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2019年5月 3日 金曜日

動画広告完成記念コラム(2)

動画広告完成記念コラム集(2)

 動画広告、「治る人と治らない人とでは違う」編から、「治らない人」の言葉を説明していくことにする。

(第1問)「これが治ったら、新しいことを始めます」

 この種の発言は「治らない人」が言う典型的なものだと僕は感じている。では、この発言の何が問題なのか。
 ここには先に「治る」ということが起きてから、次に「新しいことを始める」という2段階が設定されていることが伺われる。この順番が問題となる。
「治らない人」というのは、あくまでもこの順番に固執する。「治る人」はその順番に対して自由がある。それは後に取り上げることとして、順を追って説明していこう。

 問題文の「新しいこと」にはどんなものが入っても構わない。「仕事をする」であっても、「結婚する」であっても、何でもいい。その人が目指しているものがここに入ることになる。先述のように、「治った」ら「何かを始める」という、この順序が肝心である。最初に、新しく「始める」ことの内容に注目してみよう。
 アドラーはこの種の質問をクライアントにしたそうだ。「これが治ったら何をしたいですか」などと尋ねるのだそうだ。クライアントはそれに答える。ここで答えた事柄は、クライアントがもっともしたくない事柄であるとアドラーは考える。
 これはよく分かる説明である。「病気」が一つの言い訳として利用されているわけだ。「病気が治ったら仕事をする」と言う人は、アドラー流の見解に従えば、この人は「仕事をする」が「もっともしたくないこと」であるということになるわけである。そして、「仕事ができないのは病気であるからだ」と彼は弁明できるというわけだ。この人の中では、仕事をしたくないという気持ちと、仕事をしなければという義務感とが相克しているわけであり、「病」はその葛藤の妥協形成物ということになるわけだ。
 従って、こういう人にとっては「病気が治って」は困るのだ。「治る」と最もしたくないことをしなければならなくなるからである。そして、したくないことをしないで済むように、「病気」であることがその理由として採択できるという次第なのだ。これは子供の不登校によくあるやつだ。学校に行きたくないとなると、本当にお腹が痛くなったり、病気になってしまったりするわけである。病気のせいで学校にいけないということにすれば、本当は学校に行きたくないという否定的な感情をごまかすこともできるわけでである。
 こういう傾向の人は「治療」の場を、とかく厳しいものとして体験しがちであるように思う。それもそのはずで、「治療」はその人がもっともしたくないと無意識的に願っているものを強制する場になってしまうからである。要するに、処罰の場のようになってしまうわけだ。だから、この傾向のある人は「治療」が長続きしなかったりする。
 そこで、機会を見つけて、僕はこういうことを言ってみることがある。「無理に新しいことを始めなくてもいいんじゃないですか」とか「もう少し準備してから始めてもいいのではないですか」などと言ってみる。すると、烈火の如く怒りだす人もある。「人がそれをしようと決めているのに、意欲を削ぐようなことをなんで言うのですか」などと。それで、この人はどうするか。カウンセラーのせいで意欲を削がれた、だから新しいことは始められなくなったといった形で内心の相克を解消することもある。また、ホッとする人もある。「そう言っていただけると安心しました」とか「急ぎ過ぎているのかな、もう少しゆっくり取り掛かってもいいのかな」などと言う人たちである。この人たちもまた僕の言葉によって内面の葛藤が緩和されたことになる。

