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2013年10月31日 木曜日

10月31日:乱歩を読む~『地獄の道化師』

10月31日(木):乱歩を読む~『地獄の道化師』

 昭和2年の休筆時期の後、昭和3年の『陰獣』で復帰した乱歩は、昭和4年『孤島の鬼』から長編小説の時代を迎える。その時代は、戦争への機運が高まり、探偵小説が規制される昭和15年より再び休筆期に入る時期まで続く。『地獄の道化師』は昭和14年に執筆され、長編小説時代の最後の作品となった。
『地獄の道化師』は、僕が乱歩を乱読していた時代のかなり後期に読んだ覚えがあり、いささか乱歩に食傷気味だった時期に読んだもので、正直に言うと、あまり印象に残っていなかった。今回、読み直してみると、それほど悪い作品でもないということを認識した。

 物語は交通の激しい通りで、一台の自動車の事故から始まる。その自動車は荷台に等身大の彫刻像を積んでいたのだが、それが横倒しになり、中から女性の死体が発見された。自動車を手配したのが怪彫刻家の綿貫創人であることが判明し、刑事が張り込む。その後、被害者は自分の姉かもしれないと一人の女性、野上あい子が警察を訪れる。被害者が姉のみや子であると確認される。みや子の許婚であった白井清一があい子宅を訪れる。探偵の明智小五郎は白井の知り合いということから明智がこの事件に関わりを持つことになる。以後、あい子は敵の罠に陥り、新進ソプラノ歌手の相沢麗子が次の標的として狙われる。
 短い作品ながら展開がめまぐるしく、一気に読めてしまうような作品である。犯人がなぜ道化師に扮さなければならなかったのかという論理的な説明もある。明智探偵との推理戦や追跡劇も展開される。いささか詰め込みすぎる感すら覚える。
 しかしながら欠点も見受けられる。僕が腑に落ちなかったことは綿貫老人の人格だった。初盤の刑事をアトリエの櫃に閉じ込めたあの悪魔的な性格はその後まったく見られなくなり、むしろ小心者で、後には明智の子分として働くという一貫性のなさが鼻についてならなかった。
 また、野上あい子の扱いがいささか雑である。あい子が敵の手中に陥ってからは、まるで存在感が失せてしまうのもいただけない。あい子は、作品においては、舞台を白井を中心とする人間関係に移し、明智を出馬させるきっかけを与えるという役どころであるが、そのためだけに創造された人物のように思われてくる。
 細かな点であるが、犯人には雇われた共犯者がいたのであるが、この共犯者の謎はまるで解明されないのも後味の悪さを残す。その他、事件に乗り出す明智の事務所に吹き矢で脅迫状が送り込まれるのだが、そのエピソードも淡々とやり過ごされてしまう。何となく、後味が悪い。細部を見ると、そのような後味の悪い場面というものがいくつかある。それらも解明されていればもっと良かっただろうにと僕は思う。

 そのようなアラや欠点も随所にあり、推理小説としては不完全さが感じられる乱歩作品であるが、それを上回るだけのものもある。読者を惹きつける展開と語りの上手さもそうであるし、作品全体に漲る雰囲気も独特だ。一旦、ハマるとなかなか離れられなくなるような魅力が乱歩にはある。その魅力に僕は魅せられてしまう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 細かい所を見ていくと、乱歩作品にはいくつもの難点が見つかる。でも、ファンはそこは気にならないのだ。金田一耕助やシャーロック・ホームズのファンは、熱烈なファンであるが故に、粗探しのようなことをしてしまうのだけど、乱歩ではそういう例を聞かないような気がする。
(平成28年12月)

