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2020年3月27日 金曜日

3月27日:コロナ・ジェノサイド(12)~無力と攻撃性

3月27日(金):コロナ・ジェノサイド(12)~無力と攻撃性

 東京の方ではスーパーに人が殺到したそうである。人はそこで大量の食料品を買い込む。結局、外出自粛が要請されていながら集団が形成されてしまうのである。そんな矛盾を生み出している。
 この殺到は東京都が発表した首都封鎖の可能性の報道によるものであるようだ。首都が封鎖される。それはかつてニュースなんかで観た武漢の光景を予想させるものである。ああいう生活になってしまうと人々は危惧したのかもしれない。
 スーパーの買い物客が言うところでは、他の人が大量に買い込むので自分もそうした方がいいのではないかと、そういう気持ちになったとのこと。もちろん、その他の感情体験をした人もあるだろう。
 マスクが店頭から消え、次にトイレットペーパーが消え、今度は食料品が店頭から消えるのである。それも保存のきく食料だけでなく、あまり保存期間の長くない食料までもが消えるのである。外出禁止に備えて保存食を溜め込むというのは理解できるが、保存があまりきかない食料まで人が買い求めるのは、僕には不思議な気がしてならない。どこか本来の目的を失ってしまっているように思える。
 そもそも東京都の発表が封鎖を前面に打ち出していることにも問題がある。流通は封鎖しないこと、買い物等の外出は認められることをきちんと打ち出していない感じが僕にはしている。
 政府も食料メーカーも食料は十分にあるということを主張し始めている。ストックが十分にあるし、新たに生産できるということもアピールしている。しかし、この流れはその程度のことでは収められないだろうと僕は思う。トイレットペーパーの時がそうだった。

 さて、我先にと買い求める行為とはどんな感情に裏打ちされているだろうか。それを考えてみたい。もちろん、当人たちは不安に襲われているという理屈は正しいだろう。不安に駆られて、自分が食いはぐれてしまわないように、ああして買い求め、且つ、大量に買い込んでしまうのだと。これは経験的にも理解できる説明である。
 僕はもう一つの可能性を考えている。それは攻撃衝動である。人よりも獲得しなければならない、他人を押しのけてでも入手しなければならないとすれば、その人を動かしているのは、不安ではなく、むしろ攻撃衝動ではないだろうか。
 そして、その破壊性の背後にある感情はなんだろうか。不安だけでは破壊は生じないかもしれない。そこに攻撃衝動が加わるので破壊性が増すのではないだろうか。
 そういうわけで、トイレットペーパにしろ、今回の食料にしろ、人々を動かしているのは攻撃衝動である。不安は、どちらかと言えば副次的に重要な役割を果たしているに過ぎないと思う。
 ところで、この攻撃衝動は、もちろん正当な方向から逸れているものである。攻撃衝動は災いに対して向けられなければならない。災いを克服する時、つまりコロナに打ち勝つということであるが、その闘争に攻撃衝動が向けられるのが本来の方向ではないかと僕は思う。その本来の方向が阻止されていて、攻撃衝動が別の水路を取って表面化してしまっているのではないかと、そのように僕には思われてしまうのだ。
 では、攻撃衝動がどうして正規の方向を取らずに、脇道に逸れてしまうのか。それは正規の方向である災いに対して無力感を体験しているからであると、僕は思う。何をやっても、どのように挑んでも効果がないのである。そこに攻撃衝動を向けたところで太刀打ちできないという感覚に襲われるのである。そして、行き場の失った攻撃衝動はまったく別の場面において噴出することになってしまう。
 その別の場面というのも、一つとは限らない。様々な場面で噴き出すことになる。大人の若者批判、同じく若者の大人批判、さらには外国人や感染者に対する差別、国や政府に対する反感、イベントの強行、外出禁止要請に対する無関心、無謀な集会(飲み会などのことであり、自殺行為である)、などなど、数え上げればきりがないほどである。学校の長期休校やテレワークもまた攻撃性噴出の基盤となるかもしれない。今後は暴動や自殺が相次ぐかもしれない。それもまた行き場のない攻撃衝動の発露である。僕はそう考えている。

