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2013年4月22日 月曜日

4月22日:「賑やかな通りの夢」

4月22日(月):「賑やかな通りの夢」

 夢を見た。以下のような場面だった。
「とても賑やかな通り。お祭りか何かをやっているよう。人ごみの中を僕は歩いている。通りにはいろんな店が立ち並ぶ。それぞれの店が店頭にまでテーブルを置いて、客をもてなしている。一軒の店の軒先にて、僕は知り合いと出くわす。僕は彼らのテーブルに入れてもらう。僕に飲み物が注がれる。黄色いような緑のような色で、僕はそのリキュールを知っていて、普通に飲んだ。彼には連れの女性がいた。僕は特に意識しなかったが、品のある感じの女性だった。僕たち三人はそのまま飲食を続けた。これといった会話をしていないが、三人で取り留めもないお喋りをして過ごした。」

 お祭りとか、群集は、僕の中の集合的な部分だと僕は想定している。そこが賑やかであるということは、そこがエネルギーを持ち始めているということではないか。
 登場するのは僕を含めて3人だ。僕と男性、それに彼の連れの女性である。この構図は、僕には家族が連想される。核家族を構成するメンバーだ。
 3人は取り留めもないお喋りをして過ごすというのは、何か一つのテーマでつながっているのではなく、漠然と一緒にいるだけであることのようだ。そして、お互いに本当には向き合っていないし、関係を築いていないのだ。そして同じように、外側の祭りにも参加していない。
 それは僕の生きてきた家族の姿であるのかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 夢シリーズだ。今回はほとんど連想や感想を書いていなかった。今、この夢を読んで、僕なりに思ったことを書いておいた。
 しかし、夢ってすぐ忘れてしまうものだけど、こうやって書いて残しておくと、忘れていた夢も思い出すものだね。僕はこの夢を覚えている。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2013年4月15日 月曜日

4月15日:書架より~「尼僧ヨアンナ」

4月15日(月):書架より~『尼僧ヨアンナ』(イヴァシュキェヴィッチ著)

 修道院の尼僧長ヨアンナに悪魔が憑りついて、悪魔祓いにスーリン神父が派遣される。その悪魔祓いの顛末を描いた作品。17世紀に実際にあった悪魔祓いの話を基にして作られているそうだ。この作品は1946年に出版され、映画化されている。
 悪魔が憑くのは女性たち、尼僧たちである。その描写は現在で言うところの解離性障害、多重人格、古くはヒステリーそのものという感じである。ヨアンナの口を借りて悪魔がスーリン神父に語るくだりなどは、さながら多重人格もののノンフィクションに在るような記述である。
 驚いたのは、悪魔祓いが集団でなされていたというところだ。村の人たちが見物にやってくる。完全な見世物だったわけだ。ヨアンナたちはそういう悪魔祓いを受けるが、これは効果がない。そこでスーリン神父は個室で一対一で対話するという方法を取る。この流れは精神病患者の処遇の流れと似ている。ヒステリー性の症状に対して、衆人環視の状況ほどよろしくないものはない。自己顕示欲を満たすからだ。だから、スーリン神父の処置がとても適切なものに思えてくる。
 しかしながら、スーリン神父がいくら尽力しても、ヨアンナに憑りついた悪魔は祓われない。彼はユダヤ教のラビに面会を申し出る。ここで彼が体験すること、それは彼の中にある悪を見ることだったように思う。
 スーリン神父はひたすら神に支えてきたのだが、そこには「偽善」もある。周囲の人間にはそれが見えている。神父に感情移入して読んでいると、彼がいかに孤立していて、周囲の目が冷たい時があるのを感じる。中でもヴォウォトヴィッチは神父が隠している部分を見透かすかのような存在である。
神父は自分は「善」だと信じているが、それは「悪」を切り離しているだけであり、そこを見ないようにしているだけで、彼の中にも善でない部分があるわけだ。神父が見ないできた自分の抱え物に直面してしまうという体験をラビのところでしてしまう。これは神父にはとても強烈な体験で、彼は一時的にせよ自我同一性の拡散状態に陥る。
 臨床的に言えば、処置する側がここまで揺さぶられてしまっていると、クライアントには会わない方がいいのだが、神父はヨアンナへの愛のために悪魔祓いを続ける。
 この悪魔祓いであるが、ヨアンナに憑りついた悪魔を神父に乗り移らせるという形を取る。ヨアンナはそれで救われる。それもそのはずで、神父が引き受けてくれたからである。でも、この悪魔はスーリン神父の中の悪の部分でもある。同じものを人間は持っているから引き受けることができるのである。神父はヨアンナに対して行っていたことを、自分自身でしなければならなくなる。つまり、自分の中で悪と葛藤するわけである。
 実話の方では、尼僧の悪魔を乗り移らせた神父は自殺してしまうそうだが、ここではそれ以上にショッキングな結末がある。純粋で敬虔な人間が犠牲となってしまうのだ。
 ヴォウォトコヴィッチは不思議な存在である。物語の最初から登場するのだが、これは神父とは正反対の人物である。神父の影のような存在だ。だから、神父は彼にある意味で惹かれてしまうのだ。ラビを訪れる時にも彼を連れて行ったことが象徴的である。神父が自分の中にありながら否認しているものがあり、それは自分の外に追いやってしまわなければならない。つまり、それを投影して引き受けてくれる対象が必要なのだ。それがここではヴォウォトヴィッチが担っているように感じた。
 本書のタイトルは『尼僧ヨアンナ』だけど、実際には『スーリン神父』でもいいくらいである。物語は神父を中心にして綴られている。そして、読む側は神父に同一視し、感情移入してしまう。そして、とても痛々しい物語である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 例えば、『エクソシスト』なんかもそうだったけど、悪魔祓いの物語は、臨床の過程と重なる部分がたくさんあるように思う。もちろん、現実の臨床は悪魔祓いとはわけが違うのであるが、そこで生じている過程に共通のものがあるという意味だ。方や救済の物語であり、方や治療の物語である。そして両者はともに変容を目指した物語である。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2013年4月14日 日曜日

