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2012年2月29日 水曜日

2月29日:騒々しさ

2月29日(水):騒々しさ

 今日は前回の日曜日同様、家の用事で休業している。以前から約束していたことなので、それは仕方がないのだけれど、途中、二時間くらい待ち時間が生じた時には、僕は居ても立ってもいられないような気持ちに襲われた。なんだか、こんなことをしていていいのかっていうような気持ちに襲われ始めた。物凄い焦燥感だったね。
 何かすることがあれば良かったんだけど、それは本当に待ち時間だった。何もすることがない時間だった。たまらなく不安だったね。すごく自分が人生の時間を浪費しているように感じられた。パニック障害ってこういう時に生じるのだろうなと、僕は思った。
 この焦燥感と言うか、不安というのは、僕が自分の使命を果たしていないような感情を抱いた時に生じたものだ。自分に無関係なことに、それが言い過ぎなら自分にとって周辺的な事柄に、ひどく拘束されていて、こういう状況が僕には耐えられなかったのだ。僕にはもっとやらなければならない事柄があるのに、それ以外のことに時間を取られ、心身を拘束されているということが苦しかった。

 夕方、家に帰る。僕はすぐに高槻まで出てきた。パソコンを置いて出たので、サイト作業はできないけれど、他にも多くの雑用があって、少しでもそれらを片付けておきたいと思っていた。時間はいくらあっても足りなくなるものだ。室内の整頓をして、それから論文を三つほど読んで、自由連想を一回分書いて、さらに小説も読んだ。昼間の埋め合わせをするかのように、僕は自分の内面に蓄積していきたかった。何もしていない時間は、僕自身が空虚になっていくように感じられる。
 僕は性格的にうつ病になりやすい方だと思っている。ある程度の強迫性もある。若い頃はいつか分裂病(統合失調症)になると言われたこともある。病理なんていくら抱えても僕は苦にしない。精神病になることも怖くはないのだ。でも、生きているこの時間が無意味になることが僕には耐えられない。僕が将来精神異常に陥るのなら、健全な内にしっかり生きていたいと願うのである。

 20時までは職場で過ごす。それからは例によって喫茶店に入る。そこで書き物や読み物をしていた。
 周囲を見回すと他のお客さんたちがいる。若い人たちは特にそうだけれど、日本人は最近騒がしくなったと思うことはないかね。一昔前よりも遥かに騒々しくなったように僕は感じるのだ。真剣に生きることができていないことの表れなのだろうなと僕は思う。ちょうど、待ち時間に居ても立ってもいられなくなって、落ち着きをなくした時の僕と同じような感じなのではないだろうか。
 芯が通って、地に足がついている人は騒々しさを求めないのじゃないだろか。そのような人はむしろ静かで穏やかな人間になるものじゃないかと僕は思うのだけれど、いかがなものだろう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 僕もこのサイトでこそいろんなことを書いているけど、普段はそれほどお喋りというわけでもない。どちらかというと無口な方だと自分では信じている(のだけどいかがなものだろうか)。人生が上手くいっていない人はお喋りだと、僕は個人的にはそう考えている。
(平成28年11月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

