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2021年1月 3日 日曜日

1月3日:回想録・第2回

1月3日(日):回想録・第2回

 今日も回想録を書く。僕自身の語り直しをやってみる。
 幼児期のことから始めたいと思ってはいるけれど、あまり記憶に残っていることは少ない。ぼんやりとしか思い出せなかったりする。僕が思い出せる限りでは、僕が保育園に行っていた時期が最古のものだと思う。(1)
 当時、家族がどんな状況だったかは不明だ。両親がいて、兄がいた。それと僕の記憶にないけれど祖母という人が同居していたそうだ。母は看護師をしていた。今もしている。その数年前から大阪はたいへんな好景気に湧いていた。大阪万博があったからである。そのために人材が必要だということで、多くの人が大阪へ来たそうだ。父もその一人だったかもしれない。実際、父は万博工事に携わった。僕が生まれたのは万博の後だったので、ちょうど父の仕事がなくなった時期と重なるのではないかと思う。そのためにも母は仕事をしなければならなくなったのだろう。家族がたいへんな時期に僕が生まれたのではないかという気がしている。(2)
 兄が生まれた時とは状況が違う。祖母が兄の面倒をよくみてくれていたようである。その祖母も僕が一歳の頃に逝去したということらしいので、家族のことがすべて母の肩にのしかかってしまったのではないかと僕は思う。祖母の死後、僕の面倒を見る人がいなくなる。母は育児休暇を取らざるを得なくなったのだろう。家計は厳しいのに仕事ができなくなるとは、母にとっても葛藤があったのではないかと僕は想像している。これを助けたのが母の雇い主である医師だ。医師の影響力はすごいと思うのだけれど、この医師による助力のおかげで僕の保育園入園が実現したらしい。こうして母は仕事を継続し、家計を助けることができたわけだ。その代わり、僕は毎日保育園通いということになってしまった次第である。(3)
 当時、母がどんな顔をしていたのか覚えていない。大体、こんな一日だった。朝、多分8時くらいだろうか、母は僕を自転車の荷台部分に乗せる。母は自転車を漕いで保育園に向かう。保育園で僕を預け、母は職場に向かう。母は仕事をして、多分買い物なんかも済ませてからだろう、16時くらいに僕を迎えに来る。再び僕を自転車の後部に乗せ、帰宅の途に就く。(4)
 途中、駄菓子屋さんに立ち寄るのが日課だったらしい。この駄菓子屋さんは僕が小学生になっても行っていたので覚えてはいるんだけれど、保育園の帰途に寄ったという記憶がない。おじいさんが一人でやっている店だった。実際は60歳前後だったかもしれないんだけれど、おじいさんという印象が残っている。店の半分が駄菓子屋で、半分が雑貨屋といったお店だった。帰り道に寄り道するクセはこの頃に身につけたのかとも思う。寄り道は母と過ごす貴重な時間だったのだろう。(5)
 家に到着すると、母は夕食の準備をする。僕は離れの部屋で一人遊んでいる。ちなみに一人遊びのクセもこの時期に身についたのかもしれない。それはともかくとして、台所に立って母が夕食を作っている。どいうわけか母の後ろ姿しか記憶にない。保育園の往復も、台所に立つ母も、当時の母と言えばその後ろ姿の印象がとても強く残っている。(6)
 今でもその名残りがある。女性の後ろ姿にみとれてしまうのだ。大半の男性は女性の顔を見るだろうし、容貌を重視する男性も多かろうと思う。僕は後ろ姿が良ければそれだけでいいと思ってしまう。それと関係あるのかどうか、女性を迎えに行くよりも、見送る方が好きだ。前者は疎かにするけれど、後者はけっこう譲らなかったりすることもある。もっとも、見送ることには別の理由もあるんだけれど、いつかその話もしたいと思う。(7)
 女性のクライアントさんはあまり見ないようにしている。でも、時々、チラッと後ろ姿を見てしまうこともある。それと、これは女性も男性も関係ないんだけれど、クライアントを出迎える時よりも見送る時に丁寧でありたいと思っている。後ろ姿の母の経験と何かつながりがあるのかもしれない。(8)
 僕にはアルバイトばかりしていた時期がある。バイトしていたお店で、自他ともに認めるブサイクな女子がいた。しかし、彼女が向こうを向いて作業している時、僕はその後ろ姿を見て、こいつにもいい所あるじゃないかと思ってしまったのを覚えている。いや、顔はともかくとして、彼女はいい子だった。明るくて楽しい子だった。彼女のこともいつか書こう。(9)
