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2019年2月25日 月曜日

衰退の道(14)~反ー大人になれない論(2)

2月25日(月):衰退の道(14)~反―大人になれない論(2)

「彼らは大人になれていない子供だ」と専門家が言う時、その大人というのは心理学概念であることを見てきた。それが心理学概念であるということは、「彼らが大人になれていない」と専門家が言う時には、その専門家は彼らの中に何か心理学的兆候を見ているということになる。一体、何を見ているのだろうか。
 例えば自己同一性が確立されていないという兆候を見て取っているのだろうか。そうであるとすれば、自己同一性の拡散によって彼らが厨房で悪戯していると考えているということだろうか。しかし、彼らが厨房で悪さする人間であるという同一性を確立していたとすれば、これは拡散ではない。せいぜい、否定的同一性の達成というところだろう。
 社会に参加できる状態にあるかどうかで判断しているとすれば、厨房で悪ふざけしている行為は社会参加ではないということを証明しなければならなくなる。しかし、彼らはそういう形で社会参加しているのだと考えることも可能であろう。
 労働や責任ということに重点を置いてみても、彼らはその行為をする時以外は労働に従事し、責任の観念も有しているかもしれない。そう考えると、この観点もあまり支持できない。もう一つ言えば、子供であっても働く(これはお手伝いとか学校行事といったことであるが)ことはできるし、責任の観念も有している(頼まれたお使いをこなすなど)。どうもこれだけでは大人と子供を区別できそうにない。

 話を次に進める前に、僕はこのことだけは押さえておきたいと思う。身体の成長に個人差があるように心的な成長にも個人差がある。しばしばここが見落とされることがあるように僕は思う。身体の相違は目につきやすいのでよく分かるというのもあるけど、精神はみな同じように発達するとどこかで信じてしまっていないだろうか。
 このような誤解が生まれるとすれば、それは法的観点と心理学的観点とが混同しているためであると僕は思う。法的には20歳で誰もが大人と認められる。一律に大人になるわけである。これは法律上の大人ということである。心理学的な意味での大人とは異なるものであるが、そこが混同されてしまうのだと思う。
 精神的な発達に個人差があるということは、言い換えると、速やかに大人になる人もあれば、大人になるのに人一倍時間がかかる人もあるということである。時間をかけて大人になる人は、大人になれない子供とは区別する必要がある。例えば、大人になっていく途上で障害にぶつかり、今現在、その障害に取り組んでいるというような人は、少なくとも、大人になれない子供に含めることはできない。僕はそういう考え方をしている。
 つまり、こういうことである。大人になっていない子供であっても、大人になろうとしている人と大人になることを放棄している人とは区別されなければならないということである。「大人になれない子供」と一言で括ってしまうと、その両者が同じカテゴリーの人となってしまう。しかし、両者はまったく異なる人たちである。

 さて、「大人になれない子供」というのは心理学的概念に基づいているのだけど、どうも心理学概念だけでこれが論じられているようにも僕には思えなくなってくるのだ。そこには何か倫理的なものが含まれているように思う。
 ちなみに、心理学では倫理を一切排除する。吃音の人が努力してそれを克服し、言葉を学習して雄弁家になることも、吃音の人が努力して詐欺師になることも、心理学的には同じ現象なのである。倫理的な観点は、基本的には、含まないものである。
 従って、「大人になれない子供」を、彼らの行動の倫理的基準に基づいて評しているとすれば、それは倫理学の問題になってくる。つまり、倫理学的問題を心理学的問題に含ませてしまっているということになる。両者は密接に絡むこともあるのだけど、一応は区別しなければならないと僕は思う。
 さて、倫理的観点に立てば、話は簡単である。彼らの行為は「悪い」ということであり、「大人になれない」というのは「善悪の判断がつかない」を意味していることになるのではないだろうか。もっとも、子供が常に善悪の判断がつかないとは限らないのだけれど、そこは脇に置いておこう。
 従って、僕の結論はこうだ。「彼らは大人になれない」と専門家が言う時、その言っている内容はしばしば「彼らは善悪の判断基準を持っていない」とか「善悪の判断をつけることができない」を指しているということである。もちろん、専門家によってなされたこの発言(「彼らは大人になれていない」)のすべてがそうだとは言わない。けど、けっこう、そういうニュアンスで言われていることも多いのではないかと、僕は個人的に感じている。そして、これは一歩間違えると、単なる若者批判になってしまうかもしれない意見である。

(付記)
 ここでこのシリーズの筆を断っている。ここで中断したわけだ。中断の理由が何だったか今(2019年6月現在)では思い出せない。
 この後に続く話は、多分、彼らは大人になれないのではなくて、人間(社会)から脱落したがるのだ、という見解を述べるつもりだったのだと思う。大人になれないのではなく、人間になれないのだ。そういう思想を展開する予定だったように思う。
 人間は、最初から人間として生まれてくるのではなく(つまり、ヒト科として生まれてくるにすぎず)、新生児が人間になるためには養育や教育が必要になる。その事実は「野生児」の記録を見ればすぐに理解できることである。
 養育や教育は、その子が人間になるために必要なのである。何のために人間になるのかと言えば、その子が人間の共同体の中で生きるためである。人間は人間の一員になるために人間にならなければならないのである。
 従来、革命とか反抗とかいった行為は、根底にそれを含んでいる。自分が人間の一員になるために、自分が人間らしい人間になるために、自分が人間の一員となれるような社会を作るために、革命を起こし、反抗したりするわけである。
 バイトテロのような行為は、テロなどと名前がついているけれど、むしろ、自分が人間の一員から脱落することを目指しているのである。この観点に立てばそうなるのである。大多数の人や雇用者たち、企業や社会から受け入れられないような行為を敢えてアピールすることで、彼は人間社会の一員から脱落していくのである。それも自ら脱落していくのである。自分自身を非人間化していくのである。
 養育や教育が個人を人間化していく過程であるとすれば、自己を非人間化する行為は、その過程を逆行していることになる。それは、つまり、退化の方向へ進むということであり、自己の衰退化への道を進んでいることを表わしているように僕は思う。
 我々の自己は衰退化しているかもしれない。それは、自己の空虚化、自己の物語性の喪失と儀式性の優位、さらには自殺(非存在化)の問題などと関係するのである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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