 もし、戦うことが望ましいのであれば、正しい相手と戦わなくてはならない。戦う相手を間違えてはいけない。コロナと戦うのであれば、コロナだけと戦わなければならないわけだ。その他の対象と戦ってはいけないわけだ。
 また、その攻撃衝動の昇華の道も模索しなくてはならない。相手がまともに戦えるような対象でないならば、相手に対する攻撃衝動を僕たちは適切に昇華していかなければならないと思う。攻撃性に価値ある水路を切り開いてやらなければならないわけだ。
 僕はコロナウイルスに対しては無力だ。でも、自分の人生に対して無力になるつもりはない。ウイルスとは直接戦えなくても、僕は僕の攻撃性を他の事、僕にとって価値のある活動に没頭することによって昇華していくつもりだ。このブログも昇華の一環のつもりで書いている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年3月25日 水曜日

3月25日:コロナ・ジェノサイド(11)~アスリートラスト

3月25日(水):コロナ・ジェノサイド(11)~アスリートラスト

 コロナ騒動に関して書くのもいささか疲れていた。僕個人は人類はコロナに、負けるとまでは言わないけど、相当なダメージを食らうことになると信じている。以前のサーズやマーズと違う点は、当時よりも人間と社会が劣化しているところにあると僕は考えている。それがコロナ感染の拡大をもたらしていると思っている。

 さて、コロナ感染が流行するのとオリンピックイヤーとが重なったのは日本にとって大打撃である。昨日、オリンピック開催の1年延期が決定したとのこと。
 延期が確定したけれど、不思議と驚きもしなかったし、何を今頃というのが正直な感想である。予定通りの開催はとても無理だということが目に見えていたのに、政府は開催するつもりでいたのだから能天気と言おうか現実が見えていないと言おうかである。
 首相はオリンピックを完全な形で実行すると言っていた。この「完全な形で」という表現に、その望みの薄さが感じられていた。
 僕は不思議だった。どうして「当初の予定通りに実行する」とは言わずに「完全な形で実行する」と言ったのだろう。ひどく曖昧さが増した表現である。一体、「完全」とは何がどのように完全ということなのか、不明瞭である。僕には何か明言を避けるようなところが感じられていた。
 当初の予定通りにとか、通常に開催するとか、そういうことがもはや言えなかったのだと僕は思う。それが無理であることは自明であったのに、無理であるということは口が裂けても言えなかったのだろう。その妥協形成物として「完全な形」という過度にその反対を強調するような表現が生まれたのだろうと思う。つまり、例えば、「弱い」人が自分の弱さを自覚すればするほど強さを強調したがる(強がりする)のと同じようなものだ。
 よく言えば、最後まで無理であることを言わないでおこうとしたように見えるし、悪く言えば、優柔不断さしか見えない。まあ、首相の言葉なんて、僕には関係がないし、興味も覚えない。

 オリンピックに関して言えば、アスリートファーストなる言葉もよく聞いた。僕は好きになれない表現だ。どうしてアスリートが優先なのか、意味不明である。
 しかし、本当にアスリートファーストであるなら、延期はもっと早く決断していなければならないはずだ。開催されるのか延期されるのか、いつまでも不明な状態がアスリートにとって一番困るはずだと僕は思う。従って、アスリートファーストを実践するならば、少なくとも一か月前には延期を決定していなければならなかったと思う。
 オリンピックは今年は中止であり、来年に延期になりました。選手の皆さんは来年にむけて調整してください。そういう表明が早ければ早いほど、選手は手が打てるのだ。来年に向けての準備、調整、計画が早期に着手できるのだ。
 ズルズルと決断を長引かせて、選手を停滞させる。これのどこがアスリートファーストなんだと僕は思う。むしろ、アスリートラストじゃないか。