 保育園時代を振り返ると、あの時代に形成されたものがいくつもあることに思い至る。今の僕のクセのルーツを辿っていくとあの時代に行き着くようだ。女性の後ろ姿フェチもそうだし、真っすぐ帰らずに寄り道するクセもそうだ。一人遊びのクセもそうだな。ギャンブル嫌いの原点もあの時代にあると思う。(10)
 これは昔このブログでも書いたことだ。友達のD君の家に遊びに行ったんだ。同じような家が二軒並んでいて、一方がD君の家だった。僕は場所は知っていたけれど、どっちがD君の家だか知らない。表札がかかっていても漢字なんて読めない。僕は一か八かで一方のドアを開けてD君の名前を呼ぶ。すると、中から「D君ちはとなりやで~」というおばさんの声が轟く。僕は恥ずかしくなって走って逃げた。50%の確率のギャンブルで外したわけだ。それからだろうか、僕は自分が賭け事で勝つような人間ではないと思うようになった。宝くじであれ抽選であれその他なんでも、僕は自分がそういうのに当選するような人間ではないと今でも固く信じている。(11)
 一人遊びと言えば、保育園でもまあまあ一人だったような気がする。たしかにお遊戯の時間とかもあって、そういう時は友達と一緒に遊んだりしたこともあるし、お弁当の時間では4人一組で食べた場面を覚えている。午後になると、友達が一人また一人と帰っていく。お母さんが迎えに来てくれるのだ。僕の母は割と遅い方だった。保育園に最後の方まで残っている子供の一人だったような記憶がある。だから午後になるほど、遅い時間になるほど、遊び相手がいなくなるわけだ。それでだろうか、一人で鳥小屋を眺めて過ごしていたのを覚えている。(12)
 あの鳥小屋のことはよく覚えている。けっこう大きな鳥小屋で、その中で何羽もの鳥たちが飛び回っている。その光景を独りぽつねんと眺めて母が迎えに来るのを待っていた。毎日そうしていたかどうかは不明だけれど、鳥小屋の前でよく佇んでいたのは覚えている。小学校に入ってから、一度、あの保育園を訪れたことがある。あの鳥小屋もまだ健在だった。僕が大きくなったからだろう、鳥小屋が小さく感じられた。昔見ていた時はもっと大きな鳥小屋のように見えていた。あの前に独りで立ちんぼしていたんだなあとその時は思った。(13)
 この保育園時代の思い出としてMさんのこともあったな。Mさんというのは近所に住む同じ年の女の子だ。彼女とは小学校と中学校も同じだったけれど、だんだん疎遠になっていった子だ。この頃はよく一緒に遊んだものだった。彼女に謝らなければならないことが二つある。そのうちの一つがこの時代に発生したのだった。(14)
 どういう経緯だったか忘れてしまったけれど、僕とMさんはいつものように二人で三輪車を乗り回していたんだ。町内から出てはいけないという親たちの忠告を無視して、その日、僕たちは冒険に出た。町内を出て国道まで飛び出したのだった。途中、Mさんは不安そうだった。引き返そうと嘆願していたように思う。それを僕が「大丈夫、大丈夫」などと言って、どこまでも遠くに行こうとしたのだ。当然、親からは後でこっぴどく叱られたよ。それが僕の人生最初の悪事だ。(15)
 なぜそんなことをしたのか今となっては分からない。鳥小屋の鳥たちと同じような気持ちになっていたのかもしれない。今、彼女はどうしているだろうか。いつだったか、Mさんは臨床心理士を目指しているということを風の噂で耳にしたことがある。彼女だったらいいカウンセラーになるだろう。他人を付き合わせる人間よりも、他人に付き合わされる人間の方がカウンセラーとしては優秀だろうと僕は思う。彼女が第一線で活躍していて、幸せになっていることを願う。(16)
 まったく余談だけれど、映画『小さな恋のメロディ』のラストシーンは上述の遠乗りの思い出を僕に蘇らせた。映画を観たのは僕が高校生の頃だったと思う。もっとも、僕たちのは映画のようにきれいなものではなかったけれど。遠乗りしてタブーを破りたいなら一人でやればよかったのに、なぜかMさんも道連れにしてしまったのだ。今思うと、あの強引さは「境界例」的である。(17)
 その後、遠乗りは独りでやるようになった。自転車であちこち散策するという趣味が中学生頃まであった。大人になってからは歩いての散策になるんだけれど、動機は同じものだと思っている。その原体験も保育園時代にあったようだ。(18)
