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2019年6月 6日 木曜日

動画広告完成記念コラム(29)

動画広告完成記念コラム(29)

(結語として)

 経験を積んでいくと、カウンセリングを受けて改善していく人たち(ここでは「治る人」と表記している)と改善しなかった人たち(「治らない人」と表記している)とがいることに気づいていく。
 そして、両者には違いがあるようだということも見えてくる。「治らない人」は「治る人」がやっていることを見る機会がない。それならその機会を提供してみようではないかと僕は思い立った。

 実は、このテーマは僕の書籍のテーマだった。このテーマで本を書くつもりだった。一応、その本は、今後、文章の修正などの作業をまだまだ重ねていかなければならないけど、内容に関しては9割がた完成していた。ただ、結論となる部分が弱く、そこがどうしても今の僕には書けないと感じている。
 結局、「治る」「治らない」を論じることは、人生そのものを論じることに等しくなるのである。「治療の成果・結果」だけを切り離して論じることは不十分であり、かつ不可能であるってことに僕は行き着いたわけだ。
 そういう壁にぶつかって、僕はこのテーマを捨てたのだった。

 この動画、ならびにコラムは、多くの部分が、その未完の書籍に基づいている。本で展開した内容をここでも取り上げているわけだ。
 最初に述べたように、「治る人」も「治らない人」も、どちらも概念化することができないし、一般化して述べることは不可能だと僕は思う。もし、「治る人」とはこういう人であると僕が概念化すると、必ず、自分をその枠に押し込めようとする人たちが出てくる。それは「治らない人」がやることなのだ。従って、僕がそれをすることで、却って、僕の意に反する作用が生じてしまう懸念があるわけだ。だから、一切の概念化をしないことにしている。
 結論なんて出せない。ただ、こういう場面では一方はこういう方向に進む傾向があるが、他方はむしろこちらに進む傾向があるといった程度にしか言えないのである。この方向に進むと誰でも「治る」とか、そんなことは言えないのである。
 いくつか僕が大事だと思うことを述べておこう。これらは後に詳述する予定でいる。

「治す」よりも「生きる」の方が良い。
 これは大事なことだ。生に対して開かれている方がいい。「治らない人」はより生を閉ざすように思う。「治す」ことに懸命になって、「生きる」方を疎かにしたりする傾向があるように僕は思うわけだ。

「病」や「治療」が生の一部である方が良い。
 本来、病気の経験、治療の経験、悩みなどは、その人の人生の一部であり、生活の一部分である。「治らない人」は「病」を人生のすべてにしてしまったり、「治療」を生活のすべてにしてしまったりする傾向があるように思う。生が閉ざされているのでそうなってしまうのだろうと思う。

「治療」に速やかに入れる方が良い。
 これは誤解を招く恐れがあるのだけれど、「治らない人」は、治療を開始しても、治療に入れなかったりする。あるいは、治療は開始しても、まったく関係のないことをやったりする。「治療」への抵抗ということになるのだろうけれど、「治らない人」との「治療」は、とかく、無駄な作業が多くなるのだ。

自己形成の観点を有している方がよい
 極端な言い方をすれば、人が「病」に罹る時、その人の何かが間違っていたのだ。自己や習慣、生の様式の形成に誤りを含んでいるのだ。だから、新たに形成し直していかなければならないのである。こういう自己形成の観点を有している方がいい。自分はそのままで、自分から何かを差し引いたり、何かを付け加えたり、そんなことをやらかす人も少なくないのである。

不安や恐れ、痛みは自然なことであり、多少は耐えられる方がよい。
 それが「治療」であれ他の何かであれ、何かを始める時には、必ず不安を抱くものである。恐れ、尻込みしてしまうこともあるものである。時に、それを痛みをもたらすような経験を生み出す。単純な例で言えば、スポーツを始めればどこか身体を痛める可能性が生まれるわけだ。実際にそれを経験してしまうわけだ。それらは自然なことであり、人間の行為に必然的につきまとう現象なのであり、まったく耐えられないよりも、少しでも耐えられる方が望ましいわけだ。

 他にもいろいろ挙げられるのだけれど、一旦、これくらいにしておこう。

 しかしながら、その逆のことであれば、多少は可能であろうと僕は考えている。つまり、「正しい道」を示すことはできないけど、「間違った道」を示すことは、多少ではあるけれど、可能であると僕は考えているわけだ。
 そして、専門家というものはそうでなければならないと僕は考えている。「治り方」にしろ、進む道にしろ、それは無数にあるものである。一つが正しいということなんて決してあり得ないと僕は思う。「こうするといい」とか「これが正しい道だ」とか、そういうことは決して言えないのである。もっとも、その専門家の信仰告白ということであれば、言っても構わないことである。私は人はこれこれこういうふうになるのが理想だと考えているといった信仰告白なら問題はない。ただ、それを他者にあまり押し付けるわけにもいかないのである。
 それよりも、むしろ、「間違った道」「悪い方向」の方こそ熟知していなければならないと、僕は思う。依頼者を牽引する専門家よりも、依頼者が悪い方向に進みそうになるのを止める専門家の方が、専門家として正しい在り方なのではないかと、僕はそんなふうに思うのである。
 従って、人がどうやって「治る人」になるかよりも、どうして人が「治らない人」になってしまうのかを理解している方が、専門家として正しいように僕には思えるわけだ。

 さて、以後のコラムでは、「治る人・治らない人」に関して、もう少し述べておくことにしたいと思う。
 次のコラムでは、「治らない人」の存在はいつの時代にもあり、且つ、その人たちが臨床の世界をリードし、発展させてきたという話をしたいと思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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