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2021年1月12日 火曜日

1月12日:回想録・第5回

1月12日(火):回想録・第5回

 前回は僕の水恐怖、並びに刃物恐怖について綴ったのだったな。いろんなものが怖かった時代の話をしているのだけれど、語りやすいものから取り上げている。今回は学校恐怖症について延べよう。学校恐怖症とはまた古い呼称であるが、要するに不登校と呼ばれているものだ。僕はこれをやらかした。小学校3年生の時だった。(1)
 僕にとっては学校なんて何もいいものではない。今でもそうだ。それはさておき、小学校3年生というと兄と一緒に登校していた時代だ。きっと兄の存在も大きかっただろうと今では思う。僕の不登校がいつから始まったのか正確には覚えていないし、それがどれくらい続いたものであるかもあまり覚えていない。基本的に、朝の登校を渋るという形が多かったように思う。(2)
 朝になると、玄関先で僕がごねるわけだ。近所の他の子供たちはみんな集合場所に集まっている。彼らが集団登校した後でも僕は渋る。いくつか覚えている場面がある。ある時は母が自転車に乗せて僕を学校まで送ったこともあった。保育園時代によくしたように、僕を自転車の後部に乗せて送ってくれたのだ。そういうことが何度かあったのを覚えている。(3)
 母に連れられて小学校の校門をくぐると、担任の先生が迎えに出てきたこともあった。確か男性の先生でM先生だったと記憶している。母親からM先生へと僕が引き渡される。M先生も、さあ教室へ行こうかといった態度で僕を受け取る。ある意味、M先生なりの受容的態度だったのだと思う。(4)
 一度、M先生が出迎えた時に、僕の足元を見て、靴紐がほどけてるぞと言って、M先生が僕の足元にかがんで靴紐を結んでくれたことがあった。M先生なりの親切であったかもしれないが、僕は「ひえ~」と思ったのを覚えている。ここは誰にも理解されなかった部分なんだけれど、人が近づいてくるのが僕にとっては苦痛だったのだ。不登校の子供は甘えが不足しているとかなんとか、そんな理屈を信じていると、不登校の子供にはもっと甘えの体験が必要だとか暖かい関りが必要だとか思う専門家どもがいるんだけれど、そうではない子供もいるのだ。それは大人の理論なのだ。僕の場合、放っておいて欲しかったのだ。誰も近づいてほいくなかったのだ。甘えも暖かい関りも脅威だ。(5)
 ある時、いつものように僕が登校を渋っていると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、母はバケツに水を汲み、それを僕の頭からかけた。水恐怖のある僕にとってはもっとも堪える仕打ちだ。玄関先で、頭から水を被り、泣いたのを覚えている。その後長い間、母はなんてひどいことをしたのだなどと思っていたけれど、今では母は正しいことをしたと思っている。義務を守るとはどういうことかを教えてくれたのだ。もちろん当時はそんなことまるで分かっていなかった。(6)
 後年、特にカウンセリングを勉強してからだけれど、ああいうものに興味を持つ人の中には子供時代に不登校経験を持っている人もけっこうある。僕が24歳のときだったろうか、何歳か年上の女性と知り合った。カウンセリングの講義の場でだ。彼女も不登校経験を持っていた。彼女の話では、彼女が学校にいきたくないと駄々をこねると、母親は彼女を学校に連れて行くようなことはせず、家に居させたという。子供だった彼女はと言うと、ずっと母にまとわりついていたという。母が家事をしている間もずっと母にまとわりついていたそうで、母親もそういう彼女を拒んだりはしなかったという。やがて、彼女の不登校は治まっていくのだが、それも当然のことだ。(7)
 あの頃、つまり僕が20代の前半から中頃の時期、僕は彼女が羨ましかった。僕の母も彼女の母のようなことをしてくれたらよかったのにと何度も思ったことだった。なぜ彼女の母親が僕の母親ではなかったんだろうなどと、本気で悔しがった時期もあった。でも、彼女の母親は正しいし、僕の母親も正しい。今ではそれが見えている。見えている分だけ成長したのだろうと自分では思っている。(8)
 子供が学校に行くのは義務だ。子どもが学校に行くからあらゆる労働や義務から子供は解放されているし、守られている。その代わり、その義務を遂行することが子供には求められているわけだ。それは個人的感情抜きで遂行されなければならないことであり、それを教えてくれたのが母だった。フランスだったと思うが、子供が学校に行きたがらないと警察が来て子供を学校に連れて行くというのを聞いた覚えがある。子供が学校に行かないのは法律違反に当たるからである。僕はその理屈がよく分かる。法律違反と言うよりも、義務違反なのだ。警察が介入するというのもいささか行き過ぎの感じがしないでもないけれど、その原理はよく分かる。母が教えてくれなかったら、それは子供の人権侵害だなどと今頃は言っていたかもしれない。(9)
 何はともあれ、僕の不登校は小学校3年生までだった。4年生になってから以後は不登校問題は影をひそめることとなった。これは不登校が「治った」という意味ではなくて、4年生になってから僕の関心が他へシフトしたからだ。4年生頃から死のことをやたらと考えるようになったのだけれど、そのことはまた別の機会に綴ろうと思う。(10)
 学校にはあまりいい思い出がない。確かに個々の場面を見れば楽しかったこともあった。ただ、その楽しかったこともその場限りのものでしかなく、今の僕にそれが残っているという感じはしない。思い出として残っているものは少ない。(11)
 さて、不登校に続いて、僕の「心身症」も述べておこう。これも小学2年生か3年生の頃に経験したものだ。全身に蕁麻疹が出たのだ。母たちは僕が口にしたものが原因だと信じているんだけれど、僕はあれは心身症だったと見なしている。(12)
