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2019年5月12日 日曜日

動画広告完成記念コラム(11)

動画広告完成記念コラム集(11)

(第10問)「その話はこの問題とは関係がありません」

 僕の経験では、「治る人」は自分自身をトータルに考えるようになるのに対して、「治らない人」は自分を断片化させる方向に進んでしまうようだ。
 断片化するとは、ある問題について話をするとなると、あくまでもその問題だけを切り離したりするのである。そのため、その問題に関して一定以上に視野が広がらないといったことも起きるし、各々の断片は相互に関連づけられなかったりすることも起きる。つまり、統合されていかないわけだ。

 ところで、僕たちは次のような経験に覚えがあるのではないだろうか。例えば数学の問題を解いていて、どうしても解き方が分からないといった場面だ。いくら考えても分からない。そこで、一旦、それを中断して、他のことをしている時に、ふと、まだ試みていない解き方に思い至ったり、急にその解法が閃いたりしたりする。そういった経験である。
 それに取り組んでいる時には見えていないものが、それから離れて見えるようになるといった経験である。
 この例を踏襲すれば、この問題文は「数学の問題を解くときは数学以外のことをしてはいけない」と言うに等しくなるわけだ。数学と関係のないことは、その数学の問題を解くのに役立たないというわけである。何となくそれは正しいように響くけど、経験的に、僕たちはそんなことはないということを知っているのではないかと思う。
 カウンセリングでも同種のことが起きるのを僕は目にする。クライアントがカウンセリングを受けることになった「問題」以外の話をしている時に、その「問題」に関する重要な気づきを得たりするのである。
 ある男性は妻との関係が悪化していることを気に病んでいた。自分の何が悪いのか、彼はそれを探求しようとしていたけど、彼は自分ではそれが分からないと言う。ある時、僕たちは面接を終えて、少しの時間雑談した。彼は昔の旅行の話、修学旅行とか社内旅行なんかの話をしている。その時、ふと、彼は「そうか、分かりました。先生、分かりましたよ」と言う。僕は「そうか、分かったんですか、分かったんですね」と応じる。ちなみに、僕には彼が何をどう分かったのかサッパリ分かっていないのである。しかし、彼の中では何か重要なつながりをそこに見いだしたのである。
 「問題」とは関係がない話の時に、「問題」に関する何かを発見する。なぜ、そういうことが起きるのか、僕には確かなことは分からない。ただ。無関係の話をしている時、彼は「問題」から自由になっており、距離を置くことができているからだろうと推測するだけである。「問題」を話す時にしていた構えがなくなっているから、何かが新たに見えたのだろうと思う。
 おそらく両方が揃っていないといけないのだろう。問題に面と向かって取り組む時と、問題から距離を置いて別活動している時の両方である。
 もっとも、そういうことが常に起きるとは限らない。必ずそれが起きるとは断言できない。関係のない話は、関係のない話で終わってしまうこともあるだろう。僕からすると、そういう無関係な話からの方がクライアントに関する情報がよく入手できるのだけど、クライアント自身はそこから何かを発見することなく終わることもあるだろう。
 ただ、通常の場合、最初から「それは関係がない」と切り離すことはない。関係がなくても話してみると、何か得るところのものが生まれるかもしれないのであるが、「治らない人」たちは最初からその可能性を締め出してしまっているのである。

 さて、ここで自己の統合と拡散という概念を述べておこうと思う。自己が拡散するとは、それぞれの部分が独立してしまうことである。統合とはそれぞれの部分につながりが生まれていることである。それとこれとは関係がないという思考は、つながりを分断することである。つまり自己の拡散の方向に進ませるものである。
 しかし、時にはそういう分断をしなければならない時もある。一つのことに集中しなければならない時など、その他のことは一切切り離してしまわないとできないことである。それでも、どこかでつながりを保てているから、先述のような場面、他のことをしている時に解法が思いつくといったことが可能なのだろう。
 それに、敢えてそういう分断を試みることも僕にはある。それとこれとは関係ないと仮定して、そこから新たなつながりが生まれるかどうかを見たい時もある。しかし、それはそれとこれとは関係がないと仮定した場合という意味である。
 もう一つ付け加えておくと、自分の外部の事柄と自分自身との関係においては、そのすべてが自分と関係しているとは限らないとも思う。関係があるとみなすことも可能であるし、関係があるとすればどのようなことが言えるのかを考えてみることも何か得るところのものがあるかもしれない。僕に関することはどんなことであれ、内的な事柄であれ外的な事柄であれ、一方では相互に関連し合っており、他方ではそれぞれが独立している。どちらの可能性もあり得るわけである。もし、僕が統合の方向へ進もうとすれば、相互の関連をより見いだすだろうし、拡散の方向に進もうと思えば、それぞれを独立した個別の事象とみなすようになるだろう。目指す方向に応じて、それは正しくもなり誤りにもなるだろう。僕はそう思う。
 そして、統合には終わりがないのだ。僕はそう信じている。どんなことも自分の中に統合することができると思う。そして、それは無限にあるわけだ。日本から見て地球の反対側の出来事、つまりブラジルの出来事でさえ、僕とは無関係ではないのだ。僕はそれに関わっていくこともできれば、それを僕の問題にしていくこともできる。でも、現実には、さすがにそこまで出来ないだけである。

 本題に戻ろう。「治る人」「治らない人」との違いの一つに、自己の制限度があると僕は思う。自己の領域を広げていくことのできる人と、反対に自己の領域を制限し、自分自身を細分化してしまう人の違いである。自己を細分化し、その小さな部分と関わる方が、漠然とした広漠な部分に関わるよりも安心できるのだと思う。その気持ちも分からないではないのだけれど、その安心にしがみついてしまうのか、自分を細分化することで不安を乗り切ろうとする人たちもおられるのである
 いや、今の話は逆なのだ。不安のために細部にしか関われなくなってしまうのだ。

 もう一つ、この問題文で問題になるのは、それは問題とは関係がないという分断に伴っている、その頑なさである。
 こういう人は「問題」しか話さないのである。自分の「病」しか話さないのである。まるでそれに同一化しているかのように、その人から語られるすべてが「問題」のことなのである。それ以外のものが出てこないのである。尋ねられてもそれ以外のことは話さないという頑なさが見られる人もあるわけである。
 これは、つまり、柔軟性を欠いているということになるのだけれど、この硬直さが、その人をして一点に縛り付けてしまうことになるようだ。そんな印象を僕は受ける。テコでも動かないような人であるが故に、「治らない人」になってしまうのだと僕は思う。

 まとまりのないまま綴ってきたけど、この問題文のようなことを言う場合、それは自己制限的であったり、自己断片的であったり、抵抗(これについては取り上げることができなかった)であったりするのだけど、「関係がない」といって切り捨てることで、一つの機会が失われたかもしれないと思うと、僕はなんだか残念なような気持に襲われるのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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