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2019年5月26日 日曜日

動画広告完成記念コラム(22)

動画広告完成記念コラム(22)

(問21)「みんなやってることなのに、なぜ私だけ」

 これは問題文が的確ではないので、少し説明を要する。これは、ある人のある行為が問題とみなされていたりする例であるが、当人にはその行為は他の人たちもやっていることだという反論を主張するわけだ。他の人たちもやっていることなのに、どうして自分だけ問題視されるのかということである。ここでは、その行為が実際に問題になっているということであり、それを問題であるとみなしている評価者の評価がある程度正しいという場合に限ることにする。
 僕はこれを「治らない人」の言葉だと見ている。でも、これをボツにしたのは、先述のように的確な問題文ができなかったこともあるが、こういう言葉は無知から来ていることの方が多そうだと思うからである。
 この問題文に関して、僕の見解を綴ろうと思うのだけど、記述の簡略化のために、便宜上、「健常者」と「病者」、あるいは、「健常的」と「病的」という区分をしようと思う。現実には明確に二分することなんてできないのだけれど、記述の便宜上、こういう分け方をさせてもらう。

 さて、この問題文の発言は正しいものである。そこをまず押さえておきたい。その行為は他の人も普通にやっていることなのである。それ自体は何も「病的」ではないのである。
 しかしながら、一般の人があまり知らない点がある。それは、「病的」行為と「健常的」行為との差は、その行為の開始時ではなく、その行為の終了時にもっともよく現れるということである。行為の動機や内容に関しては、両者はあまり差異がないと僕は考えている。いくつかの例を挙げよう。