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2013年10月24日 木曜日

10月24日:主体的に生きているのだろうか

10月24日(木):主体的に生きているのだろうか

 先週から今週は非常に慌ただしい日々を送っている。今晩、夜勤をやって、明日は取り敢えずは休めるという感じだ。
 今日は、午前のクライアントを終え、支払を済まし、近所の定食屋にて昼食を採る。ご飯のお代わりが自由という店だ。満腹になるまで食べてやった。
 しかし、最近、その手の店が多いなと感じる。ご飯のお代わりが自由だったり、サラダバーとかドリンクバーがあったり、50円追加で大盛りにできたり。また、和食系から中華料理、イタリアンだのフレンチだの、インドやアジア料理だの、各国の料理を食することもできる。ちょっと小腹がすいたとなれば、近所のコンビニなんかに入って購入することもできる。考えてみれば幸せなことだ。
 戦後の人たちが夢に描いていたような生活を現在の僕たちは享受していると言えるかもしれない。でも、果たして、僕たちは戦後時代の人たちよりも幸福になっているだろうかと僕は疑問を覚える。当時の人たちの方が幸福だったかもしれない。
 当時の人たちにはそれぞれ熱望する何かがあったと思う。また、今以上に自由があったとも思う。今、僕たちには熱望するほどの何か、人生を賭けて追い求めているというようなものがあるだろうか。僕たちは、一見すると自由があるように見えて、どれだけ多くの事柄に縛られているだろうか。携帯電話やインターネットに、僕たちはどれだけ縛られ、隷属していることだろうか。僕たちは本当に生きがいを持って生きているだろうか。主体的に世界の中で生きていると言えるだろうか。
 今日、その後はそんなことばかり考えながら仕事をこなした。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 やがては人間が行う仕事のすべてをロボットが代用してくれるようになるかもしれない。人間はもはや働かなくてもいいという時代が来るかもしれない。その時、人間が陥る状態が科学技術の結果なのである。
(平成28年12月)

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2013年10月23日 水曜日

10月23日:乱歩を読む~『闇に蠢く』

10月23日(水):乱歩を読む~『闇に蠢く』

 乱歩の最初期の長編小説の一つ。連載当初は中絶してしまったのを、全集に収めるに当たって、書き足し、一応の完成をみたという作品である。また、本作は「小説の中の小説」という構造をとっているが、この構造の意味は後で取り上げたい。

 洋画家の野崎三郎は、彼が理想とする身体美をもつモデルのお蝶と出会い、お蝶との関係に溺れていく。お蝶には秘められた過去があり、ある日、お蝶は三郎に駆け落ちすることを持ちかける。三郎はお蝶を連れて、信州の籾山ホテルにて隠遁生活を送る。ところが、幸福も束の間、お蝶は近くの底なし沼に落ちてしまう。悲嘆に暮れる三郎を友人の画家である植村が慰問する。植村はお蝶の過去に関する情報を知っているのだが、ホテルに到着した時、宿泊客の進藤を見て驚愕する。進藤は、お蝶の事故当日に来た客で、ホテルの主人とは旧知の仲ということだが、お蝶の過去とも関係がある人物だった。野崎、植村、進藤、そしてホテルの主人の4人を中心に、お蝶の過去、謎の女とその子守歌の声、進藤の正体と主人との間に生じた過去の出来事などの謎が絡まっていく。そして、地下洞窟に生き埋めされる主人公ら、カニバリズム、ホテルの炎上、野崎三郎の復讐と物語は展開していく。

 短いながら内容が濃く、結末はいささか壮絶である。物語の初盤と終盤ではその世界観も異なり、不思議な読後感を残した。地下洞窟の描写など、いくつかの場面では後の「孤島の鬼」を彷彿させる。
 本作も乱歩のいくつかの長編にあるように、最初は中絶して、最後まで完成させることができなかった作品である。中絶した理由は分からない。でも、本作は「小説の中の小説」という構造をとっていることから、乱歩の個人的な嗜好が色濃く投影されすぎたためかもしれない。
 カウンセリングでも経験するのだけれど、人が自分の内面的なもの、それもなかなか人に打ち明けられないような内面のものを表現する時に、しばしばそれを他人のこととして語ったりする。本当はそれは自分のことなのだけれど、他の誰かの話として表現するということをするのだ。そうすることで内面の個人的な事柄に距離を置くわけである。ストレートには表現できないけれど、間接的になら表現しやすくなるわけだ。
 だから乱歩には、本作を、実際には自分で書いたのだけれど、これは他の人が書いた作品であるという形にする必要があったわけだ。僕はそのように捉えている。
 だから、乱歩はかなり苦悩しながら、自ら防衛機制をふんだんに発揮しながら、本作の筆を進めていったのではないだろうかと僕は思う。その帰結が中絶である。それ以上、書き進めることができなくなってしまったのだと思う。
 先ほど、「孤島の鬼」を彷彿させると述べた地下洞窟の場面がある。本作ではそこにカニバリズム、つまり人肉食が持ち込まれているのだが、「孤島の鬼」ではそこに同性愛が持ち込まれている。この相違は注目に値する。発達的観点に立てば、人肉食は人生のかなり早期の段階(早期口愛期サディズム)であり、同性愛はそれよりも後期の段階(エディプス期の不完全な遂行)である。本作の執筆に乱歩が苦労しただろうと僕が思うのもその点にあって、本作ではそれだけ退行の度合いが強いわけだ。退行が初期の段階であればあるほど、人は精神的に生き辛くなるもので、乱歩に何があったのか知らないけれど、それだけ早期の段階のものに取り組んでいたのかもしれない。
 述べたいところのものや考察してみたい部分は他にもあるけれど、あまり深入りしないでおこう。いつか機会があれば取り上げてみたいとは思う。閉所恐怖症の人や残酷な描写は苦手だという人にはお勧めできないけれど、小説としてはそれなりによく出来た作品ではないかと感じている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 要するに、この作品が中絶したのは、乱歩の精神的危機のためだったのではないかということである。退行の度合いが大きいわけである。そして、作品全体も、波乱万丈な展開を見せるが、解体すれすれのところで統一を保っているという感じがしないでもない。ミステリとしては、それなりに面白く読めたように記憶している。
(平成28年12月)

