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2018年11月12日 月曜日

11月12日:象徴

11月12日(月):象徴

 たまにはブログも書かないと、近況の報告もできないし、この時期にどういうことをしていたのかという記録も残らない。

 この2週間くらい、精神分裂病(統合失調症)に取り組んでいた。中でも、クレペリンの本を再読して、この本のすごさを再認識しているところである。同書には患者の言動の記述が多数含まれている。それを読んでも、僕は彼らを十分には理解できないと感じている。僕自身の理解力の無さを改めて感じている。
 一つ見えてきていることは、象徴性ということをもっと理解できるようにならなければならないということだ。今日から(正確に言うと昨日から)、このテーマにも取り組んでいこうと思い立つ。

 僕が取り組みたいのは象徴形成である。象徴の意味ではなく、その形成の方である。例えば、ハトという鳥がいる。このハトというのは平和の象徴であると言われる。これは象徴から意味を導き出していることである。僕はこの逆を理解したいのだ。ハトがどうして平和の象徴となったのか、その象徴形成の流れである。他の鳥ではなぜいけないのか、どうしてハトが選ばれるのかである。
 そんなものが分かってどうなるんだと言われそうだ。例えば、子供が親に向かって「死ね」と言ったとする。この「死ね」は、本当に親に死んでほしいと訴えているわけではないもとする。つまり、この言葉は親に「離れておいてほしい」ということの象徴的表現であると考えることは可能である。そうすると、この子が「死ね」とか「死ねばいいのに」などと口にするときは、その対象と距離を取りたいのだということが理解できる。これは象徴表現から意味を導き出したことになる。そして、これが理解(象徴的理解)であると教えられることもある。
 その逆を考えたいのだ。どうしてこの子は対象を遠ざけたい時に「死ね」という表現を採用するのかである。他の表現やサインではなく、どうしてこの子にはその表現が象徴として活用されるのかである。そこを理解できるようになればと思う次第である。

 はっきりいって理解不可能な領域であるかもしれない。象徴というのは、何が象徴として採用されるかは全くの恣意であるからである。個人的な意味合いとなると、尚更理解は難しい。ハトは平和の象徴だとされる。タカでさえ平和の象徴となりえる。というのは、タカは敵を追い出し、倒すことによって、種族の平和を守っているからだと説明されると、タカでさえ平和の象徴になり得ることになる。カラスでさえ平和の象徴になり得るだろう。人間の捨てたごみを漁り、最大限まで資源を無駄にしない生き方をしていると考えれば、平和の象徴としても成り立つかもしれない。
 象徴形成には一般化できる法則なんてないのかもしれない。仮にあったとしても、個人レベルでは通用しないかもしれないし、恣意性が高いことであれば、法則はメチャメチャ複雑なものになるかもしれない。
 今、僕は「メチャメチャ」という言葉を使った。「相当に」とか「かなり」と言っても良かった。僕が、あの表現ではなく、この表現を採用したということも、やはり一つの象徴性なのだと思う。僕は複雑さを強調したいと思い「メチャメチャ」を使った。しかもカタカナで。「相当に」や「かなり」では物足りない感じがするからである。しかし、これとて、象徴表現の意味を綴ったに過ぎない。「アホみたいに」とか「破壊的レベルで」とか「圧倒的な」とか、その他いろいろな表現もありうるのに、僕は「メチャメチャ」を採用したのだが、そのいきさつが、その象徴形成の過程が自分でも分かっていないという有様である。

 どこまで僕の疑問が解消されるかは分からない。参考になりそうな文献は多数あるので、あれこれひも解いてみようとは思う。当面は、僕は自分のテーマに取り組むつもりだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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