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2019年5月 9日 木曜日

動画広告完成記念コラム(8)

動画広告完成記念コラム(8)

(第7問)「なぜ自分がこうなったかよく分かっています」

 この訴えは、なぜこうなったかは自分でも分かっているのに、それでも「治らない」というわけだ。実は、こういうことを言う人は本当には分かっていないのである。分かっているような気持になっているか、一部分を全体とみなしてしまっているか、あるいは認識の次元が低いか、そういうことが起きているように思う。

 僕は個人的には、心の問題に関しては原因探求は不毛な作業で終わることが多いと信じている。と言うのは、原因というものが「これ」と限定できないからである。そして、仮に原因が特定できたとしても、その原因に直接関与できる手段を僕たちは持たないからである。原因が何であれ、その人が困難を体験しているのは現在である。現在のその人が上手く行けばそれでいいと僕は思っている。上手く行くというのは、その生が進展し、前に進んでいくことである。その人の過去に何があったとしても、現在において彼が変わって行けばいいと思っている。
 しかし、だからと言って過去経験を無視していいとも思わない。過去を振り返ること、つまり自分自身の歴史を振り返り、学ぶことは、現在の自分がどこにいて、どこに向かおうとしているのかを知るためにも必要である。過去と現在がつながっており(つまり心的に過去が過去に位置付けられ、それが現在とつながっているという認識)、それがさらに未来にもつながっている(過去と未来とがともに位置付けられている)ことが経験できれば、その人はそれだけ強くなると信じている。自分自身を断片的に経験するよりも、より統合的であるからである。
 従って、少なくとも原因探求のために過去の回想をするわけではないのである。原因というのは誰にも分からないかもしれないのだ。
 さて、話を本題に戻そう。原因探求をやってきたと言う人は、もっと大事なことが疎かになってしまうのである。だから「治らない人」たちに入るのである。少し意地悪な言い方になるけれど、本当に大事なことが考えられないから原因探求をやってしまうという感じの人もある。つまり、原因探求はその人が取り組まなければならないことに覆いをかけてしまうのである。それでいて、当人はそのことに気づかないのである

 しばしば原因を洞察すると「病」が治るかのように理解している人もおられるが、これは精神分析の誤読である。原因探求ではなく、過去の再体験が「治癒」に影響するのである。過去の経験が現在の分析家との関係に持ち込まれる(これが転移というものである)ので、現在の転移を扱うことが過去を扱うことになるのである。この転移関係において過去が再体験されるのであり、未処理だった経験が処理されていくのである。
 もう一つ付け加えておくと、現在を再体験するとは、現在の自我で過去を再体験するということである。従って、現在の自我が弱体化して、十分に機能しなくなっているという状態では、過去の再体験は、単なる過去の再現でしかなくなるのである。過去探求以前に現在の自我が支持されなければならないのである。「治らない人」はこの手順を逆にする、もしくは前段階の作業をすっ飛ばすわけである。

 さて、なぜ自分がこうなったかは分かっている、だけど「治らない」という訴えに関して、ユングの見事な事例がある。
 この男性は完全に自己分析をしたのに、それでも自分の「神経症」が治らない、一体、何が間違っているのか教えてほしいと言ってユングを訪れたのだ。彼は自分の自己分析をノートにしてユングに手渡す。それを読んで(僕だったら絶対に読まない)、ユングはある点を指摘する。彼は冬のバカンスに出かけることがよくあったそうだ。そこでこの費用は誰が出しているのかとユングが尋ねるのだ。その費用は、彼に恋している貧しい女性教師が切り詰めて貯金したものであったという。ユングは「それこそあなたの神経症の原因です」などと答えたのである。
 生に対する態度、不誠実な態度が原因であって、幼児期などは関係がないのである。今現在において、彼がやっていることが、彼の「病気」の原因なのである。
 重要なことは、この事例を踏まえて言うと、「自分のことは分かっている」(これはウソではない)と言う時、本当に必要な作業はその行間を読んでいくことなのだ。「分かっている」ことだけで考えてはいけないのである。分かっていないことを分かっていかなければならないのである。言い換えるなら見えているものだけで(認識されているものだけで)考えてはいけないのであって、見えていないものを見ていく(認識の次元を上げる)ことをしていかなければならなくなるのである。
 従って、自分のことは分かっているとか、こうなったのは何が悪かったのかすべて分かっているという訴えは、自己の制限を表わしているものと僕は考える。つまり自己制限的であり、そこから自己とその洞察とがそれ以上に拡張していくことがなくなるのである。認識の次元を限定し、その限られた範囲だけで「分かっている」と言っているに過ぎないのである。

 さて、視点を変えよう。自分がどうしてこうなったのかは分かっているというクライアントがやらかすのは、自分を心理学的に「説明」するだけである。僕の経験した範囲においてはそういう例が多い。ある意味で、非常に自己愛的なのであるが、そこには入り込まないでおこう。
 彼らは心理学の理論とか臨床像とかをそのまま自分にあてはめる。理論や臨床像は多くの人から抽象された「典型例」であり、それがそのままそっくり当てはまる人なんていないものである。もし、その人が心理学を読んでいて、自分のことが書いてあると感じたとすれば、幾分、その人の心的投影物が混入しているのである。そのため、その人がそれを正しく読んでいるか疑問に思えてくるのである。いずれにしても、本に書いてある通りのことがそのまま一個人に起きるなんてことは俄かには信じられないことだと僕は思う。何かが間違っているはずなのである。
 ちなみに、そう思う根拠は何かといった問いかけをすると、彼らは本に書いてあったとか、誰それ先生が言っていたなどと言う。著者やその先生の面接を受けたわけでもないのである。要するに、彼らの「分かっている」は、自分自身を抜きにしているのである。自分を抜きにして自己分析まがいのことをやっているに過ぎないわけである。本当は自分自身を見ることができないのである。抵抗感があったり、そこまで強くなかったりするのである。
 自分のことは分かっているというクライアントは、自分自身と関わることができないのである。そういう人が多いという印象を僕は受けている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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