2012年2月28日 火曜日

2月28日:晴れの休日

2月28日(火):晴れの休日

 今日は定休日だけど、朝から職場に来て、職場の整理をしている。少しずつだけどリニューアルしていこうと計画している。不要なものは処分して、物はきちんとカテゴリー別に配置してということを少しずつ実施している。基本的な作りは変えようがないのだけれど、中身を変えていこうとしているのだ。それは部屋でも人間でも同じことだね。
 午後からはYさんに来てもらって、すこし手伝ってもらおうと計画していた。でも今になって、手伝ってもらうことに気が引けるように感じている。そもそも僕は独りで仕事をするって最初に決めたからだ。僕の悪い癖で、人がいると、ついついその人に頼んだり任せたりして、人に甘えてしまうのだ。自分でもできることなのに、「あれやっといて」とか安易に依頼してしまうのだ。僕は自分の甘えを克服しなければいけないのだと、最初の頃は考えていた。最近、迷いがでてきたのか、それは良くないのではないか、もっとお互いに協力的にならなければならないのではないかと思うようになっている。でも、ここは僕の原点に戻って、やっぱりYさんの手を借りることは控えようという気持ちに今はなっている。
 人に頼る前に、どこまで僕が自分独りでできるか、もう少し試してみようと思う。しかし、こういうのはしんどい生き方だと、自分でも思う。他者と助け合い、協力し合い、頼り合う方がきっと生き易いし、社会的で人間的でもあると思う。一般的には、それができた方がいいのだろう。
 あるタイプの人たちは「人に迷惑をかけたくない」と言って、他者にいかなる要望も伝えようとしなかったり、手伝ってもらおうと欲しない。一見すると自律した人のように見えるのだけれど、それは正しくないのである。いつかそれは書きたいと思っていることであるので、ここでは詳しく書かない。それよりも「迷惑をかけたくない」という信念である。この「迷惑」をどのように定義するかで、この信念は正しいものにも間違ったものにもなり得るものだ。
 Yさんに迷惑をかけたくないから、手伝ってもらうのを控えるのではない。窓から外を見る。とても天気が良い。こんな日は二人して歩きたいなと思っているだけである。つまり、理屈っぽいことをあれこれ並べているけれど、本当は今日はサボりたいだけなのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 こうして今も独りで仕事をしている。すべてが僕の両肩に圧し掛かる。何かを始める。途中で誰かに代わってもらうこともできない。最後までやるか、途中で断念するか、どちらかでしかない。この過去ブログ読み直し作業も最後までできるだろうか。
(平成28年11月)

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2012年2月27日 月曜日

2月27日:徹夜とタバコ

2月27日(月):徹夜とタバコ

 昨日は職場を後にして、高槻周辺をウロウロしたのだけど、その後、結局いつものように喫茶店に入って原稿を書いて過ごす。11時半ころまでそれをやっていた。そこから電車に乗って家に帰る。帰宅したのは1時近かった。帰宅して夕食。

 何となく気持ちは落ち着かない。夕食後、原稿の続きを書く。それから少しパソコンでDVDを見て過ごす。疲れたので、床に寝転がる。ダメだ、今日は眠れそうにない。3時半頃風呂に入り、4時から再びこうして書いている。今、4時を少し過ぎたところだ。5時まで書いて、それから高槻へ行ってしまおうと思う。

 そう言えばタバコを喫っていない。11時半に喫茶店を出る前に一本喫ったのが最後だ。深夜にタバコなしで過ごしているとは驚きである。タバコがないとリラックスできないが、こうして張りつめた気持ちでいると、気が引き締まる感じがしないでもない。集中して作業するには望ましい状態かもしれない。
 このままタバコが止められたらとも思う。酒の方は、時折、誘惑を感じるけれども、断酒して解放感がけっこうある。いろんな些末な心配事から解放されたように感じている。いつかそういうことを書いたように思う。タバコも止めてしまえば、楽になるだろうなと、頭ではそれが分かっている。
 ただ、癖というものはなかなか止めようとして止められるものでもない。気がつけば止めていたくらいの方が望ましい。意識的に止めている内は、止めたことにならないものである。心がそれに囚われ続けていることに変わりがないからである。囚われなくなることが一番いいに決まっている。
 僕はタバコを本当に「美味い」と思って喫っているだろうか。ごくたまにそう思える時がある。ガツンと来る感じを体験することもたまにはある。しかし、大半はただ何となく喫ってしまっているだけかもしれない。僕の場合、タバコを喫うと頭がシャンとする感じがする。常にそれを求めているだけかもしれない。
 金曜日の晩から土曜日の朝まで、禁煙時間を設けた。土曜の朝、9時半頃だ。僕はタバコを買いに行ってしまった。どうしても欲しかったというわけではない。ただ、この後クライアントと面接する際に、頭がスッキリしていないと不安だったのだ。この不安のために、僕は仕事前に喫っておく必要があると感じてしまったのだ。僕の喫煙と不安とはしばしば関係しているものなのだ。不安を鎮めようとするのだけれど、何がそんなに不安なのかに関して、僕は十分に取り掛かれている感じがしていない。今、それをするのは少し負担に感じてしまう。
 基本的に仕事中は喫わないようにはしている。一部のクライアントの前では了承を得て喫うこともあるし、クライアントも喫煙者であれば一緒に喫うという場合もある。でも、面接前と面接後は必ず一本は喫う癖がある。面接はすごく神経を使う仕事だ。それに僕の場合、独りで仕事しているので、誰も手伝ってくれるわけではないし、助けてくれる人もいない。すべてが自分にのしかかってくる。そういう圧力を自ら感じながら、クライアントとの面接に臨むのだ。時には刃物を突きつけられているような思いで面接に臨むこともある。苦しい時には特に一本喫いたくなる。そして、面接が終わった後には、それがどのような結末を迎えた面接であっても、気を緩めたくなる。その時にもやはり一本喫いたくなる。そういう感情に耐えることができるだけの強さが自分にあればと、僕はいつもそう思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 今もそこは変わらないな。面接を終えたあとは虚脱状態になっていることもある。張りつめていたものが一気に緩むのだ。そういう時に、タバコはよき友となってしまう。そんなことを考えると、禁煙はやはり難しそうだ。
(平成28年11月)

