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2019年5月18日 土曜日

動画広告完成記念コラム(16)

動画広告完成記念コラム(16)

(問15)「怒らないようになりたいんです」

 「怒らないようにしたい」とは、いやはや、どういうことなんだろうね。僕にはこの人たちが何をしたいのかが不明である。僕にはさっぱり分からないから、こういう訴えをする人のことなんて分かりようもないのだ。でも、これは「治らない人」の訴えるものであることは自明である。僕から見ると、明らかに不可能なことを達成しようとしているからである。
 怒りとは、そもそも、人間の基本的感情である。喜怒哀楽という感情を示す慣用表現の中にもすでに怒りが含まれている。
 新生児の泣き声に怒りの抗議を聞き取った人たちもいる。カントやダーウィンなんかがそうだ。極端に言えば、僕たちはどの人も怒りで人生を始めたと言ってもいいだろう。それくらい根源的な、基礎的な感情である。

 その怒りの感情をなくそうというのは、どういうつもりであろうか。
 ある対象に対して感情を喪失することは、人が思っている以上に、簡単なことである。対象に徹底的に無関心になればいいのである。怒りを感じる相手に徹底的に無関心になれば、相手のことで怒ることはなくなる。この場合、「徹底的に」という文句に要注意だ。相手が何を言っても、カエルがゲロゲロ鳴いているのと等しく聞こえなければならないのである。相手の姿が見えても、置物が見えるように見えなければならないのである。相手のあらゆる動作を見ても、風に舞う木の葉と同じように見えなければならないのである。そこまでできれば、相手のことで怒りを感じることはなくなるだろうと思う。もっとも、それが当人の望んでいることであるかどうかは別問題である。

 さて、こういう訴えをする人は二つの点で間違っているのである。
 一つは感情は個別なものだと信じていることである。喜怒哀楽のうち、怒りを抑えても、その他の感情は変化しないと思い込んでいるのである。これは間違いである。一つの感情を抑制すると、その他の感情もすべて抑制されてしまうのである。一つの感情の抑制は感情全体に影響し、感情全体が麻痺するものである。
 もう一つの間違いは、感情と行動が常にセットであると考えてしまうことである。感情と行動とは別である。行動に感情は伴っているとしても、それは常に一対一で対応するものとは限らないものである。
 今のことを証明しようと思えば、僕の場合、実に簡単である。呑み屋に行けばいい、そこでお酒を飲んでいる人たちを観察すればいい。楽しみながら飲んでいる人もあれば、怒りながら飲んでいる人もある。泣きながら飲んでいる人もあるし、後悔や自責の念に駆られながら飲んでいる人もある。輝かしい未来に胸躍らせながら飲んでいる人もあれば、輝かしい過去を望郷しながら飲んでいる人もある。感情と行動は一致しないということは、呑み屋で観察すると一番よくわかると僕は思っている。
 日常的に経験するものでは、「泣く」が一番分かりやすいだろうか。僕たちは悲しい時に泣く。痛い時にも泣く。悔しい時にも泣く。惨めな時にも、苦しい時にも、怒りに駆られている時にも、僕たちは泣く。また、僕たちは嬉しい時にも泣く。感動した時にも泣く。感極まった時にも泣く。目標や理想が達成された時にも泣く。不幸な時にも、幸福な時にも、僕たちは泣くわけだ。肯定的な感情の時でも、否定的な感情の時でも、同じように僕たちは泣くことができるわけだ。感情と行動は一対一で対応しないのである。

 攻撃も同じである。怒りながら攻撃する人もあれば、無感覚に攻撃できる人もあるし、笑いながら攻撃できる人もあるのである。
 従って、感情を抑制したり、コントロールできたりしたとしても、それは直接行動の変容にはつながらないかもしれないのである。怒って攻撃してしまう人が怒りの感情を抑えることができたとしても、その人は無感情で攻撃できるようになるかもしれないのである。そこは見誤ってはいけない部分ではないかと僕は思う。

 感情というものは、行動を促進する働きを持つと同時に、行動を抑制ないしは統制する働きをも持つものである。しかし、そこに話を進めていくと収拾がつかなくなりそうなので、別の機会に譲ることにしたいが、要するに、感情それ自体は何も悪いものではないのである。おそらく、この問題文を言う人が本当に問題にしたいのは、感情ではなく、特定の行動の方であると思う。
 従って、この人は問題を再定義する必要があるわけだ。「怒らないようにしたい」ではなく、「怒った時の行動を何とかしたい」等に定義し直さなければならないのである。
 あとは個々のケースによって違いがあるので、一般的な形で述べることは難しい。以下に述べることは人によって違いがある、という認識を少し持っていただけると幸いである。

 僕の経験するところでは、この問題文のような訴えをするのは、DVなどの「加害者」とされる人たちである。彼らは怒らないようになりたいなどと訴えるのであるが、本当は暴力を止めたいということなのである。
 しかし、それが攻撃であり、暴力であるというのは、それが生じる場面や彼らの関係を丁寧に見ていくと、「被害者」が有している観念であることが窺われるのである。「加害者」はそれを攻撃とか暴力として経験していないのである。従って、「加害者」がそれをどう定義しているのかが重要になってくる。
 一部の「加害者」は、反応とか反射としてそれを定義しているし、他の「加害者」は防衛とか鎮圧としてその行為を理解している。そして、彼らのその定義、意味付けは「間違っている」ということにされてしまっているのである。彼らはその外的評価をそのまま受け入れ、内面化し、自分のものにしていることもある。
 このようなケースでは、「怒らないようになりたい」というのは、他者の希望であって、当人が望んでいるものではないかもしれないのである。しばしば、相手が望むような人間にならなければいけないと彼は信じ切っており、それができない(もともと彼自身の希望でもなければ、彼に属する観念でもないものだから当然なんだけど)、ということで、さらに圧力を加えられていたりするのである。彼はますます「怒る自分」を許せなくなる。皮肉なことに、怒りながら怒りを抑制しようと試みることにもなる。
 こうしたDV「加害者」が僕のカウンセリングを受けて、尚且つ、そのカウンセリングが上手くいくと、彼らはよく考えるようになるのだ。怒りながらでも考えるのである。僕はそれはそれでいいことだと思っている。感情に対抗するのは思考である。感情的にならないということは、思考的になるということと同義だと僕は考えている。怒りがあっても、感情的に反応するのではなく、思考的に反応できるようになっていくのである。怒りであれなんであれ、個人の中にある感情は、それがどんな感情であっても、押し殺す必要はないのである。その発露が問題となっているだけなのである。

 最後に、もっとも基本的な問題に焦点を当てておこう。「怒らないようになりたい」とある人が言う時、それが本当に怒りなのかどうかという問題があるのである。そこから考えていかないといけないように僕は思うのだ。それは本当に「怒り」であるかもしれないし、怒りに似た何かであるかもしれないのである。
 例えば「キレる」という現象がある。僕はそこには一切の感情が生じていないと信じている。感情以前の反射に近い現象だと思う。反射とは、身近で大きな音がすると体が一瞬硬直するなどである。反射が起きてから、驚愕といった感情が生まれるのである。従って、感情抜きで「キレる」のである。後から、怒りのような感情が付随してくるのである。そのため怒りの抑制は、この場合、何の役にも立たないのである。
 また、怒りに似て非なる現象として、「パニック」とか「癇癪」なんてものもあるだろうと思う。本当にそれが怒りであるのか、本当に怒りに端を発した反応であるのか、しっかり吟味していく必要があるように僕は思うのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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