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2019年5月21日 火曜日

動画広告完成記念コラム(19)

動画広告完成記念コラム(19)

(問18)「人間は変わらないんです」

 まずはこの問題文を額面通りに受け取ってみよう。人間は変わらない、と。これが本当かどうかということを考えてみたい。
 もし、あなたが街中でギャーギャー喚いている人を見るとする。「狂ってる、近寄らんとこ」とあなたは思うかもしれないし、「可哀そうに、病気だわ」などと思うかもしれない。いずれにしても、この時、あなたはすでに「人間が変わる」ということを認めているのだ。
 あなた自身やあなたの周りにこういう人はいないでしょうか。ダイエットをしている人とか、アンチエイジングや美容に精を出している人とかです。あるいは、筋トレとか脳トレを懸命にやっている人とか、サプリとか滋養強壮剤を欠かさず服用している人とか、そういう人はおられないだろうか。あるいは教養とか技能を身に着けようとカルチャースクールに通い始めた人とか、趣味で習い事を始めたという人はいないだろうか。
 なぜ、(あなたを含めて)その人たちはそういう行動をするのでしょう。僕が思うに、その人たちは自分に変化が起きていることが分かっているからだ。人間が変わるということを、彼らは自ら証明しているのだ。
 今列挙したことは、確かに悪い意味での変化(老化とか衰えなど)ということになるかもしれないけど、それでも人間が変わるということの証拠である。従って、人間は変わらないのではないのだ。人間は変わるのであり、人はそのことを知っているのだけれど、それを知っているということを知らないのである。人間が変わるということを、当たり前のように見ており、日常的に経験しているのであるが、明白すぎて見えないのである。
 もし、人間が変わらないのであれば、回復するということもあり得ないのである。壊れたら壊れたままなのである。そうであれば、かすり傷一つさえ人間は治癒できないことになる。でも、それが事実ではないことを僕たちは熟知しているのである。

 問題文のようなことを言う人は、「三つ子の魂百まで」という諺を出すこともある。この諺の意味を本当に知っているのだろうか。これは人間が変化しないのではなくて、人間が変化することを言っているのである。人間は変わるのである、これを前提にしている諺なのである。人間は変わるけれど、それでも変わらない部分もある、その変わらない部分を指してこの諺が言われるのである。
 少し余談になるが、(問2)で少し触れたように、心的時間経験は客観的時間とは異なるのだ。因果も逆になると僕は思う。過去が現在を決定しているのではなく、現在が過去を決定しているのである。過去が原因で現在があるのではなく、現在が原因で過去が生まれているのである。

 この諺にしろ、さらには精神分析などにしろ、幼児期の重要性が指摘される。それはある意味では事実だと僕は思うのだけれど、これを宿命論に結び付けると厄介なことになると僕は思っている。
 今、人間を一つの建築物に喩えよう。幼児期というのは、地中の基礎の部分である。その基礎の上にどんな建造物を建てるかは後の人生の話なのである。頑丈な基礎の上に貧弱な建物しか建てられなかった人もあるだろうし、基礎は貧弱だけど、壁や柱を補強して立派な建築物を建てたという人もあるだろう。基礎はそのままで、何度もリフォームを繰り返して完成させたという人もあるだろう。
 基礎は重要だけれど、基礎だけですべてが決まるわけではないのである。

 さて、人間は変わるのである。変わるということを知っているのである。それを知っているということを知らないか、もしくは、それを知っているということを認めないかなんだと思う。
 僕は今日この日を迎えている。昨日の僕と今日の僕は同じであり、変化していないと思っている。しかし、昨日の自分とは別人になってしまう人もある。この人たちは「病気」と診断されてしまうのだけど、この人たちが間違っていて、僕が正しいという証拠はあるだろうか。僕は昨日の僕と同じ僕を今日も経験している。しかし、昨日の僕と今日の僕とが同一であり、変化してないという確証や証拠を僕は持っていないのである。ただ、昨日の僕と今日の僕とは同じであるという感覚を持っているだけであり、もしくは、同じであると根拠もなく信じているだけなのかもしれないのである。
 しかし、上述の考えは一つの点で誤っているのである。それは変化の有無ということと同一性の有無ということの混同である。この点は少し重要である。僕たちは子供時代から大人になるまで、さらに高齢になるまで、同じ自分という同一性の感覚を有している。同一性の感覚を持っているということと、人間は変わらないということをごちゃまぜにしてしまう人もあるようだ。人は同一性を保ちつつ変化していくのである。

 さて、そろそろ本題に入ろう。なぜこの問題文を言う人が「治らない人」であるのか、僕の考えを示して締めくくろう。
 まず、この考えは「自己制限的」なのである。自己制限性に基づいてなされる発言である。自己制限的であるより、自己拡張的である人の方がよく「治る」のである。
 自己制限的というのは、「自分には無理だ」とか「できない」とかって思い込んでしまうことである。自分自身に限界設定を安易にしてしまう人たちである。本項の文脈に即して言えば、「変わらない」と言って何もしようとしなくなる人たちである。
 変わらないという観念は、時間性の喪失とも関連している。この人にあっては、時間は停滞したままなのである。どこにも動けなくなっているのである。
 もう一つ、「人間は変わらない」とクライアントが言う時、それは「私は変わらない」の意味であることもよくあるのだ。自分の変化を諦めている人や、変化を拒否したい気持ちが潜んでいたりするものであるが、突き詰めて言うと、「治る」ことの拒絶なのである。
 また、上述のように変化と同一性を混同してしまうと、「自分が変わる」は「別人になる」を意味することになる。この場合、変化とは、自分が自分でなくなり、別人になることを言っているわけだ。当然、これは不可能なことである。従って、こういう人にとって、「人間は変わらない」と嘆くということは、自分がそのまま続くことに耐えられず、別人になれないことを嘆いているようなものである。
 これは、要するに、変身願望と言えば聞こえはいいのだけれど、根底には自己破壊を含むものである。この自己破壊は、自己否定とか自己否認とは少し違うと僕は思っている。自己否定や自己否認は同一性の感覚を有しているからである。否定・否認する自己と否定・否認される自己との同一性が維持されているのである。自己破壊とは、その同一性そのものをなきものにしたいのである。
 でも、現実には別人になることはできないのだから、その人は自分を非存在の存在にしなければならなくなるのである。私は存在するがこの私は存在してはならないのであり、存在しない私が存在しなければならなくなるのである。自分自身を空気のようにしなければならなくなるのだ。

 他にも考えられるだろうけど、これくらいにしておこう。「人間は変わらない」の思想には、変化の拒絶に加えて、自己拡張性の拒絶、時間性の拒絶、治癒の拒絶、存在の拒絶など、他にもさまざまな拒絶を含むものである。無数の拒絶を含みうるために、この思想を信奉する人は「治らない」のである。僕はそう考えている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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