 同じことは国民に対しても言える。「国民のことを第一に考えて」などといった表現を耳にする機会も多い。政府は国民ファーストでやってるつもりでも、現実には国民ラストなのだ。
 先日の三連休でも多くの人が外出した。政府は不要不急の外出を自粛するよう要請しているのだけれど、その不要不急の判断は個々人に委ねられている。
 例えば、ずっと家に籠っていた人が、息が詰まりそうだと感じ、繁華街に出た。この外出は傍から見れば不要不急である。でも、当人にとっては必要不可欠の外出に感じられているかもしれない。この人は自分が不要不急の外出は控えていると信じているかもしれない。
 不要不急が明確に定義されていない上に、自粛が「要請」されているという曖昧さがそうした外出を生み出すと僕は思っている。イタリアのように、食料や日用品の買い物以外の外出は禁止すると言う方がより明確であり、国民一人一人に共有される行動指針となる。日本政府はそういう指針を打ち出さないのだ。打ち出すことを控えているのか、打ち出すほど自己が明確になっていないのか、どちらであるかは不明であるが。
 国民ファーストであるなら、そういうことは明確に打ち出すものである。明確に打ち出せないのは国民ラストになっている証拠ではないだろうか。

 今の話は、シチュエーションを変えて述べるとよく分かると思う。
 例えば、子供が断崖絶壁のほうに走っていこうとする。親はそういう子供を制止するだろう。あっちは危険だから行ってはいけないと、そうやって子供に禁止を与えるだろう。子どもが断崖絶壁から落ちるかどうかは分からない。でも、子供の安全を第一に考えたら、親のこの制止と禁止は当然出てくるものではないだろうか。
 一方、断崖絶壁から落ちなければ行ってもいいよ、と子供に言う親がいるとしよう。あるいは、断崖に近づけば落ちる可能性があるけれど、そこまで行くか行かないかは子供の自由にしていいよ、と子供に言う親がいるとしよう。禁止や制止を与える親と比較して、どちらがより子供の安全を考えているかは一目瞭然である。
 しかしながら、落ちなければ行ってもいいよと言う場合が、制止や禁止よりも適切である場合もある。もし、その広場の向こうが断崖絶壁ではなく、ちょっとした段差くらいであれば適切である。危険度がかなり低い場合にのみ有効だ。逆に、危険度がかなり低いにも関わらず、子供に行ってはいけないと制止・禁止する親はいささか行き過ぎであり、これは親の不安の強さを示している。
 つまり、親がどの程度危険を正しく評価しているかで変わってくるわけだ。断崖絶壁の方に行くなと禁止する親は、その危険性をより正しく評価できているわけである。ちょっとした段差であっても行くなと禁止する親は、その危険性を正しく評価できていないということになる。従って、子供の安全を第一に考えるということは、その親が子供の陥りそうな危険を正しく評価できているという前提に基づいている。

 アスリートファーストであれ、国民ファーストであれ、政府がその安全を第一に優先するのであれば、政府は危険を正しく評価できていなければならない。僕はそこは疑問であると感じている。
 人の流れが危険であることはずっと前から言われていた。人が密集する場面も同様だ。それでもオリンピックは完全な形で実行すると公表できるということは、危険を正しく評価できていないことの証拠であると僕は思う。
 そうした証拠はゴロゴロ出てくる。感染が拡大するヨーロッパからの帰国者が空港で検査を受けた。この時、検査官は4人だけであり、マスクを着用しているだけであったという。加えて、検査結果を待たずに帰宅した人もあるという。帰国者は二週間隔離状態になるのだけれど、宿泊施設も用意されていないとか。
 これらのことはすべて政府が危険性を正しく評価できていないことを表わしているように僕には思えるのだけれど、それが正しく評価できないのは、このウイルスが未知のものであるからとか、こういう状況を日本が経験したことないからであるとか、正確なデータが得られていないからであるとか、いろいろ理由はあるであろう。
 しかし、根本にあるのは、政府の、ひいては日本国民の現実検討力の衰退にあると僕は思っている。現実吟味できなくなるとは、その事態が手に負えないためでもあるが、事態に対して自我が機能できなくなっているということである。そして、わずかに機能できる範囲で、つまりより低次の機能でもって、対処するので、せいぜい現実否認をやるしかできなくなっているのではないだろうか。より低次の防衛機制しか働かせることができなくなっている状態ではないだろうか。精神病水準の状態に日本が陥っているのではないだろうか。アスリートファーストも国民ファーストも、すべて彼らの妄想である。僕はそんなふうに感じている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年3月20日 金曜日

