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2019年5月27日 月曜日

動画広告完成記念コラム(23)

動画広告完成記念コラム(23)

(問22)「様子を見ます」

 クライアントはこれを言うことがある。様子を見るのは自分自身のこともあれば、子供とか家族の誰かのこともある。僕はこれを「治らない人」の言葉に入れているのだけれど、誤解を招く部分もあるのでボツにした。時には様子を見るということも必要である。
 しかしながら、クライアントがこの言葉を発する時、「様子を見る」ということのうち3つの要素が欠けていることがある。様子を見る内容と目的、それに期間である。それぞれについて述べていこう。

 「様子を見る」と言う時、相手の何の様子を見るのか、どの部分の様子を見るのかなどと特定化されているものである。
 例えば、医師が患者に処置をして「様子を見る」という場合、見るのはこの処置の経緯である。この処置がどのように患者に作用するか、その経過観察をするということである。様子を見る内容が限定され、特定化されているものである。
 クライアントがこれを言う時には、そういう限定や特定化がはっきりなされておらず、漠然とし過ぎていることがあるわけだ。「子供の様子を見てました」と親は言うけど、子供の何の様子を見ていたのかと問うと、明確には答えられなかったりするのだ。

 また、様子を見るということの目的があるものである。これは内容と関連するところでもある。
 様子を見て、そこから次の手段を選択するとか、別の手段を講じることを考えるとか、何かがあるわけである。次のことを決定するために様子を見るのである。
 言い換えると、様子を見るという過程は、全体の計画の一部に組み込まれているのである。様子を見た後の何かがさらに決定されていくものである。何のために様子を見るのか、その目的がある程度明確化されているものである。
 クライアントがこれを言う時には、そういう次の段階のものがはっきりしていないのである。漠然とし過ぎているのである。
 もし、「様子を見て、その後はどうするつもりでしたか」などと僕が尋ねると、そういうクライアントは困惑するのである。

 最後に、様子を見る期間というものが通常は設定されるものである。これは時間で設定されることもあれば、状態で設定されることもある。この処置をして、3か月後にどうなっているか様子を見ましょうとか、あるいは、この処置をしてこういう状態になったら次の段階に移るので、それまで様子を見ましょうとかいったことが言われるわけである。いずれにしても、そこには何らかの形で様子を見る期間が設定されているのである。
 クライアントがこれを言う時、この期間設定が不明確であることも多い。「いつまで様子を見ようと思われたのでしょうか」などと僕が尋ねると、やはり困惑されるのだ。

 以上を踏まえると、「様子を見る」という行為は、恐らく一般に思われている以上に、計画的であり、目的志向的であり、積極的な行為なのだと僕は思う。また、それは全体の過程の一部分であり、時に必要な一部分でもあるとも僕は思う。

 さて、問題となるのは、「様子を見る」ということが「何もしない」に等しくなっているようなケースだ。「何もしない」を「様子を見ていた」と言い換えているようなケースである。
 しかし、「何もしない」を意識できているならまだましである。「様子を見た」ということで、本当は「何もしなかった」のに、何かをしてきたかのような錯覚に陥っているようなケースが問題である。「10年間、子供の様子を見てきました」といったようなケースが問題である。
 子供の様子を見てきたという親の場合、それは子供に対して本当は無力に陥っているということではないだろうか。お手上げ状態になっていたのではないだろうか。様子を見ると自分に言い聞かせることで、自分の無力に蓋をしてきたのではないだろうか。
 もし、そうだとすれば、様子を見ようと思い至った時にこそ、第三者に援助を求めてよかったのである。本当はその時期にカウンセラーを訪れるなり、その他の専門家の門戸を叩くなりしてよかったのである。

 さて、自分自身の「様子を見る」というクライアントもいる。
 例えばこういう例がある。初回面接後、継続するかどうかの話し合いになった時に、「しばらく様子を見ます」なんてその人は言うわけだ。そこで、僕は「何の様子を見るのですか」などと尋ねる。彼は「自分自身の様子を見る」という返答をされる。「はあ、そうですか。それは結構なんですが、自分自身の何の様子を見るんですか」と僕は返す。彼は困惑する。「何をって、僕自身をです」などと答える。そこで僕は「ご自身の何の様子をご覧になられるのでしょうか」と同じ質問を繰り返す。彼はかなり苛立って帰って行った。
 別に僕はこの人に意地悪をしているのではない。この人がしばらく様子を見るというのであれば、そうすればよろしい。ただ、自分の何を見ていくのか、何の様子を見るつもりでいるのか、そこは明確化ないしは意識化しておく方がよろしかろうと思って、お節介ながら、ああいう質問を繰り返したわけだ。
 そもそも、様子を見る主体と様子を見られる客体とが全く同一であるという状態は、本来、あり得ないものである。目が目自身を見ることができないのと同じである。
 従って、自分の様子を見る場合には、対象を限定しなければならない。主体から客体を取り出さなければならない。自分のこの部分を経過観察するというふうにしなければならないわけだ。
 では、この人は「自分自身の様子を見ます」と言うことで何をしようとしたのか。要するに、カウンセリングを拒絶するための口実である。ところが、彼がこの口実を実現しようとすれば、カウンセリングのような作業、カウンセラーのような存在が必要になるのだから、矛盾したものである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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