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2013年10月22日 火曜日

10月22日:乱歩を読む~『一寸法師』

10月22日(火):乱歩を読む~『一寸法師』

 江戸川乱歩とは不思議な人である。研究したい作家の一人だ。
 大正12年に「二銭銅貨」で江戸川乱歩は世に出た。新聞社に勤務しながら短編小説を発表していたが、大正13年に退職し、専業作家となる。翌大正14年には、一気に創作意欲が爆発したかのように、数多くの短編を世に出す。その中には「D坂の殺人事件」「心理試験」「屋根裏の散歩者」などの名作が含まれている。翌年の大正15年・昭和元年も引き続き短編小説を執筆するが、長編小説にも手を染めるようになる。この年、実に五つの長編小説を手掛けている。まず「空気男」「湖畔亭殺人事件」「闇に蠢く」の三篇を並行して書き進めるが。完成したのは「湖畔亭」のみで、あとは中絶している。「闇に蠢く」は後に完結部分を書き足して、一応完成はさせている。その年の後半には、「パノラマ島奇談」と「一寸法師」を並行して執筆し、翌昭和2年にそれぞれ完成しているが、「一寸法師」の出来栄えにひどい自己嫌悪に陥った乱歩は、その後、一年半にわたり筆を断ち、放浪の旅に出たりしている。
 そういう曰くつきの長編「一寸法師」とはどのような作品なのか。その後、映画化もされて、乱歩作品の映像化第一号となった作品でもあり、果たして乱歩が失望するほどの作品だったのだろうか。

 物語は職もなく、厭世的な小林紋三が、深夜に一寸法師を見かけるところから始まる。その一寸法師は死人の腕を抱えており、俄然、興味を抱いた紋三はその後をつけるが、その晩は見失う。翌朝、一寸法師の行方を調べるが、手がかりがまるでない。その時、実業家を夫にもつ山野夫人に声をかけられる。夫人は義理の娘の三千子が失踪し、紋三をつてに探偵の明智小五郎に調査を依頼したいと願っていたのだ。こうして明智小五郎がこの事件に関与することになるのだが、三千子の失踪は単なる家出ではなく、事件性があることが明るみになる。その頃、一寸法師が再び姿を見せる。デパートのマネキンの腕を死人の腕とすり替え、追跡する警備員たちから逃げおおすという離れ業を見せる。
 三千子の殺人事件を軸に、山野家の運転手蕗屋と三千子の関係、読者の前にまったく姿を見せぬお手伝いの小松と主人の山野など疑わしい人物を配し、脅迫される山野夫人、一寸法師の背後にいる黒幕の存在、さらに素人探偵ぶりを発揮する紋三の活躍など、スリリングに物語は進行する。なかなか良く出来た探偵小説ではないかと僕は思う。

 本作は明智小五郎が活躍する作品だが、どういうわけか物語の中ではその存在感は薄いと感じた。
 それよりも、僕は小林紋三のようなキャラがとても好きだ。乱歩の作品にはこのタイプのキャラが頻繁に登場する。職もなく、ブラブラして、人生に退屈し、厭世的で世捨て人のような人物だ。こうした人物がひとたび事件に関与すると、途端に活き活きしはじめ、活動的になり、素人探偵として冒険に乗り出す。
 悪役もまた然りである。明智探偵が静であるのに対して、作品に躍動感をもたらしているのは紋三であり、一寸法師である。紋三や一寸法師を描く時の方が、乱歩の筆が冴えているように僕は感じた。むしろ、主人公である明智小五郎が登場する場面の方が、読んでいて、退屈感があった。