 さて、「治った」ら、できれば回避したいことをしなければならなくなるということであれば、その人は「病気」に留まることを無意識的に選択してしまうことになる。そして、これはどちらを採っても当人にはしんどいことである。「病気」のままでいることもしんどいけど、「病気が治って」もしんどいことが待ち受けているということだから、ここには常にジレンマが生まれることになるわけだ。
 では、「治る人」はこのジレンマをどう解消していくかということが疑問になるかと思う。実は、「治る人」の中には、初期の頃にはそういう2段階の思考をしていた人もある。しかし、その思考から徐々に抜け出るのである。
 確かに先に「治癒」が生まれるようだ。そして、「治癒」が生まれると、活動が増えるのである。心的なエネルギーが回復してくるので活動が生まれてくるわけだ。そうして「治癒」が活動を促進し、活動が「治癒」を促進していくことになる。つまり、「治る」ことと「新しいことを始める」こととが同時に進行していくようになるのだ。「治って」から動くという2段階の計画に彼は従わなくなるのだ。
 もう少し詳しく言うと、「治る」ことと「新しいことを始める」ということと、もはやそれらに囚われなくなる。「治る」か「治らない」か、新しいことを始めるか始めないか、それらへのこだわりが減っていくのだ。代わりに、新しいテーマが彼に生まれ、彼はそれに取り組み始めていたりするのだ。
 この人は、最初に目標として設定されていた「新しいこと」に着手するかもしれないし、他の何かに着手するようになるかもしれない。いくつかの迂回路を経て、「新しいこと」に取り掛かるかもしれない。要するに、「治る人」はそうした柔軟性を見せるわけである。

 今の話に一つ付け加えておくと、最初に設定されていた「新しいこと」という目標は、彼が「病気」の時に設定された目標である。ここはちょっと要注意である。それは病相期の状態にある彼にとって、その時の状況にあった彼にとって、重要な目標であったものである。
 状態が改善していくに従って、あるいは状況の変化に従って、この目標が変わることは通常よくあることだと僕は思う。回復期の状態にある彼にとって、最初の目標は現在の彼の心情にそぐわないものになっていたりするわけだ。彼自身がそれが設定された時の状態ではないので、もはやそれが彼にとって価値ある目標ではなくなっていたりするわけである。彼の状態が以前と変わってしまったからである。だから最初の目標への固執が軽減していくことになる。あるいは、目標は再設定されることになる。要するに、「治らない人」にはそうした動きが生じないということである。

 長々と、まとまりのないまま綴ってきたけど、「治らない人」は「これが治ったら新しいことを始める」というその順序を決して崩さないという点が重要である。「治る」ことも、新しいことを始めることも、その両方が実現すればいいのであって、順番はどちらが先になっても構わないことだと僕だったら思うのだけど、彼らはそうは考えないわけだ。また、過去に設定した目標は、現在の状況や状態に応じて変更を加えても構わないと僕だったら思うのだけど、やはり、彼らはそうは考えないわけだ。
 ここにはその人のパーソナリティの硬直さを認めることができる。柔軟性を欠くが故に、「治り」が悪いと言うこともできそうである。
 さらに、「治ったら始める」は「治らないから始められない」、「始められないのは治っていないためだ」といった思考につながるものだ。ここには、「治る」か「治らない」か、「始める」か「始めない」かと二分した思考様式を見ることができる。それは、あたかも、「新か旧か」と分割(スプリット)されているようである。つまり、中間段階とか過渡期といった段階が省かれているのだ。「治っていないけど始める」とか「それを始めながら治っていく」といった中間段階が初めから省かれているのだ。
 この中間段階を省く傾向というのは、今後とも繰り返し出てくるかもしれないので、記憶の片隅に置いてもらえればと思う。
 中間段階というのは、新でもあり旧でもあり、それでいて新でもなく旧でもないという、どっちつかずの状態を指している。この「どっちつかず」ということが、当人を不安にさせてしまうのだろう。そこで新か旧かとスプリットするのだと思う。そうしなければ落ち着かないのだろう。

 このテーマはもっと幅広い内容を含んでいる。「新しいことを始める」に関しても、何を始めるか、どのように始めるかといった観点においても、「治る人」と「治らない人」には差異があると僕は感じているのだけれど、本項ではそこまで触れないことにする。
 また、これは言うまでもないことだが、衝動的に新しいことを始めるといったことはここでは含まれていない。「健康への逃避」といった現象もここでは含まない。それらはまた別の問題であるからだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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