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2019年5月13日 月曜日

動画広告完成記念コラム(12)

動画広告完成記念コラム(12)

(問11)「私、治ったんです」

 こんなことを言う人が現実におられるわけであるが、正直に言うと、言っている内容がどういうことなのかは定かではない。一応、字義通りに受け取ってみよう。
 ある人の「病気」が「治った」ということであれば、それはそれでいいことであるが、僕はこれは素直には受け取らない。と言うのは、本当に「治った」人はこんなふうには言わないからである。

 僕たちは、身体の「病」であれ、それが「治った」という瞬間を知ることはないのである。いつ、それが「治った」のか、本当には分からないのである。
 これは他の場所で書いたことがあるけど、僕の左手首骨折の話を例にしよう。中学1年の夏のことだ。僕は転倒して左手首を骨折した。治療を受けて、3週間後、ギプスが取れることになった。レントゲン写真では骨が癒着していた。それで「治った」とみなしてよいのであるが、その後も幾度かその部分に痛みを覚えることがあった。衝撃を受けると、響くのである。僕が記憶している限りでは、中学3年の秋、尻餅をついた際に手をついた時に走った衝撃が最後である。以後、いつしか、そういう痛みを経験することがなくなったのである。
 僕は、その時の左手首の骨折がいつ「治った」のか、本当は分からないのである。ギプスを取った時に「治って」いたかもしれないし、本当の「治癒」は中学3年の秋以後に起きたのかもしれない。僕はその時点を、つまり、「治った」という瞬間を特定できないのである。

 心の問題になると、事情はさらに複雑になる。「治る」ことは「生きる」ことである。(問1)で示したようにそれは同時的に進行していく過程である。「治った」瞬間なんて、決して分からないのである。
 しかし、「治った」とは認識しないけれど、クライアントたちは、「気が付いたらそれがあまり気にならなくなっていた」とか、「あれ、そのこと(問題)がすっかり意識から飛んでいた」といった経験をされるのである。もしくは周囲の人が気づき、周囲の人から教えられるのである。「なんか、以前とは変わったね」などと言われるのである。
 従って、どこかで「治った」瞬間はあるかもしれないけど、そのことに気づくのはずっと後なのである。そして、その頃には「治った」かどうかといったことは、当人にとって、大した問題ではなくなっているのである。その人の生が進展しているからである。

 上記のことは次の現象とも関わる。僕たちはしばしば心身の「病」に罹るけれど、そこから抜け出てしまうと、「病中」の記憶が薄れることがある。つまり、「治る」と、病中の経験の多くを忘れてしまうのである。苦しかったとか、辛かったとか、あれが痛かったとか、部分的な記憶は残るけれど、「病中」のその時々で経験したこと、思ったこと、考えたことなど、多くの細部は忘れてしまうのである。「うつ病」の人は、「治って」しまうと「うつ」の苦しみを表現できなくなったりするのである。そして、そういうものだと僕は思う。「病中」と「治癒後」とでは、心の状態が異なっているからである。

 さて、次の疑問点がもっとも重要なものである。「私、治ったんです」と言う時、その人は「病中」の心理状態にあるのか、「治癒後」の心理状態にあるのかという疑問である。その言葉は「病者」のものであるのか、「治癒者」の言葉であるのか、どちらだろうかという疑問である。
 僕の考えでは、それは「病者」の言葉である。「病者」の地位からなされる発言である。従って、「治った」人は自分が「治った」とは言わないものであり、「治っていない」人が「治った」と言うものである。僕はそう考えている。

 それでは、「私、治ったんです」とその人が言う時、その人はどういう状態になったということを言っているのだろうか。あいにく、これに関しては僕は詳しくは分からない。あまりそこを言ってくれなかったりするからである。
 この人たちが言うのは、以前よりも状態がラクになったとか、そういう変化のことを言っているのだと思う。まあ、ラクになったというのであれば、それはそれで望ましいことなのかもしれないけど、僕としては手放しで喜べないのである。
 と言うのは、「治る」ということと、当人に体験されている「気分」とは、必ずしも対応しないからである。
 例えば「双極性障害」なるものがある。躁と鬱を繰り返すといった人たちだ。この人たちは、悪くなる前、つまり鬱に落ち込む前には、決まって「いい状態」を経験されるのである。だから、こういう人が状態がいい時、それは悪くなる前兆であるかもしれないわけだ。
 また、精神病の発病前に恍惚的な経験をする人もよくある。ロウソクが燃え尽きる前にひときわ明るくなるようなものだ。見えるもの、聞こえるもの、すべてが素晴らしく思えるのである。でも、すでにそれは通常の心理状態ではないのである。
 だから、気分が良くなって、それで「治った」と当人が信じているのであれば、僕としてはもう少しその経過を追ってみないと判断ができないのである。

 心の問題や「病」が「治る」ということは、その人のパーソナリティの部分に現れるものであり、それはその人の行動として表面化し、生に対する態度とか構えが変わってくるものである。つまり、「治る」前に変化が現れるものである。その人の生が進展しているためである。そして、それからかなりの時間を経た後になって、「治った」ということが意識されていくのだ。
 さて、最後に僕だけの秘密を披露しよう。主観的ではあるけれど、僕はクライアントが良くなっている時のサインを持っている。僕の中にそれが起きた時、この人はかなり良くなっているなと信じられるのである。
 それは、その人に対する否定的感情、陰性感情が減ってくるということである。同じく、肯定的感情、陽性感情が増加するのである。
 この人と会うとイライラしてしまうというクライアントが、最近、面接していてもイライラしなくなってきたなと気づいた時、その人がよくなっていることを僕は確信するのである。
 好きになれない人が好きになってきたり、好きだった人がもっと好きになったり、あるいはまったく関心の持てなかった人が心中を占めるようになったりすると、それもまたその人が良くなっていることのサインである。当然、これは僕だけのサインである。
 これは簡単な理由によるものである。その人が良くなると、その人の悪い部分、つまり人をイライラさせる部分とか困惑させるような部分が、背景に退き、あるいは中和されて、その分、望ましい部分、つまり人から好かれる要素の部分が前景に出てくるからである。
 実際、「治った」人は、以前よりも「普通に」人から好かれ、良好な関係を「ある程度」維持するようになるのである。「治った」と言っておきながら、生の様式や構えが以前のままであるとすれば、それは「治った」とは言えないのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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