blog2

2019年1月 7日 月曜日

1月7日:キネマ館~『ゴジラ対へドラ』

1月7日(月):キネマ館~『ゴジラ対へドラ』

14・『ゴジラ対へドラ』
 子供のころはたくさんゴジラ映画を観たものだったが、どういうわけかこの映画だけは縁がなかった。あまり評判も良くなかったのは記憶している。以来、いつか観てみたい映画の一本だった。後悔を残さないように、一度、きちんと観ておこうと思い立った。
 しかし、鑑賞したとは言っても、レンタルしたDVDが傷んでいて、途中数トラックをスキップしなければならなかった。鑑賞できた部分だけで感想を綴っていく。

(主題歌と音楽)
 この映画は公害問題を取り上げているのが特徴的だ。公開当時(昭和46年)は公害が社会問題になっていた時期で、タイムリーなテーマを盛り込んだことになる。
 見慣れた東宝のロゴマークから、伊福部明さんのマーチではなく、女性ボーカルで始まるのも新鮮だ。
 この主題歌は一度聞くと耳に残ること間違いなしだ。サイケデリックな色彩を背景にして歌われる映像も脳裏に焼きついている。「とりも~さかなも~」の出だしから、ロック調のリズムに移行するくだりはなかなかグッとくるね。続いて公害物質が名を連ねる歌詞だが、軽快なリズムに乗せて歌われると、なんか健康に良さそうな物質のように聞こえてしまうのが不思議だ。さらに、「汚れてしまった」と言わずに「汚れちまった」と言うところなんか、中原中也っぽくてグーだ。自然を、緑を「かえせ」と主張する歌はメッセージ性も申し分なく、「かえせ、かえせ」とボーカルとコーラスが力強く歌って、この曲のクライマックスを迎える(借金取りに追われている気持ちにもなるが)、ここは一緒になって歌いたくなるところだ。
 この歌、まず「鳥も魚もいなくなった」という嘆きから始まり、公害問題の実情が歌われ(これは公害物質名が連ねられ、自然が汚れちまったと続けられる部分)、最後に「返せ」という抗議で終わる。よくできた曲だと思う。
 歌うのは麻里圭子さんだ。「返せ」といった男言葉を女性ボーカルが歌うっていうのが趣味がいい。チープな映画だと、ハードロック歌手なんかに歌わせるところだろうと思う。
 こうした音楽はそれまでのゴジラ映画にはなかったものだ。ゴーゴーパブでの音楽(この場面は映像も最高である)、高原で踊りまくるときの曲(ここに至る前のギター曲もいい)といい、ロック調のものが目立つ。管弦楽による演奏も、それまでの中低音域がグッとくる感じではなく、高音域が目立つのが印象的だ。
 なお、主題歌は、オープニングとパブの場面と、もう一か所で流れる。ゴジラがへドラの体からヘドロを掻き出している時に流れるのだけど、あれだけ感情をむき出しにするゴジラも印象深い。

(登場人物たち)
 いきなり音楽から入ったけど、登場人物たちのことも触れておこう。本作では子供が主人公である。これまでけっこう重要な役どころだった大人の科学者や防衛隊などは、登場はするものの、どちらかと言うと存在感が薄い。科学者の一人は酸素爆弾を考案するが、これはまったく効果がない。メインの科学者(少年の父親)は電極版を発案するも、ドジな自衛隊たち(ゴジラたちの格闘のとばっちりを受けて送電線が破壊されたり、電極版を起動した途端にヒューズが飛んだりする)によって、精彩を欠く。
 麻里圭子さんや柴俊夫さん演じる若者は、どこかヒッピーの要素もあって、何を職業としている人たちなのかが曖昧である。ゴーゴーパブで、顔にペイントを施し、ステージで妖艶に歌う麻里さんと、その足元でグデングデンに酒に酔っている柴さん。こういう大人はあまりゴジラ映画に登場しなかったタイプの人たちではないかと思うし、だらしなく見えて、子供からするとあまり頼りになれないと思われるかもしれない。
 ちなみに、映画の中に曖昧な要素があまり多く含まれてしまうと、観客の不安を喚起してしまうかもしれないと僕は思う。ハッキリしない部分というのは不安を呼ぶものである。子供の場合、特にそれがあるのではないかと僕は思っている。だから子供向けの映画では、細部まで説明をきちんとしてあげた方が安心して見てもらえるものだと思う。そういうわけで不明瞭な要素はできるだけ少ない方がいいと思うのだ。人物関係や設定が今一つはっきりしないところも、この映画の評価を下げた一因であったかもしれない。

