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2019年5月20日 月曜日

動画広告完成記念コラム(18)

動画広告完成記念コラム(18)

(問17)「どん底まで落ちました。何をやっても無駄でした」

 クライアントの中にはそういうことを言う人も少なからずおられる。「今がドン底です」とか「最悪です」などと言う。僕は、「そうですか」とか「ドン底ですか」「最悪ですか」と軽く流す。僕のようなひねくれ者は「そんなことないですよ」などとは決して言わない。むしろ、「もっと落ちなさい」と言いたいというのが本音である。

 「~自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」
 終戦、敗戦直後の絶望し、消耗しきった日本人に向けて、また、堕ちるところまで堕ちた日本に向けて、「もっと堕ちよ」と唱えた坂口安吾の『堕落論』の一節である。
 この一節には真実があると僕は思う。自分がもっとも苦しい状態にあるとき、そういう時こそ人は自分を発見するのである。そういう状態の時にこそ、人は自分の中に「資源」を見いだすのである。
 言い換えれば、人はドン底に至って、ようやく何かを発見できるのである。ようやく自己救済の道が開かれるのである。
 大雑把に言って、そこで二通りの人が生まれる。ドン底にただ堕ちただけの人と、そこから何かを発見し、動き始める人とである。これまた大雑把な解釈だけど、安吾は後者であれということを言っているわけである。
 絶望しても自分自身であろうとする人間(キルケゴール)、「これが人生というものか、ならばもう一度」(ニーチェ)っていうのも、同じことを言っているのだと僕は思う。

 この問題文の「問題」点は、ドン底に落ちたというところにあるのではないのだ。「何をやっても無駄でした」という後半部分にあるのだ。この人は、ドン底に落ちたところが終着点だと信じているのだ。でも、そこが出発点なのだと僕は言いたいのである。
 もし、そこが終着点だと信じているなら、それこそ「もっと堕ちよ」である。まだまだ堕落が足りないのである。もしくは堕ち方が正しくないのである。

 ところで、「ドン底」って何だろう。「サイアク」ってのも、僕にはよく意味が分からないのだ。と言うのは、「底」って本当にあるのだろうかと、僕は疑問に思うのである。人によっては底辺があると信じているのかもしれないけど、僕は人間には底なしの深淵しかないと信じている。
 従って、「ドン底」に落ちたと表現する人がいるとしても、その人よりももっと底で喘いでいる人たちもいるのである。そこで喘いでいる人たちよりも、さらにもっと底の方で苦しんでいる人もあるのである。
 ドン底なんて底辺は存在しないかもしれないのだ。「最悪」も然りである。どこまでも「悪い」状況というものがあるのだ。それよりももっと悪い状況に身を置いている人たちもいるのだ。
 だから、どこがドン底であるか、何が最悪であるかは、その人自身が決定していることになる。その人の主観的基準によって、それが決定されているのである。

 では、「ドン底に落ちた」とか「最悪だ」とは、何を表わしているのだろう。僕は、これは一つ断言してもいい。「ドン底に落ちた」とある人が言う時、それはその人が堕ちるのを止めた時点を指しているのだ。これ以上、堕ちないという決断をされた時なのだ。
 最悪もそうである。ある人が最悪と言う場合、それはその人が事態の悪化を防いだ時点である、それ以上の悪化を防ぐことに成功した地点である。そこを指して最悪だと言っているのだ。
 従って、ドン底に落ちることも、最悪の事態を迎えることも、何かに成功している部分を含んでいるものである。その成功を含む時、その堕ち方、最悪の迎え方は「正しい」ものになるのである。

 以上を踏まえると、僕の考えでは、ドン底とか最悪というのは、人生の転換点に当たるのだ。堕ちるところまで落ちて、そこから軌道修正なり方向修正なりをする。そこがその人にとってのドン底なのだ。生き方が改められる地点である。そうでないドン底とか最悪というのは、偽物なのだと僕は信じている。

 さて、「治らない人」の話に戻そう。
 人間がドン底に落ちることも、最悪の事態を迎えてしまうことも、何も悪いことではないし、それ自体、本人だけの責任に帰属することもできないのである。いろんな要素がそこに入り込んでくるので、堕ちたくなくても堕ちることもあれば、迎えたくなくても最悪の事態を迎えてしまうことだってあるだろう。すべてを一個人の責任に帰するような考え方は、僕は反対であるし、個人的にもそれはしたくないとは思う。
 少し極端な言い方をすると、「治らない」人の中には、それをする人もある。すべて自分のせいであると考えるか、特定の誰かのせいと考えるか、そういうことをしてしまうのである。これは、やはり、短絡的な考え方ではないかと僕は思うのだ。個人の身に降りかかることは、自分自身も関係があるし、他の誰かもそれに関係するだろうし、自分の過去経験や未来への期待なども関係するだろうし、時代や状況もまたそのことに関係するものである。あらゆることがそれに関係するものである。だから、個人がドン底に落ちることも、最悪の事態を迎えてしまうことも、誰にも責任を負わせることができないのである。
 ただ、堕ちた時、最悪の事態を迎えた時に、その人がどのようになるか、どのようなことをするかで、その後の展開は異なってくるものである。
 「治らない人」はどん底に落ちたこと、どん底に落ちるまでに(又は、落ちるために)やってきたことのすべてを無に帰してしまうのである。そして、そこから動き出すことを放棄してしまうのだ。せっかくどん底に落ちたというのに、勿体ない話である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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