3月20日:コロナ・ジェノサイド(10)~僕の戦い

3月20日(金):コロナ・ジェノサイド(10)~僕の戦い

 イタリアでのコロナ感染者数が中国を上回ったそうだ。イタリアにとっては自国の汚名につながる公表であるが、なかなかイタリアは立派だとも僕には思えている。検査をせずに数字をごまかしている国はもっと見習うべきである。そして、そんなイタリアが諸外国から非難されているだろうか。
 むしろ、非難されているのは日本の方だ。日本はもっとも危機意識の低い、もっとも危険な国だと思われつつあるようだ。今後、日本差別は加熱していくかもしれない。

 そもそも、トップがどうしようもない。このような状況にあってもオリンピックは当初の予定通りに開催するなどとトボケタことを言っているのだから。
 ニュースで読んだが、イギリスがオリンピック代替国として名乗り上げているらしい。日本はもうどうしようもないと思われているのかもしれない。それに、ロンドンでオリンピックが開催されても、日本は出場できないだろう。日本人はお断りと言われるかもしれない。選手すら拒否される可能性だってある。
 そして、今、無観客で聖火リレーが行われている。本当ならもっと日本でも話題になり、盛り上がっていただろうイベントが、こうして地味で、まったく目立たないニュースになってしまっている。現状での予定通りの開催とはこういうことである。

 今日から三連休ということで大阪府知事は兵庫県への行き来を大阪府民は慎むように公言した。三連休もへったくれもないだろうと僕は思うのだけれど、知事としてはこの三連休を自宅ないしは居住する市区町村内で大人しくしておいてくれということなんだろう。
 それならそうと言えばいいのだ。兵庫県に特化したような話なのでどうしてもヘンテコな印象を受けてしまう。兵庫県に限らず、近隣府県への移動を自粛するように、と言えばいいのだ。
 兵庫県は感染者数が多いからだということらしいが、一県に特化したような表現をすると差別的な色彩を帯びてしまう。正直に言うと、僕は若干の差別意識が働いているとにらんでいる。

 このコロナに対する差別意識は一般の人にもある。感染者としてニュース番組なんかに出た人が差別的な言動に晒されているという。コロナにかかるともはや人間ではないといわんばかりの差別である。
 この差別がもたらすものは何かと言うと、検査と治療の忌避である。検査さえ受けなければ差別は受けないのである。検査を受けて陽性と判明した瞬間に人間から脱落してしまうのである。それなら最初から検査も治療も受けない方がましなのである。
 もし、個々の人がそのように考えたとすれば、いくら検査体制を整えても無意味である。検査を受けるよりも、受けない方が安全なのだから。

 すべてが失敗である。政府の対策も何もかもがである。
 これからコロナ不況がやってくる。どれだけの人が自ら命を絶つだろうか。その数はコロナ感染者を上回るだろうと僕は予想している。
 いっそのこと100兆円くらいお金を刷って、国民一人につき100万円くらい支給すればいいのだ。100万円あげるから一切の労働と外出を控えてくれと、そうしてくれればいいのである。
 それなのに、政府ときたら無利子の融資をするとかワケ分からんことを言う。無利子の前に無審査の融資だろうと思うのだがいかがなものだろう。さらに、融資以前に給付する方が早い。
 給付案は一人につき10万円と聞いた。せめて50万円は寄こせと言いたい。と言うのは、この状況が続き、今後も尾を引くだろうから、せめて2,3か月分の給与に匹敵する額を給付しなくてはいけない。
 しかし、贅沢は言わない。10万円給付すると言うのなら、早く寄こせ。ところがバカな議論が生まれている。収入何千万円あるような人にとって10万円は意味がないなどといった反論もある。そんな一部の高額収入者のために給付が引き延ばされるのでは、低所得者はやりきれないことだろう。収入の高低に関係なく、全員がコロナ騒動で何らかの損失を被っているのだから、均一に支給すればいいのである。
 もう一度ハッキリ言う。早よせえ、と。

