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2019年5月19日 日曜日

動画広告完成記念コラム(17)

動画広告完成記念コラム(17)

(問16)「そのことはもう話しました」

 クライアントは以前にもそれを話していることもあれば、僕にとっては初耳であることもある。
 後者の場合、次の二つが考えられそうである。
 一つは、他のカウンセラーとの経験と混同している場合である。僕は初耳だと問うと、「ああ、これは以前のカウンセラーさんに話したんだっけ」と、そのことを認める人もある。
 もう一つは、話そうと意図したこと、話したような気がしているということと、現実に話したということの混同である。この人たちは自我境界が曖昧になっているのである。心的な経験と現実の経験とが混同してしまうのである。
 このような人には、幾分厄介な傾向がある。「攻撃されたような気がする」は、「攻撃された」に直結するのである。「嫌われている感じがする」というのは、即、「自分が嫌われた」という経験になってしまうのである。「感じ」に支配されてしまうのである。
 ここで問題になるのは上記のような人たちではない。

 「そのことはすでに話しました」の後に続くものが問題である。何がこの後に続くかによって考え方が若干異なってくる。
 すでに話した、だから話す意味がないとか、話しても無駄ですとか、そういう文章が続くこともあるだろう。あるいは、すでに話したことだから、今、繰り返すのは勘弁してほしいとか、つまり、今はそれを話したくないといった意味合いの文章が続くこともあるだろう。さらには、それはもう話しました、だから後はあなたが考えてくださいといった文章が続くこともあるだろう。これらは、カウンセリングに対する拒否感情、自身に対する自己放棄の感情、カウンセラーに対する敵対心などの感情が背後にあるものだと思う。つまり、こういうことをクライアントが言う時、その人はあまりいい感情を持っていないと僕は思っているわけだ。

 そもそも心理療法は繰り返し話すというプロセスを含むものである。精神分析がどうしてあれだけの時間をかけて話すのかという理由の一つもそこにある。同じことを繰り返し話すのである。
 繰り返し話すのは、それだけ話が明確になるからである。まず、それを話したり想起したりすることに対する抵抗が薄れていくためである。そして、過去に目を向けていると思い出すことがそれだけ増えてくるからである。だから繰り返すたびに、前回には話されなかったものや想起されなかったものが付加されていくことになるのだ。そして、その出来事を具体的に語ることができるようになればなるほど、その出来事が当人を圧倒する度合いが下がるのである。
 同じことは、例えば、カトリックの告解とか懺悔の過程にも言える。自分が許された気がするまで、信者は一つの罪を繰り返し告解するのである。一度やったから、もう後は必要ないっていう態度で臨んでいるわけではないのだ。

 しかし、治療の話は抜きにしても、僕たちは過去に話したことであっても、繰り返し話すことにさほど抵抗はないものではないだろうか。聞いてくれる人がいれば、同じ話を繰り返すことは、苦でもなんでもないのではないだろうか。
 例えば、小学生くらいの子供はそういうことをしないだろうか。まあ、今どきの子供はどうか知らないんだけど、僕が子供の頃にはまだそういうことをしていたように思う。
 また、妙な喩えだけど、酔っ払いも同じ話を際限なく繰り返す。話したことを覚えていないというのもあるんだろうけど、僕の経験では、上手く伝わった感じがしなかったり、言い足りなかったり、そういう感情から繰り返してしまうこともある。
 いずれにしても、繰り返し同じ話をすることは、さほど苦になる経験ではないだろうということである。

 さて、本題に移ろう。「それはもう話しました」と言うことで、話すことを「拒否」する態度がここでは問題になっているわけである。
 この態度は、僕には、「自己制限的」であるように見えるのだ。自分自身に制限ラインを課しているように僕には見えるわけだ。
 また、「それは話したから、もう話しません」という態度は、どこかで自己放棄をやらかしていないだろうかとも思う。一度話したことは、もう自分とは無関係であると言わんばかりの態度であったりするのだ。
 こうした態度が僕には非常に気になるわけである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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