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2019年6月 4日 火曜日

動画広告完成記念コラム(28)

動画広告完成記念コラム(28)

(問27)「愚痴、世間話は意味がない」

 まあ、この問題文通りのことをクライアントが言うわけではないのだけど、こういう意味合いのことをおっしゃる方は少なくない。「なんか世間話だけやった」とか、「あかん、愚痴ってまいそうだ」などと言ったりするわけだ。それは愚痴とか世間話に意味がないということを間接的に表現されているのだと思う。
 僕の基本的な考えの一つに次のものがある。およそ人間の活動で無意味なものなんてない。何か活動すれば、どんな些細な行為であれ言葉であれ、その人にとって何らかの意味を有しているものである。まったく無意味な行為というものを考えることは難しい。

 さて、僕はクライアントともっと世間話もしてみたいと思っている。以前はそんなふうには考えていなかったのだけど、今ではそういう気持ちがある。考え方の変わる契機となったクライアントがいる。
 そのクライアントは、面接時間中は普通に話をする人だった。自分の経験なんかを話されるのである。ある時、面接終了後、少しだけ時間を取って無駄話を僕がやらかしたのである。以後、その人の面接終了後に世間話をする時間を持つことが習慣になったのだ。お喋りの時間を毎回持つようになったわけである。そこで意外なことを知ったり、面接時間中には見えていなかったものが見えたりしたこともある。
 最終回の時、僕はこの人に僕のカウンセリングで何が良かったですかと尋ねてみた。彼女の返答は、「最後のお喋りが一番よかった」とのことだった。う~む、面接でお金をいただいているのに、そこよりも最後のお喋りの方が良かったと言われたら、まあ、カウンセラーとしての面目も丸つぶれで、トホホな気分に最初はなったのである。
 しかし、これも考えてみれば当然かもしれない。最後のお喋りの時間だけ、彼女は自分自身でいられたからである。面接中は、おそらく僕のことも意識していただろうし、双方の役割意識もあっただろう。それらから解放されるのが、最後のお喋りの時間だけだったということをおっしゃっているのだと思う。
 彼女にとって、その時間が自分が自由になる時間だったので、意味があったのだと僕は思うようになった。

 愚痴っていうのも同じだと思う。本当は愚痴ってもいいのである。
 愚痴るのを、何か良くないことだと信じている人も多いようだ。つまり、愚痴を言っても何にもならないとか、解決にならないとか、そんなことを信じているわけだ。もちろん、それは正しい部分を含んでいる。でも、愚痴は解決に直結しないけど、間接的に解決につながる場合もあるし、愚痴から次の段階へ移行することもある。要するに、最初から意味がないと決定されているところに問題があるわけである。
 もしよろしければ安っぽい呑み屋へ行ってごらんなさい。酔っぱらって、愚痴っている人を何人もみかけるでしょうから。彼らはなんであんなに愚痴れるのか。僕の考えでは、愚痴っている時、その人は心理的にあらゆるしがらみから解放されているのであり、それが快感で止められないのだ。自分自身になるのにお酒に力を借りなければならない人たちなのである。

 いや、ホント、僕はそう思う。クライアントが世間話とか愚痴を言っている時こそ、生身のその人と僕は出会えるのである。そういう時ほど、身にまとっている鎧を少しだけ解いてくれるのである。皆が皆そうというわけではないかもしれないけど、そういう人も確かにおられるのである。
 問題はその後である。世間話や愚痴の後でその人がどういう反応をするかである。世間話や愚痴を言っている時っていうのは、ホンネをチョロッと出すことに抵抗感がなくなっていて、社会的なしがらみというか拘束からも幾分自由になっていて、構えが多少とも緩んで自然体でいることができたりする。自分のそういう状態を経験して、その人がどうなるかということである。
 上記の女性クライアントは、それをいいもの、好ましい時間として経験されていたわけである。自分自身であることが好ましいという経験をしたわけである。
 しかしながら、自分自身になることで自己嫌悪に陥ったりする人もある。生身の自分を垣間見せて罪悪感に襲われてしまう人もある。こういう人たちがここでは問題になるわけだ。
 従って、「世間話・愚痴を言っても意味がない」という思考は、飛躍を含んでいるように僕は思うのだ。世間話をする、愚痴を言う。それによって自分がある状態になってしまう。その状態がよろしくないので、だから世間話や愚痴は意味がないという、こういうプロセスがあるように僕は思うのである。このプロセスの一部、飛躍して省略されている一部分にこそ問題があるわけだ。

 ある人は言う。カウンセリングは問題を話し合う場だから、世間話とか愚痴をやってしまうと勿体ないと。
 何となく筋が通っているように響くのだけど、この人は日常生活場面でも世間話や愚痴のできない人であることも多いように僕は感じる。ある合理化をしているように僕は思うのだ。
 本当は自分の本音を出すことが怖いとか、ありのままの自分を見せてしまってはいけないとか、自然体の自分は嫌われるとか、いろんな思いがそこにはありそうである。しかし、そこには触れずに、「意味がない」の一言で処理されているように思う。
 自分自身であることをどこかで拒否してしまうので、この人たちは「治らない人」に属してしまうのである。僕はそう考えている。

 でも、この質問をボツにしたのは、世間話や愚痴にも意味があるからと言って、そればかりをやらかす人が出てきそうに危惧したからである。
 世間話や愚痴もアルコールと同じで(だからお酒と世間話・愚痴は相性がいいと僕は妄想的解釈をしている)、適量なら薬になるんだけど、度を超すと害をもたらす。そういう両刃の剣のようなところがあるように思う。
 適度な世間話や愚痴は人を自然体にするけれど、あまり度を超すと、世間話や愚痴が今度は自分を隠蔽するための行為になってしまう。僕はそう思う。度を越した世間話は自分自身には触れていないだろうし、度を越した愚痴はもはや相手をあげつらうだけになるだろう。自分自身を表現しなくなっていると思う。

 では、世間話とか愚痴の「適量」ってどれくらいなのかという疑問も湧いてこようかと思う。その「適量」ってのは、要するに、僕がウンザリしない範囲ってことだ。聞いていて、僕がウンザリしたり、イライラを感じたりすると、その世間話や愚痴は「適量」を超えているのである。
 基準は僕である。いや、そう言ってしまうと「なんて自己チューな奴だ」と思われそうなので、もっと正確に言うと、基準は他者にあるということである。世間話とか愚痴の途中から(最初からではないという点に要注意である)他者がウンザリしたり、イライラしたりしているということは、世間話・愚痴をやっている人の何か「悪い」ものが表面化しているということなのだ。だから、それがあまり表に出てくる前に、「それくらいにしておきましょう」と僕は制することにしている。それをそのまま続けていくと、その人はますます「悪い」自分を現実化させてしまいそうだからである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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