(ヘドラ)
 曖昧と言えば、ヘドラのデザイン自体が曖昧である。キングギドラのようにきっちりしたフォルムを持っていないのだ。体じゅうにビラビラを垂らし、形態が不鮮明である。加えて、4段階にメタモルフォーゼする。直立の姿勢と飛行の状態とでも姿が変わる(変身する)のだ。この変幻性がヘドラを曖昧な存在にしており、そこにこの怪獣の不気味なところがある。僕はそのように感じている。目が縦になっている異質性も不気味さとか邪悪さを加味しているように思う。
 でも、直立して、首を小刻みに振り、右へ左へとよたよた歩くヘドラの姿は、ちょっとカワイイ。
 今のは余談だったが、このヘドラという怪獣も変わっている。ヘドラは人間を攻撃しないのである。目から光線を発するけど、この武器はゴジラに対してだけ用いられる。ヘドラにしてみれば、人間ほどありがたい存在はないわけだ。エサとなる公害物質を垂れ流してくれるのだから、人間さまさまである。
 繰り返すけど、ヘドラは人間を攻撃しない。ただ、被害をもたらすだけである。ヘドラが通過したところは花々がしぼみ、水槽の水が黒く濁り、屋外にいた人たちが倒れ、吹き出すヘドロに人が溺れるのである。ヘドラの「攻撃」(と言ってよければ)は公害と等価なものである。
 この作品には人がバタバタと死ぬシーンがある。ゴジラ映画で人が死ぬシーンというのはご法度だった(宇宙人が死ぬ場面は除く)が、そのタブーを破っている。でも、上述のように考えると、これらのシーンは公害被害の場面と等しいわけである。怪獣が人を殺すシーンではなく、公害で人が倒れるシーンが象徴的に映し出されているわけである。

(ゴジラが戦う必然性はどこか)
 もう一つ言えば、ゴジラがヘドラと戦う理由や必然性も曖昧である。これ以前の作品では、ゴジラがどうしてその怪獣と対戦することになったのか、そこもきちんと描かれ、ストーリーに組み込まれていたのに、この作品ではそれが見当たらないように僕は感じている。なんとなく、少年とゴジラが通じ合っているような感じ、少年がゴジラを念ずるとゴジラが現れるといったニュアンスがあるけど、ひどく曖昧である。
 ヘドラが現れる。ゴジラもそこに現れる。それだけでゴジラとヘドラが戦う。本当にそれだけである。むしろ、ゴジラの方から戦いを挑んでいる。ゴジラがどうしてヘドラと戦うのか、客観的に了解可能な理由がないとすれば、ゴジラの個人的(個獣的と言うべきか)な理由で戦っているのだ。そう考えた方がよさそうだ。
 ゴジラはヘドラと戦うのではない。ヘドラを生み出したもの、ヘドラの背後にあるものと戦うのだと僕は解釈している。ヘドラと戦うことで、公害を生み出した張本人たちへの怒りをぶつけているのだ。ヘドラを倒した後、ゴジラは人間たちをひと睨みする。そこにゴジラの感情がすべて表現されているように思う。

(空飛ぶゴジラ)
 公開当時、この映画に関する賛否両論は、ゴジラが空を飛ぶシーンにも起きたそうだ。ゴジラが空を飛ぶ姿は、確かにあまりカッコいいものではないが、僕は「有り」だと思っている。
 ヘドラは空を飛ぶ。この空中攻撃にゴジラは苦しめられる。その前提があったので、ゴジラが空を飛んでヘドラに体当たり喰らわしても、そこにあまり違和感を覚えなかった。敵がやったことを主人公もやったというだけのことで、むしろ痛快でさえある。

(象徴の復活) 
 ヘドラは一つの象徴である。かつてゴジラがそうであった。第1作目の『ゴジラ』では、人間たちはゴジラと戦うのではなく、ゴジラが象徴しているものと戦うのだ。同様に、街を破壊するのはゴジラではなく、ゴジラが象徴的に表しているものが街を破壊しているのである。ゴジラという象徴を通してそれが描かれているわけだ。
 ヘドラも、すでに見てきたように、公害を始め、現代文明や経済成長の負の部分の象徴である(と僕は解釈している)。
 重要なことは、ゴジラからかつての象徴性が失われつつあるところにヘドラという象徴性を帯びた怪獣が登場した点にある。もともとモンスターとか怪獣といったキャラは象徴性を帯びているものである。ある意味では原点回帰している作品なのかもしれない。

(演出、編集)
 その他、唐突に挿入されるアニメーションや字幕など、最初は戸惑ってしまう演出もある。アバンギャルドというのか、サイケデリックな映像も最初は驚く。案外、子供の方がそういうものを難なく受け入れることができるのかもしれないけど、文脈から切り離されたアニメ映像が挿入されるのは、なんとなくだけど、映画についていけてない自分を感じてしまった。
 このアニメーション映像は、自然―工場―ヘドラの関係を分かりやすく説明してくれている。工場が自然を根こそぎにし、ヘドラが工場を根こそぎにする。分かりやすい説明だ。自然破壊とヘドラのつながりが子供にも理解してもらえるように工夫されている。そこは好感が持てる部分だ。

 賛否両論を巻き起こしたこの映画、僕は躊躇なく「賛」の方に票を投じたい。
 「怪獣大戦争」ではX星人の統制官になりたいと思ったけど、もし僕が俳優でこの映画に出るとすれば、ぜひ、自衛隊の冴えない隊長をやりたい。ヒューズが飛びましたと報告する部下に「ばかもの!」と怒鳴ってみたい。
 あと、お母さん役の木村俊恵さんがいい。夫を甲斐甲斐しく看病する優しいお母さんだ。『仁義なき戦い』でも、どう落とし前をつけていいか分からない菅原文太に「指詰め」を教えてあげる優しい(かどうかは分からんが)女将さんを演じていたけど、どこかそういう雰囲気がある女優さんだなと僕は思う。

 さて、僕の唯我独断地映画評は、当然、5つ星である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

カテゴリ一覧

カレンダー

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

月別アーカイブ