 悪徳商法も後を絶たない。マスクが通常の10倍の値段で販売されていたり、コロナ予防に効果があるというお茶が売り出されたり、ひどいものである。このコロナ騒動で明らかになったのは、政府の無能さだけではなく、国民の倫理の喪失である。人間性の喪失である。ハッキリ言えば、日本国民はここまでヒドイのかと呆れるほどである。

 子供たちは学校が休校である。卒業式や終業式もまともになされないまま翌年を迎える。長い春休みを今は過ごしている。
 ところがである。親切か不親切か分からない大人たちが子供を集める。家にいてすることのない子供たちに居場所を提供してあげようということだ。そうして子供たちを集めている。一体、何のための休校なのか、もはや休校の意味がないのである。大人たちが思考力を失っているのではないだろうか。

 同じことは会社員の時差出勤にも言える。混雑を避けるために出勤時間をずらすのである。ところが、どことも同じようにずらすものだから、ラッシュ時間が後にズレ込んだだけのことである。電車は、確かに多少はましになっているのかもしれないけれど、相変わらずの混雑ぶりである。9時の始業を10時に変えたところで、他も同じことをやっているから意味がないのである。いっそのこと、9時から5時までの8時間を、15時から23時までの8時間にずらすなど、あるいは7時から15時までの8時間にするとか、大幅にずらした方がよさそうに思う。
 昨日は、帰宅時に帰宅ラッシュに巻き込まれた。と言うより、いつもの風景、コロナ以前の風景とさほど変わりはなかった。まったく無意味である。

 僕はと言えば、とっくに自粛を解除している。不要不急の外出も平気でやらかしている。それを守って、何が達成されるというのだろう。自分の首を絞めるだけだ。
 僕のような自営業者にも保障すると言っていたが、それが一日4000円ほどだ。一日4000円もらうくらいなら仕事をバンバンやってる方がましだ。僕は僕でコロナと戦うが、政府には従わない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年3月18日 水曜日

3月18日:コロナ・ジェノサイド(9)~敗北か勝利か

3月18日(水):コロナ・ジェノサイド(9)~敗北か勝利か

 コロナ感染にとって一番重要なのはその人の抵抗力とか自然治癒力とかだ。感染しても治癒しているという人があるのはそうした力によるものである。また、高齢者や持病持ちがハイリスクなのは、こういう人たちは抵抗力や自然治癒力が低下しているためではないだろうか。
 従って、今、僕たちがしなければならないことは、手洗いやうがい、マスク着用といった予防面の処置も大切だけれど、抵抗力や自然治癒力を高めることである。予防と同じくらい大切なことだと僕は考えている。
 抵抗力、自然治癒力を高めるために、例えば、栄養を取るということも重要だろうし、しっかり休養するということも必要だろう。
 学校や会社が休みの間にしっかり休養を取るということもした方がいいと思う。それなのに過活動してしまうとせっかくの休みが台無しである。政府は国民に休養を取るように要請すべきだと僕は考えている。仕事や活動の自粛ではなく、休養ということにすれば国民の不満も減少するのではないだろうか。

 ところがである。政府の対応は人々を不安にさせるようなものばかりである。まず経済不安がある。先行きが見えず、自分たちの生活がどうなるか分からないといった状況では、自然治癒力も抵抗力も減退するだろう。四六時中不安に直面していなければならないからである。
 一人一人が希望を持つことである。絶望の中で希望を見いだすことである。そして生命感情を高めていくことである。そういうことが今の僕たち一人一人に求められているのではないだろうか。