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2012年2月27日 月曜日

2月27日:映画の話

2月27日(月):映画の話

 映画は子供の頃からよく観ていた方だったのだけど、映画好きのYさんの影響もあってか、最近は特によく観るようになった。テレビで放映されたものを録画したりして、未だ観ていないものもたくさんある。いつか観ようと思って、そのままになっているのだ。これから少しずつ観ていこう。
 大抵はDVDで観る。廉価版か中古品を購入する。先日「007 私を愛したスパイ」を980円で発見した時は迷わず購入した。
 意外に思われるかもしれないが、けっこう「007」シリーズが僕は好きなのである。それも初期の頃のやつがいい。007はショーン・コネリーからロジャー・ムーアまでに限る。
 このシリーズは、アクションシーンよりも、悪役が肝心なのだ。僕は必ずそこを評価する。悪役には、用心棒のような殺し屋がセットとなっているのだけれど、悪役と用心棒が共に魅力的だと、どれだけ秘密兵器がバカバカしくて、マンガっぽくても全然構わないと思えてくるのだ。
 悪役で好きなのは「ゴールドフィンガー」(俳優さんの名前を忘れてしまったけれど)だ。「女王陛下の007」のテリー・サバラスもいい。「二度死ぬ」のドナルド・プレザンスも好きだ。
 用心棒の殺し屋では「ロシアより愛を込めて」のロバート・ショーが雰囲気があっていい。「ゴールドフィンガー」のブーメランのように帽子を投げる(その帽子の鍔が刃物になっている)あの殺し屋もいい感じである。そして極め付けは「私を愛したスパイ」のジョーズ(リチャード・キール)である。初めて見た時はすごくインパクトがあったね。ジョーズだけは同じ役で二作(後の「ムーンレーカー」にも登場している)出ているけれど、このような例はジョーズだけではなかろうか。
 「私を愛したスパイ」であるが、イアン・フレミングの原作の方は、シリーズの中でもあまり評価は高くないようだ。しかし、映画の方は面白い。「アラビアのロレンス」や「ジョーズ」といった他の映画のパロディも散りばめられていて、随所に遊び心がある。ボンド・ガールがバーバラ・バックである。でも、もう一人(実際は他にも登場するのだけれど)美女が登場する。キャロライン・マンローという女優さんで、敵側の一味として「ナオミ」役で登場する人だ。この人はスタイルもよく、美人なのに、なぜかB級映画にしか出ていないという人だ(もっとも、出演作をすべて把握しているわけではないのだけど)。悪役はクルト・ユルゲンスで、常に不機嫌そうで、苦虫を噛み潰したような表情は悪役としていい感じとは思う。しかし、ジョーズにすべてのインパクトを持って行かれたような感じである。
 僕の個人的な感想では、シリーズの後になるほど、魅力的な悪役が登場しなくなっている感じがしている。悪役に個性が感じられなくなるのである。主人公のボンドもまた然りである。
 ティモシー・ダルトンやダニエル・クレイグもいい俳優さんではあるのだけど、ボンドがカッコよくなり過ぎているのである。美女の後を追っかけて、落とし穴にはまる(「二度死ぬ」)ような、人間臭い初期のジェームス・ボンドが、やはり僕は好きだ。
 別に興味のない人にはどうだっていい話だったかもしれないけれど、時にはこうして映画のことも書いていこうと思っている。読まされる方はたまったものじゃないかもしれないけど、その辺りはご勘弁を。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 OO7シリーズは、最初は好きではなくて、「観ず嫌い」なところがあったのだけど、ある時、たまたま観る機会があったのだ。観ると、面白くて、そこからハマってしまったのだ。秘密兵器も初期の頃のアナログ感丸出しのものが面白い。最近のはハイテク過ぎて、それにカッコよすぎる。
(平成28年11月)

