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2021年6月 3日 木曜日

6月3日:臨床日誌~親子の会話

6月3日(木):臨床日誌~親子の会話

 僕の所には精神的に病んでいるような子供を持つ親が来談されることが多い。その場合、大半が母親であるが、父親もわずかにおられる。来談するのが母親か父親かでその子の抱える問題の種類も異なるように思う。
 ところで、このような場合、僕はその子供のために仕事をしない。クライアントは母親であり父親である。だから親たちのために仕事をする。子供は間接的に焦点が充てられるけれど、基本的には親のカウンセリングである。

 親たちが困惑するのは子供と関わる場面である。それが彼らの悩みとして一番多いのである。どのように接したらいいのかずいぶん迷うそうである。
 僕は親たちに困った場面を記録してもらうようお願いする。録音したかのように逐語的に記録してもらうようにお願いする。それを持ってきてくれたらカウンセリングの時間でそれを検討してみる。ちなみに、夫婦関係でも同じお願いをすることがある。
 親子の会話のやりとりを見て、僕が最初に注目するのは、子供の側の対象関係である。良い対象関係をどのくらい保持できる子なのかを見極めたいと思う。その保持ができる子とできない子とで考え方が変わってくるからである。
 良い対象関係の保持がどの程度できるか、それをどこで判断するかだけれど、それは親が「失敗」したときの子供の反応である。親たちは「失敗」してしまうのである。子供の望まないような反応を親たちはしてしまうことがあるわけだ。子供からすれば期待していたものが得られないということになる。一つでもそれがあるとプイとどこかへ行ってしまう子は良い対象関係の保持ができていないということになる。一つの何かで対象関係が破綻してしまっているからである。
 一方、親が「失敗」しても、親に付き合おうとする子供は、上記のような人と比べると、良い対象関係が保持されていると判断できるわけだ。今日、来られた母親の場合、子供はけっこうギリギリまで母親に付き合おうとしているようでもある。その点でこの子は対象関係の形成がそれなりに可能であることを伺わせる。

 次に述べることは、ちょっと失礼な表現をしてしまうかもしれないのだけれど、適切な言葉が見つからないので勘弁してほしいところである。親たちは「常識」的なことをされるのだ。ただ、子供はその「常識」から外れてしまうのだ。そこに気が付かない親たちもけっこうおられる。
 つまり、一般の人に対してはそれが正しいのである。しかし、その子に対してはそれは間違っている、ということがあるわけだ。
 ある父親は、子供に話す時は子供の目を見て話すようにしていると言う。一般常識的にはそれは正しいことである。しかし、僕の見立てでは、この子供は見つめられると脅威を感じるような子であった。
 子供が迷っているのであれこれと提案をする親もある。おそらく、通常ではそれは正しいことなのだろう。しかし、この子は親のペースで物事を決めなければならなくなっていたり、自分には無理だと思うことや反対したいことでも賛成してしまう(親が続けざまに出してくる提案に終止符を打ちたいためでもあろう)というような事も起きたりする。子供からすれば親に強制されている感じがしてしまうかもしれない。

 不思議なことに、子供に教えてもらうという観念が欠けている親たちもある。
 子供の中には遠回しに言ったり、仄めかすように言う人もある。その場合、どういうことなのか、何が言いたいのか子供に教えてもらう必要があるわけだ。どうも、その手順を飛ばしてしまうことがあるようだ。そのため、曖昧な部分は親の側が埋め合わせなければならなくなってしまうのだが、親に属する観念が子供に付与されて、それが子供に属しているものとみなされてしまうので、子との間に齟齬が生まれることになる。
 それと関連することで、子供に確認しない親もけっこうおられる。何か曖昧なことが述べられた時に、子供に教えてもらうこともできれば、「今言ったのはこういうことなの」と確認することもできる。「こんなふうに理解したんだけれど、それでいいのかな」とか、「つまり、こういうことが言いたいのかな」という確認作業である。
 ある父親は、その父親から「一回聞いてすべて理解しろ」式の教育を受けてきたこともあり、確認するということに思い至らないようだった。イエスかノーか、それ以外のことは言ってはいけないなどと、今でも信じているようだった。この人は奥さんとの関係で来られていた人だったけれど、奥さんとの間でも、子供との間でも、確認するということはないのである。逆に、なんでそんな確認なんかしないといけないのと疑問に思われたほどであった。
 そのような親もあれば、一部の親では、人とのかかわりを最小限にしたいという欲求があるような例もある。用件を聞いたらさっさとその対人の場から離れたいと思うのだろうか、確認するといった手間を省く。こういう人の中には、カウンセリングでもその傾向が持ち込まれるので、例えば僕が「今おっしゃったのはこういうことですか」などと確認してみると、「そう言ったでしょう」などと憤慨されたりする。確認してもらえると喜ぶ人も多いのだけれど、こういう人はそこが逆転してしまうようだ。
 子に教えてもらうとか、確認するとか、そういう手順をやたらと省いてしまうので、子供の言葉をそのまま聴くことができなくなり、自分の思い込みなんかが大量に入り込んでしまう結果になる。

 一部の母親、幾分強迫的な傾向をお持ちの母親の場合、子供に対して完全であろうとすることがある。子供のどんな発言をも疎かにしないのである。それはそれで望ましいこともあるけれど、子供からすればいちいちすべての言葉を拾い上げられるという経験になるかもしれない。子供は疲れてしまうことだろう。
 子供のことはなんでも理解できる完璧な親であるなどと自分自身を認識していると、子供のいうことで「分からない」が言えなくなる。確認もできなくなる。というのは、そういうことをする親は、子供のことを理解できていない、不完全な親だということになるからである。この親は自分が欠点を持つことは許されないとまで考えていることもあるようだ。

 僕個人は、コミュニケーションはだいたいにおいて良好であればそれで良いと考えている。全体がそれなりの良ければそれでいいのである。細かい点を見て行けば、「失敗」したり、拙い応対をしてしまったりした部分があったとしても、全体が良ければ相手もあまり気にしていないことがけっこうあるものだ。8割が良ければ、2割くらい失敗しても構わないのである。

 さて、いろんな親子があり、いろんなコミュニケーションがある。それを全部網羅することもできないので、この辺で終わろう。
 最後に、僕は親にコミュニケーションを指導しているのかというと、そうではない。むしろ逆である。親と子の間で疎通性が良くなるために変えた方が良いと思うところはある。しかし、それ以上に、親があまり不自然にならないことの方が重要だと僕は考えている。子供と上手く関わろうとして、けっこうその人にとって不自然なことをしてしまっていることがある。過度に身構えすぎていたりすることがある。あるいは、過度に「技術的」にやろうとなされる。そのように感じることも多い。目指すのは、親その人の自然体で子供と関われるようになることなのだ。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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