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2019年5月 8日 水曜日

動画広告完成記念コラム(7)

動画広告完成記念コラム集(7)

(第6問)「自分は病気じゃないからカウンセリングは必要ありません」

 これは、「それは他人の問題である」と認識している人からよく耳にする言葉である。
 カウンセリングには心理療法としての一面があるのだけど、「治療」というものは、それがどんなものであれ、二通りの定義が可能である。一つは「治療」の対象に基づく定義であり、もう一つは手段に基づく定義である。
 例えば外科治療とは、外科的な傷病に対して施される治療であるという定義ができるのと同時に、外科的な手段によってなされる治療であるという定義が可能である。
 心理療法も同様である。心理療法とは心を「病む」人に対して施される「治療」である。これは「治療」対象に基づく定義である。対象が「心の病」であれば、作業療法もアニマルセラピーも薬物療法もショック療法もすべて心理療法になるわけだ。
 一方、手段による定義も可能である。心理療法とは心理的な手段に基づく「治療」であるという定義である。この定義では、「治療」を受ける対象が「心の病」であるかどうかは関係がないことになる。用いる手段が心理的なものであれば、健康な人に施す場合でも、心理療法なのである。そして、心理的な手段とは、何よりも、対話、コミュニケ―ションであり、関係である。
 後者の定義、つまり手段による定義というのは、心理療法の世界では、かなり初期の年代から言われていることで、ユングやフロイトにもそれに関する文章が残されている。しかしながら、この定義の方はあまり一般に広まっていないような感じがする。

 問題文の発言は、この人は対象による定義しか見ていないということになる。手段による定義の方は、知らないのか、無視されているようである。カウンセリングや心理療法は
「病者」に対してだけなされるものではないのである。
 では、なぜこの人が「治らない人」になっているのかと言うと、どうもこのように言う人は、自分が「病気」であるかどうかということに関心が向きすぎているように感じられるからである。「病気」であるかどうかよりも、その人の置かれている状況や状態が少しでも改善されることを、僕としては目指したいのであるが、この人たちはそういう方向に動いてくれる可能性が低いのである。僕はそのように感じている。

 同種の内容はDVのような問題でもよく耳にする。自分の行為がDVに該当するかどうか、そこにばかり拘り続けてしまう人がいる。その人がそこに拘り続けている間にも相手との関係が悪化していくのである。それでほとんど関係の修復が見込めないような段階になって、ようやく動き始める当事者もある。言葉は悪いけれど、手遅れになってから動き始めるわけである。それもこれも、「定義」ってところに拘ってしまったからである。

 もう一つ、「自分は病気である」とか「ない」とか、あるいは、「自分に具合の悪い部分がある」とか「ない」とか、通常、こういう認識は「病識」と呼ばれる。「病識」があるとは、自分の「病」を認識できているということを一般には言い表すものである。
 この「病識」には法則というか、傾向があって、健常な人ほど「病識」を持ち、精神病になるほど「病識」が欠如するのである。絶対にそうとは言えないけど、そういう傾向を認めることができるということである。
 では、なぜ、精神病になるほど「病識」が欠如するのかということであるが、これは簡単に説明できる。その人の「健康」な領域が「病」の領域を発見できるからである。「病」は、「健康」から見ると、敵対勢力であり、対抗的な存在になるのである。良い部分が悪い部分を認識し、特定できるのである。健康な部分が少なくなればなるほど、「病」の部分は認識されなくなっていくからである。
 ここに妙なパラドックスが生まれる。精神病的な人が回復してくると、病識が生まれるのである。この病識は「不安」といった信号で送られてくるのだけれど、回復するに従って、そういう落ち着かない感情を経験するようになるわけである。他にも要因があることは確かであるが、その人の健康な部分が増え、且つ、そこが機能するようになったので、悪い部分がより見えるようになってくるのだと思える時が僕にはある。「治療」が進展していく中で、クライアントは「自分が前よりも悪くなった」と感じることもあるが、その人の心の健康が回復してきたからそのような体験をしているという場面もあるように僕には感じられる。もっとも、この「悪化」の体験にはもっと他の要因が絡んでくることもあり、それ以外のケースもたくさんあることは確かであるが。
 また、「病識」は「治療意欲」とも関連する。「病識」のある人は「治療」に抵抗が少ない(全くないわけではない)ものだと思う。だから、この人たちは自発的に「治療」を求めることができるのである。一方、「病識」の欠如している人は自発的に「治療」を求めることが少なくなるだろうし、自分に治療が必要なのかどうかも本当には判断できないのである。精神病的になるほど「治療意欲」が低いと言われるけれど、それは「病識」の欠如に基づいており、「病識」の欠如は心の健康な領域の喪失と関わるものであると、僕は考えている。

 ここで再び問題文に戻ろう。
 この文章は、誰かからカウンセリングなり治療なりを受けることを求められた人が、その要請に対して応じる言葉であることが多い。例えば、妻が夫に受けるように求めると、夫が妻にそのようなことを言い返すのである。当然、ここにはその夫婦の関係の要素が入り込んでいることになる。夫が反対しているのは、「治療」を受けることではなく、「治療」をうけなさいという妻の要望に対してであることが多いだろうと思う。そして、夫のその態度(同じく、妻の態度も)は、その夫婦の関係に基づいているわけである。
 では、なぜ「自分は病気ではない」ということをことさら強調するのでだろうか。それこそこの夫が取り組んでいることではないかと僕は思う。つまり、妻が一方的に押し付けてくるものに対しての反発である。そして、この次元から動かないところが問題であると僕は考える。
 しかし、中には一度だけ妻の要望を受け入れて、現実に受けに来る人もある。その時、彼は同じことを僕に向かって言ったりする。つまり、「俺は病気ではない。なんでこんなところに来なきゃならんのだ」といった不満を述べるわけだ。彼は僕の面前でも妻の面前の夫であろうとしていることに等しいわけである。
 そこで僕はこんなことを言ってみる。「あなたが病気だなんて、誰がそんなことを言うんですか。私はひとことでもそんなことを言いましたか」と。ここで何かに気づく夫は見込みがある。
 しかし、さらに次のように言う人もある。「だって、ここは病気の人が受けるんでしょう」と。この場合、彼は何かを回避していることになる。あなたを病気だとみなしているのは誰かという問いに答えていないからである。彼はそれを答えることを回避しているということである。
 ここで同じ問を繰り返すこともできる。「病気の人しか来ない場所だなんて、誰がそんなことを言っているんですか」と。また、次のように問うこともできる。「ああ、私があなたのことを病気であると、すでにそうみなしていると、あなたの中では決定されているんですね。なぜ、そんなことを信じてしまうんでしょうね」と。
 見込みがある場合、「そういえば変な話だな」と思ってくれることもある。僕が何かの診断をしたわけでもないのに、彼は自分が「『病気である』とみなされている」ということが彼の中で決定されているのはおかしいことだ、と疑問を抱いてくれるわけだ。
 以後、この種の応答を重ねていくことになるのだけど、要は、彼が取り組み、反発してきたものは何かということに思い至るかどうかである。ここに「治る人」と「治らない人」の差が出てくる。
 しかしながら、この後の話には個人差がある。一概にこうと言えないところがある。例えば、それが憎悪の感情である場合もある。「治療」に反発していることも、自分は病気ではないと主張し続けることも、その根底に憎悪の感情が潜んでいることに、少しでも気づくことができれば、彼の見解や態度が変わってくるのである。「自分は病気であるか否か」から「この憎しみは何だ」といった形で、彼の取り組むテーマが変わってくるからである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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