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2019年5月 4日 土曜日

動画広告完成記念コラム(3)

動画広告完成記念コラム(3)

(問2)「過去と他人は変わらない。自分が変わるしかないんです」

 こういう文章は、カウンセラーがクライアントに言うのなら分かる。「○○さん、過去と他人は変えようがないんですよ、だからあなた自身が変わるしかないんですよ」とクライアントに言うのなら頷ける。でも、クライアントがこれをカウンセラーである僕に言うのだからおかしな話である。
 クライアントのこの言動は特定の意味合いを帯びているのだけれど、それはさておくとして、この命題(問題文)自体を取り上げよう。

 この命題はどこぞのアホンダラのカウンセラーが言ったものなんだろう。僕も20代の時に、カウンセリングの学習中にこういう命題を耳にした経験がある。当時は「ふ~ん、そういうもんかあ」くらいにしか考えていなかった。
 後に、クライアントが僕にこれを言う場面を経験して、改めてこの命題と対面したのだ。僕はこの命題に違和感を覚えるようになった。
 僕の中で違和感を覚えているのだけど、この命題のどこにそれをもたらす部分があるのか、最初はまったく分からなかった。それでも、よくよく考えていくと、この命題に背理が含まれていることが見えてきたのだった。その背理を今から述べようと思う。

 この命題は二つの文章から成立している。後半文から見ていこう。そこでは「自分が変わるしかない」と、いささか宿命論めいた記述がなされている。
 この「自分」というのは、おそらく主観的、心理的な意味での「自分」ということなのだろう。客観的に自分が変わることは意味をなさないからである。つまり、自分が太ろうと痩せようと、背中が曲がろうと白髪になろうと、そんな変化は(前半文とのつながりからして)関係がないのである。だから、この「自分」は主観的、心理的な意味の「自分」である。
 ややこしいのは前半文にある「過去」と「他人」という単語である。要するに、これらの単語が主観的・心理的な意味を指しているのか、客観的・物理的な意味を指しているのかが不明瞭なのである。それが背理を生み出しているように思うのだ。
 僕の見解では、「過去・他人」が客観的、物理的意味のものであれば、「変えられない」は正しいのである。むしろ、それは「消去できない」という意味である。しかし、それらが心理的な意味を指しているのであれば、「変えられない」は誤りなのである。どちらの場合であっても、後文との間に背理関係を生み出すことになる。
 その前に、次に考えなければならないのは、私にとって(いい意味でも悪い意味でも)意味のある過去や他人というものは、純粋に客観的であるかどうかということである。もし、それが純粋に客観的であるのであれば、この命題から違和感がかなり減少するだろうと思う。
 しかし、クライアントたちは心理的に苦悩するのである。物理的な問題を抱えているのではないのである。つまり、客観的な過去・他人よりも、心理的な過去・他人が彼を苦しめるのである。クライアントにとって問題となっている過去・他人はすべて主観的、心理的なものである。
 僕はいささか極論を持っている。客観的なんてものは存在しないとさえ思っている。客観的に存在しているものは、その存在を認識する主観がなければ存在し得ないのである。しかし、ここまで極論を押し付けようとは思わないので、幾分、薄めることにするのだけれど、仮に客観的な過去や他人を認めても、それらが純粋にクライアントの問題になることは滅多にないのである。
 従って、前半文の「(物理的・客観的)過去と他人は変わらない」という命題は、それ自体は正しいということになるのだけど、物理的・客観的な過去や他人というものが存在するのかという疑問が生まれるわけだ。

 ここで物理的な過去・時間と主観的な過去・時間がどう違うのかという話をしなければならない。詳しくはサイトの第2章を閲覧していただくとして、簡潔に要点だけ述べることにする。
 まず、過去というのは時間概念である。物理的な時間は過去から現在、現在から未来へと一方向に進んでいく。逆行することはない。現在よりも時間的に以前のものはすべて過去であり、以後のものはすべて未来である。
 しかし、心的な時間経験というのは、そういうものではないのだ。過去、現在、未来といった区別はそれほど明確ではないのだ。過去は現在になり、未来は過去であるといったことが心の中では生じるのである。極端に言えば、心は常に現在なのである。その現在は過去であり未来である。同じく過去は現在であり未来である。未来もまた現在であり過去であるのだ。
 他人という概念も同様である。物理的にはAさん、Bさん、Cさんは個別の存在である。心の世界においては、こうした個別性が失われることがある。AさんはBさんであり、僕はCさんである(「投影」とか「同一視」である)。またAさんもBさんもCさんもすべてXさんであるという対人経験も心の世界では可能である(「圧縮」である)。
 そして、これらの時間経験や対人経験は、主観である「自分」によってなされているのである。ある意味では、自分自身も、過去や他人も、世界も、その人が自ら形成しているのである。一つの出来事(これは客観的・物理的である)が生じた時、それがどういう出来事であったかを形成しているのは自分なのである。
 従って、自分が変わるとは、他でもなく、過去や他人が変わることなのである。