 あの時、生まれて初めて入院というものを経験した。4人部屋で他のみんなも子供だった。小児病棟だったのだろう。入院初日、他のみんなはこの部屋の先輩たちばかりで、僕は非常に委縮していたのを覚えている。それに家から離れるという心細さもどこかにあったと思うし、あって欲しいと思っている。夕方頃になると見舞いに来ていた親たちが帰る。僕一人が病室に残される。ところが、どうもそれはあまり苦ではなかったような気がしている。なんか淡々とした記憶しかない。(13)
 その初日の夜のこと、消灯時間になる。僕は枕元の電気をつけたままにしていた。他の子たちは真っ暗な中で寝ているのに、僕の枕元だけぼんやりと明かりがついている。暗闇が怖かったのかと言うと、実はそうではない。ただ、電灯の消し方が分からなかっただけだ。どうやって消灯したらいいのか分からないからつけっぱなしにしていたというだけだ。ここには僕の一つのクセが見られる。分からないなら看護師さんでも呼んで教えてもらえばいいのに、なぜかそういうことを僕はしないのだ。分からないものは自力で分かるようにならなければならないなどという僕の強迫観念の一つだ。確か、たまたま蛍光灯の横の方から紐が出ていて、それを引っ張ったら消えたのだった。それは何となく覚えている。(14)
 人生で最初の入院だったけれど、入院中に何をしていただろうか。あまり覚えていない。他の子たちとの交流はあったし、意地悪されたりとかいうこともなかった。他の三人のうち一人は僕より先に退院したのを覚えている。何となくだけれど、お別れしたのを覚えている。それからまた次に新しい子が入院してきたのではなかったかな。(15)
 食事の時間になるとスタッフの人が配膳してくれる。食事の間、女性の看護師さんが付き添ってくれていた場面をなぜか覚えている。僕はと言うと、そっぽを向いて、テレビを見ながらご飯を食べている。見ているのはNHKの教育番組だった。その看護師さんは、「学校がなくても勉強しているのね」といったことを言ったのを覚えている。要するに「偉いね」という意味合いのことなんだけれど、僕の中では特別に変なことではなかったのに。他の子供たちはマンガとか見ていたのかな。自分で言うのもおかしな話だけれど、僕は異本的には勉強は好きなのだ。知らなかったことを知ったり、分からなかったことが分かったりというのはけっこうな快感である。ただ、学校とか、先生とか、集団の授業とか、あるいはクラスメートとか、そういうのが煩わしいだけなのだ。(15)
 そうだ、病室の子供たち4人で病室の外に出たことがあったな。あれはどこへ行ったんだったっけ。屋上だったかもしれないし、庭だったかもしれない。見舞いのない午前中だったのではないかと思う。太陽を浴びるのがなんか心地いいと感じたのを覚えている。(16)
 他の子たちは何の病気だったのだろう。知る由もない。僕は蕁麻疹だ。あとは五体満足に動けるので、寝たきりということではなかっただろうと思う。何をしていたんだろうね。ただ、一日に何回か治療に関することをしなければならなかった。それだけが拘束だった。点滴をよく打ってもらったのを覚えている。あれは生きた心地がしなかったのでよく覚えている。あれだけの液体が自分の中に入り込んでくるなんて、そう思うと心臓が止まりそうになるほど怖かった。そして、何回かに一回は注射針を見ただけで暴れまわったように思う。ホント、クソガキだったなと我ながら思う。(17)
 蕁麻疹というのは、身体の表面にいくつものブツブツができるわけだ。内から外に向けて噴き出してくるものだ。これは何かと言うと、僕の経験では、外に出したくても出せない小さなものが過剰に蓄積されているという状態の象徴的表現なのだ。僕はそのように考えている。だからあれは心身症だったと思う次第である。母の考えるようにある食材が原因であるとすれば、その後もその食材を口にしたら同じような反応を示す可能性があるのだが、後の人生でそれは起きなかった。あの食材は、今では僕の好物の一つになっているくらいである。また、他の反応を示しても良かったのである。食あたりであるとか、蕁麻疹以外の症状を出しても良かったのである。なぜ蕁麻疹でなければならないかと考えてみると、上述のような見解に行き着いてしまう。当時は言えないことがたくさんあり、いろんなものをウチに溜め込んでいたもので、いずれ述べるであろう僕の拒食もそれと関係があると思っている。(18)
 今だからこんなふうに綴ることができるのだ。当時は訳が分かっていなかった。自分に何が起きているのかなんて、想像もできないことだった。不登校も蕁麻疹も、僕にとっては謎の経験だったのだ。前回取り上げた水恐怖も刃物恐怖も、今後取り上げることになる拒食や寡黙も、自分でどうにかできるものではなかった。この経験は今の僕にとっても役に立っている。自分に何が起きているか分からない状態ほど恐ろしいものはないのだと思う。これは僕だけかもしれないと思い込んでいたけれど、そうでもないのだ。クライアントたちは、自分が治るか治らないかということに関係なく、自分に起きていることが見えてくるようになると、それだけでずいぶん落ち着かれるのだ。状況や状態が何も変わっていなくても、落ち着いていかれるのだ。しかし、そういう話はもっと後で展開することになりそうだ。今日はここまでにしておこう。(19)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
 



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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