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2019年5月 7日 火曜日

動画広告完成記念コラム(6)

動画広告完成記念コラム(6)

(第5問)「カウンセリングは話を聞くだけ、ヒアリングをするんでしょう」

 僕はそうは思わない。それに最近「ヒアリング」ということを言う人も現れているのだけれど、どういう意味なんだろう、と僕は不思議に思う。時に訊き返すこともある。「ヒアリングって何ですか?」と尋ね返すのだ。言った方はビックリするようだけど、「ヒアリング」に関して適切な説明をできる人は、僕の経験した限りでは、皆無である。
 それはさておき、僕の考えはこうだ。カウンセラーは話を聞くのではない。クライアントが告白するのである。クライアントが告白するからカウンセラーは耳を傾けるのであって、告白以外の話は聞かなくてもよいとまで僕は思っている。
 では、告白とは何かということだけど、それは、「私はいついつに誰それに対してこういうことをしました」などと打ち明けることである。つまり、自分の体験したこと、行為したことの告解である。自己表現の上手な人とは告白の上手な人でもあると僕は考えている。
 従って、他人のことを話すのは告白でもなんでもないのである。「自分は悪い人間です」と自分を抽象することも、「私は〇〇障害だと思う」などと自分を説明することも、告白ではないのである。告白以外の話し合いは、不毛の作業に終わると僕は信じている。
 告白の場においては、自身の体験の語り直しがなされることになる。だから、事情聴取とは違うのである。そして、カウンセラーは聞き手としての存在価値があるとは言え、本当はクライアントの告白それ自体に意義があるのである。

 僕が僕の経験を話す時、僕はその経験をした時の僕とそれを話している僕との間に亀裂を生み出しているわけである。経験を話す僕と経験をした僕との間に距離が生まれているわけである。それはつまり、僕はその経験の外に立って、その経験を打ち明けているということになるのである。
 これはその経験を「説明」しているといった言語活動とは異なるのである。ちなみに「治らない人」はこうした「説明」をするのである。この人は自分自身の説明をするのであって、自分自身の経験を本当には語っていないのである。
 告白と説明と何が違うのかということだけど、これを理解してもらうのは僕の語彙力では無理だ。告白は現在の自分から過去の経験をした自分を語るのである。そこには距離が生まれているとは言え、語る自分とその経験をした自分とはどこかでつながっており、関係が生まれている。説明というのは、自分の経験を自分と切り離してしまうことである。自己の他者化ないしは事物化をしているのである。告白が自分自身であることに対して、説明は自分自身であることを放棄しているのである。
 もう少し違った言い方をすれば、私が経験したことは、他でもない私の経験である。同じような経験をした人が他にいるとしても、私が経験したことは私にとっては唯一のものである。そこには私の独自性とか唯一性の観念があるわけだ。説明とは、私の経験を言わば一つの事例に変換してしまうことなのだ。そこには私の経験の独自性や唯一性というものが除去されているのである。僕の目の前に時計があるというのと同じように、僕の過去にこういう経験があると言うことなのである。説明とは私から「私」性を取り除いてしまうことなのである。

 結論が若干飛躍することになるけど、カウンセリングとは話を聞くだけだとか、ヒアリングをするものだと思い込んでいる人は、カウンセリングというものを知らないというだけでなく、自分自身を非個人化してしまっている人なのかもしれないとも僕は思う。もし、そうであれば、この人たちにとってはカウンセリングは益をもたらす営みにならないだろうと思う。つまり、「治療」が無意味化してしまう人たちであるかもしれない。だから、この人たちは「治らない人」になってしまうのだと思う。

 さて、「カウンセリングは話を聞くだけだ」と非難する人もある。僕は不思議に思うのだけど、専門家に話を聞いてもらえるということは、そんなに悪い経験なのだろうか。どうもそこが「逆転」してしまっている人たちもおられるようだ。
 これに関しては、そのクライアント側の要因もあるとは思う。一応、ここではそこに触れないでおこう。そういう非難をする人に一つ考えてほしいのは、そのカウンセリングで本当に大事なことを話したかどうかということである。その大事なことが相手にきちんと伝わったのかどうかということである。ここに「話をする」(あるいは「説明する」)ということと「告白する」ということの大きな違いがあると僕は思うのだ。

 次に、類似の傾向として、「音読クライアント」を挙げることができる。「音読クライアント」とは、僕が勝手にそう呼んでいるだけなんだけれど、予め書いてきたものをカウンセリングの場でただ音読するだけの人である。完全に自分自身を「説明」するだけの人である。当然、この人たちは「治らない」のである。
 と言うのは、書かれたものの行間が本当に大事な部分であるからである。そうなると、書いてきたものを読んで、それですべて終わりというその態度が問題となってくるのである。「私の説明はもうしました。後はあなたが考えてください」という、こうした態度のことである。
 従って、こう言ってよければ、この人たちは自分自身に関して一切を放棄しているのである。自分自身に関わるのではなく、自分の情報を相手に投げかけて、後は相手任せにするようなところがあるように僕は感じているのだけれど、それは取りも直さず自己放棄の一形態ではないだろうか。そのように僕は思うのだ。
 この人が自分自身と関わること、さらにはカウンセリングの場に参加していくことをしなければしないほど、「治療」は成立しなくなる。従って、この人たちは「治療」の前段階のところから始めなければならなくなるのである。だから、「カウンセリングは話を聞くだけで何もならなかった」と訴える人は、本当にはカウンセリングを受けていないのである。ただその場に居たというだけのことである。何も開始されておらず、スタート地点にも立っていない人の言葉であるように僕は思う次第である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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