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2019年6月 2日 日曜日

動画広告完成記念コラム(26)

動画広告完成記念コラム(26)

(問25)「自分(他人)は〇〇病なんです」

 インターネットで気軽に検索できることと、心理学の悪しき流行のために、一般の人が精神医学的、臨床心理学的な知識に触れる機会が増えているように僕は思う。いろんな病名や障害名が人口に膾炙するようになった観がある。
 知識を持つことは望ましいことなのだけど、その知識の用い方にもっと注意を払う必要があると僕は思うのだ。知識をどのように活用するかは、その人のパーソナリティによるものである。
 従って、言葉はキツくなるかもしれないけど、未熟なパーソナリティの持ち主は未熟な形の知識活用をしてしまうものである。低級な人は低級な活用をしてしまうものである。知識を活用する以前にパーソナリティ、人格を向上することの方が大事である。僕も人のことは言えないのだけれど、少なくともその自覚はしている。

 僕が個人的に感じていることは、一昔前に比べて、自分や他者を病名・障害名で表現する人が増えたということである。僕が最近経験した例を挙げると、母は自己愛性人格障害だと述べた男性がある。自分自身を発達障害だと言った男性もある。夫はアスペルガーだと言った女性もある。人からコミュ障だと言われたという男性もある。僕はそれを聞く。そして疑問に思う。「一体、何が言いたいのですか」と。
 上述の例はすべて正規の診断を受けていないものである。発達障害の男性だけ、診断を受け、後に認定されたのだけれど、僕は個人的にそれは正しい診断ではないのではないかと思ってる。彼の立場を守るために障害の診断が下された部分も無きにしも非ずと感じるのである。
 いずれにしても、それは個人が自他にレッテル張りをすることなのである。問題はこのレッテル張り行為がどういうことであるか、それによって何がもたらされてしまうのかということである。

 このレッテル張りは、まず、完全に主観に基づくものである。診断項目に当てはまるから、自分(相手)がその病気に罹っていると判断するわけである。理に適っているように見えるかもしれないけど、恐ろしく危険な行為である。
 仮に、あなたが自己愛例の診断項目を見ているとする。そこに「過度に称賛を求める」といったことが書いてある。この時、あなたはある人のことを思い浮かべる。そして、他の診断項目を読んでいくと、ますますその診断がその人に当てはまるように感じられる。そうしてあなたは「あの人は自己愛例だ」と結論するのである。おそらく、そういうことが起きているのだと思う。
 このプロセスにはいくつかの問題点がある。まず、人から診断項目の流れではなく、診断項目から人への流れがある。最初に診断項目があり、そこからある人のことを想定し始めているのである。開始点が真逆なのである。
 次に、診断項目とその人の言動とを、あなたがどのように結合させたのかである。診断項目の内容と相手の言動とに、あなたは類似点を見いだし、結合させているわけであるが、この結合が適切であるかどうかをあなたは何でチェックするだろうか。
 最後に、あなたはその診断項目を正確に理解しているかという問題がある。「過度に称賛を求める」が本当はどういう現象を表わしているのかを、あなたは知っているだろうか。それはどのような称賛なのか、過度とはどれくらいの程度なのか、あなたの中で明確になっているだろうか。
 もう一つ付け加えておくと、その人はあなたの前でのみ、あるいは特定の人に対してのみ、過度に称賛を求めている可能性もあるのだけど、そこは視野に入っているだろうか。その人は他の人に対しては全然称賛を求めていないかもしれないのである。
 今の話は、時にこういうことが起きるので証明されるのである。あなたはあの人を自己愛例だと見立てている。診断項目にかなり当てはまると見えている。そして、共通の友人にあなたは話したとしよう。あの人は自己愛例だわ、だって、こんなに診断項目に当てはまるものと。友人は、その診断項目を見て、確かにあの人に当てはまるわねと言うかもしれないし、そうお、全然あの人に当てはまるようには見えないわと言うかもしれない。後者のような場合、その人は自分の自己愛傾向をあなたには見せているけど、その友人には見せていないということも考えられるわけだ。そうなると、その人が自己愛例だという判断は保留しなければならなくなる。
 もし、僕があなたにこんなことを言ったとしたらどうだろう。診断は医師の特権であり、あなたの行為は医師の領域を侵害している。こんなふうに他者の領域に侵犯できるということは、あなたは自他の区別がついていないのだ。同じく、あなたは相手から頼まれたわけでもなく、誰かから依頼されたわけでもなく、ましてやそれをする資格を有さないのに、一方的に他者を診断した。このこともまたあなたが自他の区別が未分化であることを表わしている。あなたは自我境界が脆弱なのだ。そして、個人に病名を付すということは、一個人を病気あるいは一事例に貶める行為であるから、つまり、あなたは相手に病名を付すことで相手への価値下げをやっているのである。従って、あなたは境界性人格障害の診断基準を満たしていると。あなたは境界例であると。僕がこう診断したらあなたはどうするだろう。きっと、あなたは憤慨するでしょうね。でも、それは相手も同じなのだ。

 さて、話の本筋に入ろう。自他に病名を付す行為がどうして「治らない人」の言動に属するのかということである。いくつか理由があるのだけれど、僕が重要だと思う一つだけをここでは取り上げることにする。
 それは相手への関り、関心などを妨げるからである。相手から心的に退却するための行為であるからである。つまり、対象からリビドーを撤退する行為となるということである。そして、しばしば、レッテルを貼られるのは、その人にとって重要な他者であったりするのである。
 もし、母は人格障害ですと言えば、もはやその人は母に関して述べることがなくなるのである。母親との間で経験したことのすべてが、そのレッテル貼り行為によって、切り捨てられてしまうのである。言い換えれば、母親にレッテルを貼ることで、母親との間で起きたことのすべてを処理しているのである。それで片が付いたと信じるわけである。
 自分にレッテル張りすることも、それによって自分自身との関りを失うことになる。自分はこれこれの病気だとレッテル張りすることで、自分の経験した一つ一つの場面が触れられることもなく、処理されてしまうのである。
 それが自分であれ他者であれ、レッテルを貼られた対象は疎外されていくのである。それはもはや私が関わる対象とはならないのである。自分から切り離された存在になっていくのである。しかし、自分から切り離したものは、いつか、当人に仕返ししてくるものである。しばしばそれが本当の精神病に発展することもある。そこまでいかなくとも、レッテルを貼ることで見ないようにすればするほど、レッテルを貼られた対象の存在が心の中で大きな位置を占めるようになる場合もある。
 レッテル貼り行為は、対象との関りを断つために役立つのだ。ただ、それは正しやり方でない場合が多く、いつか当人を苦しめることになりかねないのである。僕はそのように感じている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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