 さて、本作は乱歩が嫌悪するほどの駄作ではないのだが、難点もいくつかある。
 一つは養源寺和尚の身体的特徴がきちんと描かれていないという点。これはいささかアンフェアな感じである。
 当時、乱歩は探偵小説を謎解きに主眼を置く「本格」とそれ以外の広義の探偵小説に属するものを「変格」と二分していたのだが、本作はそのどちらにも属さないような中途半端さがあるように感じた。
 結末のどんでん返しが凝り過ぎていることもすっきりしない感じが残る。また、一作にたくさんの内容を詰め込み過ぎているという印象も受ける。却ってまとまりを欠くようにも感じられた。

 乱歩が嫌悪するのは、この作品そのものではなく、もっと個人的な事情によるものだろうと思う。内面的な部分、パーソナルな部分を作品の中に持ち込み過ぎたために、自分のイヤな面を作品の中に見てしまうのだろうと思う。
 そうして、乱歩は筆を断つのであるが、昭和3年には傑作「陰獣」でもって文壇にカムバックするのだから、この休筆期間も無意味ではなかったと僕は思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 無性に乱歩を読みたくなって、読んだんじゃないかな。時々、「乱歩気分」に僕は陥る。普段、それほど読みたいとは思わなくても、その気分の時にはやたらと乱歩に惹かれまくるのである。
(平成28年12月)

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2013年10月21日 月曜日

10月21日:動けない状態

10月21日(月):動けない状態

 昨夜は夜勤の予定だったが、シフトでは今日と入れ替わっていた。日曜日の晩は夜勤と前々から言ってあるのだが、シフトを作成した人が間違えたのだろう。月曜日に夜勤となっていた。当然、それは断った。と言うのは、今夜は今夜で予定が入っているからである。それがなければ夜勤をしても良かったのだが。
 しかし、今夜の予定も今日の最終のクライアントの予定次第で若干変更しなければならない。今、その最終のクライアントを待っているところだ。来るのか来ないのか意思表示をしてもらいたいものだ。
 Yさんとも明日会うか会わないかを決めてもらっていたのだが、今日考えて、明日返事するというメールが入った。僕はそれは困るのだ。明日、Yさんと会うか、業者とやりとりするかを決めないといけないのだ。はっきりしないのは本当に困る。
 一体、人の時間をなんだと思っているんだろうかと言いたくなるね。クライアントの場合、自我が未成熟な人ほど、こういう不明瞭なことをしでかすものだ。成熟している人はそれなりに自分の意志を伝えることができるし、その都度の自分の態度を決定することができるからだ。カウンセリングを自分の仕事と決めた時、そういう人たちとお会いすることになるということは覚悟していたが、日によってはやはり困ることが生じるものだ。
 クライアントにはクライアントの生活がある。忙しいから遅れたり、変更したりするという場合も確かにある。しかし、大部分はそこにクライアントの不安定さが現れているのだ。来たり来なかったり、時間よりもやたらと早く来たり、すごく遅れてきたり、それらはすべて「病理」なのだ。枠組みの所でも書いているけれど、予約は遂行されるか、変更されるか、キャンセルされるかしなければならない。それもクライアントによってなされなければならないものだ。そして、クライアントには無断キャンセルする自由も権利もないのだ。それはお互いの利益を守るためにも必要な事項なのだ。これが分かってもらえないというのは、なんとも歯がゆい感じがする。常識的なことを僕は述べているつもりなのだが、厳しいことを言っているように聞こえるのだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 不確実の予定が重なった時だったな。はっきり決めてくれないと、こちらが動けないのだ。そういうのが腹立たしいわけである。動きたくても、相手の返事待ちで、動きようがないという状態が。
 店のシフトのことがあるけど、あの店はシフト一つさえまともに作れないのだ。事前に伝えておいても、シフトを作成する段階に忘れていたりするのだ。自分が忘れていて、それで連絡していないなんて叱責を受けるのだから、バカらしい。それでも、いちいち怒ったりはしない。と言うのは、呆れているからだ。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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