったら、タバコだって何にも残らないな。灰になるだけだ。タバコのことも少しは考えないといけないな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 酒もそうだし、タバコもそうだ。僕はやらないけど、ギャンブルとかもそうだ。依存対象は人格化される。酒と付き合うとか、パチンコに戦いを挑むとか、そうした表現は対象を人格化していることになる。酒もタバコも一人の相手なのだ。僕は対人関係で何をしようとしているのかが、そこから窺われる。
(平成29年1月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2014年5月19日 月曜日

5月19日:闘病記10

5月19日(月)闘病記―10

 昨日の日曜日は用事で一日外出していた。当分、日曜日はこの用事のために潰れる。酒には手を出していない。昼は弁当を用意してくれていたので、ありがたくそれをいただくが、朝夕は控えめにする。断酒、食事制限もこれで10日続いたことになる。

 今日は、午前中だけ仕事が入っていて、午後から室内の整頓をしようと計画していたが、原稿を書いて過ごすことになった。このサイトの作業を少しでも前に進めたいと思うからだ。
 午後からは電話のオンパレードだった。予約の件での電話が3件。セールスのFAXが2件。私的な電話が1件。それに営業の電話が6件だ。最後のやつが腹立たしい。
 6件とも、いわゆるネット関係、IT関係の業者からのものだ。そういえばこの時期はこの手の電話が増える。この春に入社した人たちがいろんなところに営業の電話をかけるシーズンだ。大抵、一度、ウチに電話すると二度目はかけたくなくなるものだが、まだそれを知らない人たちだ。
 でも、6件は多かった。初めのうちこそ丁寧な対応を心がけていたけれど、最後なんてひどいものだった。おまけに最後のところが一番しつこかった。イライラする。電話がかる度に、こちらはそれまでしていた作業の手を止め、その電話のために時間を費やすのだ。幾度となく中断させられると本当に腹が立つ。以前みたいに電話をかけていい時間帯を設定して、それ以外の時間帯の電話は一切取らないというように戻そうかとも思った。

 IT企業を僕は信用していない。どの会社もネットの世界に参入しているだけであり、その点では個人がHPを開設するのと違いはないわけだ。ネットの世界を動かしている人たちではないわけだ。だから、彼らが「こうすればいい」と言うことは当てにならないのだ。自分たちがネット業界を動かしているわけではないのだから、その通りにならない確率も極めて高い。その通りにいかなくても、「ヤフーさんがやることなんで」とか言って、言い逃れもできるわけだ。こちらにはそんなこと関係がないのだ。その通りにいかなくても5年のリースは残ってしまうのだ。
 IT企業が儲けることができたのは、ひとえに、このリース契約のおかげだったと思う。法律の抜け道を巧みに利用して、リース物件を用意し、5年契約を結ぶ。それで儲かっていただけのことだ。
 先月、ようやく一つの5年リース契約が終わった。これは旧サイトにおいて、QRコードを作成した時のものだ。そのサイト自体が今はないし、QRコードなんて、携帯からふつうにネットに接続できる昨今においては、もはや利用価値のないものだ。それそのものが時代遅れになっても、その時契約したリース料金は支払い続けなければならないのだ。もちろん、そんなことIT業者はおかまいなしだ。
 おまけに大阪のIT企業は古いと僕は思っている。いまだに「SEO対策やりませんか」というような話を持ってくる。この点、東京のIT企業は驚くね。「IT企業やのにそこまでやってくれるの」っていうようなサービスを展開している。もし、契約を結ぶとしたら、大阪の会社は敬遠するって、僕は決めている。

 今、仮にHPに関して何か新しいことをしようとする。業者に頼むとまた5年契約だ。しかし、5年後にはもっと状況が違っている。それだけ進歩が速いのだ。5年もそれが持たないのだ。新しい何かが出てくることだってあり得るし、それが過去のものになって今では通用しないということも起きてくる。状況に合わせて変更してくれるならいいけれど、それはまた新しいことなので、それをするならまた5年契約だ。こうしてどんどん足枷をかけられていくことになるのだ。本当にバカらしいと思う。
 できるだけ借金をこしらえずに経営していこうと決めていたのに、リース契約のために挫折した。これは間に入るクレジット会社が立て替えてくれているわけだ。IT企業は、こうして、金銭の問題を顧客とクレジット会社に委ね、自分たちのリスクを減らす。もし顧客が倒産しても、IT企業は痛くも痒くもないという条件を作り出しているのだ。前回契約のリースがまだ終わっていないのに、平然と新しい商品を持ち込んで5年契約を取ろうとすることも平気なのだろう。本当に面の皮の厚い連中だと思うようになっている。
 熱意のあるIT企業を僕は胡散臭いと思っている。また、今日中に契約を取ろうとするところも信頼しない。キャンペーンをやっていて、最後の一枠になりました、期限は今日までですというような商品も信頼しない。それって、期限最終日まで売れ残っているということじゃないか。本当にいい商品なのかねと疑いたくなるね。

