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2019年5月31日 金曜日

動画広告完成記念コラム(25)

動画広告完成記念コラム(25)

(問24)「〇〇のせいで悪くなった」

 この「〇〇」の部分には誰が入ってもいい。親が入ることが多いが、パワハラ上司なんかがこの部分に入ることもある。「悪くなった」の部分にも、さまざまなものが入る。従って、誰それのせいで自分が悪くなった、病気になった、狂わされた、成功しなかったといった類の発言をすべて含んでいるものと考えていただきたい。

 僕はこれは「治らない人」の発言だと信じている。「治る人」はもはやこれを言わなくなる。これをボツにしたのは、少し厳しいかもしれないと思うからである。誰それのせいでこうなったと言いたくなる気持ちも人間は経験するだろうからである。。
 ただ、そう言いたくなる気持ちになることと、その理屈を頑なに信じているというのとは、少しばかり話が異なる。後者のような人がここでは問題になる。

 例えば、「親のせいで自分はこうなった」と信じている人がいるとしよう。この思考はかなり異常である。
 と言うのは、自分が悪くなったのも、あるいは良くなることも、すべて親にかかっているということである。親は自分を狂人にすることもできれば、聖人にすることもできるということである。自分が成功者になることも失敗者になることも、すべて親次第なのである。
 つまり、この人は自分の親にそれだけの能力を自ら付与しているのである。自分のすべてを決定する特権を親に与えているのである。そして、親に対しては、この人は非力であり、何らの権利も持たず、非存在なのである。
 人の一生の間で、親にこれだけの全能と特権を付与するのは、幼児期だけである。幼児期の子供からすると、親はこのようにあらゆる能力と権利を有する存在として経験されるだろうと思う。
 従って、この思考を持つ人は、幼児期に退行しているか、(これはあり得ないけど)幼児期のままなのである。

 心の問題の原因を特定の誰かに帰属させるような理論に僕は反対である。大抵、これは親であり、母親ということになるのだけれど、そういう理論は子供を無力化させると僕は思う。子供にとって、自分に関するすべてのことが、母親によって決定されているということになるのであるから、子供は自分自身に対していかなる権利も力も持つことができなくなってしまう。
 僕は20代の頃にこういう理論を信奉していた。今ではそれを後悔している。しっかり自己を形成すべき若い時期に、自分に関する力や権利をすべて親に譲り渡していたことをひどく後悔している。人生というものは、無情なほど公正なもので、無為に過ごしたり、生に反したりすると、必ず後にそのしっぺ返しをしてくるものである。40代後半の今でも、僕は20代のものを取り戻せずにいる。その時期に身に着けておくべきことだったことを身につけられないまま生きている。
 もし、僕が「病気」であるなら、それはすべて僕のせいなのである。仮に、交通事故に遭って僕が怪我をしたとしても、僕はそれを自動車の運転手のせいにはできないのである。クライアントの中には、あるいはAC者の中には、今の例で喩えるなら、あのドライバーのせいで自分が怪我をしたと言っている人たちがいるわけだ。さらに、自分の怪我はそっちのけにして、危険運転するドライバーこそ「治療」すべきだと頑張っていたりする。愚かしいことである。その時、彼はその危険ドライバーに隷属しているのである。
 もし、僕がその怪我をドライバーのせいにしたとすれば、僕は僕の人生の何かをそのドライバーに譲り渡しているのである。僕はそれが許せない。自分の生を左右する権利をそのドライバーに明け渡すことは、僕の自尊心が許さないのだ。それを明け渡した瞬間、それこそ僕は負け犬に等しくなる。僕はそうなるのが絶対にイヤなのだ。

「〇〇のせいでこうなった」と言う時、その「〇〇」の部分に「病気」や「障害」が入ることもある。人は皆それぞれ何らかの「病気」や「障害」を持つものであるが、中には程度の重い「障害」を抱えている人もある。それは気の毒なことだとは思うけど、その人が「この障害のせいで自分はダメになった」とでも言おうものなら、僕は即座に反抗するだろう。
 理由は同じである。自分の人生やパーソナリティを左右させるほどの完全な力と特権とをその「障害」に付与しているからである。自分自身はその「障害」に隷属しているのである。自分自身はもはや存在していないに等しいのである。もし、僕が彼の見解を受け入れるとすれば、僕はこの人が自己を非力化するのを積極的に援助していることになってしまう。僕はそんなこをするつもりはない。

 多分、AC(アダルトチルドレン)者には僕のことが厳しい人間に見えるだろうと思う。僕は彼らの意見に賛成しないからである。僕がAC者の非力化に協力するくらいなら、たとえAC者から嫌われようとも、その協力を拒むほうがましである。つまり、AC者に「そんな考えは捨てちまえ」と言う方がましである。
 AC者というのは、不思議な人たちである。自分や自分の人生に関するあらゆる権利や力を親にすべて与えてしまっているのである。それでいて、そういう親を神のように崇めるでもなく、「毒親」と罵っていたりするのである。親に全権を明け渡しているのに、自分ではそのことに気づかないようである。
 彼の人生におけるあらゆる決定権が親に与えられている。彼は自分の生をこうして投げ出していく。自分の人生に対して、その主役の座を親に明け渡すようなものだ。そして、人生に対するこの不義理に対して、人生は容赦なく仕返ししてくるのだ。気づいた時には、多くの物が手遅れになっているかもしれない。それでも、それを親のせいにするわけにはいかないのだ。それをすると、さらなる隷属関係を築き、さらなる生からの復讐を招くことになるのだ。彼は、彼の人生でありながら、その人生の中心に坐することがなくなり、自分自身を非力化していくことになるのだ。彼は日々刻刻と人生を棒に振り、人生から豊かな経験を得る機会を損ない、自己を貧困化させていき、やがて人生からの報復を受けることになるのだ。
 僕は人がそのような生を送ることになるのに耐えられない。人がそういう風になっていくことを見るのが耐えられない。そういう思いがある。だから厳しいことであっても、僕は発言していかなければならないのだ。

 それでも彼ら、一部のクライアントたちは言うだろう。誰が何と言っても自分のこの問題は100%親に責任がある、と。いいでしょう。それを認めることも僕はしてもいい。しかしである。その問題から抜け出ること、親のその影響下から抜け出ることは、100%その人の責任なのである。彼を悪くしたのが親の責任であるとしても、彼が良くなっていくのは彼の責任なのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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