4月14日:私を生きる

4月14日(日):私を生きる

 本業に関して、表向きは変わらないけれど、裏側ではリニューアル化が進んでいる。4月25日に再スタートを切るつもりでいる。なぜその日なのかは理由がある。ちょうど8年前のその日、高槻カウンセリングセンターが動き始めたのだ。8年後の同じ日にリニューアルして、再スタートを切るつもりだ。
 よく8年ももったなという感じがしないでもない。できれば10年はやりたいとは思っていた。10年できれば悔いはないなと思っていた。でも、やっていると欲が出てくるのか、もっと続けていきたいと思うようになった。
 このリニューアルに際して、この頃はあちこち飛び回ることが多い。予定がとても不安定だ。でも、落ち着いたら安定して仕事ができるだろうと思う。ただ、もうしばらくは不安定で、飛び回らないといけない。なかなか目まぐるしく動く日々が続く。
 いろんな経験を積むと、自分の至らなさが見えてくる。打ちのめされるような体験をする時もある。でも、そこを改善していくようにしている。できるだけ前に進もうと思っている。中途で挫折してしまうことは簡単だ。継続していくことの方が難しいと思うし、何も変わらない方が、やはり同じように楽だ。自分自身を向上させて、変えていくことの方が難しい。
 若いころにクリニックで働いた経験があるとは言え、やはり一から手探りで始めた事業だ。分からないことだらけだった。未だによく分かっていない事柄も、特に経営に関してはある。
 自分が素晴らしい人間だとは少しも思わない。有能だとも思わない。それに、そんなに自信満々な人間でもない。クライアントと会っていて、「あなたのカウンセラーが本当に僕でいいの」と思ってしまうこともある。
 一時期ほどの勢いはなくなったものの、細々とでも仕事ができることは嬉しい限りだ。上手く行ったクライアントは上手く行ってなくて、上手く行かなかったクライアントは上手く行ったということもよくある。
 僕が若い頃カウンセリングを受けた時、先生に任せておけば安心だという気持ちがどこかであった。そして、これで僕は普通の人間になれるものだと信じていた。でも、現実はそうではなかった。先生は僕の人生を肩代わりしてくれないし、僕が特別な人間でも何でもないということが目の前に突き付けられただけだった。最初、このカウンセリングは失敗だったんじゃないかと、僕は自分の選択に不信感を抱いた。今では、それが「治療」なのだということが見えている。徐々にそういうことが見えるようになったのだ。
 誰も僕のことを肩代わりしてやってくれたりはしないのだ。僕が自分でするしかないのだ。周囲の人に期待できるのは、手助けしてくれるということだけだ。肩代わりはしてくれない。どうしてもしたくないことであれ、それは僕自身が引き受けなければならないということなのだ。それが分かるだけでも上等だ。それが生きることなんだと僕は信じている。
 また、自分は特別な人間でも何でもない。だから他人が僕に冷たかったとしても、僕は彼らを責めることができないのだ。僕がそこで自己愛の傷つきを体験してもだ。なぜなら、その人たちにはその人自身の人生があって、抱えているものがあるものなんだ。
 すごく単純な話だけれど、僕はそれを本当に理解するまでに長い年月を要した。僕が重要な人間ではなく、一人の取るに足らない人間であるということ、そして、親でさえ実は他人なんだということ、人が僕のために特別に注目したり気にかけてくれたり肩代わりしてくれたりはしないということ。そういうことが体験されていくに従って、僕は自分の生を生きるようになっていったように思う。僕はそう思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 一つの節目を自分に作ろうとしていたのだと思う。リニューアル計画は、一部では達成し、一部は不達成だった。なんでもそういうものだと思う。思うようにはいかないものだ。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2013年4月11日 木曜日