 保育園時代の思い出は他にもあることはあるが、どれも断片的なものばかりだ。お弁当の時間のことやお昼寝の時間の場面も覚えているものがある。ただ、その前後のことは分からない。変な疑問が僕にはあって、保育園で僕はトイレに行ったかなと疑問に思っている。でも、何となくなんだけれどトイレの情景を覚えている。建物のあの辺りにトイレがあったはずだということまで覚えてはいるのに、トイレで用を足したかといったことはまるで覚えていない。(19)
 なんでこんな疑問を言うのかというと、幼児はトイレにすごい関心を持ち、トイレを楽しむといったことをベテルハイムが言っていて、はてさて、本当にそうなのかな、僕の場合もそうだったのかなと疑問に思い始めたのがそのきっかけだった。結局、現実にどうだったのかなんてもう分からない。トイレの情景を覚えているということは、少なくともトイレには行っていたのだろう。人並みの興味関心はあったのだろう。そういうことにしておこう。(20)
 ちなみに、「そういうことにしておこう」というのはとても重要な心的作業だと僕は思っている。いくら追求したところでもはや分からないものは分からないのだ。もちろん、僕が当時の保母さんたちを探し出して、僕がトイレに行っていたかと問うこともできるだろ。でも、そんな労力を使う気にもならないし、当時の保母さんたちがそんなことを覚えているかなんてことも定かではないんだ。分からないものは分からないままにしておくということも心的成熟には必須のことではないかと思う。(21)
 それと不思議なくらい家族との思い出がない。保育園時代も家族と一緒に生活していたのだから、家族の中でいろんなことがあっただろうとは思うのに、思い出せるのは家庭の外のことばかりである。思い出せないだけで、きっと楽しい出来事もあったはずだと思う。そうでなければもっと精神病的な人間になっていたはずである。今でも大概病的なところを多分に持ってはいるんだけれど、それよりももっと病的な人間になっていただろうと思う。今の僕から判断する限りでは、親は親としての務めをきちんと果たしてくれていたのだろうと思う。(22)
 不幸ではなかったかもしれないけれど、さりとて幸福でもなかったのかもしれない。もちろん保育園時代の話である。僕の厭世主義の原点もその頃にあるはずなんだけれど、どうもそれに該当するような特別な出来事は思い出せない。でも、次のエピソードは僕の中では大いに腑に落ちるものがある。僕はまったく記憶にないし、後年、母から聞かされた話だ。(23)
 それは僕が養子に出されるという話である。親戚筋に子供のいない夫婦がいて、僕はそこに引き取られそうになったのだ。Oさんちの子になれという話を聞いて、僕は大泣きに泣いて抵抗したそうだ。イヤだ、イヤだと思い切り駄々をこねまくったそうである。親たちはさすがに悪いことをした気になったのか、養子の話は消滅した。これもまた兄と僕との差を表わす経験だった。兄にはそのような体験がない。(24)
 自分は捨てられる人間だという思いは今でもある。他の人たちは助かっても自分だけは助からないという強迫観念はその名残りだと思う。若いころには見捨てられ感にものすごく敏感だったけれど、今はどうでもよくなった。見捨てられ不安は、自分が見捨てられる人間ではないと信じている人、あるいはそのように信じようとしている人に顕著に現われるものだと僕は思っている。自分が見捨てられる人間であると信じていれば、それは予期していたことが起きたに過ぎず、そこに何らの不安も喚起されなくなるものだ。見捨てるのはその人の自由である。そして見捨てられる自分はそれだけの価値しかない人間だということであるので、自分がそれだけの価値しかない人間になってしまったのは僕の責任である。親や周囲の責任ではないのだ。AC者も境界例も、僕から見れば甘っちょろいのだ。(25)
 孤独も今ではあまり感じなくなっている。今後どうなるかは今のところ分からないけれど、現時点では20代の頃よりも孤独感や孤立感は体験しなくなっている。寂しいとかもあまり感じない。多くの人との関係の中に生きていることが実感できているからでもあるし、過去に出会った人たちの思い出もたくさんあるからだ。物理的に一人であっても、心仲は賑やかだ。(26)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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