 ちなみに、政府の対応というのは、もっぱら医療崩壊を防ぐこととオリンピックに関することばかりである。
 医療崩壊はすでに起きている。感染者がそれを引き起こすのではなく、誹謗中傷がそれを引き起こすのだ。つまり、非感染者の方が罪が大きいのである。
 また、オリンピックは早急に延期の決定をすべきである。いつまでそこに拘っているのかと、スポーツ嫌いの僕にはそう思えてしまう。2月の時点でその決定をしておくべきだったのだ。確かに、オリンピックのことは開催国だけでは決められないという部分もあるかもしれないが、開催国が率先してその提案をしてもいいのである。
 政府も自治体も、それに企業なんかもそうだけれど、批判をあまりに恐れ過ぎているように僕には感じられる。しかし、批判なんて何をやっても出てくるものである。あることをやっても批判が来るし、やらなくても批判が持ち上がる。一緒なのだ。
 ある意味、批判者が力を持ちすぎているのだ。この批判者が確かな目を持っているとも限らないのである。信用すべき批判であるかどうかが批判されなくてはならないのであるが、批判は無批判に伝搬する。これが現代の病巣である。コロナ騒ぎの元凶の一つにこれがあると僕は考えている。

 兵庫県だったと思う、ある個人クリニックだ。そこを受診した患者さんがコロナ感染者だと判明した。その時から、このクリニックは批判の的となったそうだ。これが医療崩壊であり、現代病の典型的な現象なのだ。
 このクリニックに何の罪があるというのか。むしろコロナ感染者の判明に助力したではないか。どうして批判されなければならないのか、僕には分からない。これは僕の理解力が乏しいのか、批判者が精神病であるかのどちらかである。なぜ精神病であるかというと、論理的に現実吟味がなされておらず、ほとんど妄想レベルの批判がなされていると思われるからである。

 そうしてお互い同士が争う形になる。お互いに攻撃し合い、苦しめ合う。
 動物には種族内闘争に長けている種と種族外闘争に長けている種とがあるそうだ。種族内闘争に長けている種は、お互いに攻撃し合い、殺し合うので、絶滅する可能性が高い。加えて、外的に対して弱くなるということらしい。
 もし、人間同士が争い合えば、外敵に弱くなるということである。つまりこの場合ではコロナウイルスが外敵ということになるのだけれど、我々が潰し合いをすればするほど、人類はコロナに敗北していくわけである。
 しかしながら、僕の今の言葉に対して次のような反論をする人もあろうかと思う。それは動物の話であって人間の話ではない、と。動物に見られる現象をそのまま人間に当てはめることはできないのではないか、と。
 この反論には一理あることは認めよう。しかし、I・アイブル・アイベスフェルト博士によれば、そういう批判をする人は「比較」ということをよく知っていない人であるという(雑誌『アニマ』1976年11月号のインタビュー参照)。
 僕はアイベスフェルト博士の意見に賛成だ。種族内闘争に長けている動物と、批判して潰し合う人間とを、僕はある意味では「比較」したことになる。この比較が正しい比較であれば僕の言っていることが正しくなるし、それが正しくない比較であれば批判者の言っていることがより正しいということになる。あいにく、僕は比較の手段を有していないので、それ以上のことは言えない。
 ところで、タイだったと思うのだけど、サルがいっぱい生息している町がある。観光客が激減して、サルたちはエサに困っているそうだ。一匹のサルが食物を手にすると、大群がその一匹めがけて殺到する。そういう光景をテレビで観た。このサルたちの光景と、トイレットペーパーを買い占めようとする人間たちの光景と、僕には同じように見えてしまうのだ。

 いずれにしろ、人間もやはり動物なのだ。他の動物たちとの間にそれほど差がないかもしれない。人間が人間らしさを喪失すればするほど、人間の行為は他の動物と似てくるだろうと思う。
 奪い合いをするか分け合うか、潰し合うかともに生きるか、僕たちに突きつけられている課題ではないだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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2020年3月14日 土曜日

3月14日:コロナ・ジェノサイド(8)~崩壊と衰退

3月14日(土):コロナ・ジェノサイド(8)~崩壊と衰退

 コロナ騒動は相変わらずだ。感染者が拡大しているというけれど、発見が拡大していると言う方が正しいと思う。今日発見された感染者は14日前にすでに感染者なのである。つまり、今日発表される感染者拡大の数は二週間前の数字だと思っていいのではないだろうか。

