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2019年6月 3日 月曜日

動画広告完成記念コラム(27)

動画広告完成記念コラム(27)

 (問26)「なんにもなりませんでした(何も得ませんでした)」

 初回面接終了後、面接の感想なんかを僕は訊く。本当は毎回の面接の後でこの作業をした方がいいのだろうけど、初回は必ずこれを尋ねるようにしている。
 大抵のクライアントは、そこで何か「良かった」と思えるものを挙げる。不満を述べるけれども、有益だったことも述べるのである。
 次によくあるのが「分からない」という答えである。こういう返答をする人があるので、僕はこの問題をボツにしたのだが、これはある程度正直な感想であるとも僕は思う。その辺りのことは後に述べよう。
 最後に、「何もなりませんでした」とか「何も得るところはありませんでした」と答える人たちがいる。この人たちが本項では問題になる。もちろん、この答えはそれなりにこの人の正直な感想であると僕は受け取っている。しかし、何かを経験して、何も得ないということが人間にあるだろうかと僕は疑問に思う。
 どんな些細な行為であっても、人間が何かをすれば、必ずそこで得るところのものがあるはずであると、僕は信じている。まったく無益の活動というものを想像することの方が難しいように僕には思えるのだ。
 従って、僕の見解で言えば、「何もならない」「何も得ない」ということは、何かを見ていない、ないしは見えないということなのだと思う。もちろん、得たものが極小なために見えないということもあるだろうし、得たものを後から気づくという可能性だってある。
 しかし、一部の人たちは、積極的、意図的にそこを見ない。そういう人たちがおられるように僕には感じられる。何かを得たけど、それに気づかないというだけではなく、積極的に否認されているといったケースである。
 もしかすると、それはお前のカウンセリングが役立たなかったことの言い訳だとか、言い逃れだとか、そんなふうに思われる人もおられるかと思うので、僕はここで一言付け加えておくのだけど、その人たちは他の場面でもそれをするのである。僕のカウンセリングだけでなく、人生上のあらゆる経験から有益なものを見いだすことがないのである。あらゆる経験、出来事は意味がなくなるのである。一切から価値が喪失しているニヒリズムなのである。

 さて、話はさらに細分化していくことになるのだけど、カウンセリングを受けて「何もなりませんでした」と答えるクライアントに対して、僕は二通りのことをする。
 まず、「何もなりませんでしたか。どうもお役に経てなかったようで、申し訳ない」などということを言う時がある。僕がこれを言うのは、実は、このクライアントとはもう会いたくないなと思っている時である。
 次に、「本当ですか、もう少し考えてみて、振り返ってみて、何か得たものはありませんでしたか」と僕が粘る時がある。僕がこれを言うのは、実は、このクライアントとまた会いたいと思っている時である。
 もしかすると、それはお前のカウンセリングの価値をクライアントに強制しているだけだ、押し付けているだけだとか思う人もあるかもしれないので、僕はここで一言付け加えておくのだけれど、これが「治療」なのである。
 あることの価値や意味は、最初からそれに付随しているのでもなく、また、対象から与えられるものでもないのだ。それらは主体的に発見されていくものである。もしくは生み出され、創造されていくものである。ある行為(ここではカウンセリング)の価値は、クライアントによって発見されていくものなのである。
 さて、僕がそうして粘ると、そういえばここが良かったとか、ここで何か得たような気がしたとか、わずかでも思い出してくれる人もある。しかし、僕が粘っても、それでも何もならなかったと答える人もある。そこでもう少し粘りたい気持ちが僕には生まれるのだけれど、それ以上は粘らない。僕がまた会いたいと思った人でも、何もならなかったと言って去る人もあるし、それは僕がどうこうできる事柄ではないのだから、僕はただ諦めるだけである。

 以上を踏まえて要点を述べておこう。
 まず、カウンセリングが有益でなかったか否かは、正直言って、どうでもいいのである。クライアントはカウンセリングの経験をした。その経験とどう向き合うのかということが重要なのである。その向き合う姿勢がここでは問われているわけである。
 その経験と向き合い、その経験から有益な何か、(いい意味でも悪い意味でも)意味や価値のある何かを見いだすかどうかなのである。
 そして、この姿勢は、その人の他の場面における姿勢と共通のものなのである。カウンセリングの経験に向き合うその姿勢と、その他の経験に向き合う姿勢とは、同じなのである。もしくは同じものになるのである。
 なぜ同じものになるのかというと、理由はさまざまにあるのだけれど、一つだけ挙げておこう。経験する主体が脆いからである。経験する主体が弱いので、相対的に、経験は向き合うことが困難なほど巨大になるか、大きすぎて手に負えないものになるか、自我を圧倒するものになるかしてしまうのである。そのために、そこから何かを見いだすことができないのである。経験する主体が脆いので、経験に関わることができなくなるのである。つまり、向き合ったりすることができなくなってしまうのである。それはカウンセリングの経験だけに止まらないのである。カウンセリングの場面においてだけ、その人の自我が弱化するとはあまり考えられないことであり、むしろ、他の場面において起こることと同じことがカウンセリングの場においても起きる可能性の方が高いと思う。僕はそんなふうに考えている。

 次は少し視点を変えてみよう。
 カウンセリングが役に立たなかったと言う時、その人は自分が求めているものが得られなかったという経験を話していることもあるだろう。望んでいるものが得られなかったのは残念なことではあると思うのだけど、クライアントが望んでいるものが、本当にその人にとって望ましいものであるかどうかは何とも言えないのである。
 時にクライアントは即席の解答や方法を求める。僕はそんなもの知らない。また、時に明らかに不可能なことを一回のカウンセリングで実現させようとする。クライアントがそれを実現するのではなく、カウンセラーに実現させるのである。そんなこと僕にはできない。
 以前、一人の女性クライアントが来た。不安で押し潰されそうだと訴える。彼女の話をよくよく聞いてみると、彼女は明日大事な試験を控えていて、それが不安の種であることが分かってきた。そんな状況では不安を覚えるのは自然なことであると僕は思う。自然な不安があまりにも強すぎると体験されているのか、もしくは、自然な不安が異常なことだと認識されているのか、どちらとも僕には言えない。そして、この不安を何とかしてくれと僕の所に来ているわけだ。
 結果、何にもならなかったのである。彼女の求めているのは、明日、不安や緊張に襲われないための得策を伝授してもらうことにあったのだ。当然、僕はそんな得策は知らないし、仮に知っていたとしても、試験前夜になってそんなものを彼女に伝授したりはしないだろうと思う。
 このカウンセリングが彼女にとって何の役にも立たなかったのは当然である。彼女の不安は今始まったものではないのである。その不安は、彼女が生まれてから今日に至るまでの過程において蓄積されてきたもの、乃至は学習されてきたものである。それを今すぐ何とかしてくれと頼んでいるようなものである。カウンセラーなんか訪れるよりも、いっそのこと、神社なんかで合格祈願している方がましである。
 そのような例もあるので、カウンセリングが役に立たないのは、カウンセラーのせいばかりとは言えないのである。
 僕はと言うと、僕のカウンセリングが役に立とうと立つまいと、規定の料金だけはしっかり徴収する。この女性からもしっかり料金は支払ってもらった。彼女が不服に思おうと、それは関係がないのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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