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2020年5月13日 水曜日

5月13日:コロナ・ジェノサイド(41)~a la carte

5月13日(水):コロナ・ジェノサイド(41)~a la carte

(主体の喪失)
 僕はコロナに感染したら、重症化するだろうと思っているし、そうなると確実に死を迎えることになると覚悟している。
 人間いつかは死ぬ運命にあるんだけれど、コロナによる死は僕の望む死ではない。僕の死は、そこに僕の生きた証と結びついてほしいと願っている。死者何百人という数字に組み入れられたくないのだ。
 だから僕は感染しないように注意する。僕の意思でもってそれをする。ただ、注意するにしても、僕は感染症の専門家ではないので、そこは専門家の意見に従う。専門外だからこそ自己流のことはできるだけしないようにしている。
 僕は僕の意思で自粛も行う。そこに僕は僕の主体を経験している。主体が経験されない場合、つまり自己喪失を起こしている場合、外的な要求に対してそれと正反対のことをするか(外的な要求にそれだけ受動的に反応しているわけである)、過剰に適応するかになると思う。
 この過剰適応の一つは他人の自粛を監視する人たちに現れると僕は思う。他人が外出自粛を守っているか監視し、告発する人たちだ。パチンコ店に人が並んでいる。僕ならただそこから離れるだけだ。彼らがパチンコをするのを制止する権利は僕には無いし、営業してしまうパチンコ屋さんに対しても僕はモノを言う資格を有さない。僕にはそれが分かっているので、僕の意思でもって、僕は口を閉ざす。
 誹謗中傷の類も同じである。誹謗中傷される側の問題ではなく、する側の問題であることの方が多い。確かに両者に問題があることを認めることはできても、誹謗中傷する側の問題の方が重篤であると僕は感じている。自分の中に悪感情を抱えることができていないからである。そして、自分の意志でそうするのではなく、その悪感情に支配されてしまっているのだ。この人はこの人自身で行動しているのではないのだと僕は考えている。

(称賛の矛先)
 誹謗中傷がある中で称賛される人たちもある。医療従事者、介護従事者、その他ライフラインに関係する仕事に従事している人たちを讃える動きもある。
 医療従事者は過酷な現場で仕事をしている。僕もそれは認める。そういう人たちに感謝し、労をねぎらうことに関しては僕は何も反対しない。
 しかし、本当に苦しい思いをして努力しているのは患者である。重症から回復した人たちをこそ讃えなければならない。彼らはそれこそ死ぬ思いをしたのであるからだ。生死の境目から生還した患者こそ本当に尊敬に値するのだ。僕はそう思う。患者の努力に比べれば、臨床家の努力なんてたかが知れている。
 俗に言う「名医」なんてものは、僕の考えでは、存在しないのである。名医と称される医者にはいい患者が付くのである。いい医者の元にはいい患者が集まるものだと僕は信じている。従って、名医は存在せず、仮に存在してもそれ以前に名患者が存在しているのである。
 病気と闘うのは医者ではないのだ。戦うのは患者である。回復した患者はその戦いに勝った勝者である。どうして医者を讃えるのか僕には理解不能である。
 医者や臨床家は人の命とかかわるということで理想化されているが、それも正しくないと僕は考えている。人は自分の命としかかかわることができないのだ。人は皆自分の命とかかわる仕事をしているのであって、それをするのは医師ではないのだ。

