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2019年5月 6日 月曜日

動画広告完成記念コラム(5)

動画広告完成記念コラム集(5)

(第4問)「褒められたことがないので自分に自信がないんです」

 僕は個人的には人は褒めて伸びるものではないと信じているし、褒めて伸びるような人間はダメだとまで思い込んでいる人間である。その人が伸びるのは、その人の内発的な動機付けによるものであって、褒章によるものではないのだ。褒章は効力感を増すかもしれないけれど、それはわずかである。自分が努力して何かを達成し、それによって世界が変わるといった経験が効力感を増すのである。それは褒章によってのみ得られる経験ではないのである。
 この問題文では、自分の中に有って、自分でもそれと認めている傾向を何に帰属させているかという点が問題である。彼は自分に自信がないと感じている。そのことに対して、それは称賛された経験が無いためであるという原因帰属がなされているわけである。
 この原因帰属の問題は、原因と結果とがあまりにも一対一で対応され過ぎているところにも問題があるのだけど、自分の傾向のすべてを外的要因によってもたらされたものとして表現しているところにある。ある意味ではとても外罰的なのである。「自分がこうも自信欠如な人間になったのは、あなたがたが褒めなかったからだ」と訴えているに等しいわけである。
 そして、外側に原因を求めている以上、彼がこの問題に取り組むとすれば、外側の何かを変えることしかなくなるわけである。それ以外の手段を講じることはできないわけである。褒められたことがないので自信がないんだということであれば、自分が自信を持てるようになるためには、周囲に自分を褒めさせなければならないということになってしまう。そして、原因がそこにしかないということであれば、何が何でもそれを周囲に強制しなければならなくなってしまうわけだ。
 つまり、これは自分は変わりませんと宣言しているのに等しいわけである。「あなた方が褒めなかったからいけないのです。だから私を褒めなさい」といった形で周囲を変えようとしていることになるわけである。別の言い方をすれば、「『病』なったのは外部の人間のせいなので、彼らが『治る』(又は私を『治す』)べきであって、私が『治す』のはおかしい」といった思考と同じようなものである。「治らない人」の思考である。

 ところで、「褒められたことがない」というのは、彼が自分をどのような人間としてみなしているかという自己像と関係している言葉であるのだけれど、今は取り敢えずこの言葉を額面通りに受け取ってみよう。
 その場合、僕には二つの可能性が即座に思いつく。一つは本当に一度も褒められたことがないという可能性だ。もう一つは褒められたという気がしないという可能性だ。
 最初の可能性はかなり低いものだと僕は信じている。生まれてから一度も誰からも褒められたことがないという人を想像することは、僕には難しい。30年、40年と生きてきて、尚且つ、人との関係に生きているのであれば、一度でも誰かに褒められるといった経験をするものではないだろうか。従って、この可能性を採択するためには、「ある特定の人から一度も褒められたことがない」という制限をしなければならないと僕は思う。その場合、可能性としてはあり得るだろうと思うのだ。
 後者の可能性、つまり褒められた経験はしているけれど、自分が褒められたという気がしないといった可能性の方がはるかに高いように僕は思う。
 この可能性、褒められたのに褒められた気がしないといった現象はいくつもの要因なり場面なりがあるだろうと思う。
 まず、その人個人の要因があると思う。外的には褒められたのだけれど、内的にはそれを打ち消したり、あるいは処罰として認識するといったことがあるかもしれない。その人の性格傾向がそうさせてしまうのかもしれない。
 また、褒める相手との関係の性質ということも関与するだろうと思う。ある言葉が褒め言葉になるか逆の言葉になるかは、その人たちが形成している関係によっても変わってくるだろうと思う。例えば、不信の強い相手から褒められたとすれば、相手を信用していないという感情が投影されたり持ち込まれたりするので、その言葉をそのまま信用できなくなるだろうと思う。
 褒める側の要因もあるだろうと思う。褒めるというのは、相手の何かを「いいなあ」と感じ、そのまま「それいいなあ」と言うことである。それが褒めるということになるのだけれど、通常の場合、褒めた本人は褒めたという自覚を持たないものである。褒めたつもりはないのである。いいと思ったことをいいと言っただけなのである。従って、褒める側が、褒めるという自覚を持つような場合、それは欺瞞であると僕は思うのだ。
 例えば、自分を信用させるために相手を褒めるとか、自分に愛情を向けさせるために相手を褒めるとか、そうした動機で褒めるような場合である。この場合、相手を褒めるということをかなり自覚的に、意識的にやっているということである。これは相手を褒めているのではなく、相手を自分にひきつけるための操作的な行動であるわけだ。
 このような場合では、受け取る側(褒められる側)は、その褒め言葉を素直に信じられなくなる。何か非言語のメタメッセージを受け取ってしまうのである。そこでの受け取り手の感情体験は、「混乱」である。褒められることと、それと異なるものとが、同時に提出されるからである。
 問題文の男性は、この種の経験をしてきた節がある。従って、彼は自信が持てないのではなく、人の言葉に混乱してしまうという経験を言っているわけである。彼自身はそのことに最後まで気づかずに、「治る」ことなく終わった人だったけど、非常に惜しいことだと僕は思う。
 混乱に加えて、「怯え」も彼は繰り返し経験しただろうと僕は推測している。なぜ自分は「褒められたことがない」ということにしなければならないのか、そこも注意すべきところである。そのように考えることで、彼の何が守られるのだろうか。一つの可能性は否定的な感情から自分を守るためである。もし、褒め言葉と敵意とが同時に提出されたとすれば、そして、褒め言葉をそのまま認めるとすれば、彼は相手の敵意の方を見なければならなくなる。つまり、「褒められたことがない」ということになれば、その敵意にも触れずに済むわけである。彼が人の言葉に過度に疑心暗鬼になるのも当然である。言葉のウラに常に何かがあって、それを見るくらいなら、最初から受け取らなかったことにした方が安全だと感じられるのだと僕は思う。
 あまり、彼個人のことに深入りしないようにしよう。僕が思うに、彼は繰り返し非言語的な敵意や憎悪に晒され、その関係を生き抜いてきた人なのである。自殺することもなく、また、道を踏み外すことなく、自分を律してきた人なのである。彼は自分がそういう人間であることを、最後まで見ようとはしなかったのである。それが惜しいと思うのだ。

 さて、彼個人から離れて考察しよう。「人は褒められて伸びる」というのは、事実かもしれないし、僕が考えているように間違っているかもしれない。その人が伸びたのは褒められること以外の要因もたくさん働いているはずだ、と僕は思う。
 こうした通説の真偽はともかくとして、「治らない人」というのは、こうした通説に安易に飛びつき、そして決して手放さない、そういう傾向があるように思う。その通説に彼をしてしがみつかせているものが本当の問題、もしくは本当の問題がある部分なのだと思うのだけど、そうすることでそこに覆いをかけてしまい、覆いをかけることでどこか安心してしまい、その極めて脆い安住の地に留まり続けようとしてしまうのではないかと僕は思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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