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2019年5月 5日 日曜日

動画広告完成記念コラム(4)

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(第3問)「どうやったら治りますか?」

 僕の考えでは、「心の病が治る」ということは、「より良い生を送る」ことと同義である。その「病が治る」ということは、その人の生が改善されていることによって示されるものである。
「治らない人」の中には、「治療」にやたらと熱心な人たちが含まれている。一見すると「治療」意欲が高い人のように見える。しかし、よくよく見ると、この人たちは「治そう」とし過ぎるのである。「治す」ことに懸命で、「生きる」ことを疎かにしていたりするのである。「治癒」というのは、その人の生において経験されるものなので、「生」をなおざりにする人は「治癒」を経験することができないのである。
 そして、彼らはしばしば「方法」ということに過度にこだわる。自分を「治す」方法に拘るということなんだけど、これは相対的に自分自身を当てにできなくなっていることを示しているように思う。自分自身を頼りにできないので、外側の方法を過度に頼ってしまうことになるのだろう。
 加えて、自分自身と関わることができなかったり、自分自身との接点を持たないといった人は、外側のことに過剰な注意が向かうものだと思う。方法に拘るのは、自分自身を頼りにできないだけでなく、自分自身ともかかわることができないためであるかもしれないと、僕はそう思う。

 さて、問題の文章、「どうやったら治りますか?」という問題文であるが、これは事態のごく一部分しか見ていないものであるように僕は思うのだ。「ヘンコなカウンセラー」編でも僕は言っているのだけれど、「『治る』前に『治る人』になる」ということが大事なのだ。その人が「治る人」になれば、その人はどんな「治療」を受けても「治る」だろうし、その「治療」に反してでも「治る」と僕は信じている。「治る」前に「治る人」を目指す、つまり、自己の形成が先に目指されなければならないのだけれど、「治らない人」はその段階をすっ飛ばして考え、取り組むのだ。
 自己形成の段階をすっ飛ばすということは、自分はそのままで、今の自分から何かを付け加えたり削除したりといったことだけをするということである。でも、自分がそのままであるのであれば、何をやっても同じことになるだろうと僕は思うのだ。

 また、先述のように、「治る」ことよりも「生きる」ことの方がはるかに大事である。こんな例がある。僕は直接関わったわけではなく、見聞した例だ。かいつまんで言うと、不登校の子供である。その人は半強制的な「治療」によって登校するようになったけど、数年後には自殺してしまったのである。「病」(ここでは不登校)は「治った」けど、この子は生きていけなかったのである。
 そこまで極端ではなくても、同種のケースは僕の経験した範囲内でもある。ギャンブル依存の人だった。この人はギャンブルから足を洗い、それを一切しなくなったけれど、無気力で廃人のような日々を送ることになったのである。「病」は「治った」かもしれないけれど、彼の「生」が衰退してしまったのである。
 自己を形成し、生を構築していく。その中で「治療」が完遂されていくのである。従って、「治る」ということは、その人のパーソナリティや人生のすべてが関与することなのである。「治らない人」はそこを小部分に限定して(ここでは、方法に限定して)取り組むのである。

 もう一つ追記しておこう。「どうやればいい」と尋ねることは、その人は自分の問題を「方法の欠如」として捉えているわけであり、その人の個人的な感情とか経験などは不問にされていることになる。これが自分自身と関わっていないことの証となるわけだ。そこにこの人の無力感や非主体性が加わる。彼は自分を生きた人間ではなく、マニュアルを適用する機械のように自分自身を扱うことになる。自分自身を非人格化しているのである。従って、これを達成することは反「治療的」である。
 僕の考えでは、彼は自分自身を道具的存在に貶めているのである。自分は一つの道具でしかないのである。この道具を上手に扱う方法を求めていることになるわけだ。彼自身は道具であり、その道具を使いこなすのはマニュアルの提供者ということになるわけだ。
 この人がなぜ「治らない人」であるかの根拠は十分示せたのではないかと思う。「どうやったら治りますか」という質問を発せさせた部分が本当の問題であるのだけど、この人は自分の問題をはき違えているのである。見当違いのことをし続ける限り、この人が「治る」見込みはなさそうに僕は思うのだ。

 さて、方法を外部に求める時、その人は自分の中に「欠落」を見いだしていることになる。自分に方法が欠けている、そういう欠損した自分を経験していると考えることができる。どんな方法を提示したところで、彼が自分の中に欠落を見いだし続ける限り、あるいは欠損のある自分を経験し続ける限り、同じことになるだろうと僕は思う。
 仮に、方法や提案を提示してみても、この人たちはそれを実行に移すことは稀である。「本当にそれで上手く行くのか」と疑惑を差し挟んだり、「それで上手く行くとは信じられない」と求めておきながら拒絶するなどといったことをする例も少なくないように僕は感じている。彼が求めているものを差し出してみた時の彼の反応で僕はそこを判断するのだけど、なぜ、彼らがそういうことをするのか、説明は簡単である。
 ちなみに、そういう人が「怒りっぽい」人であることもよくあることのように思う。自他ともにそれを認めていたりするのである。確かに、「怒りっぽい人」のすべてがそういう人であるとは言えないのだけれど、そういう人の多くは「怒りっぽい人」であったりするわけだ。
 簡単に説明がつく。「退行」しているのだ。彼らは自分の問題を除去してくれる「親」を求めているのだ。そして、自分は無力な子供にまで退行しているということである。
 どんな方法を提示しても、彼は満足しないのである。そして「怒り」で反応するのである。怒りに「 」を付しているのは、本当はそれは怒りではないからである。当人自身や周囲の人はそれを「怒り」と見るのだけど、本当は違うと僕は思う。それは「怒り」ではなくて、「パニック」なのである。
 彼は困難な状況に置かれている。どうしていいか分からない。「おい、どうすればいいんだ、誰か何とかしてくれ、方法を教えてくれ」と彼はうろたえ、過剰に求めるのである。そこで求められているものが与えられたとしても、つまり方法が提示されたとしても、「それが分かっているんなら、あんたがやってくれ。あんたがそれを提案したんだから、あんたがやるべきだ。まさかあんたは自分でもできないことを提案したわけではないだろう」という気持ちになるのである。提案した専門家にやらせたがるのである。専門家がそれを拒否し、それをするのは当人自身であると伝えたとすると、彼はどんな反応をするだろうか。「そうかい、あんたもそうやって言うだけの人間なんだな。ようく分かった。どいつもこいつもみんな同じだ。口先だけだ」などと愚痴ったりするのである。この愚痴が「怒り」お
様相を帯びているだけなのである。まあ、手に負えない、デッカイ駄々っ子のようなものである。

「どうやったら治りますか」という質問は、その背後に「治すのはあなた(もしくは方法」)であって、わたしではありません」という主張を含んでいるように僕は感じる。この自分自身に対する態度が問題となっているのである。当人はそれに気づくことがないのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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