(裏目)
 さて、いい加減ウンザリし始めているのだけれど、政策にも目を転じよう。
 政府の対応が後手後手になっているという指摘はよくなされている。しかし、やることがすべて裏目に出てしまうということはあまり指摘されないように感じている。
 まず、消費税の増税があった。コロナ以前のこととは言え、この増税も今では裏目に出ている。
 飲食店を禁煙にするという方針も同じである。消費が冷え込んでいる矢先に追い打ちをかけるものである。駅前の喫煙場が封鎖されたのもそうである。コロナ感染のためということであるらしい(注1)が、もともと換気のいい場所に設置されているものであり、本当に感染の危険性があるのか僕は疑問である。それどころか、喫煙場所が封鎖され、尚且つ飲食店やパチンコ店でもそうなったので、喫煙者は喫煙場所を求めて広範囲の移動をしなければならなくなった。
 医療現場で病床数が少ないとも報道されているのだけれど、これだっておかしな話だ。それ以前に病床数を減らしてきたからそうなったのではないだろうか。
 アビガンが承認されないのも、簡易検査キットが普及しないのも、認可システムが裏目に出た結果ではないだろうか。
 マイナンバーカードもそうである。一律給付をオンラインで申請しようとすればカードがいる。そのカードの申請で人が押しかけているそうだ。役所の手続きを簡略化するためのマイナンバーカードなのに、それが裏目に出て、却って役所の仕事を増やしている始末である。
 アベノマスクも然りである。もはやマスクなんて要らなくなっているのだ。ある程度、普通に買うことができるようになっているのだ。ある程度製造され、流通されるようになっているのだ。この状態であらたにマスクが、それも使い物にならんような品物が届くなんて、却って迷惑である。これもまた裏目に出た政策である(注2)。
 列挙していけばキリがないので、これくらいにしておこう。要は、なんでやることなすことが裏目に出てしまうのかである。僕はそこはとても重要な視点だと思っている。
 こういうことは個人レベルでも起きる。良かれと思ってやったことが裏目に出て、却って当人に不利益をもたらしてしまうのである。例えば、仲良くなろうと思って人に接したら却って相手の敵意を引き出してしまったりとか、体を鍛えようとトレーニングを始めたら怪我をしてしまったりとか、手を洗う(罪を清める)ことが却って罪悪感を高める結果になってしまったりとか、いろいろなケースがある。
 心の病にはそういう一面がある。問題を解決しようとする試みが問題を維持させてしまったりするわけである。自分を良くするための営為が自分を悪くしてしまうのである。言い換えれば、やることが裏目に出てしまうということである。
 なぜ裏目に出るのかであるが、人はこういう場合、方法が間違っていたとか、考え方が正しくなかったとか、そういう結論に飛びつく。確かにそういう部分もないとは言えないのだけれど、それは表面的というか二次的な原因である。
 むしろ、その人は失敗に動機づけられているのだ。この動機は無意識的であることの方が多い。意識的には成功を目指すのだけれど、そのための行為が失敗に動機づけられているために、失敗に成功することになるわけだ。
 しかしながら失敗に動機づけられているとはどういうことなのかという疑問も生まれると思う。そこで、失敗に動機づけられているとは、その人の攻撃性とか破壊性が適切に処理されず心の中に蓄積されており、加えて適切に抑圧・抑制されず表面に浮かんできやすい状態があるということである。破壊性は、建設性に奉仕することなく、むしろ建設性を利用するのである。その建設的な試みの背後にあって、建設性を支配する破壊性が渦巻いているのである。
 もし、政府の政策に破壊性が背後で渦巻いているとすれば、いつでもこの破壊性は表面化できるのである。従って、苦しんでいる人を見捨てることは、この破壊性にとっては親和的な行為なのである。
 よく政府に「下々の気持ちを分かれ」とか「人の苦しみを理解しろ」と訴える人もあるが、無駄な訴えである。破壊性の虜になってるような人と関係したことがない人たちが訴えているのだと僕は思っている。 

(注1)受動喫煙防止のために街から灰皿や喫煙場所が姿を消していったのは、本来、東京オリンピックのためであったはずである。外国からたくさんの人が来るから街中やお店での喫煙を止めましょうという運動であったはずである。オリンピックなんて延期になったのだし、それに来年開催dけいるかどうかも不明であり、中止の可能性もあるのだから、受動喫煙防止運動なんかやめてしまえばいいのにというのが僕の本音である。

(注2)アベノマスクの本来の目的は、マスク不足を解消することでもなく、マスクが手に入らない人にマスクを配布することでもなかった。それは国民を黙らせるための術策であったことを忘れてはいけない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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