4月11日:自然に委ねる

4月11日(木)自然に委ねる

 昨日はハードな一日だったけれど、今日は幾分ましだ。この後、僕は夜勤を控えている。仕事をする気にならない。副業も気分転換にはいいものだけれど、今日はそんな気分になれそうもない。
 本業の方では、通常の作業に加えて、今、取り掛かっている作業が他に二つある。それに追われている。けっこうたいへんだ。忙しい。朝から夜まで仕事をして、そのまま夜勤をして、翌日、また朝から夜まで作業をする。最初はきつかったけれど、最近はこういうのにも慣れてきた。どんな環境でも、人間はそこに順応していくものだと思う。何事もキツイのは最初だけかもしれない。

 食生活も乱れて、最近、また太った。太るのも悪いことではない。ただ、太ると何かとしんどいように感じてしまうから、それを避けたいと思うだけだ。少し、気を付けよう。
 しかし、人はなぜ太ったとか痩せたとかいうことにこうも拘るのだろう。僕はおそらく太りやすい体質なのだと思う。小学生の頃、友達のお母さんや親せきから「太ったな」と言われることが多々あった。「太ったらアカンのかね」と言いたいところだ。そもそも、太ったと言われても、それで一体僕にどうしろと言うのだ。太るのは僕の意志ではないのだ。身体が勝手にそうなるのだから、そういう身体の自然の摂理の責任を僕に吹っかけるのは止めて欲しいものだ。今の僕ならそう答えるだろうな。
 同じように、痩せるのも身体の自然に任せてそうなるだけなのだ。努力して痩せるわけでもない。痩せると、今度は「どうしたのですか」などと聞かれる。僕の身体に訊いてくれと言いたいところだ。
 20代だと、痩せていると「スリム」だと見られる。40代で同じように痩せていると、「貧相」だと思われそうだ。だから年齢相応に太った方がいいのだ。誰でも年齢を重ねると、だんだん痩せにくい身体になるものだ。それは身体の自然であり、身体の知恵だと思うから、無理に捻じ曲げない方がいいと僕は思う。
 だから「アンチエイジングなんて糞くらえだ」と思っている。若返るよりも年齢相応の良さを身に着ける方がましだと思うし、いい年の重ね方をすることの方がよっぽど魅力的だと僕は思う。
 