 僕たちは寝ている間に夢を見る。覚醒中でも夢想に耽ったりすることがある。「健常」の場合では、それらから速やかに覚めるのである。「病的」な場合では、それは持続して、半夢・半覚醒のような状態を経てから覚めたりする。
 「病者」も「健常者」も同じように人間関係を形成する。他者と会う。両者の違いはその別れ際に明確になることがある。「健常」の場合では普通に別れることができるのに、「病者」の場合では一悶着が起きたりする。
 もう少し身近な例では、手洗いがある。手を洗う動機や目的は同じである。ただ、「健常」の場合では手洗い行為は速やかに終了する。「病的」な場合では、それは延々と持続し、全ての予定を反故にし、手が荒れるところで終了する。確認行為などでも同様である。
 摂食障害のような場合、拒食症などのことであるが、こういう人たちも同じように食事をする。動機は「健常者」と同じである。ハラが減るわけだ。独りでこっそり食事するとか、攻撃的な食べ方をするとかあるかもしれないが、それは「健常者」でもあり得ることである。僕も食事は独りでするのが好きだ。時には貪るように食ってしまうこともある。ドカ食いしてしまうわけだ。それでも、終わりがある。満腹になり、満たされた気分でゴロ寝して、至福のひと時を経験する。でも、「病的」な場合では、その食事は嘔吐で終わったりするわけだ。
 僕は外出時にパチンコ屋のトイレを借りることがある。そこでパチンコを打っている人たちを見る。まあ、皆さん、ものすごい形相でパチンコを打っておられる。楽しそうな人は皆無である。その姿だけでは、どの人が「健常」範囲のパチンコ遊興者でどの人が「病的」な依存症者であるかは見分けられない。でも、彼らがパチンコを終えて、パチンコ台から離れる際にその違いが現れる。「健常」の場合では、軍資金がなくなったら速やかに台を離れるかもしれない。「病的」な場合では、台にモノを置いてキープし、借金して打ち続け、それでも負けが続けば、台を叩いて立ち上がり、道端の看板なんかを蹴飛ばして八つ当たりし、いちゃもんをつけたと言ってその辺の兄ちゃんと喧嘩して警察沙汰になり、ブタ箱で終わる(ここまでパチンコ行為が継続しているわけである)ということもあるだろう。まるで後々大きな問題を巻き起こして、最初の問題を小さなものにしたいかのようである。
 僕は酒を飲む。アル中もまた酒を飲む。酒を飲む動機や楽しみ方には違いはない。僕の場合、ある程度飲んだら、「もう飲めねえ」となって終わる。もしくは、電車の時間があるから終わる。毎回いい酒を飲むとは限らないけど、「今日は楽しかった」という思いで終わることも多い。余裕があってもハシゴしないことも多い。アル中の飲酒というのはエンドレスなのである。そして、喧嘩やブタ箱行きで飲酒行為が終わったりするのである。
 昔、アル中の女性と飲み友達だったことがある。一緒に酒を飲むはいいのだけれど、「ほどほどにね」などと僕が言おうものなら、彼女はむきになって「私はアル中ちゃう」とやり返してくる。みんなも同じようにお酒を飲んでいるのに、なんで私だけそんなん言われなアカンの、という気持ちだったかもしれない。彼女が言うところでは、「だって、私は楽しんでお酒を飲んでいるし、味わって、美味しいと分かって飲んでいるからだ」ということらしい。そのようにして自分がアル中ではない根拠を彼女は言うわけだ。そうじゃないんだって。毎回、前後不覚になるまで飲んで、あちこちで出入り禁止の店を作って、路上や公園のベンチで朝を迎えたりする、その飲酒行為の結末が問題なのだ。彼女はその結末を「たまたまそうなっただけだ」なんて言うのだけれど、本当は「たまたま」のレベルではなかったのである。
 おそらく買い物依存のような人もショッピングを「健常者」と同じように楽しんでいるかもしれない。しかし、「健常」の場合では、買い物を楽しみ、満たされるのに対して、「病的」な場合では、何一つ満たされないままショッピング行為が終わったりするのだろう。
 ある男性は妻の浪費癖に困っていた。彼の話を伺う限りでは、確かにこの妻は贅沢好きで、幾分、お金使いが荒いようだった。でも、妻は自分が浪費家だとは思っていない。普通の主婦がやっていることだと彼女は言う。それに、ちゃんと計算して、考えてお金を使っていると言う。彼女の浪費で象徴的なエピソードがある。ある時、腰痛に効くという健康器具が彼の家に届いた。彼女が買ったのだ。彼の家族に腰痛持ちがいるのかと僕が尋ねると、彼の答えは、「一人もいない」というものだった。これが彼女の買い物の結末である。誰も本当に必要としていないものを買ってしまうわけだ。
 行為の開始から結末までもう少し長いスパンがかかるようなこともある。「躁病」期にある人は、ものすごくエネルギッシュで、あらゆることに着手する。ものすごくバイタリティに満ち溢れているように見える。「健常」な場合では、エネルギーはある程度のところで維持され、持続するだろうし、着手したことのうちのいくつかはモノにしているだろう。「病的」な場合では、すべて御破算になってしまうのである。数か月後にこの結末を迎えたりするのだ。

 いくらでも例は挙げられるのだけれど、これくらいにしておこう。
 「健常者」も「病者」も、行為そのものに違いがあるわけではない。その行為の終結に差異が生じるものである。しばしば「病者」の行為は延々と持続し、悪い結果で終わるのである。
 加えて、人は自分のある行為がどこに行き着き、どのように終わったかということをあまり自覚していないものである。ある行為をしたという記憶はあっても、それがどのように終わったかということになるとアイマイになったりすることもよくあることである。むしろ、その行為がどのようにして始まったかということの方が明確に記憶されていたりする。
 従って、大部分の人は自分の行為が「病的」であるか「健常的」であるかを知っていないものだと僕は思うのである。本当は知らないのに、「みんながやっていることを自分もやっているだけだから、自分は『病気』じゃない」って言っているだけなのかもしれない。そうすると、本当に大事な部分がいつまでも見えないままということになってしまうかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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