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2012年2月26日 日曜日

2月26日:女子大生集団の会話

2月26日(日):女子大生集団の会話

 今日は時間があるので、それに眠れそうにもないので、もう一本書いておこう。

 十三駅で途中下車した時の話を書いておくのを忘れた。それを書いておこう。
僕が電車に乗ると、7人くらいの女子大生が近くに座っていた。大学生というのは、彼女たちの会話からそれが分かる。実際、年齢もみんな19~20くらいではなかろうか。
 僕は人の話を盗み聞きするという困った趣味があって、この時も聴くともなしに彼女たちの話を聞いていたのだ。そもそも彼女たちの話題というのが、聴いていて「おっ!」と思わせるものだったのだ。
 まず、児童虐待のことが話題になり、それから餓死する人のこと、さらに自殺のことまで話すのである。なかなか問題意識のある女子大生たちかと思い、興味を抱いたのである。しかし、聴いていると、甚だ腹立たしいのである。それで聞くに耐えなくて、十三駅で途中下車したのである。
 彼女たちの話は、大概、こんな感じである。一人が、最近は子供を虐待して殺してしまう母親が増えているらしいと問題提起すると、他の人たちの「えー、信じられない」で締めくくられるのである。餓死した人のことになると、「臓器売れよ」で終わる。自殺者に関しては、「死ぬのは勝手やし、さっさと死ねよ」で終わる。あまりの低能さに、僕は腹立たしくなったのだ。
 彼女たちが母親になったら、7人中何人かは我が子を虐待すると僕は思うね。19や20の若い人には理解できなくて当然かもしれないけれど、人間が餓死するまで追い込まれる姿を彼女たちは想像することもできないのだろう。自殺したくなるというような経験もこれまでされたことがないのだろうと思う。僕が彼女たちの年齢の頃は、僕の死はもっと身近な問題だった。彼女たちが、ある意味では、羨ましく思えるよ。

 何が彼女たちに欠けているか、これを読んでくれている人には見えるでしょうか。それは共感能力なのだ。自分がその人たちの立場だったらという観点がまるでないのだ。虐待する母親も餓死者も自殺者も、彼女たちには他人事なのだ、それは自分とは無関係で、彼らに対して無関心であることの表れである。そして他者に対して他人事の立場を頑ななまでに固持できるとするならば、それは彼女たちに愛情能力の障害があるということである。
 10年後くらいに、彼女たちの何人かは、僕のようなカウンセラーの門を叩くようになるかもしれない。子供を殴ってしまうんですとか、生活苦で食べていけないとか、死にたいというような訴えをしているかもしれない。こういう時、人は決まってこう言うのである。「まさか自分がそんな状態になるなんて」と。
 まあ、それはそれとして、彼女たちは10年前にそれらについて考える機会があったのに、みすみすその機会を逸しているようなものだ。もっとも、人間はこういうことをしてしまうものである。どうしてその時に、自分自身の問題として考えてみなかったのだろうと、悔やんでもその時には遅いのである。人間は自分が切羽詰って、その時に初めて、一からそういうことに取り組んでしまうものだと思う。それ以前にそういうことに取り組む機会がいくらでもあったのに、そういうことはすっかり忘れてしまっているものだと思う。

 人間の世界において生じていることは、どれ一つをとっても自分とは無関係ではないのだ。それは歴史上の出来事においても同じである。ユング心理学は僕にそれを教えてくれたと思っている。
 だから、福島に住む人たちの問題は、僕の問題でもある。沖縄の基地問題は沖縄の人たちだけでなく、僕の苦悩でもある。第二次大戦のヒトラーとナチでさえ、今の僕とまったく無関係とは言えない。自己を拡張するとはそういうことではないのだろうか。
 彼女たちは共感能力に欠くうえに、自己をそうして拡張していくこともできない人たちなのだろうなと思う。知識や偏差値は僕よりあるかもしれないけれど。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 こういうこともあったなあ。彼女たちも、あれから5年が経過しているので、今頃24、5歳くらいにはなっているだろうか。少しはまともに生きているのだろうか。僕の方は相変わらずだが、5年前よりも進んでいる部分もある。
(平成28年11月)

投稿者 高槻カウンセリングセンター | 記事URL

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