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2021年6月 6日 日曜日

6月6日:臨床日誌~「子供のために」

6月6日(日):臨床日誌~「子供のために」

 個人的にはこれからは「家族」というものが衰退していくだろうと僕は思っている。コミュニティは存在するけれど、家族単位の結合は少なくなっていくのではないかと思っている。家族を形成するより、シェアし合って共同生活を営むという生活様式が主流になっていくかもしれないと、そう考えている。
 家族というものが昔よりも意味がなくなっているという感じがしないでもないし、そのことは同時に、夫婦になることの意味もなくなっているということを意味している。もっとも、僕がお会いするのは上手く行っていない夫婦ばかりなので、そういう印象を持ってしまうのかもしれない。上手く行っている夫婦にとっては、夫婦はいいものであり、家族は意味があると感じらているのかもしれない。

 僕個人は離婚には反対しない。それが悪いことだとも思わない。破綻した夫婦のままでいるよりかは、離婚して別々の人生を歩んだ方がよいと思えることも多々ある。しかし、当事者はなかなか離婚をしないものである。その主な理由として挙げられるのが「子供のため」というものである。僕は「子供のために離婚しない」とか「子供がいるから離婚できなかった」という言葉を信用しない。当事者にとってはそれが事実であるように思われても、僕はその言葉をそのまま受け入れない。
 「子供のために」ということであれば、それは「子供の何のため」なのだろうか。そこはあまり明確にされないことが多い。ひどく漠然とお答えになられる人もある。それよりも、「生活費のために別れることができなかった」という人の方が正直である。
 夫からどれだけ虐げられても離婚しない妻は、「別れたくても別れられない」と述べることもある。これは「子供のため」よりも、はるかに現実に近いと僕は思っている。もはやその人と夫婦であることの意味がないのに、それでも離婚できないのは、夫が彼女の人格の深い層に影響しているからである。この影響には、もちろん、楽しいことや幸せだったことなども含まれる。影響は悪いものばかりではない。別れられない理由が人格あるいは心の深いところにあるので、なかなかそれを把握できないのだと思う。

 さて、いろんな夫婦があり、家庭がある。子供のためにということで夫婦を耐え忍んできたのに、子供から激しくしっぺ返しを食らってしまう妻もある。この妻にはなぜ自分が子供から反撃されなければならないのかが理解できない。子供に影響が及ばないように細心の注意をしてきたはずなのに、子供からは恨まれてしまうのだ。悲劇としか言いようがないのであるが、第三者から見れば明白であったりする。
 彼女は夫を拒絶する。夫もまた彼女を拒絶する。彼らはそれを子供の前ではやっていないつもりでいる。しかし、子供はちゃんと見ていることもあるし、感じ取っていることも多いものである。でも、拒絶し合っているのは夫婦であって、子供ではない、そう弁護してあげたくもなるが、やはりこれも正しくないようである。
 子供の中では、拒絶し合う親を見ることは、自分が拒絶されることに等しくなる。いくら遠目から見ていたとしても、そのように感じられてしまう可能性が高いのだ。というのは、子供は一方の親に同一視していることもあるからである。同一視していなくても、母は父を拒絶して、次は自分が拒絶される番だというふうに子供は信じ込んでしまうかもしれない。母が父を攻撃して(あるいは父が母を攻撃して)いるのを見て、その次は自分がやられると信じてしまうこともあり得るわけだ。僕は十分に起こり得ることだと思っている。
 大人だったら、それは父と母の二人の問題だということで一線を画すこともできるだろう。子供が幼いほど、そういうことは難しい。この子は大人になってからその線引きをやっていかなければならなくなる。
 あるいは、家庭の雰囲気に子供はいともたやすく同化する。自我境界が脆いためである。外部のものが速やかに内部に浸透してしまうのである。そのため家庭内の険悪なムードはそのまま自分が悪に染まってしまうことを意味するので、子供は自分を耐えがたい存在として捉えることになる。この子もまた、大人になって、当時の家庭内のムードと自分自身とを切り離していく作業をしていかなければならなくなるかもしれない。

 いろんなパターンがあり得る。一つ一つを取り上げることは控えよう。要は「子供のために離婚しなかった」という片親の言い分は欺瞞になるということである。
 それなら離婚を推奨するのかと疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。ここまでの文脈で言えばそのように理解されても仕方がないことである。離婚は一つの道に過ぎない。破綻した夫婦のままでズルズル生きていくよりかは離婚した方がいいと思える場合もある。しかし、離婚するかどうかは当事者が最終的には決めるものである。僕はそれ以上は言えない。
 そうではなく、何が本当に「子供のため」であるかを考えなければならないということだ。夫婦であるか離婚しているかということはそれほど重要なことではない。母親が自分自身と自分の人生を放棄していることの方が問題である。子供に実害が及ばなくても、自分を諦めている母親に育てられる方が子供にとっては悲劇であるかもしれない。いや、むしろ僕はそう信じている。この子は母親から何を学んでしまうだろうか。そこを考えないと「子供のため」という言葉はすべて欺瞞になってしまうと僕は考えている。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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