身体も心も、その自然な動きに委ねることがもっとできればと思う。今日、これを書いていて、僕は考えている自分しか発見しない。何かを感じている自分はいない。感情的に動くものがない。分裂病のように、感情鈍麻しているかのよう。活き活きしたものが失われているかのよう。
 今日、僕は自分の心に触れただろうか。内面に良いことを何かしただろうか。義務や約束に追われてばかりいたのではないだろうか。こうして人は自分の感情や内面から隔離されてしまうのだろうな。それに触れないがために、それが自分にあることすら人は忘れてしまうのだろうな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 ホント、思いつくまま、連想の赴くままに書くから、読む人も混乱するだろうと思う。
 2節目で太ったり痩せたりするということに、良い―悪いの価値判断が付随することに反論する。この反論から少し罪悪感が芽生えたかもしれない。ここで初めて僕の中で生じてきた感情に目を向けたのだ。それで、3節目で僕は自分に触れていないことに思いを馳せらせているわけだ。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2013年4月10日 水曜日

4月10日(2):書架より~「ウサギは野を駆ける」

4月10日(水):書架より~『ウサギは野を駆ける』(セバスチャン・ジャプリゾ著 榊原晃三訳) ハヤカワミステリ

 著者は60年代から70年代にかけて非常に人気を博したフランスの作家で、「シンデレラの罠」「さらば、友よ」「雨の訪問者」などの原作者である。映画の脚本なんかも務めていて、本作もまた映画のシナリオのような作風となっている。映画向きの小説と言ったところか。

 マルセーユでは、一人の少年が自分のビー玉を差し出すことで、男子四人、女子二人から成るグループの仲間入りを果たす。一方、ジプシーたちに命を狙われ、モントリオールへと逃走しようとしているトニーは四人の男と二人の女から成る首都警察を襲撃しようと計画しているグループに加わることになる。
 物語の展開が速く、面白い。逃走劇あり、トニーと女たちのロマンスあり、暴力ありと、大衆映画が好む要素がふんだんに散りばめられているのだけど、ミッキー・スピレーンやハドリー・チェイスのようにはいかない。それほど爽快感がないのだ。むしろ、読後に侘しいような感情が込み上がってきた。この感情はどこから来るのか。恐らく、物語に直接関与しない子供たちの場面にあるのだろう。
 物語は基本的に大人の側(トニーら)を中心にして描かれるが、随所で子供の場面が挿入される。著者が前書きで述べているように、子供の遊びと大人の犯罪グループとは同じ要素から成っており、それらは本質的に子供の世界に属しているという。子供の場面が挿入されるのはそのような目論見のためである。
 マルセーユの子供たちはみな貧しい。大人たちもまた幸福とは言えない。グループのリーダーであるチャーリーもまた貧困から逃れようとして、この犯罪に手を染めているのだ。しかし、結局、金持ちになる夢は崩れ去ってしまう。トニーと6人は誰ひとりとして幸福になることなく、物語は終わる。子供時代から抜け出すことができなかった大人たちの物語のように思えてきて、それが僕に侘しいような、寂しいような感情を掻き立てる。
彼らがどのような過去を有しているのか、ほとんど語られない。語られない代わりにマルセーユの子供の場面が読者に何らかのイメージを膨らませる。貧しくて、ギャング遊びをする子供たち、自分たちの価値観で結束している遊び仲間のイメージを僕は抱く。それがそのまま大人たちに当てはまっていくように感じられた。
 彼らもまた子供っぽさを抱えている。「さらば、友よ」では中身を溢れさせずに硬貨をグラスに落としていくという賭けの場面があったが、本作でもタバコを三本縦に積んでいくという賭けの場面がある。新顔で部下となるトニーがそれをやってのけると、リーダーのチャーリーがむきになって練習するところなど、子供っぽさを覚える。犯罪者もまた子供だったわけだ。そして、そういう人間臭いところがあるものだと、僕は思った。
 本作は映画になるときっと面白いものになるだろうし、僕はあまり映画に詳しくないので分からないのだけど、多分、映画化されているのだと思う。でも、小説としてはいささか不十分な感じがして、そこは少し残念である。
 
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 年齢を重ねると、フランス・ミステリの良さが分かるようになってくる。英米の論理的な謎解きよりも、プロットの複雑さとか、巧みな構成で読ませるフランス・ミステリの方が性に合ってくる。
(平成28年12月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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