 それはさておき、ここでもコロナ騒動に関して思うところのものを綴ってきた。もう終えてもいいのだけれど、いろいろ動きが出てくるので、ついつい継続して書いてしまう。

 マスクの転売禁止を政府が打ち出した。僕は最初そういう考え方をしていたのだけれど、よく考えたら、転売を禁止するのではなく、転売マスクの購入を禁止した方が良さそうだ。
 それというのも、転売屋はマスクを売るのではなくて、他の商品の付録としてマスクをつけるという方法を取り始めたからだ。それでも売れるのだ。つまり、買う人間がいるということだ。
 そもそも、こういう転売は実に悪質だと僕には思われる。悪質な転売屋がまともな商品を売ってくれるのかどうか疑わしくさえ思う。再利用したマスクとかではないという保証がないのだ。なかには、そのマスクは見本で使っていて、お金が振り込まれても発送しない可能性だってある。どうして人はそういう悪質な転売屋を信用してしまうのだろうか。流通を正常にすること、そして購入者の意識を高めること、どちらも必要ではないだろうか。

 コロナをばらまいてやると言って呑み屋に行った男性がいるそうだ。モーパッサンの短編小説を僕は思い出す。そういうやり方は「女っぽい」のだ。女性差別のように聞こえたら拙いんだけれど、女の復讐方法なのだ。
 それでこの男性に接客した女性は大丈夫だったそうだ。その代わり、別の女性店員に感染が確認されたという。入店前に男性が待合で座っていたソファーに座ったことでその女性店員は感染したのではないかと報道されていた。
 しかし、これも確証はないのだ。その女性はそれ以前にどこか他の場所で感染していたかもしれないのだ。
 それに接客した女性が感染していないのも、たまたまであったかもしれない。幸運なことに感染しなかったというだけのことかもしれない。この男性が最初にソファにウイルスをばら撒いたおかげで助かったということなのかもしれない。

 差別的行動も増えているそうだ。外国にいる日本人もそういう目に遭ったというのは以前聞いたことがあるが、日本人に限ったことではないようだ。
 東京でも、電車内でくしゃみをしただけで揉め事に発展したというのを聞いたことがある。くしゃみをした人に向かってコロナ感染者だと誹謗するとしても、その誹謗している当人が感染者ではないと断言できないはずである。無症状の感染者もあるからだ。要するに、自分のことは棚に上げて他人を誹謗中傷する輩なんだろう。

 僕の推定では、感染者は1000万人は超えているだろう。10人に1人は感染者と思って間違いない。ただ、症状がなかったり無自覚なだけである。検査を受けていないのだから分からないだけなのだ。
 当然、都会に集中しているはずである。そして全都道府県に感染者はいるだろう。農村とか過疎地のような、あまり人と接触することが多くない地域では少ないだろうと思う。それでも、そこに一人感染者が入り込めば、感染は拡大するはずである。要するに、安全な場所などどこにもないのだ。

 ぜんそくの薬が効くとか、いくつかの薬の効用が知られている。しかし、これは感染による症状を緩和するものであって、感染そのものに効くというわけではないようだ。
 それでもワクチンは開発されるだろう。ワクチンを作ること自体はさほど時間はかからないだろうと思う。そこから臨床試験をしていくことになる。最初はモルモットなどの動物を使って、それで有効性と安全性が確認できれば今度は人間で治験することになる。
 人間にも効果があるということになれば、そこで初めてワクチンの完成となる。今度はそのワクチンを作らなければならない。大量に作って、各病院等に行き渡らないといけない。そこまでしてやっとのこと、インフルエンザのように、新型コロナの予防接種を受けることができるというわけだ。それが一年くらいかかると公表されていたな。

 社会も人間も、どんどん悪くなっているように僕には映っている。コロナよりも恐ろしいのは、社会の崩壊であり、人間の心の衰退である。もう、それが始まっているような、そういう危機感を覚える。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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