 技術の進歩は目覚ましい。5年前にはなかったものが今では普通にあるというものがたくさんある。
 3Dプリンターで銃を作ったという人がいる。人に危害を加える武器もそれで作ることができるというのには、正直驚いたけれど、必ずそういう人が出てくる。技術は進歩しても、人間が進歩していなければ、その技術の進歩には意味がないと僕は思う。

 今晩、久しぶりに断酒会に顔を出そうかと計画していたけれど、結局、原稿を書いているうちに気分がノッてしまって、そのまま書き続ける。夜、喫茶店で勉強する。23時頃までやっていた。その時間だともう歩くのは断念するしかない。そのまま帰宅する。
 すごい空腹だった。気分が悪くなるくらい空腹だった。簡単な食事を済ませ、2時頃まで本を読んで過ごした。
 今日、読んだ本は、シンガー「心理療法の鍵概念」、梶井基次郎の短編6つ(「泥濘」「路上」「橡(とち)の花」「過去」「雪後」「ある心の風景」)、それにマンハントから一話。
 梶井基次郎は「檸檬」一作を読みたいばかりに短編集を購入し、その一篇を読んだきり、他の作品には興味が湧かず、そのままになっていた。こうして読んでみると、いい作品も多いなと思う。
 明確なストーリーのない作品も多く、情景が連想でつながっていくような作品も見られる。今日、読んだ中では「ある心の風景」が一番良かった。ここにはシゾイド的な体験、世界観が感じられる。この中に出てくる夢はシゾイド問題を抱える人が見そうな夢であるし、主人公が女を「買う」時の体験もまたシゾイド的である。
 他の作品も、そういう観点に立つと、見事な病理体験の描写と思われる部分が多々ある。主人公、語り手は、どこか不活発であったり、生命感情が枯渇していきそうな中でなんとか創造性を保とうとしていたりするし、時には強迫観念めいたものが見られたりする。生を取り戻そうとする姿はなかなか感動的である。
 一方、マンハントの方は、これは僕が海外の翻訳推理雑誌を買い漁っていた頃に買った本だ。先日、整理していて見つけたのだ。昭和30年代にはこういう海外のミステリー雑誌の日本語翻訳版がいくつか出版されていて、「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)」や「アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリマガジン(AHMM)」などがある。「マンハント」もその系列だ。「EQMM」は現在の早川書房から出ているミステリマガジンの母体である。一番、僕の趣味に合うのは「AHMM」だ。「マンハント」にはハードボイルド系やスリラー系のものが多いようだ。
 引っ張り出すと、昔買った本がいろいろ見つかる。懐かしむと同時にもう一度読んでみたい誘惑に抗えない自分がいる。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 電話が多い日だったのだな。なぜか一日に集中したりする。IT企業がいくらHPの提案をしてきたところで、僕にはこれしかできないのだから一緒なのだ。どこで作成しても、同じようなものが出来上がるだけなのだ。それに、何をやってもすぐに時代遅れになるのだ。新しい何かが出てきては、それが過去のものになっていくのだ。その速度の著しいこと。新しいものに飛びつかない方が賢いのだ。
(平成29年1月)

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2014年5月17日 土曜日

5月17日:闘病記9

5月17日(土):闘病記―9

 今日も一日、酒に手を出さず、控えめな食事で満足し、健康的な一日を過ごせたと思う。まあ、健康的でなかった側面もいくつかあるが、それは大目に見よう。仕事が終わって、喫茶店で少し勉強と来週の予定を立てたりして過ごす。そのため、歩くのは後回しにした。つまり、歩いてから電車に乗って帰宅するのではなく、先に電車に乗って、手前で降りて、そこから歩いて帰宅するという手順の変更をしたのだ。