 こういう考えは異常だろうか。僕はそうは思わない。
 例えば、源頼朝という人が過去にいた。鎌倉幕府を開いた人だ。それが1192年のことであった。「いい国つくろう鎌倉幕府」などと語呂合わせで年号を覚えた人もあるだろう。近年、この年代が疑問視されているらしい。1192年というのは、頼朝が征夷大将軍か何かに就任した年であって、幕府開幕はそれより後のことだとされているそうだ。
 もう一つ、西郷隆盛さんと言えば、これをお読みのあなたも思い浮かべる顔写真があると思う。しかし、あの顔写真の人は西郷さん本人ではないかもしれないと言われているのを僕は耳にしたことがある。あの人物は西郷さんの取り巻きとか側近の人であった可能性があるという。
 もし、それらが事実であれば、こうした例は、僕たちの認識を改めるものである。しかし、鎌倉幕府が1193年であろうと、写真の人物が西郷さん以外の人であろうと、今の僕には何の影響ももたらさない。というのは、鎌倉幕府も西郷さんも、僕が直接関係した歴史・他人ではないからである。
 僕にとって、過去とは僕が直接経験したもののことである。同じく、他人とは僕が直接関係した人のことである。それ以外の過去とか他人とかは、極端に言えば、僕には無関係なのである。言い換えれば、僕にとって関係のある過去や他人は、僕が経験した範囲のものに限られており、すべてが主観的なものであり、すべて僕が選択しているものである。
 最後の「選択」に関して、もう少し付け加えると、僕が経験した出来事のうち、そのすべてが意味あるものではない。他人も然りであり、出会った人のすべてが僕にとって意味のある存在というわけではない。僕は、僕の全経験のうちの一部を抽出して心の中に収めており、僕が出会った全他人のうちの一部の人のみを抽出して心の中に収めている(細かい話は省くのだけど、その経験や他人が何らかの価値を帯びているからである)。そして、僕は僕の心の中に収めている限りでの(つまり記憶野にある、あるいは意識化されいている限りでの)過去や他人と関わっているのだ。
 さらに、過去の出来事、関係した他者に関して、僕がその意味や属性を(ある意味では任意に)付与しているのである。それがどういう出来事であったのか、それがどういう人物であるのかを、僕が心的に決定しているのである。
 従って、僕にとって重要な過去や他人は、現実(客観的)の出来事や他人に基づいているとは言え、すべて僕によって作られているのである。

 命題に戻ろう。この文章の背理をなくそうとすれば、僕の考えでは、次のようにしなければならない。
「過去や他人は変わる。自分が変われば」とか、「過去や他人は変わらなくてよい。自分が変わればそれでよい」とかになるだろう。

 さて、この命題に関しては、また機会があればどこかで展開したいとは思うのだけれど、差し当たってはこれくらいにしておこう。
 では、この命題を言う人がどうして「治らない人」になるのかということであるが、「自分が変わること」と「過去・他人が変わらない」ということが背理を生み出しているということに基づく。この場合、客観的過去・他人だけが注目されており、主観的経験に距離が置かれている、あるいは触れることがなくなるのである。
 要するに、過去や他人は変わらないんですと言うことで、これを言うクライアントは、自分自身の中にある過去や他人から一切目を逸らすのである。それらに触れないための防衛策として、この命題が活用されていたりするわけである。
 この人は、そうして過去経験や他者経験を自分の内面から切り離すのである。変わらないのだから触れる必要がないということで、それらを心の世界から締め出してしまうのである。
 しかしながら、その人にあるものをなかったものにしようとしてしまうと、自我ないしは人格が狭窄することになり、それは人格水準の低下をもたらすことにつながる。切り離せば切り離すほど、その人は自分を制御・統制することが困難になっていく。その代わり、低次の人格水準が優勢になる。衝動的になったり、反射的(感情以前の行動のことである)になったりする度合いが増すことになる。高次の水準が失われるので、退行が促進され、日常の諸行為でさえ困難になることもある。
 もちろん、この命題一つで人間がそういう状態になるわけではないのだけれど、過去や他人というものがすべて主観的に経験されているものである以上、それらを心から締め出してはいけないのである。自分の中にあるものを切り捨てていくから、この人たちは「治らない」人になってしまうのである。

 また、この人たちは、「過去と他人は変わらない」という文章を、既述のように、「過去と他人は消去できない」という意味合いで捉えているように感じることも僕にはある。自分の中にあるもの、すでに経験してしまったものを消し去りたいと願うようだ。それができない(もともと不可能な願いである)ので、この命題を自分に言い聞かせることで自分を宥めようとしているだけなのかもしれない。僕から見てそのように感じられる人もおられる。

 以上、僕の個人的見解であるけど、思うところのものを記述した。

(付記)
 本来なら、この命題がどういう文脈で述べられたものであるかを調べ、その文脈上の意味に基づいて考察しなければならないのだけど、そこまで手が回らなかった。従って、僕がこうした見解を綴るなら、もっそフェアにやるべきところなのだが、それをしていないということは認めたいと思う。
 しかしながら、要点は、この命題そのものにあるのではなく、その命題をクライアントがどのように活用しているのか、この命題のウラでクライアントがどのような態度を取っているのかが、ここでの主題なのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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