 この「闘病記」というタイトルも不似合に感じられてきた。「病気」と診断されたわけではないのに、こういうタイトルをつけているのはおかしいと思うようになった。でも結局、人は自分が「病気」であるのかないのか、自分では決められないのだ。誰も決められないのだ。医師の診断がそれを決定するという面があると思う。逆に言うと、誰も決められないということは、自分で決めても差し支えないことではないかとも思う。自分が「病気」だと自認しているとすれば、それはやはり僕にとって「病気」として体験される事柄ではないだろうか。
 そんなこんなで、このタイトルは残しておくことにする。もっと広い視点に立てば、人の一生は闘病の連続だとみなすことも可能だ。治療も予防も治癒後も、すべて闘病ではないかとも思う。案外、このタイトルでよかったかもしれないとも感じられてくる。

 前にも述べたけれど、透析生活をしている人を何人か見てきた経験がある。僕は持病や体の具合が悪くなると、途端に彼らの姿が脳裏をよぎる。彼らの姿が他人事のようには思えなくなり、僕自身がそのようになっている姿がイメージされてしまう。分かってもらえないとは思うが、それはとても恐ろしい体験である。恐れている姿に自分が近づいていっているような、あるいは、恐れている姿が現実に迫ってきているような、そういう気持ちに襲われるのだ。

 月曜日からの一週間の予定を組んだ。ほぼ毎週、こういう予定を組むが、完全に守られたことはない。と言うのは、予定外の事柄が飛び込んでくるからだ。常に予定変更を迫られる。でも、こうした予定は僕の指針として役立ってくれればいい。この一週間をどのように生きるか、今週は何に力を注ぐか、そうしたことの指針として立てている。守れなくても、それ自体はそんなに問題ではない。
 こうした予定を立てる時、もう一つメリットがある。改めて、今、自分が何をしたいと思っているのか、何が必要だと感じられているかといったことを、自分に問い直す機会になるという点だ。
 自問した結果、僕は今、身辺整理をしたいと感じているということに行き着いた。身の回りをすっきりさせたくなっている。そう思うなら、それをそのまま実行しよう。そして、日常の仕事や業務の合間を縫って、それらを少しずつ実施する計画を立てた。一週間でどこまでのことができるかは不明だけど、できるだけやろうと思う。

 本は、昨日に引き続き、角田喜久雄の短編一つ、梶井基次郎の短編一つ、レーヴィット一節、その他ディルタイに関する諸々の文章、ガンダーソンらのケーススタディ、シンガー「心理療法の鍵概念」の拾い読み等々。
 角田喜久雄の「発狂」が、今日、読んだ中では一番良かった。これは父親の復讐を受け継いだ息子が主人公なのだけれど、彼は敵の娘の婚約者の地位に納まる。娘を苦しめることで、本当の敵であるその父親を苦しめるというのが彼の計画だった。復讐の鬼となった主人公は、完全なアリバイを工作し、犯罪を企てる。通常、この手の推理小説は、思わぬ落とし穴のために完全犯罪が失敗してしまうというのがパターンだ。でも、本作はそれが成功してしまう。しかし、成功したがために、新たな悲劇に主人公が見舞われてしまう。秘められた過去や因縁が彼を狂気に追いやることになる。
 推理小説はネタをばらしてはいけないという暗黙のルールがあるので、詳述しないけれど、この作品におけるアリバイ工作はなかなか凝っていて、面白い。犯行のシーンも印象に残る。主人公のキャラも、悪人になりきれないというようなところが感じられて、好感がもてる。大正15年の『サンデー毎日』第1回大衆文芸賞に入選したそうだが、それも頷ける。今でも面白く読むことができる。
 あと、ディルタイの精神哲学、人生哲学を勉強してみたいという気持ちが日に日に強くなっていく。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 病気というものは医師が決めるものだ。もちろん一方的に決めるわけではない。医師が診断することによって、それが「○○病」と決定されるのだ。それまでは、本人には「不具合」として経験されている何かであって、必ずしも病気であるとは決定されていないのだ。しかし、医師が病気ではないと診断しても、病気だと信じる人もあるくらいだから、病気であるかないかは本人の自覚に委ねられている部分もあるように思う。病識がないというのは、医師側からすれば問題ありだけど、当人は問題がないと認識しているわけであり、それを間違っていると指摘することもできないのである。当人の自覚に委ねるしかないのだ。
(平成29年1月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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